二
ケネス・ゼロワンの運転する車は山道をゆっくりと進んだ。道路わきの山林は今までとさして変わらない。それなのに何度目かの分岐を経て最後の曲がり道で空気が変わった。今までひんやりと乾いていた空気がいくぶん湿度が増したような、ほんの少しではあるが変化が感じられる。
「意外におとなしいな」
ケネス・ゼロワンが唐突に話しかけてきた。
「騒いでも仕方ないから」
視線を動かさずサクラは答えた。実際のところは違う。ほんとうはパニックを起こして叫んでしまいたかった。サクラがそうしないのは、後方から猛烈な勢いで追いかけてきているのを感じるからだ。
――ユミル。
気を失っている間にヘルメット型のヘッドセットを奪われたけれど、遠く離れていてもつながっている。うなじの連結回路に気づかれていじられては大変だ。だから頭や髪を触らないようサクラは意識した。その代わりに胸もとの銀色のブローチを撫でる。
――大丈夫。きっと大丈夫。
ユミルが迎えに来てくれる。ブローチの冷たく硬い感触がサクラを慰めた。
ごとごとと山の中を進む。木々が道の両側から覆いかぶさるように深くなってきた。日が暮れるにつれて心細さが増す。通いなれた道なのか、はたまたロボットは心細さや恐れを感じないものなのか、隣で運転するケネス・ゼロワンは平然としている。
――なんだか変だ。
最前から空気に違和感がある。確かにだんだんと気温は下がってきているが寒いとか暑いとかの違和感ではない。空気が濃厚になってきた。進行方向にぼんやりと光る何かがある。
道が途切れた。車が停まる。ケネス・ゼロワンが後部座席を探り大きなものを掴んだ。そしてサクラに
「降りろ。ここから少し歩く」
と促した。
日が暮れた。黒い木々の間からのぞく濃藍の空に星がぽつりと輝く。進行方向のぼんやりと明るい空間に一歩、また一歩近づいている。
「ああ」
そうなのか。立ちのぼる空気。地面がざわめいている。育んできた生命が生まれ出る喜びと、新しい生命に出番を譲り朽ちる喪失の気配。生と死が入れ替わる、これは春の空気のにおいだ。さっきまでいた場所ではやっと夏が終わりこれから冬を迎えるというのに。ここは不思議な場所だ。
ケネス・ゼロワンに促されるままぼんやりと明るい方向へ進んでいたサクラが歩みを止めた。
――ユミル、何をしたの……!
だんだんと近づく感覚だけではない。ユミルのコアが赤く激しく燃えているのを感じる。そのコアはいつだって赤く燃えている。時にその光を揺らし、不安に苛まれ黒い点が浮き上がることがあるけれど、いつも赤く燃えている。でも今、ユミルのコアに何かが起きた。サクラは踵を返し、ぼんやりと光を放つ森に背を向けた。
「ユミル」
小さな呼びかけに応えはない。胸もとのブローチに指をあてサクラは禍々しい予感に肩を震わせた。
ざ、ざざ。道の小石を踏む音とともにケネス・ゼロワンが足早に戻ってきた。
「女――」
胸もとにあてたサクラの手を容赦ない手つきで払う。
「痛い」
「早く来い。こっちだ」
温度を感じさせない目で見おろすとケネス・ゼロワンがサクラの胸もとのブローチを毟り取った。
「何するの、返して」
「行くぞ」
「返して! そのブローチはユミルが私につくってくれたんだから」
ずんずんと早足で先を急ぐケネス・ゼロワンが振り返った。手の中の銀色の桜のブローチをじっと見つめる。
「そうだ。これはただの金属の塊ではない。アライブズの創造の萌芽だ。[我/我ら]が遥か未来で手に入れるはずだった創造の原初のかたちだ」
「何言っているの。それ、返して」
「この銀の花は女、お前とともに女王への供物にする」
ブローチを胸の隠しにしまい、ケネス・ゼロワンは再び森の奥、ぼんやりと光を放つ場所へすたすたと歩き出した。
「待っ、待て、そのブローチ返――せ」
ケネス・ゼロワンの背中を駆け足で追いかけていて気づかなかった。森の暗い木立が途切れている。ぽっかりと開けた場所の中央になだらかにまるい丘がある。その丘のてっぺんに大きな大きな樹があった。黒々と節くれだった太い幹。重たげに枝を伸ばしたわわに花を咲かせぼんやりと光を放っている。ほんのりと紅がかったような、それでいて白く清らなような満開の花。風もないのに
はらり、はらりはらり。
花びらが舞い散る。
「桜。――桜の花」
丘のふもとでサクラはのしかかるように咲き誇る満開の桜の大樹を見上げた。
* * *
「おっらおらおらおらおらおらああッ、どけえええッ」
運転席の内藤が叫ぶ。大きく円を描くようにドリフトした後、トレーラーは車体をがっくんと揺らし停止した。
「なんできみたちあの乱暴な運転で平気なの、おかしいでしょう」
ぶちぶちと文句を言いよろめきながらヤシロ青年が降りてきた。隣りをすり抜け、斧と丸い盾を手にしたユミルが森の奥、光を放つ場所へ駆ける。ヤシロ青年もそちらへ足を向けようとした時、がすっ、と爪先数センチの場所に長い槍が突き刺さった。
「ヤシロさま、トレーラーへお戻りください」
槍を地面から抜きながら内藤が青年へ声をかけた。目は鋭く森の奥、光を放つ場所へ向いている。
「でも、僕も」
「ヤシロさま。我があるじが申しておりました。ヤシロさまを無傷でお返ししろ、と」
「でも」
「より厳密にお伝えするならばあるじの言葉は『無傷で人類のもとへお返しするように。養女を除けば最もマキナフィニティに近いお人だから』でございました。さ、トレーラーへお戻りください」
「内藤さん、準備OK」
ミミがトレーラーから降りてきた。内藤とミミの二人はいつの間にか着替えている。黒いジャケットにカーゴパンツ、レザーブーツ、そして長槍を携えている。
「まさかロボット相手に槍で戦うつもりじゃ……」
「わたくし、今」
内藤が目を森の奥へ向けたままにやり、と笑った。
「荒々しい気持ちでございますの。――ミミさん、行きましょう」
「はいな」
ユミルが駆け去った方向、何かが激しくぶつかる音のする方へ女二人が身を躍らせ、消えた。
* * *




