失楽園
少女はたったひとりで、森の中を歩いていた。
一歩踏み出すごとに、さくさくとこすれる葉や小枝が彼女のむき出しの足や肩、頬を傷つける。けれど少女はまるで気付いていないかのように、ただひたすら前へと進み続けた。
もう、どれほど歩いただろう。
なんとはなしに空を見上げて、少女はわずかに目を細めた。
最後に見上げた空は、抜けるような深い青の空だった。雲ひとつない、恐怖さえ喚起する青空。けれど今彼女の目に映るのは、木々の隙間からのぞく、星すら見えない暗闇の夜空だった。
「……楽園、は、どこにあるの……?」
少女の小さい呟きは、風に吹き消されて誰にも届かない。ざわざわと騒ぐ森に、彼女は青白くやせこけた顔を一瞬しかめて、それでもまた歩き出した。
少女が向かう先を、誰も知らない。
丘を越え、川を下り、山を抜けて森の向こうへ。その先になにがあるのか、知るものはいなかった。
それでも彼女は、その先にある楽園を信じて、歩き続ける。
もう一度、あの優しい声で「メイリン」と、自分の名を呼んでもらうために。
☆ ★ ☆ ★ ☆
少女が生まれ育った村は、小さな神殿の村だった。
大国の神事を司る村は神域と呼ばれ、そして少女はその中でも最も重要な立場の神子であった。
50年に一度、1人だけ生まれるという、銀糸の髪に象牙の肌、そして深い緑の瞳を持った少女。神託を司る巫女の預言によって生まれ、神殿の中で「神子」となるべく神官たちによって大切に育てられる。
神殿付きの侍女に囲まれ、高位の神官たちによる教育を受け、身も心も神聖な「神子」となった少女は、けれど10歳以上になることはなかった。
10歳。それは、神子が神にささげられる年齢。
だから神子は皆10歳で死んだ。神子となる少女は、神の供物となって死ぬことが生まれてきた意味なのだと、そう神官たちに教えられて育つ。
名前も呼ばれず、ただ「神子」と呼ばれ、それがどんなに残酷なことなのか、それすら知らずに。
ただ10年の短い時を、神殿の中でひっそりと生きるのだった。
そんな10歳の誕生日を3週間後に控えた「神子」の少女は、その日いつものように村の外れに向かう。儀式を控えた神子が村の外に出ることは許されていないけれど、少女は大人たちの目をかいくぐって村外れに住む少年の元へ通っていた。
少年の名は、フェンリウと言った。
黒い癖っ毛に白い肌、優しいとび色の瞳をした彼を、少女は兄と慕っていた。村人たちのことも、もちろん好きだったけれど、彼は変にかしこまらないから、「神子」としてじゃなく、「ひとりの女の子」としてみてくれるから、すきだった。
「楽園、って知ってるか?」
いつものように村はずれの花畑で、二人並んで寝転がって空を見上げていたとき、不意に彼がそう言った。
流れる雲を見ながらうとうとしていた少女は、その問いかけに少しだけ首をかしげて、小さく首を振って「知らない」と答える。
「楽園っていうのは、苦しいことも悲しいこともない、とても幸せなところだよ」
「ふぅん。……寂しいこともないの?」
空を見上げたまま、歌うようにそう言ったフェンリウの言葉に、少女は寝転んだまま顔を向けてそう問うた。
少年はふと体を起こし、寝転んだままの少女の髪をふわりと撫ぜて優しく頷く。
「寂しくもないんだよ。だって、そこには生きているすべてのモノが、いつか行く場所なんだからね」
少女の髪を指に絡めながら言う少年は、そう言ってそっと空を見上げた。やさしくて遠い目で空を見上げる少年に、つられるようにして少女も空を見上げる。
花のにおいに囲まれた空は、抜けるような青だった。所々に雲が浮かび、穏やかな日の光が降り注ぐ。遠くを鳥が飛んでいくのを眺めながら、彼女はそっと目を瞑った。
「ねぇ。らくえんはどこにあるの?」
優しい沈黙を破ったのは、そんな少女の疑問だった。
少年は視線を空から動かさないまま、後ろに倒れこんでまた花の中にうずもれる。
「きっととても遠いところだよ。そしてとても近いところだ」
答えられた言葉に、けれど少女は首を傾げるだけだった。
遠くて近い。どこだろう。考えれば考えるほどわからなくなって、うーと唸りだした彼女に、少年はふっと笑って優しく頭を撫でた。
「いつか行くんだから、そのときに分かるんだよ。それまでのお楽しみ」
「うぅ、いつか、っていつ?」
「そうだな。死んだとき、とか」
もふもふ、と頭をなでられて、それでも答えに納得がいかない少女は、頬を膨らませた。その顔が可愛らしくて少年は笑う。楽園の場所が分かるのはまだまだ先の話だね、とそう続けた少年だったけれど、彼女はにぱっと笑って体をがばりと起こした。
寝転がったままの少年を見下ろして、「じゃあ」と続ける少女に、少年はそこで始めて自分の言葉のミスに気付いた。気付いたところでもう、遅い。
「じゃあ、もうすぐ分かるね。だって――あと20日で、わたしは神さまのところへ行くんだもん」
にこにこ、とわらって言う少女から、少年はとっさに目をそらした。
見ていられなかった。自分が死ぬことを、笑顔で話す幼い少女の純粋すぎる笑顔は辛すぎて。
そんな少年の様子にまるで気付かず、少女は「楽園ってどんなところかなー」と楽しそうに独り笑う。
きれいなところかなぁ。あれ、でも神さまのところに行くのに、楽園はいけるのかなぁ。それとも神さまも楽園にいるのかなぁ。だったらいいのにな。
そうくすくす笑う少女を、少年は後ろからぎゅっと抱きしめた。泣きそうな胸の熱も、悲しさも辛さも、全てを抱えた抱擁は強くて、少し痛い。
抱きしめられた少女は、突然のことにどうしていいか分からなかった。10年に満たない短い人生で、そうやって強く抱きしめられたことは無かったから、うろたえるしか出来なくて。
でも視界の端に見えた彼の顔は苦しそうに歪んでいて、自分の体に巻きつく腕が震えていたから、少女はそっと体の力を抜いた。震える腕にそっと手を重ねて、胸に背中を預ければもっと強く抱きしめられる。
風が吹いた。巻き上がる風に花びらが舞い、ざあざあと草が揺れる。強い拘束は緩むことなく、腕の中で少女は小さく笑った。今まで浮かべたことも無いような、まるで母を思わせる、儚げで美しい笑み。
「――いかないで。君が……君がすきなんだ」
抱きしめたまま、独り言のように囁く少年に、少女は浮かべた笑みのまま、うつむいた。震える腕をなでて、そうして唇だけで「ありがとう」と告げるだけだった。
そっと首を回して少年を見上げれば、腕の力が緩んだ。少女はそのままゆっくりと体の向きを変えると、唇をかみ締めてうつむく少年の首に、細い腕を伸ばして抱きついた。抱擁というよりは、しがみついているに近かったけれど、肩に顔を埋めれば背中をまた強く抱きしめられる。
「お願いが、あるの」
耳元で、囁くような声音で言う少女に、少年はこくりと頷いて先をうながした。
「あのね、名前を……名前を、呼んで。わたしの名前」
小さく、たった一言だけを告げれば、少年はかみ締めるように繰り返した。
甘く低く。もう誰も呼ばなくなった、母からもらったたった一つの贈り物。
何度も繰り返し、耳に、舌に、心に、刻み付けるように囁かれる名前に、少女は少年の肩に一粒の涙を、こぼした。
☆ ★ ☆ ★ ☆
異変は、儀式の直後に起こった。
「それ」に最初に気付いたのは、祭壇に埋もれるように座る少女に祈りをささげていた、老齢の祭司長だった。
供物の象徴である銀糸の髪が、毛先から侵食されるように黒く染まって行く。それに呼応するように空が暗く曇り、遠くから雷鳴を引き連れて雨がやってくる。冷たい風が吹き込めると、儀式を見守っていた観衆からざわざわと声が上がり、神官たちも異常事態に戸惑いを隠せない。
そんな中で、少女の前に跪いたままの祭司長だけが冷静だった。
黒く染まっていく銀。青い空が一瞬で雨雲に覆われ、雷鳴が響く。その中で、着飾った姿で祭壇に鎮座する少女だけが動かない。
まさか、と思った。信じたくないことだったけれど、現在の状況はそれ以外にはなかった。
「――『神子』が、穢されていた――?」
呟いた声はひどくふるえ、小さかったけれど、その言葉にあたりはしんと静まり返った。遠いところで雷鳴が響く。
けれど、誰も何も言わない。いえなかった。
動くことすら出来ず、ただ視線だけは、もう髪の半分が黒くなった「神子」に向けられる。
「神子」が穢される。それはあってはならないことだった。
そうならない為に、神子は生まれてすぐに全てから隔絶され、神域の中で必要なものだけ与えられて育つ。
全ては供物となるべく、ひいては、世界を守るために。
穢された神子は、もう供物にはできない。神はもう、彼女を受け取らない。国はもう――滅亡するしか、なかった。
「神子殿。人を……人を、愛してしまったのですか……?」
祭司長の問いかけに、祭壇の上でずっと目を瞑っていた少女はゆっくり目を開けた。暗闇のなかで、口を閉ざしたまま少女は辺りを見回し、そして小さく頷いた。
そんな、と皆が絶望の声をあげ、われ先にとその場から逃げ出す中、祭司長だけがその場にとどまった。あっという間にがらんとした広場で、祭司長は静かに少女を祭壇から下ろした。地面に下ろされ、そのまま静かに頭をなでられて、そのとき始めて少女は祭司長が涙を浮かべていることに気付いた。
「――行きなされ。あなたはもう、神子ではなくなったのだから……生きておくれ」
告げる声は、今まで聴いてきた声とはまるで違う、愛しさと暖かさに溢れた声だった。
頭に置かれた手からも、まなざしからも、優しさがにじんでいて、それは今まで「神子」に接してきたそれとは違いすぎて、少女は戸惑った。
生きろ、と告げる彼を見上げると、優しく微笑まれた。
もう一度「生きておくれ」と言われ、なぜ、と問う。なぜ、そんなにも優しくわたしを見るの。
「あなたが、犠牲になることはない。幼子の命と引き換えに繁栄する世界など、本当は滅んだほうが良かった……。生きて、幸せになりなされ。わたしの、愛しい孫娘」
優しい抱擁と共に告げられ、名残惜しむように放されるとそっと背中を押された。背に添えられた手が、「振り返るな」と告げているようで、少女は押されるまま一歩を踏み出す。
離れてしまったぬくもりに、泣きそうになりながらも少女は足を止めなかった。動きにくいずるずるとした上着をその場に脱ぎ捨て、薄い衣一枚の姿で歩き出す。
迷いはなかった。
ただ、彼の元へ。それしかもう、少女の頭にはなかった。
たどり着いた村のはずれに、少女の知る穏やかさは無かった。
草と木に囲まれた木造の小さな小屋は、もう業火に包まれて近づくことすら出来なかった。足元の草には点々と赤黒い血が落ちて、それはよく二人で遊んだあの花畑へと続いていく。
少女はなにも考えられなかった。ふらふらと血の道しるべをたどり、彼がいるであろう場所へと向かう。急いでいる気もなかったけれど、いつの間にか足は走り出していて、そこにたどり着いたとき息は上がっていた。
日の光が遮断された花畑は、いつもとまるで違った。
優しさは無かった。ぬくもりも、風も、音も、花の香りすらなかった。
その中に、彼はいた。色を全て失ったような中で、彼だけが色をまとっていた。
駆け出そうとした少女の足は動かなかった。指先も、唇も動かない。なにもかもが止まったような空間のなかで、どれほどそうして立っていただろう。
「……ッ」
苦しげな息遣いに、少女は体の呪縛が解けたように一歩を踏み出した。
そのまま彼に駆け寄って、手が血にぬれるのもかまわず、うつぶせに倒れる少年を抱き上げた。少女の小さな体では彼を支えきれず、なんとか自分のひざの上に彼の頭を乗せただけでもう、動かすことも出来ない。
「……ここにくれば、君に逢えると思ったんだ」
衣の袖で、彼の唇からこぼれる血をぬぐうと、口元だけ笑んで彼が囁いた。その声はひどく穏やかで、少女を言い知れない恐怖が襲う。
彼が、もう会えない遠く遠くへいってしまうようで、少女は怖かった。
イヤだと思うと目頭が熱くて、彼の顔を支える指が震える。
それに気付いたのか、少年は血だらけの手を持ち上げて、そっと少女の頬をなでた。触れた指先は冷たくて、でも頬に残された血は暖かい。
「ねぇ、覚えてるかな。ここで話したよね、楽園のことを」
「……うん」
変わらない優しいまなざしで問われ、頷くと涙がこぼれた。頬を伝う雫を、彼の指先が掬う。
「どうやら、ぼくが先に楽園へ行くみたいだ。……楽園がどんなところか、先に見に行ってくるよ」
苦しげな呼吸で、そういって笑う彼に、少女はぼろぼろと涙をこぼした。
投げ出された腕にしがみつくようにつかみ、唇をかみ締めながらイヤだと首を振る。そんな彼女に彼は困ったように笑う。
「イヤだ、よぅ……! いかないで、おいていかないで……ッそばに、いてよぉ……!」
しゃくりあげながら、震える唇で叫ぶようにいうけれど、彼はごめんね、とかすれた声で謝るだけで、それがさらに少女の涙を溢れさせた。
気付けばぽつぽつと雨粒が落ちてきて、それはあっという間に雷雨となって二人に降り注ぐ。
雨粒に、涙と血が混じって大地に流れるのを、少年はまるで大地に還っていくようだ、とぼんやり思った。
「楽園で、待ってるよ……いつか来るのを、まってるから、だから……なかないで」
「なら、ならわたしも行く……! いっしょに、楽園に行くからっ」
「……だめだよ。自由になれたんだろう……? なら、生きて。君の人生を、」
言葉が途切れ、咳き込むと口の端から血が流れた。苦しげな呼吸は浅く、速くなり、少女は彼を抱きかかえる腕に力を込める。
腕の中に命を留めるよう。それはまるで、愛を告げたあの時の、強くて優しい、抱擁のように。
イヤだ、と泣く少女に、少年は力をふりしぼってその髪をなでた。
黒くなった髪に血が付いてしまったけれど、優しく撫で付けて、笑いかける。
「、先に、楽園で待ってるよ。……それまで、さよなら、ぼくの愛しい、……メイリン」
にこりと笑って、そして彼はそのまま目を閉じた。
ぱたり、と頭にのっていた手が地面に落ち、少年はもうそれっきり、動かなかった。
叩きつけるような激しい雨音が、全てを隠した。
少女の悲しみも、慟哭も、泣き声すらも、優しく隠しているようだった。
☆ ★ ☆ ★ ☆
少女は歩き続けた。
ただただ、楽園を求めて歩き続けた。楽園へ逝ってしまった彼を求めて、あの優しい声を求めて、どんなに疲れても、傷ついても、歩みを止めることをしなかった。
もうどのくらい、歩き続けただろう。何時間。何日。何十日。
柔らかく美しい象牙色だった肌は、水気を失い傷つき、薄汚れてぼろぼろだった。
とうに脱げてしまった裸の足は、もう皮が硬く厚くなって、小石を踏んだくらいじゃ痛くもない。
きれいな白だった絹の衣はあちこち破けて汚れ、もうただ引っ掛けただけの布と化していた。
濡れ羽色の黒い髪は雨風にさらされてぼさぼさになり、光を失った瞳が力なく前を見据えている。
そんな状態になっても、彼女は歩くのをやめなかった。やめられなかった。
彼に会いたい、ただ、それだけが彼女を生かしているのだから。
気力だけでここまできた少女だったけれど、もう体はとっくに限界を超えていた。食べもせず、飲みもせず、休むことなく歩き続けたからだは、急にがくりと力を失った。
膝から崩れ、つぶれるように倒れこんだ少女は、うつぶせのまま起き上がることすら出来なかった。
腕に力がはいらなくて、体を起こすことすら出来ない。ふるえる指先が氷のようで、ただ、寒かった。
(ああ、もう、おしまいなんだ)
そう思うと、なんだか急に肩の力が抜けた。大きく息を吐き出し、そのまま地面に寝そべると鼻先を優しくて懐かしい香りが掠めた。
なんだろう、と思って目をむけた先にあったのは、いつか二人で過ごしたあの花畑が見えて、少女は随分久しぶりに笑った。子供が心から安心したような、そんな笑顔を浮かべて、彼女はそっと目を閉じる。
本当は、そこはあの花畑ではなかった。あそこと比べると随分ちいさくて、花だってそんなに咲いていなかったけれど、そんなこと、少女にはもうどうでも良い。
目をつむり、花の香りを胸いっぱいに吸い込むと、どうしてだろう。寂しいとか、悲しいとか、そういう気持ちがふわりととけて、心をあたたかな幸福が満たしていくような気がした。
(苦しいことも悲しいこともない、とても幸せなところだよ)
ああ、そうか。
少女はそう思って、ほころんだ顔のまま空を見上げた。
そうか。そうなんだ。
こんな近くにあったんだ。こんなにも遠くて近いところにあったんだね。
ここが、きっと、ここが「楽園」なんだね。
花の香りに満たされて、見上げた空は怖いほど蒼い空だった。雲ひとつない、時が止まったかのような空。
――会いたかった。わたしの愛しい、フェンリウ。
――ぼくも、会いたかった。ずっと、一緒にいようね、メイリン。