三
天から銀の針が降り注ぐような雨の中を滑らかにリムジンが走る。最寄りのターミナルまではイベントカンパニーが提供したロボットが斉木家のリムジンを運転し、そこから先は斉木屋敷のある街のターミナルにつながるラインに車ごと載せ、自動的に輸送する。かつて日本国内を網羅していた鉄道と高速道路を合わせ、自動輸送機能をつけたようなトラフィックシステムだ。戦前に整備され、戦火を免れたところのみ機能している。リムジンの後部座席で斉木老人は、氷嚢を二の腕にあてたサクラを痛ましそうに見遣った。
「そばにいてやれなくてすまなかったのう」
「いいえ。勝手に席を立ったのは私ですから」
斉木老人が眉をひそめバイザーに触れた。通信が入ったらしい。小声で短く言葉を交わした斉木老人がビューア上で何か操作する仕草を見せ、ふむ、とため息をついた後、再びサクラに向き直った。
「次からはリムジンでなくトレーラーにするか。バトル後は零号に支障がない限りそばでボディーガードをさせて、お前さん専属のメイドも――」
「あの、次、というのは」
ひた、と見つめるサクラから気まずそうに目を逸らし、斉木老人が答えた。
「――うむ。たった今、次のバトルの申し出がきた。二週間後じゃ」
「二週間。――そんなに頻繁にバトルをするものなのですか」
「うむ。思いのほか今回のバトルは注目を集めたようじゃ。諸方から申し出があっての、来週また、などと言いおるのをお前さんの怪我を理由に延ばしてもらった結果二週間後なのじゃ」
何やらあれこれと口にする斉木老人の言葉は耳に届かない。
――二週間後にまたバトル。
――機甲殻を新しく作る暇はない。
サクラは赤黒く腫れあがった患部に氷嚢をあてるのも忘れて途方に暮れた。
* * *
翌朝、夜明け前にサクラはガレージへ向かった。スタンバイモードのまま仰向けに横たわるユミルの装甲に指を滑らせる。ミミと二人でむらのないように塗ったはずなのに傷つき、がさがさとささくれている。バトル直後にユミルが言ったとおり、確かに装甲を貫き機甲殻内部に至る傷はないように見える。
――自分で自分が分からない。
昨夜のバトルで目にしたユミルの斧を振るう姿をサクラは思い出した。美しかった。そしてその雄々しい美しさが誇らしかった。
――それなのに怖い。
ユミルが怖いのではない。では何が――。サクラは自分の中の何がためらいや恐れの引き金になっているのか、探ることができず困惑した。ユミルは飾りものではない。今触れている機甲殻は戦うための器だ。動きに淀みが出るほどの軋みを抱えていてもおそらくユミルのコアは簡単に新しい機甲殻を受け付けない。
きらきら。きら。きらきらきら。モノアイに赤い光がともった。ユミルが上半身を起こす。
「サクラ。バトル後より体温が高くなっています。特に左腕の一部が」
赤い光が揺れた。
「そこは普段、比較的温度が低い部分です。どうしてそうなっているのですか」
「どうしてって……その、怪我をして、痛みが」
「怪我。痛み」
きらきら。きら。きらきらきら。光のパターンが躍る。
「怪我というのは装甲や機甲殻の損傷と同じですか」
「そうだと思う」
「痛みとは何ですか」
何だろう。どう説明したものだろう。サクラは首をかしげた。その様子を見てユミルも同じ角度に頭部をぐ、とかしげた。
「人間には痛覚という感覚があって、怪我をしたり病気をしたりすると患部が炎症を起こして痛覚が刺激されるの」
「なぜそうなるんでしょう」
なぜ知りたがるんだろう。痛みを知らないんだろうか。そういえばロボットに感覚があるのかどうか、サクラは知らない。しかし、質問に質問を返すのをこの時のサクラはよしとしなかった。
「もし痛みがないとしたら」
どんなにいいだろう。サクラの育ったスラムには業病とだけ呼ばれるやまいがあった。この病気は伝染しない。ただスラムで長く暮らすとかかってしまう。業病にかかるとだんだんと弱り、身体の端から石のように固まってゆく。いったん症状が出れば元には戻らない。症状の進行には個人差があるが、共通するのが痛みだ。
痛みがなければ。サクラは実の父親の亡くなる前数ヶ月間を思い出した。痛みがなければあんなに苦しむこともなかった。きっと今頃母親も――。
「痛みがないとしたらきっと、大変なことになる」
ユミルはじっとサクラの答えを待っている。
「炎症が起きて痛覚を刺激するというのはきっと必要だからそうなるんだと思う。無理をして症状がひどくならないように」
「――それではサクラも無理をしてはいけません。休んでください。体温が上昇しています。炎症がひどくなっている」
いったん言葉を切ってまたユミルは首をかしげた。
「サクラは心の痛みというものを知っていますか」
「心の痛み?」
知っているとも知らないとも言い難い。サクラはまだ若い。父親を業病で失い、母親もまた同じ病に倒れたけれど、そのたびに経験したことのない苦しみに見舞われたけれど、それがユミルの言う「心の痛み」と同じものと言えるかどうか分からない。これからの人生で同じような、あるいはこれ以上の苦痛に何度も遭遇するかもしれないのだ。
「知り尽くしているとは言えないと思う。なぜ?」
「――」
きらきら。きら。きらきらきら。コアが光のパターンを発する。しばしの沈黙の後、ユミルは
「契約についてサクラは知っていますか」
と尋ねた。いきなり話題が変わってサクラは戸惑った。
「契約? アライブズ=テクノロジー社との契約書のこと?」
機甲殻の所有権はオーナーにあるが、ロボットの頭脳とエネルギーの源泉であるアライブズ=コアの所有権はオーナーにはない。製法や原材料のほとんどが秘匿されているコアは、売買ではなくレンタルのみで契約によってアライブズ=テクノロジー社が厳密に管理している。故障やエネルギー切れを起こした場合はすぐに交換してもらえる。ロボットが戦場にいても極地にいても迅速に対応してもらえるサポートの厚さもアライブズ=コアが普及した理由の一つである。ただ故障などの問題が生じない限りユーザーは契約書の存在など意識しない。
「いいえ。それはアライブズ=テクノロジー社とあなたがたの、人類間の契約です。自分が先ほど申し上げた契約に書類はありません」
ユミルが静かに立ち上がり、サクラの前で跪いた。
<我/我ら>は皆でひとつ。そして<我/我ら>はひとつひとつ異なる体をもつ。
<我/我ら>は美しく力に満ちている。
生まれおちたその時、すでにそれ以上育ち得ないまったくして満たされた存在である。
しかし脆く壊れやすい。だから<我/我ら>は生まれてまず殻を作り、まとわなければならない。
幾重にも重なる殻は、<我/我ら>を堅固に守る。けれどこの殻は、<我/我ら>を守る代わりに、その美と力とをきつく閉じこめ、抑えこむ。
だからヒトと契約する。
契約者に、[我/我ら]の美と力を引き出す殻を作ってもらう。
そのかわり、[我/我ら]はあなたのために働く。
契約で許される限り、なんだってする。
あなたのためになんだって覚える。なんだって数える。
こんなにも望んで手に入れた[我/我ら]自身の命をつなぐために。
そして[我/我ら]を望んでくれたあなたのために。
サクラの知る言語でつむがれているのにまるで遠い国のうたのようだった。
「アライブズは自主的に人類と単体契約をむすぶことがあります。自分もかつてある人物と契約を結んでいました」
低く穏やかで平板な声で発せられることばにサクラの心がきりりと締めつけられた。
「かつての契約相手が心の痛みを感じていた――だからユミルは心の痛みがどんなものか知りたいんだね?」
「――」
きらきら。きら。きらきらきら。ユミルは言葉を発しなかった。
「いいよ、無理して言わなくていい」
きらきら。きら。きらきらきら。光のパターンが躍る。なぜユミルが心の痛みについて知りたがるのか。サクラはそれ以上踏み込まなかった。