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Ymir  作者: まふおかもづる
第三章  スティグマ
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 バトルの翌日、朝食の席で斉木老人は機嫌の悪さを隠しもしなかった。いつも穏やかで物腰の柔らかいこの老人にしては珍しいことだ。好物のどろどろしたスープもふた口でやめてしまった。給仕のメイドがびくびくしている。


「今日の作業の遅れは後ほど必ず取り戻します」


 とりなすようにサクラが養父に声をかける。この日、念のため病院で診察を受けることになっている。その分、作業が遅れることにいらいらしているのかと思ったのである。


「そうではない。違うのじゃ」


 斉木老人はスプーンを置き、


「――朝食も問題ない。食欲がないだけじゃ。気にせんでくれ」


 びくついているメイドに声をかけてため息をついた。内藤、と声をかけると傍らに立つたくましいメイド姿の秘書があるじの声を聞きもらすまいと巨体をかがめた。


「今日はわしについていなくてよい。むすめとともに病院へ、な」

「そのつもりでおりましたが――旦那様のおかげんは」

「うむ。かまわぬ。たいしたことはない」


 むっつりと黙りこんでしまった斉木老人だが、サクラがサラダだけでなくヨーグルトのベリーソースかけを平らげたのを見てほんの少し、表情を緩めた。



 いっしょに行くと言ってきかないミミを


「あなたは特例で雇用していますが本来はみっちりメイドとしての研修を受けていなければならないのですよ」


 ずもももも、と音がしそうなほど威圧して内藤がミミを部下だという男性に委ねた。ミミはと言うと内藤の発する圧をものともせず


「えー、やだ。めんどくさい」


 とごねにごねた。しかしサクラが「そんなに嫌なんだったら……」といいだすと


「いやいや、さくちゃん、ちょっと言ってみただけ。あたしは気にせず行っておいでよ」


 途端に掌を返した。首をかしげるサクラの背後で内藤が腕組みをしている。



 診察に付き添ってくれるという内藤はメイド服からスーツに着替えてきた。マキシ丈のプリーツスカートが袴に見えて雄々しい。


「実は車の運転が趣味でして。もしお嬢様がお(いや)でなければお乗りいただきたいのですが」

「乗りたいです」


 案内されて向かった車庫には赤い車があった。とても小さい。ヘッドライトを目に見立てるとパグ犬がびっくりしているように見えなくもない。ちゃめっけのある表情だ。


「かわいい! レトロな趣味なんですね」


 愛車を褒められて内藤の表情が緩んだ。人のよさそうな顔になる。


「はい。残念ながら本物のクラシックカーではありませんが」

「今時化石燃料を手に入れるほうが難しいですし。――これはレプリカなんですか? それともカスタマイズ?」


 わくわくした顔で質問攻めにするサクラに微笑みかけて乗車を促し、内藤は運転席に乗り込んだ。



 昨夜降った雨は夜半に上がり、からりと晴れている。

 奥東京湾に注ぐ利根川の支流のひとつに沿ってできた街に斉木家は屋敷と農園を有している。少し下流へ行けばヨットハーバーや輸送艇、漁船の発着する港があるが、この街は戦火で焼けることも東京湾の堤防決壊による洪水で沈むこともなく昔ながらのたたずまいを残している。屋敷の門を出るとしばらく田園地帯が続く。広々とした農園はさすがに人の手だけで管理しきれない。ところどころロボットが動きまわるのが見える。長い夏の盛りを迎えた今が露地物の収穫時期だ。肩にあたる部分に鳥を載せたままゆったりと野菜や果実をもぐロボットや、(うね)と畝の間を動きながら畑の手入れをする甲殻類型のロボットなどが見える。田園地帯を抜けると徐々に建物が増え始めた。対向車線をロボットバスやリムジンが走る。掃き清められた歩道を保育バイオロイドに手を引かれた幼子たちがにぎやかに歩く。サクラの乗った車がすれちがったとき、幼子の一人が空を指さして


「ぴかぴかね、お天気、ぴかぴか」


 と舌足らずに自分の手を引くバイオロイドに話しかけるのが聞こえた。広々としていて整然として和やかで、穏やかだ。

 市街地が近づいてきた。こちらも穏やかなたたずまいだ。ただ、ところどころ綻びが生じている。街並みの奥に崩れかけた古い建物がちらりと見える。景気が悪くなっている。スラムへの人口流入が年々多くなっているのは感じていた。仕事のある西の都市圏に辿り着く前にこぼれるように人々が海辺のスラムへやってきて居着く。その人々がどこから来るのか、サクラは幼い頃不思議に思っていた。ここもきっとスラムに流れ着く人々が元々暮らしていた街のひとつだ。街道沿いの空室の多いビル。売り家の看板。朽ちた門扉。気配というものは人がそこにいて初めて生じるものだとサクラは思っていた。実際には違う。人々の不在は無視しがたい濃厚な気配となって表通りを侵食し始めている。


 広々とした駐車場で車を降り、内藤に伴われて医師の診察を受けた。大きな手の形が浮き出た鬱血の痕に医師の表情が曇ったがそれも一瞬のこと、すぐにてきぱきと手当し、薬を処方した。

 診察室を出たところで内藤が少しためらいながら


「少々、お時間をいただきたいのですが」

「いいですよ」


 てっきり用を足すために離れるのだと思いサクラはうなずいた。それでは、と内藤に案内されて向かったのは病棟だった。大部屋の続くエリアを抜けて人々のざわめきが遠のき、個室のドアの前にサクラと内藤は立った。


「お母様のお部屋です」


 ノックに応えた女性の声は母親のものではなかった。付き添いの女性と内藤がそっと病室を出てサクラは母親と二人きりになった。

 サクラは静かに椅子に腰かけた。ベッドに横たわる母親の青白くやつれた顔をじっと見つめる。白い。薄いカーテン越しに陽の光が反射して散る。


――明るすぎる。


 厚いカーテンを閉めようと立ちあがったところで


「――サクラ」


 かすれた声が聞こえた。


「よく顔を見せて」


 言われたとおり顔を近づける。力なく閉じられた母親の唇から朽ちた植物のような、薬のようなにおいが漏れる。スラムの、サクラが育ったNK地区の水のにおいだ。


「こんなに健康そうになって――よかった、サクラ、あの街を出られて、ほんとうによかった」


 母親がしわがれた声を震わせる。


「でもおかあさんが――」

「おかあさんはいいの。でもあなたやミミちゃんはまだだいじょうぶ」


 サクラの頬を撫で、手を握り母親は言った。


「生きるのよ。諦めては駄目。生きていれば必ず――」


 震える手、震える声。娘の手を握るだけで痛みに襲われるはずなのに、


「――新しい世界で生きてちょうだい」


 母親は力強くそう言った。


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