66. <聖域の闇>
1.
「宮殿に行くなら、案内するがね」
「誰だ」
そういって闇から浮き出るように現れた男に、鋭くティトゥスが誰何した。
その横で、ユウも油断なく刀を構えながら、現れた華国人風の男を見る。
男はすらりとした長身を皮の鎧に包み、腰には一見して業物と思える刀を差していた。
ステータス画面に表示される文字は、中国語。
ユウたちの誰も読めないが、そこに記されたアラビア文字の「90」は分かる。
レベル90の<大地人>など、<古来種>かプレイヤータウンの衛兵以外にいるはずもない。
<冒険者>に間違いなかった。
「名を聞こう。あいにく俺たちの中で中国語が読めるやつは一人もいないんでね」
「ヤンガイジ」
呟くように告げた名前が、ユウの中で一人のプレイヤーの顔と重なった。
レンインを後ろから切りつけた、<黒木崖>での戦いで見た<剣士>を。
「ヤンガイジ! <日月侠>の副教主か!」
「そういうお前には見覚えがあるぞ。あのときの日本人だな。お互い変な場所で会うものだな」
「ティトゥス、こいつは<日月侠>、華国最大のギルドを私物化し、暴君として君臨していたという男だ。
華国を追放されたと言っていたが、こんなところにまで流れて来ていたとはな」
ユウの言葉にヤンガイジが苦笑する。
「おいおい、ひどい紹介だな。大体俺の悪行を言うなら、お前はどうなんだ。
エルフの蛮族やらゴブリンやらをけしかけて、華国に攻め入った大悪人じゃねえか」
「それで、そのヤンガイジが我らに何の用だ」
「案内してやる、と言っている」
やけに静かに、ティトゥスに答えたヤンガイジは、誰もいないのに後ろを振り向いてせせら笑った。
「あの布告人に何を吹き込まれたか知らないが、事実は小説より奇なり、だ。
見せてやる。……この国の本当の状態を」
2.
東西南北に7キロ程度のいびつな正方形をしたマヒシャパーラの街は、その市街を南北に区切る道路によって、大きく碁盤状に区分けされている。
<大地人>の王が住む<新宮殿>に向けて走るユウは、前を行くヤンガイジに遅れないようにしながらも、闇に包まれた街路をきょろきょろと見回していた。
朽ち果て、スラムと化したかつてのトリブバン国際空港を正方形の一辺とするならば、
南はパタン、北はボダナート、西は、現実のカトマンズではバックパッカーや登山者が集まっていたタメル地区あたりまでがセルデシアの<マヒシャパーラ市>だ。
王の住まう宮殿はかつてのネパール王家の宮殿の跡に建てられており、周囲には王軍の駐屯所の他、
<布告人>の邸宅や貴族の館が取り巻いている。
ふと、ユウはひとつの屋敷に目を留めた。
彼方に見える王宮よりも更に豪壮なその邸宅は、門は金箔で飾られ、屋根は油の塗られた瓦で葺かれているようだ。
王宮よりも王宮らしいその館に目を留めた彼女に、振り向いたヤンガイジが笑って教えた。
「そこは、カトマンドゥ公の屋敷さ。代々大貴族として、時には王を凌ぐ権勢を誇った、なんてこの街の連中は言っている。
ま、案外嘘でもないな。あの屋敷に比べりゃ、<黒木崖>の教主邸宅なんてまるであばら屋さ」
「なあ」
時折街路を歩く<大地人>の衛兵を避けて飛び込んだ、どこかの貴族の家の塀際で、ユウはふと気になっていたことを聞いた。
「貴様、なんでこんなところにいるんだ? ここはまだ華国、中国サーバだ。
フレンドリストを見ればお前がまだ華国にいることは分かるし、追手も探してくるだろう。
竜国なり中東なりに逃げたほうが楽だろうに。
しかもこんな場所じゃ、逃げ道もない。そもそも竜や巨人をかわしてまで」
「そういうお前はどうなんだ? ユウ」
ユウはヤンガイジとほとんど面識はない。
<大災害>以降は<黒木崖>での邂逅が最初で最後であったし、その時も遠く離れた場所にいた。
ゲーム時代も、教主ウォクシンの影に隠れ、ヤンガイジは印象が薄かったのだ。
華国に悪名を轟かせる暴君と裏切者は、苦笑した顔を見合わせた。
「私は……デヴギリにあるかもしれない手がかりを探すために来た」
「神峰か。さっきの連中を加えても挑めるとは思えないが」
「変なしがらみもないからな。やってみようと思い立っただけさ」
「俺は……」
ヤンガイジは言いさし、苦笑を深めて首を振った。
「やめておこう。別に強い意志があってきたわけじゃない」
「そうか」
一口に暴君というが、彼の顔に浮かぶ陰影はそれだけではないように思えた。
ギルドメンバーの虐殺、女性プレイヤーを侍らせての乱倫、いずれも彼の所業だ。
ユウは認めることも理解することもできないが、彼なりに何かを思ってしたことなのかもしれない。
そう思うにとどめ、ユウは口を閉じる。
「もうすぐだ」
囁いたヤンガイジの後方で、兵士らしい一団がカドマンドゥ公の屋敷に吸い込まれるのを、
ユウは目の端に見た。
◇
「ここは……」
塀を軽々と乗り越えて入り込んだ二人の鼻を突いたのは、臭いだった。
冬にもかかわらず咲き誇る高原の花々の香りではない。
死臭。
<大地人>は死ねば肉体は溶けるように消えるにもかかわらず、濃厚な死の臭いが、開放的な佇まいの王宮全域から広がっている。
「行こう。この中は衛兵も多い」
「どういう場所なんだ。王がいる政務の中心地じゃなかったのか」
「王は、いる。ただし政治の中心かと言われると違うだろうな。
今、この国の政府となっているのは<布告人>府だし、王軍の指揮所はカトマンドゥ公家だ」
「じゃあ、ここは何なんだ」
「王宮か? 牢獄、兼墓場さ」
身を翻すヤンガイジは、何度も来たかのような無造作な態度で軒先をつたい、時に屋根を飛んで進んでいく。
ユウも、その後を追いながら、ヤンガイジの不気味な言葉の意味をあるおぞましい予測とともに考えていた。
<大地人>の英雄、<古来種>は、<大地人>同士の争いには決して手を貸さないという。
その理由には諸説あるが、ゲーム的には「それだとつまらないから」という一言にすぎない。
だが、このセルデシアを現実同様の社会と考えればどうか。
もしかすると、<古来種>が個々の<大地人>に関わるのをやめたのは、この王宮のような出来事があるからではないのか。
…では、それと向き合いつつある世界各地の<冒険者>たちは。
「ここさ。ここから入ろう」
油を差した蝶番を器用に片手で開けながら、ヤンガイジが言った時、ユウはまだ自分の思考に潜っていた。
チッ、と舌打ちをし、彼の手が鋭くユウの肩を弾く。
「日本人!」
「あ、す、すまない」
「謝るくらいならぼうっとするな。ここはダンジョンだと思え」
妙に親切なヤンガイジの後ろに続き、ユウは王宮の一角へと足を踏み出した。
中は妙に明るい。
外の星の光が、彫刻やタペストリーを通して壁に複雑な陰影を描いている。
ごくりと息を呑んだユウの前を、かつて<日月侠>の教主だった男は足音を立てないまま歩き出した。
妙に湿気た、分厚い絨毯の廊下を進む。
誰一人会うこともないまま、ある一室の前に来たヤンガイジは、ユウを片手で手招きし、小さな覗き窓を示した。
ユウが近づくと、彼は剣を外し、<ダザネックの魔法の鞄>に仕舞う。
そして覗きこもうとするユウに、意を決したように声をかけた。
「ユウ。見る前に聞いてくれ」
「なんだ」
周囲の雰囲気のためか、剣呑なユウの返事に、ヤンガイジは顔を向ける。
その顔は、何かに耐えているかのように小さく震えていた。
「お前は、俺のやってきたことを知っているな」
「大まかにはな。 レンインたちに聞いたことが全てだ」
「俺は、ウォクシンやレンインに対する怒りから、あいつらを排除し、<日月侠>を我が物にした。
元の世界じゃしがない学生が、こっちじゃ昔の皇帝もかくやというやりたい放題だ。
俺は……腐った」
「……」
体を向けたユウに、俯きながらヤンガイジは言う。
「あの日。ウォクシンがお前に倒され、レンインが俺に背中を向けて演説した、<大演武>の日。
あの時俺は自分で自分を抑えられなくなった。
だから……レンインを斬り、ウォクシンを地下牢に放り込み、自分の自由な、自分だけの<日月侠>を作り上げた。
俺はその日から、<大地人>のことも、同じ<冒険者>の苦しみも見えなくなった。
嫌なことは明日にすればいい。気に入らなければ殺せばいい。
女は誰でも寝室に連れ込み、命を狙う奴はありとあらゆる方法で潰して。
ユウ。お前が華国へ乱入したと聞いた日も、正直どうでも良かった。
俺の権力を邪魔しないでいる限り、放置しようとすら思っていた」
教会で神父に告解する犯罪者のように、ヤンガイジは言葉を続けた。
「俺は、自分が着の身着のままで放り出され、あちこちで<日月侠>や他の幇に狩りたてられて初めて、自分のしてきたことを知った。
家を焼かれ、親を殺されて泣くこともできず飢えていく<大地人>の子供を見て。
俺に愛する女を奪われ、友人をむざむざと殺されたと憤るかつての仲間たちを見て。
だから俺は誓った。
仲間も権力ももう要らん。
ただ、より多くの<大地人>を生かし、家を守り、家族を護る為に。この、俺の償いとして。
この力と<玄鉄剣>を振るおうとな」
ユウは泣きそうな顔のヤンガイジの顔をまじまじと見ていた。
そして思う。
レンインの宿敵、恥ずべき簒奪者、討伐されるべき暴君。
自分もまた、目の前の男をそれだけの印象で見ていたと。
人は物語の登場人物ではない。
明確な善人も、悪人も居ない。
ヤンガイジという男がしでかした罪は重い。
それはユウではなく、彼によって奪われ、殺された人々が彼に復讐すべき、罪だ。
だが、彼にも葛藤があり、苦しみも改悛もあることをユウは理解していた。
死刑囚が死の間際改悛したに過ぎない、と人は言うだろう。
自分もまた、いずれは華国でユウが被害にあわせた一人ひとりに頭を擦り付け、詫びて殺されることが、本来正しいのだろう。
だが、それは今ではない。
そう思うからこそ、目の前の<剣士>もまた、告白したのであろうから。
ユウは目の前の男に黙って背を向けた。
その無防備な姿は、彼女なりの告白への回答だ。
背後でヤンガイジが小さく息をつくのを感じながら、ユウは扉の向こうを見た。
雲が出てきたのか、回廊を彩る無彩色の陰が、ユウの目の端で踊るように揺れている。




