正当防衛?
頭の左側が熱い。ぬるっとした感覚が頬を伝う。いつもなら、顔には来ないのに。今日はやけに荒れているようだ。
ぼやける視界に映るのは、弟を蹴りあげているヤツの姿。イケナイ。このままではダメダ。ハヤクトメナイト。
きっかけは母親の蒸発。おおよその見当はつくけれど、何があったのかなんて知らないし、知りたくもない。俺たちを捨てたという事実が残るだけだ。
それから、父親が荒れ始めた。毎日酒を飲むようになり、休みの日は昼間から飲むようになった。
そうなると当然、暴力的な面が出てくる。最初は、家具とかの物に当たるだけだったから、片づけが大変なだけだった。
だんだんと、モノから手近なものに移っていった。後片付けの必要もなく、簡単に壊れることもないもの。
最初は弟だった。学校から帰ってきたとき、先に帰ってきていた弟の様子が変だった。おなかを抑えているので不審に思い問いただすも、ただ首を横に振るだけで答えようとしない。
次の日、おなかが痛いというので見てみると、ひどい青あざになっていた。いくらなんでもおかしいと思い、無理やり聞き出す。たどたどしいながらも、その答えからわかったのは、「父親に蹴られた」ということ。
それを聞いて、まさかと思う反面、やはりという思いもあった。
優しい人だった。休みの日はどこかにつれて行ってくれたし、めったに怒らない。一緒に遊んでくれたりもした。だけど、変わってしまったんだ。
その日を皮切りに、生活は一転した。いったんタガが外れてしまえば、あとは早いものだった。
気に入らないことがあればすぐに、殴る蹴るのある日常。一番痛かったのは、煙草を押し付けられた時と、酒瓶で殴らた時だろうか。
帰宅時間が遅いときや、家事がおろそかになっているなど、とにかく理由は何でもよかったらしい。ただ、それでも面倒事は嫌なのか、顔などの服で隠せないところに跡が残るようなことはなかった。
暴力の時に、父親の口から出てくる言葉は決まって「しつけ」だった。救いと言えるのは、暴力だけで、食事を抜かれるといったことがなかったことだろうか?まあ、それもお金を渡されるだけで、自分たちで作らなくてはいけなかったのだが。それも、腹を殴られる、蹴られるがなければの話だ。
俺にできたのは、弟を守る事だけ。弟に暴力が向かないようにするだけで精いっぱいだった。そのたびに俺の傷は増え、弟は泣いた。それでも俺は……。
普通の生活を演じながら、痣だらけの体を抱える。そんな生活が3年続いた。誰かにばれればいいのにと思いながら、それでいて、ばれてほしくないという矛盾。
このままだと、死んでしまうかもしれない。もしくはドラマとか小説に出てくるような「心が壊れる」なんていう事になるのかもしれない。なんてことを考えていた時期もあった。
こんな、痛みと恐怖にまみれた生活から逃れたい・解放されたいと思う。その反面、解放された後のことを思うと不安になる。
解放された後、どうなるのか。生き方を知らない。働けば金銭を得られるということがわかっても、働き方を知らない。家を借りるために必要なものは?電気代とか、そういったものはどうやって?
児童福祉施設というものがあることは社会の勉強で知った。もしその施設に行くとしたら、弟はどうなる?兄弟で一緒に居られるのか?
そんなことを考えるたびに思い知らされるのは、自分は何も知らない子供だという事だけ。この手は、何もできないちっぽけなものでしかないという事実。
解放への希望と不安。そんな板ばさみのなか、なんとか生きてきた。
どうしてこうなったのか。なんで自分たちはこんな目に遭うのか。どうすればいいのか。
無意味な八つ当たりをしてしまいそうになるも、なんとか飲み込んだ。
どうすれば、前のようにやさしい父さんに戻ってくれるのか。
戻るはずがない。そんな声が聞こえる気もするが、全力で聞かないふりを続けた。
幸せな家庭が突如崩壊する。
これだけを聞けば、まるで三文小説を読んでいる気分になってくる。どこまでもありふれていて、ありきたりな話。
でも、それももう限界だ。今選べる選択肢は2つ。「社会的な傷」か「命を捨てる」か。
選択肢としては浮かぶけれど、単純な話である。わざわざ選ぶまでもない。
きっと、もう戻ることはできないんだ。あの頃のことは、きっと全部夢だったのだろう。
今いるこの状況は、きっと、辿るべくしてたどった結末の一つ。これが、悪い夢だったら、どんなによかっただろうか。
痛む体をむりくり起こして、ヤツを視界に収める。ヤツは弟を蹴り飛ばしていて、こちらに気付いていない。何か怒鳴っているようだ。何の音も聞こえない。だけど、奴の口は動いているからそう推測しただけ。
今のままじゃだめだ。何か、何か武器になるものがないと、きっと終わらない。何も変わらない。
ふらつきながらもそう考えていると、床に散らばった酒瓶が目に入る。
丁度いい。そう思って、それを拾い、奴に近づく。そして、ただそれを振り下ろす。しかし、それは確かに頭部を直撃したのに、ヤツは倒れない。
一撃で決めなくてはいけないのに、しくじった。ヤツが振り向く。酒瓶を勢いよく振り上げることで今度は顎にたたき込む。
奴のバランスが崩れたので、すかさずもう一度頭に振り下ろす。けれど、それでも止まらない。立ち上がろうとする。それを阻止するために、また殴った。そこで瓶が割れてしまったので、別の瓶を探す。幸い、飲んだくれていたせいで、武器に困ることはない。
そう思っていたのだけれど、手近なところに瓶がなかった。このままではヤツが起き上がってしまう。そうしたら、やられてしまう。今しかないんだ。
だから、ヤツがきちんと停止するまで、何度も、何度も、何度も、目の前が赤みを帯びるまで何度も同じように殴り続けた。素手で。
その時になって、ようやっと耳が世界の音をとらえ始めた。
どれほどの時間がかかったか。ヤツが完全に動かなくなったのを確認して、弟のほうを見る。目を閉じて、ぐったりとしている。あわてて確認すると、ちゃんと息をしていた。どうやら気を失っているだけのようだ。手当てをしながら、警察に連絡する。
「父親を殺しました」
その声は、自分でも不思議に思うほどに平坦だった。
一緒に救急車を呼んでもらい、弟を病院に運ぶ。
骨折はしておらず、内臓も無事ということで、安静にしていれば目を覚ますだろうとのこと。ただ、しばらくの間、食事制限がかかるだろうとのこと。
俺の方は、あちこちの骨にひびが入っていたらしく、少し大げさに見える程の処置をされた。手に関しては、両方ともがっちりと固定されていて、ほとんど動かせない。そう言えば、俺の体を見た看護師さん達が言葉を詰まらせていた。
その後、いろんな人に何度も話を聞かれた。そのたびに、壊れた音源データのように何度も同じ話をする。
父親に暴力を振るわれていたこと。そのきっかけ、内容。そして、今回のような結末に至った経緯。
話していて疑問に思う。どうして自分はこんなにも冷静になのかと。もしかしたら、とっくの昔に壊れてしまっていたのかと。
結果として、俺たち兄弟の体にあった痣や俺の怪我、目を覚ました弟の話などから、俺が行ったことは正当防衛となった。ただし、過剰防衛であるとされる可能性もあるとのこと。
弟は月に1回カウンセリングを受け、俺は週に1回のカウンセリングが義務付けられた。
弟には、俺がヤツを殺したことを教えるつもりはない。聞かれたら教えるのかもしれないけれど、少なくとも俺の方から話をすることはないだろう。できるなら、気が付かないふりをしてくれればいいと思う。
知らなくていいこと、知らないふりをしていた方がいいことというのは、きっとどこにでもあるのだ。