69. <氷竜王の寝床>
1.
「ここが……<氷竜王の寝床>か」
<第二軍団>の<施療神官>が思わず呟いた。
その目は、危険、寒さ、そうしたものに増して、美しい光景を見た賛嘆に溢れている。
ユウもまったく同じ思いで、目の前に広がる景色を眺めていた。
なんと形容すればいいのだろう。
遥か太古の氷河が、気の遠くなるような年月をかけて徐々に動き、やがて急な山肌で崩れ落ちる。
氷の滝とはよく言ったものだ。
見上げるような山肌を彩るかのように氷河が覆っている。
徐々に光を増した直射日光によって氷解が始まっているのか、白銀の大地が鈍い音を立てながら陽光を乱反射していた。
よく見れば、氷でできた滝の一つ一つを構成する塊は、<冒険者>であっても超えられないほどの巨大さだ。
現実の地球でも、ユウが覚えている限りではここは登山路でも屈指の危険地帯のはずだ。
巨大な氷塊が出口があるのかもわからない迷路を形作り、氷塊をはじめ周囲の山々からいつ雪崩が襲い掛かるかも分からない。
しかも。
セルデシアの<滝>に待ち構える危険はそれだけではない。
悪意を持って侵入者を殺そうと待ち構える無数のドラゴンたちの巣なのだ。
その向こうには竜の王が玉座にその身を横たえている。
「どうやって挑むんだよ、こんなの……」
誰かが呆然と呟いた。
<サンガニカ・クァラ>に何度も挑んだ過去の大手ギルドによって、<氷竜王の寝床>までのルートは確立されている。
問題は、ユウがアキバで訪ねた何人かのプレイヤー―過去、この地獄を突破した経験のあるレイダーたち―からの伝聞による以外、それらのルートを辿る方法がないことだ。
加えて、今の氷塊はゲーム時代のオブジェではない。
動き、溶け、流れる。
過去のルートが通用する可能性は限りなく低かった。
誰もが岩肌に立って呆然とする中、ティトゥスが呟く。
「経験もない。知識もない……分かってはいたが……」
彼の内心は、後悔と使命感の狭間にあったといっていい。
彼自身の中で、ユウに協力したことへの後悔はない。
ユウの行動はこの世界から脱出する、ひとつの手がかりを見つける作業であり、労力と得られるべき報酬とを比べれば相当に分の悪い賭けではあったものの、行為そのものに躊躇いはなかった。
彼の後悔は、それに16人ものギルドメンバーを付き合わせたことだ。
ティトゥス・フラヴィウスは軍団長である。
ユウのような一<冒険者>と違って、彼の決断は仲間たちの運命を決すると、彼は常々思ってきたし、
それは寄る辺のない放浪を続ける彼の仲間たちにとっても同様だった。
混乱する<七丘都市>で生き延び、そこから新天地を目指すことを決めたときも。
<花の都>などのほかの都市が、決して楽園でなかったことを知り、ヨーロッパからの脱出を決めたときも。
噂で唯一新パッチのあたった、ヤマトへ向かうことを決めたときも。
彼は、常にギルドメンバーに諮り、最善と思われる手を打っていた。
今回もまた、彼にとっては最善の手だ。
新パッチが部分的に当たっている可能性のある、最高難易度のダンジョンの奥に向かう。
たった一人でそれを為そうとする、友人といってよいかもわからない異国の<暗殺者>を見たとき、
彼は半ば無意識のうちに協力を約してしまったのだった。
だが、ギルドメンバーはそうではない。
リーダーが今回も自分たちのために動いてくれる。そう信じればこそ、
<大地人>の悪意ある提案にも応じ、また今、勝ち目のない大規模戦闘に従ってくれている。
だが、それはギルドメンバーにとっては、本当に最善の手だったのだろうか。
彼らは華国へ向かわせ、一人ユウと共に行くのが本当の最善手ではなかっただろうか。
その思いは、目の前に広がる<氷竜王の寝床>を見て、さらに強まっていた。
無言で懊悩する軍団長を、<第二軍団>の<冒険者>たちは黙って見ていた。
彼らも、理性ではどんなわずかな手がかりでも、現実に帰還するためならば挑むべきとは分かっている。
彼らもまた、戦闘を生業とするプレイスタイルを続けてきた男たちなのだ。
だが、同時に無意味な死を遂げることの愚かさもまた、生理的な恐怖と共に理解していた。
命の代わりに、死が自分たちの記憶のいくばくかを奪っていくことを知っていれば、尚更に。
ギルドマスターを信じる心とは別に、彼らの中にはユウへの反感も確かに生まれていた。
敬すべき軍団長を惑わし、死へと向かわせる死神。
ユウが白い毛皮のマントの下に着込んだ異国の防具―黒い忍び装束ともあいまって
かすかな敵意は彼らの中に小さく、だが着実に育っていた。
「……少し降りて、ドラゴンどもに気づかれないところでキャンプする。
そのとき、改めて決めよう。 ここから進むか、それとも退くかを」
悩むままにそう告げたティトゥスに、男たちは熱意の少ない声で応じたのだった。
◇
その日の夜。
ユウは一人、再び<氷竜王の寝床>の前に立っていた。
ティトゥスの懊悩、仲間たちの反感、それらはユウにも理解できる。
いくら無限とはいえ、自らの命を危険にさらすのだ。
せめて十分納得できる形で晒したいと思うのは、どんな生物でも思う自然な考えだ。
ユウ自身が『ついてこなくてもいい』と言ったことはこの際、関係がない。
結果として彼らがついて来て、ユウがそれを認めた以上、彼らの死はユウの責任なのだ。
だからこそ。
ユウは静かにマントを被りなおすと、とん、と大地を蹴った。
重力などないかのように、<暗殺者>の体が宙を舞う。
並の人間の3倍はあろうかという巨氷の上に立ち、彼女は静かに耳を済ませた。
雪原のそこかしこから、竜たちの寝息が聞こえる。
彼女は黙って、全身に降りかけた<消臭>の毒を改めて頭から被った。
軽い状態異常である<かぶれ>の効果を持つエルベ草に、<粘性草>という光合成をしない植物系モンスターの葉を調合したものだ。
ユウが生物である以上、どうしても生物臭からは逃れられないが、
この毒と白いマントで、少しは竜たちの鼻目を逃れられる筈だった。
(大丈夫だな)
ユウは再び飛ぶ。
無秩序に顔を出す巨大な氷塊を伝うかのように、彼女は星々の下を駆ける。
(懐かしいな)
ふと、彼女の心に遥か前の光景が思い出された。
<大災害>に巻き込まれて間もない頃。
ユウは氷ではなく、朽ち果てた現代建築の合間をこうやって飛んだ。
心に巨大な怒りと無力感を抱えながら。
そんな彼女を地に打ち倒したのは、アキバの<冒険者>の代弁者として立ち向かった、旧友たる黒衣の騎士だ。
彼の大剣と言葉が、ユウの中の怒りや絶望を部分的には切り払ってくれた。
その代わりに彼から受け取ったものの為に、ユウは今、一人雪原を飛んでいる。
随分と会っていない、その懐かしい友人の顔が、<氷竜王の寝床>の下で眠っているであろう、白銀の騎士の顔とオーバーラップした。
(嗚呼、だから彼の提案に乗ったのか)
以前一度戦っただけの間柄であるその騎士を、ユウが自分でも意外に思えるほどに信頼している理由が、彼とクニヒコが似ていたからだということに気づき、ユウはふと笑った。
彼女の足が音もなく次の氷を蹴る。
氷竜王の玉座までは、まだ遠い。
2.
唐突にそれはユウの目の前に現れた。
迷路を文字通り跳び越した彼女の前に、黒々と蟠る影がある。
まさに王の謁見の間のように、ひときわ大きな氷台に巨大な肢体を乗せ、とぐろを巻くかのように氷竜王は眠っていた。
寝息に合わせ、吐息が小さな吹雪となってその口元に落ちている。
ユウは改めて幸運に感謝した。
<消臭>の毒をありったけ振りかけたとはいえ、自分のいる場所が風上であったならば、レイドボスである氷竜王であれば気づいたかもしれない。
だが、彼女は風下だ。
むわっとした爬虫類独特の臭気が鼻につくものの、それ以外は奇襲には完璧と言えた。
ユウは腰の刀をそのままに、<暗殺者の石>から一振りの弓を取り出す。
取り立てて特殊能力があるわけでもない、頑丈なのとダメージが大きいことだけがとりえの弓だ。
そこに矢を番え、ユウは静かに風を測った。
「<サイレントスナイパー>」
吐息のようにかすかな声が、その唇からあふれ出す。
一瞬。
風がやんだときを狙い、ユウの手から矢が放たれた。
その時、かすかな風切音に気づいたか、ふっと氷竜王が顔を上げた。
(まずい!)
だが、その瞬間、ユウを幸運が味方する。
ふわ、と吹いた風に煽られた矢が、突き刺さる筈だった鱗ではなく、偶然に氷竜王の爪と鱗の隙間に突き刺さったのだ。
「GU」
警戒の咆哮は一瞬、暗がりにも分かる程にびくびくと痙攣し、氷竜王がズジャ、と氷に倒れこんだ。
その時には既にユウは跳んでいる。
凍りついた足場を進み、見上げるような高さの竜王の鱗を足がかりに、彼女の小さな体は駆け上る。
<痙攣>の毒の効果時間は短い。
今のうちに追撃をかけなければ、一旦飛び上がって雄たけびでも上げられたらお仕舞いだ。
ユウは邪魔なマントを脱ぎ捨てた。
ひらひらと舞い落ちるそれを一瞬踏み、ユウが更に上昇する。
彼女の得意技である<ガストステップ>だ。
その勢いを殺さぬまま、ユウは既に仕舞った弓ではなく、右腰の<蛇刀・毒薙>を抜き放った。
交差。
ユウの<ヴェノムストライク>が氷竜王の巨大な水晶のような片目を、血の吹き零れる空洞へと変える。
続いて空けていた片手で<ペインニードル>。
重ねて叩き込まれた<痙攣>の毒が、起き上がろうとした氷竜王を再び地面に打ち倒した。
周囲から蠢く音がする。
王に襲い掛かった刺客に、ほかの竜たちが気づくまで時間はない。
そして、ユウはもとより時間をかけるつもりなどなかった。
氷竜王は大規模戦闘級のボスではあるが、他の同業者と比べて明らかに弱い点が二つある。
それは、氷を除いた状態異常耐性の低さと、他のボスより桁一つ少ないHPだ。
時折、偏執的な迄に<冒険者>を拒むダンジョンを作る―<神峰>もそのひとつなのだが―アタルヴァ社にしては常識的なことに、氷竜王はレイドランクとはいえ、『レイドでなければ倒せない』という類のボスではなかった。
だがそれもこれも、他の竜が殺到しなければこそだ。
彼らが戦場にたどり着き、ユウに向かって竜の吐息を吐いた瞬間、ユウの挑戦は終わる。
ユウは<毒薙>で更に追撃を加えつつ、片手で残る刀を抜いた。
<疾刀・風切丸>は、元々が<幻想>級の武器だ。
その特性は『所有者の敏捷度を上げる』というもので、そもそもが攻撃用というより身体強化型に属するものの、攻撃力は他の<幻想>級装備に一歩も引けをとらない。
「<アサシネイト>」
逆手で振りぬかれた青い刃が削り落とした氷竜王のダメージは、約15%。
彼女の<アサシネイト>が叩き出すダメージを考えると、氷竜王の残りHPは約6万弱。
他の竜が異変を察知して駆けつける前に、氷竜王に一切の攻撃を許さず、その6万を削り切る。
迷いも怯えも恐れも忘れ、ユウは空中でもう一度、<毒薙>を振り抜いた。
◇
遥か下では、ティトゥスをはじめとする<第二軍団>が、氷床の彼方をじっと見つめていた。
距離があるため、音や光はおろか、微細な空気の揺れすら伝わってこない。
「ユウ……」
呟くティトゥスの顔を、一人の仲間が覗き見る。
彼の顔は『助けに行きますか?』と告げていた。
そんな仲間に、ティトゥスはゆっくりと首を振る。
「俺たちが行けば、竜たちを呼び起こすことになる。 全員、待機だ」
そう言いながらも、ティトゥスは友人が戻ってくるまで、天幕には戻らないことを決めていた。
◇
ユウは巨獣にたかる蝿のように、打ち続く毒に痙攣する氷竜王の周囲を飛び跳ねていた。
氷竜王のHPは残り3万弱。
わずかな時間で、たった一人の<冒険者>が削ったにしては特筆すべきダメージ量だ。
だが、周囲は既に濃密な殺気に包まれている。
あちこちで首をもたげた竜たちが一斉に襲い掛かってこないのは、異変の場所が自分たちの王の御座所だと気づいていないだけに過ぎない。
(あと何秒だ!)
内心で狂おしいほどに焦りながらも、ユウの腕はあくまで冷静だ。
毒の効果時間を秒単位で測って<デス・スティンガー>。
度重なる毒に再び竜王が倒れ伏すのを見計らい、翼の付け根に飛び上がって<フェイタルアンブッシュ>。
既に竜王の目は二つとも失われ、鞴のような吐息は意味もなく誰もいない場所へ吹雪を降らせていた。
ユウは時間を経るごとに、わずかずつであるが毒が効いている時間が短くなることに気がついた。
(耐性をつけている!?)
ゲームであればありえない状況に、ユウの内心は更に焦りを加える。
それが一瞬の油断を招いた。
「……っし、まったっ!」
短剣を放とうとしたユウの足がずるりと滑った。
雪と血で、氷竜王の鱗の上は極めて滑りやすくなっていたのだ。
慌てて飛ぼうとするが、一旦バランスを崩した体はいうことを効かない。
なすすべもなく滑落した彼女に、戦いが始まって始めて、麻痺と痙攣から逃れた氷竜王が、大地も裂けよとばかりの轟哮を上げた。
「しまった……!!」
雪原のあちこちから、応じるような叫びが響き、いくつもの黒い影が空に浮かび上がるのが見える。
竜たちがどれほど氷竜王に忠誠を誓っているか知らないが、ことこうなってしまえば悠長にHPを削っている場合ではない。
氷に全身を叩きつけられ、息が詰まったのも一瞬のことで、ユウは<毒薙>を握る片手だけで全身を跳ね上げる。
その時、壮絶な悪寒がユウの全身を包んだ。
たとえて言えば、機銃の正面に立ってしまった歩兵が今際の際に感じるような。
恐怖と嫌悪に鳥肌が立つ中、どこか『休んでいいぞ』と言われたような甘美な感覚だ。
上を見上げる。
そこには、目を失ったはずであるのに、氷竜王の巨大な顔が、口を大きく開けて見下ろしていた。
「ヤバ、い」
萎えそうな足をかろうじて動かし、ユウの全身が横っ飛びに飛ぶ。
だが。
残した左足だけは、憤怒と共に放たれた<氷竜王の凍てつく吐息>から逃れることはできなかった。
◇
氷原に轟音が轟いた。
聞いた者の鼓膜を消し飛ばすような音の正体を、<第二軍団>の誰もが悟っている。
「氷竜王だ……」
思わず、といった調子で呟いた<海賊>の男の声が、一行の恐怖を如実に表している。
そして呼応するようないくつもの叫び声。
どこかで、音に反応した雪崩が落ちる音も聞こえる。
星によってうっすらと明るい氷原の向こうが地獄であることに、この場にいる誰もが気づいていた。
そして、そのど真ん中で戦っている<冒険者>がいることも。
「ユウの奴……死んだのか」
「軍団長! ここも危険です! どうします!?」
呟くティトゥスの肩を仲間の一人が掴んだ。その顔は恐怖でまだら模様になっている。
「竜達、ユウを殺したら確実にここへ来ますよ! 今のうちに決めましょう!
進むか、戻るか!!」
必死なその男に、ティトゥスは奇妙に無感動な目を向けた。
その口が動き、何かを告げようとする。
その瞬間、再び咆哮が轟いた。
先ほどに勝るとも劣らない、巨大な叫び声だ。
それを聞いた瞬間、ティトゥスのモノトーンじみた瞳に光が宿る。
「まだ、戦っている」
主語を抜いた軍団長の言葉を、仲間たちは絶望的な顔で見つめた。
付き合いの長い男たちだ。 こういった場合、自分たちのギルドマスターが何を言うか、もはや聞くまでもない。
そしてなんだかんだと不満を溜めつつも、それに従ってしまうこともまた、
16人の<冒険者>は分かっていたのだ。
「<第二軍団>……俺は」
「あーっ! しゃあねえなあ!!」
「軍団長、フォーメーション組みますよ。戦士職は前へ!」
「後衛、呪文使いすぎるな! 炎系は正面に打つなよ!」
「音は立てるな!」
「お前ら……?」
てきぱきと動く仲間たちを見て、再びティトゥスが目を瞬かせた。
そんな軍団長に、どこか疲れたような顔で<妖術師>の男が苦笑する。
「まあ、乗りかかった船です」
別の男も肩をすくめた。
「どうせ死んだら麓に帰れますし。下りの道を通るのもぞっとしません」
「確かに俺たちがここで死ぬ主原因はあのユウと軍団長、あんたですけど。
他の仲間と別れてこんなところまで来てしまった以上、行動の責任は個々にあります。
無理にあんたが気に病むことじゃない」
口々に言う仲間に、黙ってティトゥスは頭を下げる。
「すまん、みんな。俺がこの世界でわがままを通すのは、この冒険が最後だ」
「じゃあ、軍団長のわがままに今回だけは付き合って、後の凱旋の時に盛大におちょくりますから、そのつもりで」
<施療神官>の言葉に、ティトゥスは再び頭を下げると、ぐっと姿勢をそらした。
その姿に、フォーメーションを組みなおした<第二軍団>の全員が口を閉じて背筋を伸ばす。
対人家の集団であると同時に、古代ローマ趣味を貫く趣味人である彼らは、過去のローマの将軍たちすら満足するだろう真摯な姿勢で、自らの軍団長を仰ぎ見た。
「<第二軍団>、進軍開始! あの<氷竜王の寝床>を突破するぞ!」
「応!!」
指し示された<女王の拘束>の切っ先を見据えて、<冒険者>たちは竜に負けじと雄叫びを上げた。
◇
「ぐう……!!」
ユウは絶望的な表情で、凍りついた自らの左足を眺めた。
ぱきぱきと、かすかにひび割れる氷によって、膝から下は完全に包まれ、
股間から足の先まで感覚がない。
ステータス画面には『移動阻害』の状態異常を示すアイコンがくるくると踊っていた。
ユウは、なかば雪に埋もれながら、自分を探す氷竜王の巨体を見上げていた。
雪に包まれたのが幸いしたのか、視覚を失った巨竜はいまだユウを再発見できていない。
だが、このままでいる限り勝利は決して訪れない。
凍りつくような寒さに思考力を鈍らせた彼女の頭に、ふと過去の情景がよみがえった。
『俺はお前だぞ、ユウ。お前は死ぬかもしれないからって、いちかばちかの勝負に挑まないほどの臆病者なのか?』
自分とまったく同じ顔、同じ装束をまとった、ある鏡から生まれたモンスターの声だ。
彼女は、自分より遥かに強い竜と<竜使い>を、どのように倒したか。
(そうか)
見つからないことに業を煮やしたのか、大きく翼を羽ばたかせた氷竜王を見て、ユウは思わず微笑んだ。
ユウは、静かに体を起こした。
目の前の盲目の竜が飛ぶかどうかはわからない。
だが、氷竜王も馬鹿ではない。
翼を持たない小さな生物を絶望に突き落とすにはどうするか、考えるだろう。
まさにいちかばちか。
(分かってはいたが、私はどこまでもそういう戦いに縁があるらしい)
一瞬にも満たぬ間、顔をほころばせ。
ユウは凍りついた足に叩きつけるように爆薬を地面に向けて投げた。
周囲と異なる爆音が響いた。
顔を向け、氷竜王は小癪な敵を見つけようと耳を澄ませる。
かすかに、空気の揺れる感覚が、彼の鋭敏な五感に捕らえられる。
だが、彼が怒りに任せて腕を振るうより先に、小さな敵は彼の背中へへばりついていた。
ご丁寧にも、彼を切り刻んだ忌々しい金属を背骨の真上に突き立ててだ。
氷竜王は今度こそ激怒した。
地を這いずる生き物の分際で、天空の覇者たる氷竜王にこれほどまでの痛みを与えた、その報いを受けるべし、と。
ばさりと大きく翼が波打った。
首をひねって自分を噛み砕こうと迫る竜王の顎から逃れるべく、首の付け根から徐々に体を動かしながら、ユウは自分の賭けが半分成功したことを確信する。
痛みに耐えて、まるで解体するように切り刻む刀によって、竜王のHPはもはや2万に近いだろう。
残り僅かといっていいが、かといって瞬時に削りきれるほど少なくもない。
(だからこそ、手伝ってもらう!!)
羽ばたいた竜王をようやく視認したらしい竜たちが向かってくるのを見ながら、ユウは叫んだ。
「飛べ!! 氷竜王!!」
ばさりと翼が広がった。
浮き上がった巨体が、次の瞬間には一直線に天空へと向かう。
急激に薄くなる酸素と、全身を包む気圧の変化に半ば吐き戻しながらユウは必死でしがみついた。
「<フェイタルアンブッシュ>! <ステルスブレイド>!!」
十分に溜めを作っての一撃、更には後方からの攻撃で威力を増す一撃。
何がステルスだろうか、と苦笑いするうちに、更にHPを削られた竜王が咆哮をあげながら天に昇る。
やがて、ユウがほとんど意識を失いそうになった時、氷竜王は遥か数千メートルの空中にいた。
「綺麗だ……」
死地であることを一瞬忘れたユウの目が、眼下の大地、そしてわずかに弧を描いた地平線を見る。
天には、手の届きそうな位置に星がある。
そして彼方に、ユウが目指すべき<神峰>の頂上が見えた。
その瞬間、ユウは紛れもなく、この世界の最高峰にいた。
過去、どんな<冒険者>も<大地人>も見たことがないであろう、それは空恐ろしいまでに美しく、畏怖すら覚える光景だった。
そんな中、ユウの目が思わず見開かれる。
圧倒的な白に包まれた神々の峰のその頂上。
そこに、小さな建物がある。
ほんの小さな、まるで山小屋のような大きさの、古代ギリシャ風の白亜の建物だ。
<冒険者>や<大地人>の建築では、あり得ない。
「あそこが……!!」
目的地。
ユウがそう口の中で囁いたとき、不意に世界が反転する。
氷竜王が急降下に入ったのだ。
そしてその一瞬こそ、彼女が求めていた時間だった。
「<アサシネイト>!!」
血しぶきすら凍る中、半ば切り開かれた竜王の脊椎に青い刃が突き刺さった。
残り、HPはわずか。
続けて引き抜いた<疾刀・風切丸>が再び氷竜王の脊髄を割る。
竜王がよろけた。
彼の意思に反し、その巨体は錐揉み状になって落ちていく。
最後のあがきとばかりに、竜王は首を振り、<暗殺者>へと向かう。
そのHPバーを見据えて、ユウは<風切丸>を支えに、もう一本の刀を振り上げた。
その刃がリィィン、と強く鳴り、緑の光が純白と赤に染まった巨体を緑に染め上げる。
「<スウィーパー>!!」
叫びと共に、緑の輝きは星すら圧するほどに輝き、そして、轟音を立てて大地に落下したのだった。
◇
天に昇る氷竜王の姿は、氷河の上で竜たちと戦う<第二軍団>にも良く見えた。
その姿が緑に輝くのを見て、ティトゥスは莞爾と笑う。
「やったか……ユウ!」
その白銀の鎧を、氷竜の一撃が打ち倒した。
足場にしていた氷塊を割る勢いで、軍団長の体が沈む。
もはや、状況はレイドと呼べるものではなかった。
虐殺だ。
あちらこちらで<第二軍団>の戦士たちが絶叫を上げ、あるいは吹雪によって叫ぶ間もなく死んでいく。
(俺たちは全滅した)
ティトゥスは、自らの全身からうっすらと光が立ち上るのを見ながら心の中で呟いた。
次に意識を取り戻す時、そこは氷原ではなく、あの孤高の華国人が一人守る、かつて山麓都市と呼ばれた地になるだろう。
(結局、俺たちはお前の手助けはできなかった……お前と会うのもこれで最後かもしれない……だが)
意識が途切れかけるのを感じ、ティトゥスはゆっくりと目を閉じる。
他の仲間がもはや誰も残っていないことを確認して。
(お前は行けよ……行って手がかりを掴んでくれ……ユウ)
もはや動く人間のいなくなった<氷竜王の寝床>。
そこには、かつてもこれからもそうであるように、戦いを終えた竜たちの叫びが木霊していた。
自分で書いててなんですが、ユウ、これ生き延びてたらおかしいですよね。
まあ、理由があって生き延びていますけども。
なお、作中で<第二軍団>の施療神官が言っていた「凱旋の時存分におちょくる」というのは、実際に古代ローマの凱旋式の時に行われた風習です。
将軍には絶対服従が掟のローマ軍団兵ですが、凱旋の時だけは自分たちの将軍を存分に野次り倒すことができたとか。
有名なところでは、ユリウス・カエサルの凱旋に際しての兵士の叫び、
「男たちよ! 妻を隠せ! ハゲの女たらしが通るぞ!!」
というのが有名です。
実際カエサルはハゲ隠しに髪型に気を使いつつ、人の奥さんも平気で寝取る、私生活ではかなりろくでもない人物だったようで。




