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Ymir  作者: まふおかもづる
第四章  巨人と巫女

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33/45

 長かった夏が終わった。台風が通り過ぎる度に高くなる空。サクラは風雨に洗われた空から水量の落ち着きつつある川へ視線を移した。今年もどこかのスラムが浸水の被害に遭ったに違いない。NK地区のみんなは大丈夫だろうか。

 どんよりと淀む海。足下に沈む廃都の面影。奥東京湾を行き交う数多の小舟。土台ごと(かし)ぎ、身を寄せ合うように密集する陋屋(ろうおく)。派手な看板。壁の落書き。ガラス瓶の破片。こびりつく埃のにおい。客引き、荷車、行き交う人々。


――思い出せない。


 赤提灯の裏口に集まってドローン・バトルのプランを練ったり、処分場で近所の子どもたちと一緒にリユースできる部品を探したり。ジャンクパーツ屋のあるじと給料でもめたり。馴染み深く親しかったはずの人々の顔がおぼろで遠い。

 帰りたくない、そう考え続けていたからだろうか。記憶の中の街の風景は鮮明なのに、そこにいる人々には顔がない。


 ひんやりとした空気。高い青空。サクラは喪服に身を包み、ぼんやりと水面が反射する光を眺めている。ここはスラムの水路ではない。いつか内藤が連れてきてくれた、病院近くの川だ。

 初戦を勝利で飾ったサクラとユミルはトーナメントを順調に勝ち進んでいる。バトルに出場したりメンテナンスしたり、バトル動画や対戦相手のスペックを分析したりと忙しく過ごす中、母親が息を引き取った。危篤の報せを受けてすぐに病院へ向かったけれど死に目にあえなかった。個室いっぱいに業病(ごうびょう)重篤患者特有の朽ちた植物のようなにおいが漂っていたというのに、亡くなった母親の身体はにおわなかった。


「おお、見つけた、見つけた」


 斉木老人が杖をつきながら土手の階段を上ってきた。


「すみません。内藤さんに行き先をお知らせしておいたのですが……」


 足もとの石に(つまず)いたか、ぐらりと傾ぐ斉木老人を支えたサクラは愕然とした。朽ちた植物のような、薬のようなにおい。斉木老人愛用のコロンの、抑えの利いた渋い香りの奥にごくわずかではあるがスラムの水のにおいがする。業病の症状だ。


「年をとるのはたいてい悪くないんじゃが、身体が思うように動かないのが嫌じゃのう」


 サクラの支える手をやんわりと外し、斉木老人は川面へ目を遣った。


「わしは確かに斉木家の当主なのじゃがな、妾腹での。この街でなくBB地区の生まれなのじゃ。お前さんの故郷のほれ、NK地区のすぐ近くじゃ」

「BB……知らない街です」

「戦後しばらくは持ちこたえておったが今は海の底じゃ」


 老人は水面に反射する光に目を細めた。



 斉木老人は東京の下町BB地区で育ち、十代半ばで斉木家へ跡継ぎとして迎え入れられたという。先代の斉木家当主が正妻を説得するのに十数年費やしたのか。それとも正妻の座が空くまでそれだけ時間がかかったのか。老人は詳しく語らなかった。代々続く代議士の地盤は継がず財界で成功をおさめた斉木家の御曹司へ降るように見合いの話が舞い込んだが、当の本人の関心はもっぱら事業へと向かっていた。国内外を忙しく飛び回って中年の域に差し掛かった時、戦争が起きた。日本も戦火を免れず空襲により東京湾大堤防が決壊した。被害は壊滅的で東京都二十三区と呼ばれたエリアだけでなく首都圏のほぼ全域が海に呑まれたという。流れ込んだ海水は数日かけて引いて行ったけれど、大きく地図が変わるほど首都は変わった。


「あの戦争の最中、わしは**国で足留めを食っておってな」


 世界を二分する戦争だったのに二年弱という短期間で一気に決着がついた。その分混乱も大きく、斉木老人のような海外駐留者が日本に帰れなかったケースが多々あった。


「抑留が解けてやっと帰国した時にはBB地区は破壊されて見る影もない有様でのう。しかしわしは探しに探した」


 きらめく川面の光が斉木老人の血の気のない顔を照らす。


「斉木の連中が認めようとしない内縁の妻と子をな、隠しておったのじゃ。BB地区に」


 東京湾大堤防が狙われることはある程度想定されていたそうで、地方への疎開が着々と進んでいた。ただ事態の進行のほうが早く、間に合わなかった人も少なからずあった。戦後斉木老人がBB地区に帰った時、そこは獄卒や罪びとたちが引っ越してしまい廃墟となった地獄のような様相を呈していた。


「――あれから三十年、結局妻も子も、形見すら見つからなんだ」

「業病が体内に根を張るほどBB地区に通われたんですか」


 こうしてにおいが漏れるほどだ。ずいぶん前から身体が痛み、食べ物に味が感じられなくなっているはず。――ここしばらく食欲を失っていた斉木老人の姿を思い起こし、サクラは目の前が暗くなった。

 目の前を流れる広い川は奥東京湾へ続く。二人はしばらくじっと川面を眺めていた。冷たい風が渡る。微かに潮のにおいがする。


「ああ、満ちてきた」


 サクラの問いに答えずぽつり、と斉木老人がつぶやく。潮位の情報は海の浸食を恐れるスラム住まいの人々の間では当たり前の、時候の挨拶より大事なやりとりだ。外の人間には何のことか分からない。ちょっとした符丁のようなものだ。


「今日は大潮です」

「風が気がかりじゃな」

「ええ。でも台風とぶつからなくてよかったです」


 二人の間の空気がほんのわずか、緩んだ。


「京都や福岡は戦後復興の勢いが目覚ましくてな、それはもうにぎやかじゃった。しかし時に切なくなるのじゃ。妻子が亡くなってなぜにわしだけが生き残らなければならんのか、と。そんなとき、時間を見つけては通った。BB地区に。そこが海に沈んでのちはSB地区にのう」


 からん。

 杖が地面に倒れる音がした。拾い上げようとかがんだサクラがふと見上げると、斉木老人は顔を歪めていた。川面が反射する光に暴かれて老人の顔は笑っているようにも泣いているようにも見える。


「ごみごみと立て込んで荒れ果てて――それでもBB地区やSB地区は昔の街並みの記憶がこびりついているようでのう。あばらやの壁の隙間から差し込む日の光をぼんやりと眺めているとふと、妻と子の声が聞こえるような気がしての。それを聞きたいがために通い詰めた」


 老人に杖を握らせてサクラは立ち上がった。長い期間第一線で活動し続けた老人にはいくつもの顔がある。内藤の語った歪な心の主も、ヤシロ青年の語った独自の手法で日本再生を企てる野心の持ち主も。見る者の角度によって、接する者の立場によって老人の顔は違う。サクラの目の前にいるのは孤独と病に苛まれ疲れ果てたひとりの男だった。

 

 路地に淀んだ潮のにおいが漂う。足下に沈む廃ビル群の谷間に魚影が走る。記憶の中の海辺のスラム。植木鉢に水をやる女。はしゃぎじゃれあいながら駆ける子どもたち。水路で小舟を繰る男。路地を行き交う人々にはやはり顔がない。ただ、記憶の中で佇む幼いサクラと道路を挟んで反対側でぼんやりと人々の流れを眺める男の顔が斉木老人と少し似ている。



「母親の延命措置が――」


 顔を背けたまま斉木老人が口を開いた。


「お前さんをわしのもとに縛りつけていることは分かっておった」

「はい」

「わしは日本に活気を取り戻したかった。――もうわしの家族は戻ってこん。分かっておる。しかし、あのころのにぎわいを取り戻したかったのじゃ。なんでもかんでも金で買えるわけではないがな、世の中を安らけく保つには金がかかるからの」


 斉木老人は苦く笑んだ。


「わしはの、お前さんをアライブズ=テクノロジー社か、賢人会議とかいう爺婆の集団のどちらかに売るつもりじゃった」

「はい」

「知っておったかえ」

「――なんとなくは」

「やめじゃ」

「はい?」


 斉木老人は笑みを深くした。


「お前さんを売るのはやめじゃ。――サクラよ、自由になりたいかえ?」


 なんだろう。自由って。解放されてどこへ行って何をすればいいんだろう。川面が反射する光にサクラは目を細めた。


「分かりません」


 むしろこちらから問いたい。業病の根を身の内に養うほどスラムに通い詰め、才能のある子どもを屋敷に引き取り奨学金を与えサクラを養子にして――斉木老人は満足だったんだろうか。


「そうかえ。分からない、かえ」


 斉木老人は杖で地面をかん、と叩いた。


「我が養女は会社一つの誘致なんぞと引き換えにするほど安くないわえ。くたばる前にお前さんの行く末を安堵せねばならぬのう」


 血のつながらない親子はならんで佇み川を眺めつづけた。川面を渡る風がやわらかくサクラの頬を撫でる。



     *     *     *



 葬儀を終えて屋敷へ戻ると既に夜だった。月が冷たく冴えている。ちりり、ちりりと虫が鳴き交わす中、サクラはガレージへ向かった。シャッターを開けると、あたふたと胡乱な動きを見せたユミルがずるりとずっこけた。がちゃんがちゃん、がらんがらんと金属製の何かが散乱する音がうるさくガレージに響く。


「――出直そうか?」

「い、いいえ、いいんです、すみません、散らかしました」


 サクラの気配に気づかないというのは珍しい。


「何をしていたの?」


 ユミルのモノアイがつよく輝き、光が揺らめいて点滅し、また強く輝いた。今まで見たことのない反応だが、うろたえていることは間違いない。


「言いにくいことなら無理に――」

「違います。そうではありません。そのあの、これを」


 ユミルは大事そうに隠していた何かをサクラの前に差し出す。掌に銀色の小さなものがそっと置かれた。冷たく硬い。


「桜の花……」

「銀線で作りました」


 中央に集まる(しべ)から立体的に反り重なりながら開く五弁の花びら。それは(まり)のように集まり咲くさまが精巧に模された染井吉野の花だった。


「とてもきれい。これ、私にくれるの?」

「はい、差し上げます」


 抑揚に乏しい平坦な、人工的で低く太く穏やかな声に誇らしげな調子が滲んでいるように思えてならない。サクラはユミルの背後――ちぎれた金属片やらぐにゃぐにゃ曲がった針金のようなものやらが散乱する惨状へ目をやり、苦笑した。自分を元気づけたいと考えたのだろう。精緻で美しい銀細工だけでなくその気持ちも嬉しい。


「ユミル、ありがとう。大事にする」


 ひんやりとした装甲にもたれかかると、コアのざわめきが波のように伝わってくる。サクラは指先でつまんだ銀細工の桜を光に透かした。明かりとりから射しこむ月の光を銀色の桜がちりり、ちりりと淡く清らかに反射する。


「サクラ」

「なに?」

「あなたの名前は美しい。そしてあなたもまた」


 父親に続き、母親も亡くなった。今はこの世にない二人がつけてくれた名前、女の子の名前としてはありふれたその名前をユミルが呼ぶとまるで本当に自分が美しくかけがえのない何者かであるように思える。

 俯いてサクラは額をユミルの装甲にすりつけた。ふるふると横に頭を振るのに合わせ後頭部の生え際で髪が二手に別れ流れる。うなじの連結回路が露わになった。ユミルの冷たく硬い指がそっと回路をなぞる。

 月が傾いた。明かりとりから差し込んでいた光がふっつりと途切れ、ガレージは闇に包まれた。


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