62. <浜辺にて>
1.
とても長い夢を見ていた気がする。
悪夢から始まり、喜びを経て、苦しみと満足に満ちた終焉へ。
誰かが教えてくれた。
『<冒険者>の運命から自由になり、あなたは死出の旅に出る』
と。
その旅はもう始まっているのか?
『人間は死ぬために生き、死ぬために生まれてくる』と、過去のある作家は言った。
『死は人に影のように寄り添い、眠りの仮面を被って人を誘い、やがて人を覆い尽くす』と古代の聖賢は言った。
誰もが等しく歩いていく道筋の、自分はまさにスタートラインにいるのだろうか。
『否』
自分の意志の集積とも呼べるものが、その認識を否定する。
意識下の声は、どこかしらやるせない響きを帯びていた。
ユウの意識は、その意識が本来収まっていた鈴木雄一という中年男の器からも、
偽りの美女の器からも離れ、浮遊する。
刹那にも永遠にも思える時間を流れるような、夢というにはどこかいびつな形而下で、ユウはもう一度自分の声を聞いた。
それは『ユウ』の音楽的な響きと、『雄一』の男性的な響きを重ねたような多重的な音として、ユウの意識に響く。
『否』
その声に揺り動かされるように、ユウは目を覚ました。
◇
どことも知れない浜辺にユウは立っていた。
周囲はまったくの静寂に満ち、足元の砂の音すら聞こえない。
(こ……こは)
まるで声帯がその役目を放棄したかのように、声を出せないまま、ユウは周りを見回した。
見たことのない景色だ。
周囲は、朝焼けに似た、青紫の光で満たされている。
優しさすら感じる静かな風が、ゆっくりと彼女の黒髪をなびかせ、小さな乱気流を生んだ。
「ここは……どこだ」
静かに寄せて返す波打ち際と、足跡ひとつない砂浜が、はるか地平線の果てまで広がっている。
ふと、ユウは空を見上げた。
月というには大きく、青みがかった天体が、青紫色の光の中で静かに輝いているのがみえた。
三途の川か。
ユウの『雄一』としての知識と意識が、その単語を記憶のすみから浮かび上がらせる。
黄泉路をたどる死者は、巨大な川を渡るという。
此岸と彼岸の境目であり、生者と死者の境界であり、古代ギリシアでは忘却の河、東洋では三途の川と称されている、虚実は永遠に生者には分からないだろう風景だ。
自分は、その河のほとりに辿り着いたのだろうか?
『否』
瞬間、ユウの脳裏に再び自分の声なき声が響いた。
まるで自分の意志が、死へと向かうことを肯んじないかのように。
その声に導かれるように、ユウは砂浜を歩き出した。
さくり、さくりと砂を踏む音が足元から響く。
この畏れすら感じる静寂を破る罪悪感にかすかに苛まれつつ、ユウは意識を取り戻す直前のことを思い出そうとしていた。
何か、とても懐かしい光景を見た気がする。
それは決して楽しいものではなかったけれど、しかしユウの心に消しきれない哀傷と、甘やかな痛みとでも称すべきものを残していた。
妻のことだろうか?
それとも二人のわが子のことだろうか。
決して楽しいだけではなかった会社生活のことだろうか。
それとも。
ユウはポケットを探った。
そこにはまるで誂えられたように、紙巻煙草が一本、マッチと共に入っていた。
「すまない」
この清浄な大気を汚すことに対し、誰にともなく謝りながら、ユウはマッチを手甲で擦り、ぼう、とついた炎を煙草の一本に点ける。
フィルターのない両切りの煙草特有の、濃い煙がユウの肺腑を満たし、彼女はゆっくりと息をついた。
ジジジ、と煙がたなびき、火をつけた先から灰が落ちようとする。
ユウはその灰を両手で取ると、ポケットにマッチの軸ごと突っ込んだ。
なぜか、この大地に灰を落とすことは、空気を汚すこと以上に許されざることのように思えたのだ。
どこに行くべきかもわからないまま、煙草を吸い終えたユウが歩く。
しかし、その足はわずかな時間を経て再びとまった。
天から何かが落ちてくる。
雪のような、光のようなそれをユウは思わず手に取った。
その瞬間、ユウはこの場にいて自分がなすべきことを唐突に理解した。
◇
ユウは浜辺に佇むと、靴先を濡らす波を静かに見つめた。
ややあって、その左手が動き、腰に下がった刃を抜く。
群青色の世界の中で、緑の光はあまりに異質で、場違いだった。
(まるで私のようだ)
<エルダー・テイル>がゲームでなくなってからの事を思い出す。
アキバにいながらアキバを離れ、西へ向かいながら友とも別れ、流れた国では大罪人。
平凡きわまるサラリーマンが、異世界に漂流してからすべては場違いな方向へ流れていく。
ユウはしばらく愛刀を見つめると、やおら右手で髪をたくしあげた。
肩口から勢いよく振るわれた刃がその黒髪を切り落とす。
ひらひらと、風に数本飛ばされていく自らの髪を見つめ、ユウは静かに笑った。
これは儀式だ。
贖罪ではない。罪に応じた罰をただ受けるだけの、それは密やかな祭礼だった。
過去。
何人の<冒険者>が、この浜辺で自らの記憶を流したのだろう?
クニヒコやレディ・イースタルはどうだろうか。
アキバの<冒険者>たち、たとえばあの寡黙な刀匠、多々良もこの場に来たことがあるのだろうか。
レンインやフーチュン、カイたち<エスピノザ>の人々、テイルザーンやレオ丸、バイカルやカークス。
その他、ユウが名を知らぬ数多くの<冒険者>がこの静かな海で、こうして波に流れて消えていく自分の<自分であるべきもの>を捧げたのだろう。
今、自分の番が来ただけのことだ。
こうして失った記憶が何であるのか、思い出せないそれらを思って泣くのはあの青い天体に戻ってからのこと。
犯した罪に慄き、石もて打たれる恐怖におびえ、受けた汚名に涙するのも、
自分のせいで命を絶たれた誰かに追われる悪夢を見るのも、すべては戻ってからのことだ。
今は、奇妙なほどに爽快な気分だけがあった。
「うーん」
ユウは大きく伸びをした。
周囲の砂浜が徐々に光り輝いていく。
降り注ぐ燐光と徐々に入り混じっていくそれを、ユウはわずかに寂しい気分で見つめ続けた。
「もし、この地が死んだ<冒険者>が記憶を落としにくるところなら」
クニヒコやレディ・イースタルも死んでここへ来ていれば、久しぶりに話せたのになあ。
当人たちが聞いたら憤慨するような感想だけを残し、ユウは頭上の輝きへと落ちていった。
2.
戦後処理は忙しい。
決戦に勝ったとはいえ、それは武力集団として統率された軍を蹴散らしたに過ぎない。
10万を超える兵を掃討し尽くすことは、さすがの華国の<冒険者>も不可能だったのだ。
部隊としての統制を保ったまま戦線を離脱したのはクリアキン部族のほか、いくつかの遊牧部族だけだったが、それらが漠北の草原へと去ったことは<追跡者>などの偵察によって確認できている。
<冒険者>による執拗な追撃の結果、大族長ザハルスが討たれたことも報告されていた。
だが、名実ともに華国の<冒険者>を束ねるベイシアやメイファたちにとってそれは瑣末事だ。
「<大地人>の反応はどうか?」
広々とした議場の一角から上がった声に、いつの間にか実務を担当するようになったある幇主が書類をめくった。
そこには、決戦以降の<嵩山>内外からの報告をまとめたレポートが書かれている。
「概ね穏やかですね。<正派>敗戦のショックも思ったほどではありませんし、<冒険者>への敵対的な活動も目に見えて増えていません」
「同じ<冒険者>がモンスターや賊を引き入れたことを公表したにしては穏便な反応だな」
「多分、元々<冒険者>への信頼が低かったことがあるでしょう。
我々もさることながら、一部の幇はあからさまに人身売買や略奪に走っていましたし、今の<大都>は……」
口をつぐんだその幇主は思わず舌打ちした。
「まあ、<冒険者>なんて<大地人>にとってみれば言葉のわかるモンスターのようなものでしょう。『下に対策あり』とはよく言ったものです。存外強かですよ、彼らは」
「助けてくれる分にはおだてておこう、顔も立ててやろう、くらいのものか……はぁ」
溜息が思わず漏れた。
「やることが多いな……」
<嵩山>の大議場、いまや正邪関係なく有力幇の幇主が顔をそろえる会議で、ベイシアはそういって眉間を揉んだ。
その言葉に呼応するように<少林派>のファン大師が指を折る。
「各地に散らばった賊軍の生き残りの掃討、各地に割拠する群雄や貴族への対処、一部幇に制圧されたままの<大都>の解放、放置していたクエストの確認、他の地域との連絡と通交の復活、難民と化した<大地人>農民の生活の安定と土地の確保、異国出身<冒険者>の故地への帰還支援……問題は山積みですな」
「それだけじゃないわよ、大師」
口を挟んだのはメイファだった。
「あれだけ言っていたにもかかわらず、やはり<冒険者>同士の対立は顕在化しつつあるわ。この<嵩山>はいいけれど、他の五岳や<黒木崖>では私たちの目も届かないから」
「差別するほうもされるほうも、容易に忘れられるものではないか……」
ことが簡単に解決できる問題でもないだけに、一座の幇主たちは揃って苦い顔を見合わせた。
誰もが現実世界の常識を忘れるほどに<エルダー・テイル>にのめりこんでいるわけではない。
1Dayチケットを用いたライトユーザーの多い華国であればなおさらだ。
そして、レベルという明確な形で互いの優劣がついてしまう世界であれば、レベルによる強弱によって強引に相手を従わせる人間が出てくるのもまた道理ではあった。
「難しいな、これは」
<屠龍幇>の幇主が腕を組む。
「まあ、遅かれ早かれこうなったろうよ」
<衡山派>の幇主が、手にした三線を爪弾きながら誰に言うともなく呟いた。
「せめて、わしら大手の幇主や、少なくとも各幇の幇主、副幇主クラスまででそうした諍いをしないことくらいが当面の対処かねえ」
「後は法だな。人種差別、民族差別的な言辞、行動を規制する法律を施行する。
昔の漢の高祖の法三章じゃないが、まずは最低限の規律を明文化すべきだろう」
<衡山派>の幇主に続き、<全真幇>の幇主が提案した。
全員が、程度の差こそあれ頷いたのを見て、ベイシアも頷く。
「そうだな。まずは今の無法状態を何とかする必要がある。レンインの話では、ヤマトでは<大神殿>や<幇館>のような公共建築物を我々のような幇の連合が買い受けることで、<冒険者>にルールを強制したそうだが……」
「我々もすべきでしょうな。すでに<嵩山>や<黒木崖>のそうした建物は各大手幇が握っています。
今すべきは、われらの結束を武林にアピールすることと、いまだ買われていないそれらを一刻も早く買い求めること。
もちろん、我々同士の信頼関係が前提となりますが」
ファン大師の言葉に、<邪派>に属していた<一青門>の幇主が苦笑する。
「今更もう一度正邪の争いをする気はありませんわ。少なくとも、この場にいる全員もそうお思いでしょう?」
「まったくだ」
<嵩山派>のランシャンがしかつめらしく頷くと、満座からかすかな笑いが漏れた。
正邪の争いをしていたころ、<正派>でもっとも好戦的と言われたのが彼と<嵩山派>だったのだ。
「であれば、個々のギルドがそれぞれの建物を占拠していれば、いらぬ疑いの元になります。
いっそ、ひとつのギルドに集めたらどうですか?」
<紅花会>の幇主が手を上げて提案すると、再び座に緊張が満ちた。
「どういうことだ? 我々がひとつの幇になるのか?それとも、この中のどこかを主導ギルドと仰ぐと?」
「今更、日月神侠文成武徳、華国を支配する聖教主になるつもりはありませんわよ」
「いやメイファ教主、我らも同じだ。武侠小説じゃあるまいし、そもそもそんなことをしてみろ。
今度は本当に正邪の争いが始まってしまうぞ」
「いえ、そうではなく」
<紅花会>の幇主はあわてて手を振ると、自らの提案を説明しはじめた。
「先日の戦いで、全体の総指揮を採られたのはベイシア大侠です。確かに大侠は<正派>ですが、<邪派>からの信頼もある。なにしろウォクシン前教主からも正式に認められたのですから」
「話が長いぞ」
「申し訳ありません。要は、ベイシア大侠に一人で幇を作ってもらって、そこに全部の建物の所有権を集めたらどうでしょうか。
その代わり、大侠は今後の政務には口を出さず、戦時の指揮官としてのみ振舞ってもらう、というのは」
「ほう」
居並ぶ幇主たちがなるほど、と頷くのを見て、話の流れに危機感を覚えたベイシアがあわてて口を挟んだ。
「待て、ちょっと待て。僕も一応<正派>の総帥なんてやってた身だ。<邪派>の人たちが納得するとは思えない。それに一人で全部の建物だと? 三日で破産するぞ、僕は」
「資金は各幇が用立てましょう。それに、それなら一人でなく二人でやればいいんじゃないですか?
メイファさんと」
「え?」
さらっと告げた<紅花会>幇主の言葉に泡を食ったのは、今度はメイファだった。
いつもの貴婦人風の物腰も忘れて、間抜けな声を上げる。
「ちょっと待ってよ。私は<日月侠>の幇主よ。ベイシア大侠の幇に参加するなんて無理じゃないの」
「なら<日月侠>を後任に譲ればいいでしょう。いるじゃないですか、副教主が」
「……レンインに? でも彼女は」
やや顔をしかめて言ったメイファに、<紅花会>の幇主は真面目な顔で頷いた。
「もちろん、この場にいる全員が彼女の犯した罪を知っています。本来であれば、彼女が追放に値する人物であることもね。
……ですが、彼女の罪はあの日本人が償ったではありませんか」
「……だけど」
「彼女は別の形で罪を償うべきです。ウォクシン教主とあなたが残した<日月侠>を率い、この華国のために身を粉にしてでも働くことで。
……なにより、彼女の罪は一般の<冒険者>は知らないのです。我々が彼女を冷遇すれば、彼女自身はそうでなくとも再び華国の混乱の火種にならないとも限りません。
私は、彼女に<日月侠>を託すべきだと考えます」
「……」
誰もが沈黙する中、やがて口を開いたのはベイシアだった。
「……そうだな」
「大侠!」
抗議の声を上げるメイファを見つめ、ベイシアは告げる。
「僕一人で幇を立ち上げるわけにはいかない。<邪派>の重鎮と、たとえば幇主の座を定期的に持ち回りにする、というように、正邪が対等だということを明確にする必要がある。
本来その座にあるべきウォクシンが動けない以上、もっとも適任はメイファさん、あなただ。
そしてレンインにも責任を取ってもらう必要がある。
……あくまで僕の私見だけど、多分追放よりよほど辛い日々になると思うよ、彼女にとっては」
「大侠……わかりました」
ベイシアの目を見ていたメイファだが、ややあってすとんと椅子に座りなおす。
その光景を見て、ファン大師が静かに言った。
「では、決まりですな。ベイシア大侠とメイファ教主で幇を作り、法を造る。
……幇の名前はなんにしますか?」
「漢……はまずいだろうな。やはり」
<全真幇>幇主が言いかけて苦笑する。
中国人プレイヤー以外にとっては、神経を逆なでするようなものだ。
「夏」
そのとき、黙っていた<古墓派>の幇主が目を閉じたまま言った。
玲瓏な声で響くその名前が、風のように幇主たちの頭上を巡る。
「<夏>か。中華最初の王朝の名前だな」
「法なき土地に法を造り、王なき土地に王を立てる。ならば最初の王朝の名を借りるのもよろしいかと」
「僕は王になるつもりはないけどね」
目を開けて涼やかに言った彼女に、ベイシアが苦笑して返す。
「ま、対外的には王でもいいでしょう。もちろん、中身は大侠で変わりませんがね」
「それで思い出したが」
ふとベイシアが真顔になった。
何事かと耳をそばだてる幇主たちに、ベイシアは厳しい顔で告げる。
「我々は今まで敢えて偽悪的に振舞ってきた部分がある。だが、そうした態度はもはや不要だ。
我々幇主自身が、身を律する必要があると思う。
僕自身が反省すべきだが、過度の贅沢や乱脈、妾を囲ったり権威を見せびらかしたりするのは止めるべきだ。
僕自身、この議場の外に出てわかった。
<冒険者>の中には、僕たちへの反感も根強い。その理由のひとつが贅沢だ。
一般の<冒険者>が毛布を分け合い、味のない食事を食べて生きている横で、僕たちは贅沢な館に暮らし、<特級厨師>に作らせた料理を食べ、歌舞音曲を楽しみ、美女を侍らせている。
やめるべきだろう」
「……確かにな」
<屠龍幇>の幇主が唸った。
彼自身、<黒木崖>に広大な館を持ち、何人もの女性<冒険者>を妾として囲っている。
「贅沢は毒だ。人を腐らせる。そして持たざるものに羨望を持たせる。それが向上心となればよいが、そうではなく反感と怒りになるのであれば……」
「耳の痛い話ですな」
ファン大師も唸った。彼もあからさまな贅沢こそしていないものの、毎日味のある食事を味わっている。
そのことそのものが、普通の<冒険者>にとっては望んでも得られない奢侈なのだ。
全員が頷いたのを再び確認し、ベイシアが言った。
「では、全員。3日以内に建物を引き払い、妾がいれば解放してくれ。恋人ならばともかく。
開いた建物は<冒険者>や<大地人>で家のない人々に開放する。
私財についてもそうだし、服装も無意味に贅沢なものは売ろう。
その金でまだ得ていない公共施設を買っていこう」
「同意した」
何人かの幇主が言うと、ベイシアは満足そうに頷いた。
「古の尭舜は民と同じ服をまとい、食べ物も庶民と同じ質素なものだったというからな。
人の気持ちを変えるにはまず自分から、ということか」
「まあ、私たちも元は庶民。元の生活に戻るだけと思えばいいでしょう。
これまでの<エルダー・テイル>で手に入れた装備はそのままですし。
それに、誰もが味のある食事、煌びやかな服を持つようになれば、贅沢と思えなくなりますわ」
ランシャンが一人ごち、メイファがまぜっかえす。
ははは、と全員がひとしきり笑いあったところで、ベイシアがぱちんと手を鳴らした。
そうして、その日の会議は終わった。
◇
それから数日後の深夜。
月のない新月の闇の中、歩く数人の人影がある。
先頭を歩くのは、<日月侠>の三代目教主となったレンインだ。
その後ろを影のようにつき従うのは、<日月侠>のギルドタグをつけたフーチュンとカシウスだった。
フーチュンは、幇主代理であるルーシウの承認を得て、ギルドを移ったのである。
無論、レンインをより近くで守るためだ。
レンインのこれからの道は険しい。
彼女は自分の罪と向き合いながら、それでも願った理想のために進まねばならないのだから。
そのさなか、もし彼女が必要とするときは、二本の剣が彼女を守ることだろう。
「ユウさん。ここでお別れだ」
フーチュンが言葉を放ったのは、<嵩山>の間道を抜け、草原地帯に出てからだった。
闇の中でほとんど見えないが、ユウは軽く頷くと汗血馬を呼び寄せる。
「世話になった」
「もし旅の途中で<第二軍団>に会ったらよろしく伝えてくれ」
中国風のゆったりした衣服に大剣を担いだカシウスが陽気に言う。
「ああ。レンインとフーチュンを頼んだ」
「任せとけ。あんたと誓った誓いは騎士の誇りにかけて守るさ。
……それにしてもまさか、華国に骨を埋めることになろうとは思わなかったよ」
「ありがとうな。……俺にはそれしか言えないけど」
フーチュンの万感の思いをこめた言葉に、ユウは頷く。
「しっかり守れよ。あと、正邪の幇主たちに礼を言っておいてくれ。生涯幽閉でも文句は言えなかったんだから」
「分かった」
「一度、お前さんとは本気で対人戦してみたかったな」
それだけ告げて馬上の人となったユウの視線が、最後にレンインに向けられる。
「わた……しは」
言葉にならない泣き声が、レンインの口から漏れた。
その声を「別にかまわない」とさえぎって、ユウは夜目にもわかるように笑った。
「うちの娘はそろそろ14歳でね」
「え?」
「年齢としちゃ、お前さんは私より私の娘に近いんだ」
「………」
ユウの明るい声に、レンインははっとして顔を上げる。
「もう声を思い出せなくなってしまったんだが、顔はよく覚えてる。
お前さんにどことなく似ていたよ」
ユウの声は朗らかだったが、夜の中に悲しげに響いた。
「お前さんはお前さんのなすべきことをしてくれ。
罪は全部私が背負っていくから」
思わずレンインがしゃがみこんだ。
ウォクシンに言われた最後の言葉を思い出したのだ。
嗚咽する彼女にもう一度一瞥を投げると、ユウは汗血馬の腹に足を当てる。
「じゃあね」
最後は短い言葉だけを残し、ユウが闇に消えていく。
その背中が完全に夜に溶けたのを見届け、フーチュンは動かないレンインにためらいがちに声をかけた。
「なあ……行こうぜ」
「私は……わたしは…」
いやいやをするように首を振るレンインに、フーチュンが困り果てた顔を向けたとき。
不意にドン、という音がした。
驚いて顔を上げた二人に、カシウスの大剣が鈍く光るのが見えた。
その持ち主の顔は先ほどまでの陽気さなどかけらもなく、怒りに赤く染まっている。
「まだ、そうやって泣いているのか、レンイン」
「カシウス……」
「ユウはお前のために罪を被ったんだ。何度も聞いているだろうが、改めて言ってやる。
あいつが受けるすべての罰は、おまえのせいだ。
お前がくだらん策を考えるから、あいつは憎まれ、首をはねられ、石を投げられ、こうして何の名誉もなくこそこそ闇にまぎれて逃げる羽目になったんだ。
全部お前のせいだ。お前が、やったんだ」
「カシウス! あんた」
激昂したフーチュンをひと睨みで黙らせて、なおもカシウスは言い募る。
「お前はそこでのうのうと華国に残ることができた。華国最大の幇の幇主としてな。
お前はこれからも名誉を受け、尊敬され、仰ぎ見られて生きていく。
だがあいつはどうだ!
何万人もの<大地人>を殺した罪はどうやったら消える?
モンスターを率い、<冒険者>の名誉を汚し、悪に加担しないという<冒険者>の最低限のルールすら破ったあいつはこれからどうやってその罪を償えると思う?
……無理だ。 そんなものは償えん。
あいつはこれからどこの国、どこのサーバに行っても、その汚名を背負って生きなければならん。
あの戦いの場にいた<冒険者>が一人でも、あいつのことを他のサーバで話せば。
94レベルの日本人<暗殺者>なんて目立つどころじゃない。
あいつはどこに行っても排斥される。
たとえそれがあいつの故郷、ヤマトでもだ。
レンイン、考えろ。
お前のせいで、あいつは故郷すら失ったんだぞ。
お前の、せいで!!」
「………」
「そして真実を知るベイシア大侠や他の幇主はそのことを絶対に公表しないだろう。
華国の安定のためにな。
そしてお前も告げることは許されない。
真実を告白して楽になれると思うなよ。
あいつが苦しむ何倍も、何千倍もお前は苦しめ。
内心で死ぬほど苦しんで、それでも顔では泣くな。笑え。威風堂々と振舞え。
……それが、せめてあいつへの贖罪だ」
「わかり……ました」
レンインが立ち上がる。
泥だらけの指で顔をぬぐい、砂が目に入るのも無視してレンインは立った。
「私のためにあのひとが苦しんだのであれば、私はその何千倍も苦しみます。
毎日、悪夢を見て、後悔して、あの<高昌>の砂漠の夜に戻ればいいと思いながら生きていきます。
フーチュン。
カシウス。
だから手伝ってください」
「わかった」
「……ああ」
フーチュンの声が終わると同時に、カシウスは不意に跪いた。
大剣を逆さに持ち、刃を手にして柄をレンインに向ける。
「その覚悟があるなら、俺は誓約する。あいつの分までも、俺はあんたの剣になろう。
その忠誠をあんたが受けるなら、剣を取って俺の肩を叩いてくれ」
カシウスが地面を見つめて言う。
レンインも話で読んだことがある。これは騎士の誓いだ。
この異国の騎士は、彼女に、彼女が忠誠を受けるに値するかどうかを問うているのだ。
時が流れた。
横で見ているフーチュンには、まるで一昼夜が過ぎたかのように思える時間の後。
レンインが、震える手で大剣の柄を取り、ほんのかすか、カシウスの肩が刃の腹で叩かれるのが見えた。
どこかで、夜明けを告げる鳥の声が聞こえていた。
これで第四章はあと一話になります。
ユウがめちゃくちゃにかき回した華国のその後については、どこかで書けたら、書きます。
…ほんと、いろいろなところからお叱りを受ける気がしますが…




