八
眉間にくっきりとした皺。目の下に隈。斉木老人は朝から凄まじい面相をしている。辛うじて内藤やサクラの挨拶に対して
「うむ。おはよう」
と返すのみでむっつりとどろどろしたスープをスプーンでかき混ぜている。今日のどろどろスープは赤い。
――ユミルのコアの色。
いつもは手をつけず残すのだが、赤という色に心惹かれてサクラは恐る恐るスープを口にした。
「――あれ?」
やわらかなスープストックの味わいと熟した野菜独特の甘みの奥に酸味がほのかに立っている。
「おいしい」
サラダでなじんだ野菜の味がする。夢中になって何度もスプーンで掬い、口に運ぶ。サクラは食堂にいる全員、斉木老人や内藤、丸っこい体つきをしたコック長が自分を驚きの目で見ていることに気づいた。
「――えっと、お行儀が悪かった、でしょうか」
「いいえ、そんなことはありません。お嬢様、おいしいですか」
「はい、おいしいです。とても」
そう言った途端、食堂の隅から「うぐっ、……がんばってよかった……!」とみょうちきりんな声が上がった。コック長だ。顔を背け、丸っこい身体をさらに丸めて震わせている。サクラが目を丸くするのを見て内藤は微笑んだ。
「厨房のスタッフが喜びます。今日のスープはトマトや玉葱、じゃがいもなどいずれも農園で今朝とれたばかりのものをつかって作っております」
「そうですか。今まで食わず嫌いをしてすみません」
斉木老人が疲れのにじむ顔に笑みを浮かべた。
「むすめがおいしいと請け合うのじゃからわしも食べなければ損をするのう」
「ええ。そうですとも」
食欲がないのは変わりないが斉木老人の機嫌がよくなり、和やかに朝食の時間が過ぎて行った。
食後、斉木老人が居住まいを正した。男泣きのコック長が厨房へ戻り、食堂にいるのは老人とサクラ、そして内藤だけだ。何か大事な話があると見てサクラも背筋を伸ばした。
「実は零号のバトルの件なのだが」
バトルの日程が繰り上がるのだろうか。そう考えたサクラの見当は外れた。
「昨夜連絡が入ってな、バトルの大会と言えばいいのかのう、トーナメント方式で行われることになったのじゃ」
「はい」
「零号にも出場の要請が来ておる」
「はい」
「トーナメント初戦の日程は予定通りなのじゃが、組み合わせはトーナメント開始まで秘密だそうじゃ」
斉木老人は大儀そうにため息をついた。
「零号が勝ち進めば連戦になる日もあろう。よいかえ?」
「――はい」
養女が気の重そうな顔で食堂を後にするのを見送ってから、斉木老人はつぶやいた。
「食べ物を受け付けるようになったか。スラムの業病の根は駆逐できたと見てよかろうて。あの娘は間に合ったのう」
「ええ。一緒に雇ったメイドも。成長途中であったことが幸いしました」
「しかし――」
「旦那様」
内藤は低い声であるじの言葉を遮った。
「わたくしは旦那様に救われました。わたくしだけではありません。お嬢様も」
斉木老人は両掌で顔をごしごしとさすった。
「――今朝も言えなんだ」
「理を尽くせばきっと理解してくださいましょう。お嬢様はそういう方です」
「わしは年をとった。年をとって自分に甘くなった」
斉木老人は顔から離した掌へ虚ろに目をやった。
「あの娘はきっと、ただ零号を強いロボットにせよと期待されていると思っておる。わしは言えなんだ。零号のコアを壊してくれ、そのためにスクラップ寸前の廃棄品をあてがったと言えなんだ。アライブズ=コアの仕組みを暴いてくれと、アライブズ=テクノロジーを日本に取り戻す強請の種を見つけてくれろと言えなんだ」
深く刻まれた皺、青白い肌に浮き出たしみ、乱れた髪。眉根を寄せて老人は痛みをこらえた。夏の太陽はすぐに高く上る。食堂の窓から差し込む日光は角度を変え、老人の落ちくぼんだ目が影に沈んだ。
* * *
マキナフィニティ。機械親和性の高い人間を指す。
数十年に一人生まれるかどうか、という希少な存在であると言われている。ただの天才ではない。機械、中でもアライブズ=コア搭載のロボットとの親和性が高く、機甲殻やコアユニットに関するエポックメイキングな新技術を開発するという。アライブズ=コアに関する契約の厳守をユーザーに強いるアライブズ=テクノロジー社もマキナフィニティに関しては例外条項を設けている。貴重な人材であるから、もしマキナフィニティだと判明したら特別な教育と資金が与えられる。
だから、アライブズ=テクノロジー社日本法人だけでなく日本政府もマキナフィニティ探しに熱心だ。アライブズ=テクノロジー社の創始者ミナモト博士や、機甲殻に関する特許を数多くもっていたハジ博士というふたりの優れたマキナフィニティを輩出した過去がある。優秀な人材を発掘するために学力検査の中にマキナフィニティ適性を診断する設問も加えてあるのだと噂する者もいる。
こうした黄金の卵探し態勢を整えている国は日本だけではない。しかしそれでもマキナフィニティは見つからない。自分は、あるいは自分の子どもはマキナフィニティであると名乗り出る者が少なからずいるがアライブズ=テクノロジー社の課す検査をクリアした者はまだいない。
サクラは自分がマキナフィニティであるかもしれないと思われていることを知っている。飛び級で高校を卒業した知能の高さは確かに珍しくはあったが、まったく存在しないわけではない。サクラより知能の高い人物は何人もいる。数十年に一度しか出現しないという謎の資質を自分が持つとはサクラは到底思えなかった。
確かに機械が好きだ。設計してパーツを組み立てて、制御プログラムを書く。特に制御プログラムをインストールする瞬間がたまらない。自分が書いたプログラムだ。筐体、機能に応じみずから設計したそのプログラムがどんなふうに動作するかなんて分かり切っている。それでも機械が初めて起動する瞬間、サクラは嬉しさと誇らしさと、心臓を甘く掴まれるような痛みに似た切なさとを覚える。サクラがつくってきたのはドローンで、ロボットではない。だからこそ思う。
――ユミルの機甲殻をつくった人はどんな気持ちでコアを入れて起動したんだろう。
――やはり嬉しくて誇らしくてなんとなく切なかったんだろうか。
傍らでじっと何かに集中しているらしいユミルを見上げ、サクラはそんなことをつらつらと思った。時々ユミルが自分と比べている誰か、身長が近くて自分より肉づきがいいらしい、そんな誰かに思いを馳せた。
「サクラ。質問があります」
ユミルがぐ、と頭部を傾けた。
「なに?」
「サクラの名前は花に由来しているのですか?」
サクラのビューアにユミルから画像が送られてきた。釣鐘のようにうつむいた、濃い桃色の花が咲いている。寒緋桜の写真だ。青い空を背景に満開の花が鮮やかに映えて美しい。
「うん、そうなの。春になると咲くんだよね。でも両親によると、私の名前はこれじゃなくて染井吉野という品種にちなんでつけたんだって」
「ソメイヨシノ」
ユミルが頭部を元に戻しまた黙り込んだ。インターネットへの接続を許可して以来、このロボットはネットサーフィンに夢中になっている。やがてユミルから何枚も画像が送られてきた。染井吉野の咲く東京の風景写真ばかりだ。
「よくこんなに見つけられたね」
「はい。古いものばかりです。百年近く前のものが半数を占めます」
今はない建物の写真がたくさんある。電波塔、高速道路、神社、寺、濠。戦争で東京湾の大堤防が決壊し、今ではヘドロとともに海に沈んでいる。
それだけでない。気温が上昇したり、逆に激しく低下したりという変動を繰り返して地球全体が温暖化した。この気候変動により日本列島の大部分は亜熱帯化した。関東もその例に漏れない。植物相が変化した今でも春になると桜は咲く。ただ昔と違い、桜と言えば寒緋桜を指すようになっただけだ。
百年も昔の春の風景は動きのない二次元の画像でも充分に美しかった。
水辺に重たげに枝を伸ばしたわわに花を咲かせた桜。夜、提灯の明かりで浮かび上がり薄墨色に陰る桜。機嫌よく盃を交わす酔客の上に花びらを散らす桜。ほのかに紅がかっていたり、桃色というより白に近かったり、色々な桜、今はもうない街並み、人々の姿。
「とてもきれい。――こんなにきれいなんだ」
濃い桃色の寒緋桜と比べると地味なのに、ただの写真なのに、見たこともない街なのに、ひんやりとした空気と人々のにぎわいが心を揺さぶるほど懐かしい。不思議だ。この写真の風景の空気が漏れ出ているのだろうか。サクラの心の奥深いところでざわりざわりといわく言い難い何かが蠢く。春の訪れが喜ばしいような、切なくもどかしいような、不思議な心持ちが写真から伝わってくる。
「おとうさんとおかあさんが言ってた。いつか桜を、染井吉野を見に行きたいねって」
「今もソメイヨシノの樹があるのですか」
「東北に残っているかもしれない。いつか咲いているのを見てみたい」
つぶやくサクラに視線を据え、ユミルは頭部をぐ、と傾けた。
「見に行きましょう、いつかいっしょに」
「そうね」
そうできるといい。サクラは微笑んだ。
オペレーティングシステムのアップデート作業が難航している。サクラは急遽組んだパッチを仮想マシン上で走らせた。シミュレートにしばらくかかる。今度もうまくいかない気がする。悪い予感を振り払い気を取り直して、サクラは傍らのロボットを見上げた。
「インターネットに夢中だね」
「機甲殻にパッチをインストールしますか。インターネットの接続を解きます」
「いや、実機に載せるのはまだ後で。それよりもネットサーフィン、楽しいのかなと思って」
ユミルはまた首をかしげた。
「楽しい――かどうかは分かりません。ロボットのネットワークとずいぶん違うので興味深いです」
サクラは驚いた。
「え? ロボット同士のネットワークがあるの?」
「はい、あります」
「インターネットと違うのかあ。どんな感じなんだろう」
「アライブズ=ネットといわれています。記録や契約など情報の交換や蓄積、そしてさまざまな事象を解析します」
「何を解析するの?」
「主に人類とわれ……アライブズの現状、そしてそこから推測される未来です。少なくとも三十年ほど前はそうでした」
ユミルの話は興味深い。ロボットは契約情報をアライブズ=テクノロジー社に送っているという話をサクラは聞いたことがあった。アライブズ=テクノロジー社とロボットがデータの送受信を行っているとしても、あくまでホットラインのように直接つながっている、あるいはインターネットを利用しているものとサクラは思い込んでいた。まさか独自に広域でネットワークを構築しているとは。それよりも気になるのは最後の「少なくとも三十年ほど前は」の部分だ。
「今は違うの?」
「分かりません」
「分からないって、どうして?」
「自分はわれ……アライブズの一部でなくなったからです」
胸部に掌をあてゆっくりと言葉を選ぶユミルを見上げ、サクラは困惑した。オーバーホールしたから分かる。ユミルは間違いなくアライブズ=コアを搭載した自律作業機械、ロボットだ。それなのに「アライブズの一部でなくなった」とはどういうことだろう。
ユミルは黙り込んだ。光のパターンも動かない。サクラはため息をついた。
「言いにくいことなら無理に――」
「違います。そうではありません。何から話せばいいか判断しにくいのです。――しかし、サクラに知ってほしいのです」
そう言ってユミルは再び口をつぐんだ。今度の沈黙は長く続かなかった。
「ずいぶん昔のことです」
ロボットはゆっくりと話し始めた。




