違和感
カヤの声で、はっと現実に引き戻される。
いつの間にか、がれきの山が延々と続いていた地帯の端まで来ていたらしい。荒れ果てた大地は終わり、徐々に草や木々が広がり始めている。
その二つの地帯の境目に、こじんまりとした小屋が建っている。四方を壁で囲んで屋根を乗せただけ、というシンプルな構造だ。
「へえ、いい家だな」
俺はそう言った。
生まれ故郷や戦地となっていたた場所のことを考えれば、自分の一軒家があると言うだけで上等だ。事実、俺の家は岩山に開いていた穴を無理矢理再利用しただけの、冷たくて堅い場所だった。
「……いい家、か。そうか」
カヤはそんな俺の発言を繰り返すと、さっさと家の前に行き玄関のドアを開いた。入るように促され、俺は中へと上がる。
部屋の中央には丸いテーブルと椅子が二つ。少し離れた位置に石でできた釜のようなものがある。部屋の隅に小さな台があり、その横にたたまれている物は毛布だろうか。
生活感がある物はそれぐらいしかなかった。逆にいるとそれ以外は壁しか見当たらない。
――けど。なんか、それだと外から見たときよりも随分と狭いような気がする。
そう思って部屋全体を見渡した俺は。
「……へ?」
その壁と思わしきものの正体に気がついて、思わず声を上げた。
「どうした?」
「これ……本と、本棚か?」
そう、俺が壁だと思っていたものは、大量の本を隙間なく詰め込んだ本棚だった。
「そうだが。だからなんだ? 本が好きなのか?」
「いや……そうじゃなくて……」
何で本がこんなに、と俺は言葉を失う。
今のヴェーダニア大陸では、人間の書物の所持および作成は魔族によって禁止されている。
理由は単純、文字が伝達手段として使用されるのを防ぐためだ。魔王がヴェーダニア大陸に君臨して第一に行った政策の一つで、同時に読み書きの禁止も決まった。
人間達の歴史や知識の詰まった、大量の書物は。隠されて現存しているわずかな数を除き、全て燃やさてしまった。すでに人間から文字という文化は薄れつつある。
なのに、そんなものがどうしてこんなに。
……この人、一体何者なんだよ。
「おい、レナード。そんなところでぼさっとしてないでさっさと座れ。飲み物ぐらい入れてやる。それともそこで立ち話をする方が性に合うのか?」
俺が驚愕している間に、カヤは部屋の中央へと向かっていく。
別に立っているのは嫌いではないが、これだけ歩いた後に立ち話はごめんだ。数え切れない本に圧倒されながらも、大人しく従う。椅子に座ると、これまでの疲労が一気に身体にのしかかってきた。
カヤはどこからか二つのコップを手に持って戻ってきた。透明なグラスに、淡い橙色の液体が注がれている。
「なんだそれ。オレンジジュースか?」
それを見て自然にそんな言葉が出た。
――、ん?
言ってから何か奇妙な感覚がしたが、そのことについて考えるよりも早くカヤが返事をする。
「そうだ。好みかどうかは知らんが、今はこれしかないから我慢しろ」
カヤはグラスをテーブルに下ろした。違和感を解明しようという思いよりも、喉が渇いているという事実が勝った。
思考をやめ、グラスを手に取り一口飲んでみる。酸っぱいような甘いような、不思議な味がした。
「そんな微妙な顔をされても、代わりはないぞ。それがうちじゃ一番まともな飲み物なんだ」
「……いや、別にまずいわけじゃないよ。俺、これ初めて飲んだからさ」
「……ふうん、『オレンジジュース』は初めてなのか」
カヤはテーブルに肘をついて、俺の言葉を復唱する。
なんだか彼女、確認するような物言いをすることが多い。癖なのだろうか。
「それはともかく。そっちの質問が終わったんだよな?」
「そうだな。聞きたいことは一通り聞き終えた」
「なら、今度は俺の質問にカヤが答える番だな」
オレンジジュースを半分ほど飲み干し、口と喉の潤いを回復させたところで、俺は彼女に向かって言った。片肘をついたままの彼女の視線が、俺の顔へと合わせられる。正面から改めて見ると、やぼったい服装をしているのがもったいない美人だった。目つきはいささかキツいので、万人受けするタイプではなさそうだが。
「そういう約束だからな。私の知る限りの事実については、余すことなく答えよう」
「なら――」
「ただし」
意気込んで質問をぶつけようとした俺の目の前に、紙の束が投げられた。
ばさり、と音を立ててテーブルに落ちたそれはかなり分厚い。一度メアリに見せてもらった、焼き討ちを免れた魔道書もかなりの厚さだったが、それよりも量が多そうだ。
「まずはこれを読んでからだ」
「はぁ? これを読めって?」
ここまで来て何を言い出すのか、と思わず睨んでしまう。
「全部読む必要は無い。必要な部分だけだ。心配しなくてもページ番号ぐらい振ってある」
「ページ番号って、それ何の関係もないだろ。それに俺――」
「大アリだ。それは私が作った『ゴミ箱への質問に対する回答テンプレ』だからな。様々なパターンに備えていくつものルートにつながる回答を用意していて――」
「聞けよ! それに何だよその『ゴミ箱への質問に対する回答テンプレ』って! 無駄に長いし何が言いたいかはっきりしてないだろ!」
冷静に返答し続けるカヤに思わず声を荒げながら、俺は何時しか言いしれぬ不安に襲われだしていた。
――なんか、おかしい。
先ほどから、俺の中で何かが噛み合っていない。
食べた覚えのない謎の塊が胃の中に放り込まれているような、そんな感覚。
気持ち悪いと言うより気味が悪い。
いや。
そもそもの違和感は、この世界に落ちてきたときからあった。
そしてそれは、この小屋に入ったことで更にくっきりとした形を持って、俺に現実を見せようとしている。
手元にあるコップを見る。透明な器に、半分ほどオレンジジュースが残っている。
「いいから読め。君がそんな顔をする理由も、それを読めばはっきり分かるはずだ」
カヤはそんな俺の様子を見て、有無を言わさぬ口調で言った。
それ以上の追加の言葉は許さないし、聞かない。そういった感じだった。
俺は視線を落として紙の束を見る。
一番上の紙には『ゴミ箱への質問に対する回答チャート』と書かれている。さっきカヤが口で言っていたのと若干違うじゃないか、と思って。
――…………。
先ほどから感じていた違和感の正体が、身体の底からわき上がってくる。
言いしれぬ不安感。
かみ合わない疑念。
何がおかしいか、今、はっきりした。
「…………なあ、カヤ」
「何だ?」
「さっきカヤはこれのことを『ゴミ箱への質問に対する回答テンプレ』って言ってたよな」
読んでから質問しろ、といわれたにもかかわらず、俺は疑問を口にしていた。
紙の束を見つめている俺には、カヤがどんな表情をしていたのかは分からない。
「ああ、その通りだ」
「けどこれ、『ゴミ箱への質問に対する回答チャート』……って書いてないか?」
紙を握りしめる俺の手が、わずかに震えている。返事を聞くのを恐れていたからだ。
だけど聞かないわけにはいかなかった。
「……そうだな」
カヤの二度目の肯定までには、少し間があった。
それがどうした、と重ねてこなかったのは、俺の尋常じゃない様子に気がついたからかもしれない。
「……あのさ」
「何だ」
俺は、口の中の生唾を飲み込んで、言う。
「ヴェーダニア大陸は今、文字の読み書きは禁止されてる」
「…………」
「俺は、字が読めないし、書けない。そもそも字自体をほとんど見たことがない」
「…………」
カヤは何の反応もしない。独り言のように、俺は言葉を続ける。
「一回、エミリに魔道書を見せてもらったことがあった。そこには字が書かれてたらしいけど、俺には意味不明の記号にしか思えなかった。何が書いてあるかなんてさっぱりわかんなかったんだ。だから俺は、エミリに口頭で魔法を教えてもらったんだし……うん、間違いない、間違いなくそうだった」
「…………」
「だから……だから、この紙に書いてある文字が読めるわけがないんだ。そのはずなんだ」
そう、読めるはずがないのに。俺の脳ははっきりとこの紙に書かれている文面を読み、理解していた。
そもそもオレンジジュース、といった時からおかしかった。
何で俺はオレンジジュースを知っている?
生まれてからこの方、オレンジジュースと呼ばれる物体なんて見たことも聞いたこともなかったのに。そんな言葉、そもそも存在していることさえ知らなかったのに。
違和感がぐるぐると回る。正体が分かってすっきりするどころか、余計に闇に落ちていくような感覚。
俺は今、明らかに本来ならば知らないはずのことを知っている。それどころか理解している。無かったはずの知識が、頭の中に押し込められている。
「……ページを開け、レナード」
紙の束を握りしめたまま動けない俺に、カヤはただそういった。
「そこに、お前の知りたいことが書いてある」