五
帰りの車中、内藤が言いづらそうに切り出した。車の天井を突き破りそうな巨体を縮めている。
「旦那様は――斉木様は厳しくていらっしゃる。しかし本当は素晴らしいお人です」
「ええ。分かっています」
硬い表情を崩さず、サクラは応えた。それはそうだろう。そう思っていなければ長年秘書として側近くで勤め続けていられるわけがない。内藤は自身の会社を軌道に乗せていてわざわざ人に使われる必要もないのだ。
「お嬢様もご存じの通り旦那様は慈善事業に熱心な篤志家でいらっしゃいます。わたくしも子どもの頃、旦那様に救っていただきました」
単に雇用契約を結んでいるだけでない、というのは内藤の様子を見て感じていた。斉木老人との結びつきが子ども時代にまでさかのぼるとは。サクラは驚いた。同時に自身の境遇と重なるところに親近感を抱く。
「孤児だった私を――人並み外れて身体が大きく、娘にしては粗暴なわたくしを、旦那様は拾って育ててくださいました。軍隊に入るまでの短い間でしたが」
ハンドルを握る内藤の手に力がこもった。
「服も食べ物も本も文房具も。他の子どもと共有でなく、奪わずともいいように充分に与えてくださった。幸せでした。――生きていていいと許されているようで」
言葉の表面ではやみくもに斉木老人に心酔しているように聞こえなくもない。しかし内藤の沈んだ声にそれだけでない何かがある。
「旦那様は才能のある若者をお好みになります。独身を貫いてこられたことで誤解する向きもありますが、旦那さまが子どもや若者に対して色めいた何かを仕掛けられたことなど一度たりともありません」
内藤の表情と口ぶりに曇りは見えない。厳つい顎を引きしっかりと内藤はうなずいた。
「調べたのです。そのような不祥事はなかったのです」
徹底して調べそうだ。内藤の細い目に鋭い光が凝る。
「そうですか」
「ただ少しだけ――」
内藤は悲しげに眉をひそめた。
「歪んでおられるのです」
斉木老人はもともと関東で代々代議士を輩出した家の生まれだ。本人は政界へ打って出ることなく、人材関連サービス業や医療関連企業など、いくつもの事業を立ち上げて成功させてきた。剃刀と称された若いころの辣腕ぶりが影を潜め、柔和な表情と物腰、上品な風貌の老人となった現在では企業経営の一線から退き、貧困層の優れた資質を持つ若者を支援する慈善事業を手がけている。
「旦那さまが見込んでお育てになられた若者の中には成功した者がたくさんいます」
政治家や企業経営者だけでなく学者、スポーツ選手、芸能人など貧困層の出身だと思いもしなかった人物の名が挙がった。
「内藤さんも会社を大きくされましたものね」
「大したことありません。――でもそうですね、わたくしの場合は」
内藤は思春期、自分自身が女性であることと身体的特徴のギャップに悩んだのだという。長身であるだけでなく筋肉質であり、頑丈な身体に加えてきつい顔立ち。内藤が女性らしくありたいと願えば願うほど逆の方向へ身体は育ってしまう。
「親がなく親戚中をたらいまわしにされていまして、今思えば恥ずかしいくらい荒れておりました」
そうして親戚から見離された内藤を斉木老人は引き取った。さして長い間斉木屋敷で暮らしたわけではない。しかし大人から期待され、それに応えるために努力する時間の過ごし方、そして知識や技術を身につけ能力を開花させる喜びがあることを初めて内藤は知った。
「旦那様に励ましていただき、わたくしは学校へ行って軍人になりました。一変した生活に慣れるのに精いっぱいでわたくしは気づきませんでしたが、同時期にお屋敷で養われた子どもたちの中にはせっかく才能を見いだされたにもかかわらず脱落してしまう者もあったのです」
サクラはまだ十五歳だから内藤からそう言われてまるまる理解できるわけではない。しかし、おぼろげにその様子を思い浮かべることができた。努力を重ねに重ねても追い求めるものが手に入らない。期待されても思うように伸びない。まだ大人になるまで間があるサクラであっても想像がつく。
「そうして脱落する者たちをわたくしは軽蔑しておりました。せっかくチャンスと資金をいただいたのに、と。――しかしある日、噂を聞いたのです」
内藤が運転する赤く小さな車はいつの間にか街から外れ、川沿いの土手を走っていた。
「お嬢様。旦那様は素晴らしいお方です」
河原近くで内藤は車を停めた。前日の雨の影響でいくぶん水量の多い川はそのわりに穏やかに流れている。ところどころ淀み小さく渦を巻き躍るように水が瀬を走る。夏の日差しをきらきらと反射してまぶしい。
「でも求める結果を得るために手段を選ばない。そんな面もお持ちです」
内藤が耳にした噂というのはとあるタレントの没落話だった。同じ屋敷で暮らしていた年下の美しい子どもで少々性格に難があった。しかし演技やダンス、歌などの芸能に関してだけは真摯で誠実であったことを内藤はよく覚えている。その後その子どもは念願の芸能界デビューを果たした。それなのに人気を得てとんとん拍子にスターダムをのし上がっていたあるとき不祥事がメディアにすっぱ抜かれた。何年前のことなのだろう。サクラはそのタレントの名前も不祥事の噂も知らない。
「そうして才能の芽が摘まれるのはよくあることなのです。そのタレントもそうして忘れ去られた。でもわたくしは後で旦那様のご友人がその情報をメディアにリークしたことを知りました」
そのタレントは名乗り出た実の両親にそそのかされて斉木老人の庇護から脱け出した。そのことに斉木老人が腹を立て、彼の腹立ちに乗じて別の誰かが先回りし、というのが事の真相であった。直接斉木老人が手を下したわけではない。それでも、と内藤は悲しげにうつむいた。
「ひどい人だと陰口を叩く人もいます。わたくしも――旦那様が聖人だと思い込んでいるわけではありません。その、旦那さまには才能ある若者を囲いこんでご自分の影響下に置きたいという欲求があるのです。でも、ですから」
「分かっています」
サクラは川面にじっと目を据えたまま答えた。自分はどうしてもスラムを出たかった。一刻も早く出たかった。念願かなって母親とミミも連れて出ることができた今、再びあの身体を蝕む環境に戻るわけにいかない。分かっている。サクラは川面から視線を移した。
「うかがった話、心に留めておきます」
もの言いたげな内藤と視線が絡んだ。どれくらい時が経ったろう。内藤は視線を逸らした。




