序
裕樹は薄汚れた微笑みを僕に向けた。友愛と欺瞞、或いは親愛と嫌悪。
「お前は、こんなにも優を傷付けて居たんだな」
僕は彼の言葉に俯いて、黙ってしまった。
僕達はあまりに人間で在りすぎるのだ。
感情を殺して、微笑めるのなら世界はもっと透明で、そして味気ないものなのだろうに。
「空が青いからといって幸せになれる訳じゃないの。少し気分が良くなるだけよ」
彼女はそう言って、僕達に背を向けた。
「隆がどんなに私を傷つけたって、それが不幸になるわけじゃないの。それは幸せな時間の中の不幸を切り取っただけなんだから」
僕は俯いていた瞳を彼女の背中に向けた。
そう、だ。感情があるから生まれる幸せも不幸も僕達から切り離せるようなものでは無い。
彼は乾いた笑い声を立てて言った。
「つまり、君は幸せだって事だ。こんな下らない男と一緒に居ても」
僕は自分を指して下らないといった裕樹を見つめた。
その表情はあまりに醜かった。さっきまでの友愛と親愛は失せ、そこには欺瞞と嫌悪だけが滲んでいた。
僕達はあるラインまでは友人だったのに、それはもう遠い過去の事のように思える。
そこに横たわっていた感情は変質してしまうのだろう。それは驚く程、簡単な事だった。
優は僕達を向き直り、言った。
「私にとって隆は素晴らしい人よ」
僕は彼女の言葉に胸が熱くなった。それはただの言葉で、けれど僕の心に響いた。
裕樹は表情をさらに歪めて言った。
「俺なら、君だけを見つめるのに、そいつは君以外の女を抱いたんだ」
事実だった。僕は優を裏切った。簡単に、欲に溺れてしまったのだった。
勿論それは優も知っている。その事を知った時の彼女の悲しそうな表情は一生忘れる事が
出来ないだろうと思う。
「だから、何?」
優は凛とした声でそう言った。その言葉の持つ勢いに裕樹は圧倒され、次に繋ぐ言葉を失ってしまったようだった。
「隆が他の女を抱いたら、私は隆に愛情を感じられなくならなければならないの?」
僕は身を引き裂かれるような思いでその言葉を聞いた。或いは、そんな罪悪感を感じさせる意図があったのかもしれない。二度と離れないように鎖を巻くように。
裕樹は肩を竦めて言った。
「それで君が幸せなら、僕はもう何も言えない」
そして、僕に視線を向けて言った。
その瞳にはもうさっきまでの欺瞞も嫌悪も浮かんで居なかった。まるで下らないものでも見るかのような冷たい、空虚な視線だった。
「良かったな、まだ彼女はお前を愛しているそうだ」
僕は裕樹の瞳を見つめ返して言った。
「友情を一つ、犠牲にしただけの事はあっただろう?」
僕はそう言うと、もう彼の瞳を見つめる事は出来なかった。深い罪悪感で気が狂ってしまいそうだった。それは優に感じるそれよりもはるかに重く、深い穴の底から絶え間無く湧き出てくるような錯覚さえ覚えるものだった。
「長い付き合いだったのにな」
一瞬、裕樹の瞳に悲しげな光が宿って、消えた。或いはそれは僕の希望的観測が見せた錯覚だけなのかもしれないけれど。
僕達は中学生からの友達だった。
そして、優が現れるまで。つまり大学生になるまではずっとお互いに親友だと思っていたのだった。