68. <神峰>
1.
それは、この星を動かす巨大な力の顕現だった。
かつてテティス海と呼ばれた、何億年も前からあった海を押しつぶし、それだけにとどまらず押し上げ、
ついには天高くそそり立たせた、巨大な星の力の痕。
そうであると同時に、ここは遥か太古、神代のさらに昔から、仰ぎ見る生物たちに何がしかの感情を与えずにはおかない場所だった。
ある者は、怖れを。
またある者は、畏敬を。
別のある者には、挑戦意欲を。
ここはセルデシアきっての秘境、<サンガニカ・クァラ>。
その中にあって、無力な―まさしく無力な―地上の生き物を睥睨する神の峰。
<神峰>デヴギリだ。
まだ<エルダー・テイル>がゲームであった頃、歴戦のレイダーたちすら二の足を踏んだ、ハーフガイア世界最大、最後の大ダンジョンだ。
その複雑な構造、立ちはだかる敵たち、それらもさることながら、このダンジョンを最大最高たらしめていたのは、この場にいるだけで引き起こされる数々の状態異常だ。
<極寒>はHPを瞬く間に削り落とし、<高山病>はMPやHPの自動回復を無効にする。
<頭痛>はMPを奪い、<窒息>がHPを赤く染める。
酸素マスクも、地球の登山家が持つさまざまな設備もない。
山に慣れた案内人や、先人たちの残した遺産があるわけでもない。
絶え間ないダメージに苦しみつつ、<冒険者>に出来るのはひたすら戦い、前に進むのみ。
<神峰>。
まさしく神々しか到達を許されない、そこは白銀の地獄だった。
◇
「みんな! 無理をするなよ、小刻みに休もう」
雪が永久氷床と化した原野を歩きながら、ティトゥスは振り向いて言った。
叫ぶことはしない。
酸素を無意味に使うことは避けるべきであるし、そもそも彼らが歩く雪原はすでにゲームの背景ではない。
声によって雪崩が起きることは、登り始めて二日目に既に学んでいた。
後ろを歩く<第二軍団>は既に疲労しきっている。
彼らの誰もが、高山に登った経験を持っていなかったのだ。
加えて、雪虎、雪豹、雪巨人、氷竜など、高レベルモンスターによる絶え間ない襲撃。
資材こそ、フーチュンたち華国の<冒険者>に潤沢に渡されているものの、決して楽観できる状況ではなかった。
「……これ以上の進撃は無理だな」
肩を貸しあう仲間たちを見て、ティトゥスは呟いた。
彼の顔もまた、疲労の色が濃い。
隣でかじかむ手で地図を持っていたユウも頷く。
「ああ。この探索はタイムアタックじゃない。無理は避けよう。
……出来れば今日中に<氷竜王の寝床>の入り口までは行きたかったが」
「今の状況じゃ、氷竜王なんぞに当たったら一撃だ。山に慣れるほうが先だ」
咎めるような友人の言葉に、軽く頷いてユウはくるくると地図を丸めた。
マヒシャパーラの王宮に遺されていた、<サンガニカ・クァラ>の詳細な地図だ。
目印とてない氷の原野で、彼女らが曲がりなりにも目的地に向けて進めるのは、この地図あればこそだった。
「よし、野営だ」
軍団長の指示に応じて、のろのろと<冒険者>たちが動く。
枯れた木から薪をとり、<火蜥蜴>で燃やし、吹きすさぶ烈風を避けるように天幕を張る。
湯を沸かし、ブロックのような形の味のない食事を並べ、リンゴやいくつかの果物を取り出す。
天幕に分かれて風を避け、18人はそれぞれ屋内で暖かい白湯でのどを潤した。
味のない食事を乾燥肉で飲み込み、リンゴをしゃりしゃりと齧り、
その間にも湯はたっぷりと飲む。
「高山では体内の水分がすぐに尽きる。湯はいくら飲んでも飲みすぎないからな」
いっぱしの登山家めいたことを言う<第二軍団>の<妖術師>の言葉通り、ユウたちはひたすらに食事をかき込み、水分を補給した。
やがて、食物を咀嚼する以外の用途にユウたちが口を使ったのは、
既に天幕の外が真っ暗闇に落ちた頃だった。
「あと、どのくらいで<氷竜王の寝床>だ?」
「このペースだと……そうだな、明日の昼前につくくらいか」
「氷竜王はいると思うか?」
ティトゥスの声は硬い。
氷竜王とは、<神峰>デヴギリに登るための最初の関門とも言われるボスモンスターだ。
最初の、と言われているがその強さは90レベル、<大規模戦闘級>。
並みのダンジョンであれば、いや、それなりのダンジョンであっても最終ボスを飾れるくらいの強さである。
<冒険者>たちが複数の状態異常に苦しみながら戦うことを思えば、実際の強さはさらに上といっても過言ではない。
「そうだな……特殊クエストで離れていることはあるが、基本的にゾーン固定のボスだったと思う。
いる、と見たほうが無難だろう」
ユウの暗い予測に、周囲のティトゥスの仲間たちが揃って暗い顔になった。
「抜けられると思うか?」
「このダンジョンは基本的に大隊規模戦闘専用だ。
とはいえ、氷竜王自身は大隊じゃなく中隊で倒せるはずだ。
私の毒がどこまで利くか、だな」
彼らの唯一の好材料が、ユウの毒だ。
ゲーム時代ではあり得ない、彼女のオリジナルの毒は、今まで氷竜王と同レベルのモンスターでさえ一匹といわず沈めている。
考え込むユウは、言葉を選ぶようにぽつぽつと言った。
「私は<痙攣>の毒を持っている。これをまず、まとめて矢にくくりつけ、<第二軍団>の弓手によって打ち込む。
動けなくなったところを、残る連中で狩ろう。
逃げそうになったらティトゥス、あんたに頼む」
いかなる敵も縛り付ける<幻想>級の大剣、<女王の拘束>を持つティトゥスが静かに頷いたのを見て
ユウは繰り返すように言った。
「重ねて言うが、先手を取ることが重要だ。弓使いには準備してもらうが、場合によれば私が単独で忍び寄ってしとめる。
まだデヴギリは遠いんだ。こんなところでやられてはいられん。そのためにも、みんなに徹底してほしいことがある」
「なんだ、ユウ」
ユウは、返事を促す仲間たちの視線を一人ひとり眺めわたし、静かに告げた。
「ここで死んだらマヒシャパーラに戻るはずだ。そのときはそのまま<大神殿>で待機していてくれ。
わたしを除き、全滅したらそのままヤマトに向けて発ってくれ。
わたしを待つには及ばない」
「……」
「クレバスや崖から落ちて、動けなくなったときも同様だ。
すまないが、助けることは出来ないと思う。
そのときは自害するなりなんなりして、マヒシャパーラに戻ってくれ」
「お前が死んだらどうする?」
「わたしはまた挑む。これはわたしのクエストだ」
ユウの言葉に決意を感じ、天幕の5人は頷いた。
もとより、彼らにデヴギリに登る強い思いがあるわけではない。
あくまでこのクエストの主役はユウ、自分たちは彼女の道を地ならしする存在。
そうティトゥスも、仲間たちも定義しているのだ。
「山で死ぬのは辛い、というからな」
「俺は酒をありったけ飲んで凍死するさ。そっちのほうが楽そうだ」
陰惨な話題を口々に言う。
そんな仲間たちを見て、ティトゥスも口を開いた。
「分かった。約束しよう。だがユウ、お前が死ぬのは最後だ。
そのために俺も、<第二軍団>も、遠慮なく見捨てて先に行け」
「もとより、そうするさ」
苦笑して、ユウは天幕の一部をあげた。
「見張りしてくる。深夜に交代頼む」
「ああ。気をつけてな」
「わかった」
2.
外は身も凍る、という陳腐な形容詞が冗談に聞こえるほどの寒さだった。
吹き荒れる風が、実際の気温以上に体感温度を下げる。
早速ステータス画面に灯った、<極寒>の文字を手にした酒で洗い流し、ユウはあたりを見やすい、それでいて風を避けられるような岩肌の影に身を隠した。
頭上は満天の星空だ。
アキバで見上げた、あるいは華国で見上げたそれ以上に、天に近い場所だからか、星々は瞬きもせず、鮮やかな銀色で見上げる<暗殺者>を睥睨している。
「月並みな言葉だが、綺麗だよなあ……」
思わず声が漏れ、ユウはばつが悪そうに辺りを見回した。
彼女の役目は見張りだ。星に気を取られて、近づくモンスターを見つけられませんでした、では笑い話にもならない。
一人苦笑して再び空に視線を向けたユウは、月の見えない夜空に、星を隠す影が動いていることに気がついた。
「あれは……!?」
巨大な影だ。
長く伸びた首、天を覆うような翼。打ち振るわれる尾。
かつてヤマトで戦った、いかなるドラゴンより巨大な、それは竜の影だった。
「氷竜王……」
<サンガニカ・クァラ>広しと言えど、ユウがいるあたりを飛び回る巨大な竜が他にいるはずもない。
おそらく気づいていないのだろう、悠然と空を横切る影に気づかれないように、ユウはその飛影を見つめ続けた。
あれが、<神峰>最初の関門。
氷竜たちの帝王。
自分が戦えるのか。
ユウは、レイダーではない。対人家だ。
人と戦うための技を鍛えたのであって、巨大なモンスターと戦うのは本来、専門違いなのだ。
それは<第二軍団>にしても変わらない。
個人では大規模戦闘に参加している者もいるだろうが、あくまで彼らは対人戦の為のギルドなのだ。
いまさらながらに恐怖心があふれ出す。
ここから逃げてしまおうか。
みんなを誘って、マヒシャパーラまで。
そう、ユウの中の怖気づいた部分が囁く。
それほどまでに、はじめて見た氷竜王は威圧的で、幻想さながらの荘厳さに満ちていた。
ユウは結局、戻ってこないことを心配した仲間が呼びにくるまで、
動くことも出来ずに竜王の消えた方角を見つめ続けていた。
◇
翌日は快晴だった、
ありがたいことに、風もほとんどない。
ユウたちは、雪による日光の照り返しを目に受けないよう、目深にフードを下ろしながら、ゆっくりと歩き、やがて広々とした氷の平原にたどり着いた。
頭上を竜たちが乱舞し、遥かかなたには昨夜飛び去った、白い巨体が静かに鎮座している。
<氷竜王の寝床>にたどり着いたのだった。




