四
斉木老人の一行はバトル会場の観戦ルームに通された。珍しそうに室内を見回していたミミがスツールに腰掛けたサクラの顔を気遣わしげにのぞきこむ。
「――さくちゃん、平気?」
平気なわけがない。サクラが口を開く前に眼下の戸が滑るように開いた。
来た――。
腰を落としたユミルが重々しく一歩、さらに一歩足を踏み出し、戸の向こうの空間からその姿を現した。ゆっくりと身を起こし、丸い頭部をゆっくりと巡らせて周囲を睥睨する。頭部に浮かび上がる赤く丸い火の玉――モノアイがサクラをとらえた。互いに互いをじっと見つめる。
――私がうろたえたところでどうにもならない。
ユミルの目、赤い炎に揺らぎはない。サクラがオラクルを受け取る巫女の役割を放り出す、その可能性もユミルは見越しているに違いない。ユミルではない大切な人、母親とミミを守るために身体を張れというサクラの求めにユミルは応えるつもりでいる。こんなにわがままで理不尽な願いなのに。サクラは膝に置いた両手をぎゅ、と握りしめた。
バトル会場のロボット搬入口で別れる間際、ユミルが言った。
――サクラ、いいですか。よく覚えておいてください。
――あなたの安全を第一に考えるのです。いざというときは強制切断してください。
――バトルのルール上、コアに至る損傷を被る可能性はありません。
――機甲殻の損壊ならばサクラ、あなたが必ず修復してくれる。
――勝ちを獲りに行きます。自分にはあなたの力が必要です。
――ですからサクラ、決して無理をしてはいけません。
今まで二度のバトルではただユミルの戦う姿を見ているしかなかった。でも今日からは違う。ユミルといっしょに自分も戦う。
――任せて。
サクラの両拳に力がこもる。ユミルの頭部がぐ、と動き視線が逸れた。
隣りに立つミミの親しげなぬくもりを感じる。サクラは顔を上げた。いつもならミミが瞳に宿す勝気なきらめきが今は心もとなく揺れている。
「――平気。私、やるよ」
「うん。さくちゃんならできる。がんばれ」
いつものミミらしい、あどけないような怖いものを知らないような強気な笑みが戻ってきた。サクラはテーブルの上のヘルメット状のヘッドセットを両手で装着した。サイズの大きなそのヘルメットで頭部が、うなじの連結回路まですっぽりと覆われる。いつものバイザー型のヘッドセットでも問題ないのだが、より集中を高めるためにサクラは外部の刺激を遮断することにした。
ビューアを立ち上げ、セキュリティシステムが不足なく稼働していることを丹念に確認する。情報や技術が漏れるのも困るが、バトルが始まる間際の今、よそからの不正接続で集中が乱されることのほうが問題だ。聴覚や視覚を遮断して立ち上げたビューアは暗い。サクラはやかましいくらい高鳴る自身の鼓動、忙しない呼吸音に耳を傾けた。
――落ち着きがなくてかっこわるい。
ふふ、と笑いが漏れる。自嘲であれ何であれ、笑って力が抜けた。サクラはあらかじめ用意しておいたプログラムを走らせた。ビューア上に光がぽつりぽつりとともる。
――さあ、集中しよう。
* * *
――コネクトオン。
接続と同時に世界が変わった。目の前のテーブルには鍵盤、手を伸ばせば壁に触れる、ここにも鍵盤。天井からぶら下がる蔓に果物のような丸い形をした取っ手がついていて、それらがたわわに実っているかのようにぶら下がっている。足下にも鍵盤。操作する時にダンスのように激しい動きが必要になるが、この動きも鍵盤やぶら下がる果物などの入力キーもイメージ上のもので、端から見ればサクラはじっとしてヘルメットをかぶったまま眠っているように見えるはずだ。
軽く一歩踏み出して鍵盤を踏み、両手でコードを入力する。視界が開けた。明るい。サクラが観戦ルームの窓から眺めたバトルフィールドは頼りないスポットライトに照らされるだけの薄暗い空間だった。しかし、これはユミルの視界だ。暗がりであっても細部までくっきりと見ることができる。
ごっ……ごごっ……。
蹄が床を掻く音。フィールドの対角線上、反対側にケンタウロスがいる。屋外のパーティ会場で見た時のご婦人方を魅了した甘いマスクを引き締めている。馬体の青毛、その深い闇のような黒と合わせて鎧も黒。鎧のパーツに金色の縁取りがあしらわれていて、金髪や緑色の瞳とあいまって華やかだ。武器は先端に斧と槍、鉤のついたハルバード一本のみだ。長さは三メートル超えているように見える。
――ユミル、油断は禁物だよ。
――分かりました。
目の前にぶら下がる果物の一つを引いて経路を開放する。壁に手を伸ばして鍵盤に触れ、素早くテーブルの鍵盤でコードを入力する。赤く燃えるコアからエネルギーが流れ出て機甲殻全体へ行きわたる。動きのイメージをユミルと共有する。ユミルがごく自然に斧と盾を構えた。相手もハルバードを両手で握る。両者間の緊張が高まった時、ビューアに戦闘開始のサインが表示された。
相手のハルバードの切っ先に集中する。上か、下か。次の動作が始まってからでは遅い。動きの端緒を掴みより速く動く。ユミルの躊躇を感じる。サクラは演算結果を視界に収め両手両足でキーをたたきながら強く念じた。
――できるかできないかじゃない。やるよ。
バトルフィールドに姿を現した時の動作、見た目の大きさ、蹄が床を掻く音、その音の反響、屋外のパーティ会場での動き――。ユミルの内部にストックされている映像でケンタウロスの平時の動きは分析済みだ。マスターの危険を察知して駆けつけたケンタウロスのきびきびとした跳ねるような美しい動きよりもサクラが気にしたのは蹄である。細く優美な外見のわりに蹄が深く芝生に沈んでいた。
――あのバイオロイドはきっと見かけより重い。
外見や実際の動きから導き出される大きさや速さ、戦闘用機甲殻の平均的スペックをパラメータとして設定すると出てこない。
――あのエンジニア、未発表の機甲殻をあのケンタウロスでテストしているのかも。
筋繊維の新素材か、それとも骨格を模した伝導システムの発明か。確かにあのヤシロという青年の言う通り、見てくれだけのバイオロイドではなさそうだ。
――サクラ、来ます。
――了解。
ユミルのコアが内側から熱に似た振動を一気に放出する。同時にケンタウロスの筋肉が収縮し、膨らむ気配がした。
――下! 下から来る……!
ハルバードの斧の刃先が鈍く輝き弧を描きながら迫る。ユミルは円盾でハルバードを払った。盾のドーム状の傾斜を利用して勢いを削ぎながら斧でケンタウロスの胴体、人馬の境目辺りを薙ぎ返す。
――残念。有効打にならないか。
ユミルの斧がケンタウロスの黒い鎧をかすめ、火花を散らした。初手を相手に譲り、カウンターを仕掛ける。想定した通りに動けている。ユミルの機甲殻の隅々までコアから供給されるエネルギーと信号、サクラの意識がいきわたっているのを感じる。
ユミルのセンサーを通じてサクラはケンタウロスの顔を見た。緑色の瞳が冷たく輝く。相手は人間ではない。頭部を中心に組み込まれた感情表現システムがオフになっていて無表情なだけなのだと分かっている。それでもサクラは相手がまだ全力を出していないと感じた。
――余裕だね。
ユミルが盾でハルバードを押し返す。
ぎぎぎぎ……。
金属と金属が激しくすれ合い、火花が散る。
スピードはサクラが巫女として介入してやっと互角に持っていけるかどうか。パワーはユミルのほうが圧倒的に大きい。しかしこの圧倒的な差に相手が怯みを見せていない、そのことにサクラはひっかかりを感じた。
――何か忘れている。何かが結びついていない。
眼前で展開される戦闘が心を占め、疑問は湧き起こるそばから無意識の深淵へ滑り落ちてしまう。
――勝って。必ず勝って。
――応。
ユミルのコアが一層赤く熱く燃え上がる。
一閃。
銀色の光がひらめいた。ユミルの振るう斧の軌跡だ。相手がハルバードの長い柄で受けとめる。
ぎゅ、ぎゅぎゅ、ぎゅ。
蹄が床を掴みきれず、ケンタウロスの身体がずり下がる。
――速く、もっと速く。
分析に割くシステムリソースを削ってエネルギーの通り道を大きく確保し、ボトルネック部分を通過するコアへの信号のフィードバックを優先順位をつけて交通整理する。サクラは鍵盤をたたき、上からぶら下がる取っ手を引き、まるで楽器のようにシステムをオペレートする。
一閃。さらに一閃。
右上から体のひねりを利用して斧を振りぬく。そのままひねりの反動を利用して左下、盾の陰から斜め上に向かって薙ぎ払う。火花が散る。
軽やかにステップを踏む。サクラが指先、ひじ、膝、意識の隅々まで総動員して踊る、その動きに呼応するようにユミルが斧を振るう。
――勝てる、勝てるよ!
反射的な防御、力の溜め、攻撃、動作と動作の間に生じていた空白がない。ぎこちなさがとれて滑らかになった分、速度が増した。存分に斧を振るえてパワーと重量を攻撃に載せることができる。
がん!
火花が散る。大きく一合、斧とハルバードをぶつけ合い、ユミルとケンタウロスは距離をとった。
ケンタウロスはハルバードを構えたまま半歩、後ずさった。燃えるケンタウロスの緑の瞳は相変わらず冷たい。
――待って。何かおかしい。
相手の胸もとに飛び込むユミルの行動を支援しかけてサクラは反射的に手綱を引くようにそれをとどめた。いったん飛び込んだユミルがざ、と身を引くより早かったか。
黒い壁が現れた。
後方へステップを踏むユミルの装甲すれすれに重い何かが落ちてくる。
ずずん……。
続けて後ろでなく横へステップを踏むユミルの装甲すれすれを銀色の光が襲ってきた。
がん!
ハルバードが床を強打して火花が散る。黒い壁――ケンタウロスが後ろ脚で立ちあがった姿だった。二メートル五十センチのユミルより高い位置に前脚の蹄が躍っている。
――避けて!
ず、ずずん……。
ハルバードで斬りつけるより強く、重い。パーティ会場の芝生に沈む蹄から推測される重量。その軽やかな動きに対して不自然なほど重かった。サクラは唇を噛んだ。違和感の正体はこれだったか。
ユミルが素早く蹄を躱す。そしてまたケンタウロスが後ろ脚で立ち上がった。ハルバードを逆手に握っている。ユミルが相手の攻撃を避けるために動き始めた。
――違う! これはきっと――。
ユミルの盾を器用に掻い潜り、ハルバードが上からほぼ垂直につきおろされた。ハルバードの槍の穂先は回避できている。しかし相手の目的は槍で突くことではなかった。膝の裏にハルバードの鉤爪が引っかかった、そう感じたとたん、視界がぐるりとひっくり返った。
ずず、ず……ん。
衝撃がユミルの機甲殻を揺さぶる。咄嗟に優先順位を替えて回避しようとしたが、ケンタウロスの蹄が肩の装甲にぶつかった。この衝撃を感覚と結び付けていたらきっと肩を貫く激痛で動けなくなってしまったに違いない。サクラは震えた。
ぐるり、ぐるり、回避行動をとるユミルの視界が回転する。頭部を、胸部を、脚部を掠め蹄が打ちおろされる。衝撃の大きさがバトルフィールドを通じ伝わってくる。
――何やってるんだ、私。
思いのほか大きな衝撃にサクラはオラクルの伝達を放棄してしまっていた。
――怯えてる場合じゃない。
サクラの本能的反射をつかさどる部分を開放して、そこで尤度(もっともらしさの度合い)の判定を行い自動的にユミルは回避行動をとっている。でも
――遅い……。
反射的な防御、力の溜め、攻撃。動作と動作の間に空白が生じている。ひとつひとつの動作のわずかな淀みが勢いを削いでいる。バトルの残り時間が少なくなっている。外殻の傷が深くなってきた。どうすればいい、どうすれば。サクラはぎゅう、と目をつぶった。オラクルが遠くなる。
赤く燃え上がる炎を宿すユミルのコアに滲むように小さな黒い点が浮き上がった。コア全体の光がふ、と弱まる。
――そうだ。このままではいけない。
――私は巫女。
サクラは歯を食いしばり再びオラクルの流れに手を入れた。一歩踏み込み、手もとの鍵盤を爪弾き、天井からぶら下がる取っ手を引いて壁の鍵盤に触れる。ボトルネックで滞留していたオラクルが大きく開いた通り道に流れ出る。
――ユミル、ごめん。
――いいえ。
ユミルのコアが再び赤く燃え上がる。
黒い壁が立ちはだかり、崩れ落ちてくる。重い蹄が身体のすぐそばを掠める。ぐるり、ぐるり、回転の速度を上げて溜めたパワーがピークに達したところで斜めに飛ぶ。後ろではない。前へ。
――サクラ、もう一度飛びます。
――了解。
ケンタウロスが後ろ脚で立ち上がり、黒い壁と化した。銀色のハルバードが高く振りあげられる。
――今だ。
ユミルが低い位置から黒い壁へ突進した。盾を前に掲げ交差した逆の手で握る斧を体を開きながら振るう。斧が後ろ脚を薙ぎ払い、ケンタウロスの大きな身体が傾いだ。ユミルはそのまま強く身体を打ち当て、曲げた脚部の伸びる反動を利用して斜め上に押し上げる。
ず、ずず……ん。
ユミルはケンタウロスの暴れる四肢を抑え込み、後ろ脚をばきり、と折った。ハルバードでやみくもにユミルの装甲を殴りつけていたケンタウロスの手から力が抜けた。行動不能だ。
――勝った……!
サクラは安堵のため息をついた。うなじの連結回路が熱を持っている。ふと。サクラは不意に後頭部がざわめくような不思議な感覚に襲われた。
生き物であれば息遣いが聞こえそうなほど近く、明るい金色の髪の隙間から覗くケンタウロスの瞳が緑色に冷たく輝いている。
――識別番号*******、通称「零号」。戻れ、女王のもとに。
光が迫ってきた。白に近い炎にオレンジやスカイブルー、グリーンなど遊色のような明るい光が躍る。サクラは確信した。ケンタウロスのコアに違いない。そのコアを通じて何かが見える。
――大きな樹?
暗く重い空。果てしなく広がる荒れた大地。太く根を張る大樹がぼんやりと光を放っている。光の正体は大樹にたわわに実る果実だ。緑色、黄色、青。さまざまな光を放つ林檎のような果実。サクラは大樹に違和感を覚えた。
――ひとつ、ふたつ。ひとつ、もうひとつ、ふたつ。
大樹がうたうように何かを数えている。そしてため息をつくように幹や枝を揺らした。しゃらしゃらり、と輝く実が揺れる。
――ああ、やっぱり駄目。もう一度、やり直し。
――ひとつ、またひとつ、ふたつ。ひとつ、ひとつ。
数えてはため息をつく大樹が大儀そうに幹を震わせる。その震えが枝へ伝わりしゃらしゃらり、と輝く実を鳴らす。大樹の幹は、サクラの知る樹木のそれではない。まるで肉だ。大樹の根がずるり、と大地を這う。
しゃらしゃらり。
揺れていた果実が動きを止めた。
――たれか。そこにいるのは誰か。
大樹だけでない。たわわに実る果実もすべてこちらを見ている。サクラの背筋が凍った。その時ユミルが感覚を遮った。
――コネクトオフ。
サクラは意識を手放した。暗闇に呑まれる。
* * *