185. <挽歌>
後数話で終わります。
静寂が、人と怪物が作る空間を支配している。
夜の闇は凝ったようにその陰影を深め、雲間から顔を見せた月の光も淡い。
淡くも冴えた、青い天空からの光を地上の蒼が跳ね返す。
濃淡の異なる蒼と青は、織り成すタペストリーのように暗い戦場に広がり、
対峙する二つの人外の顔を秘密めかして照らし出す。
(不思議だ)
一発技を放つから、受けきったらお前の勝ちだ。
そんな、愚にもつかない挑戦を口に出して、もう二分は経っているだろう。
通常の怪物であれば当然のように襲い掛かってくるであろう時間を、
目の前の触手の塊はただ黙って立ち続けている。
あたかも――決闘の開始を待つ対人家のように。
それだけではない。
かすかに上体を傾けた怪物は――目も顔も無いその異様な姿からは判別しづらいが――天を見上げているように見えた。
ユウが眺めていたのと同じ、青い月を。
その時、軋るような音で、怪物が呟いた。
『我はカノ場ヨリ来タり』
『命を受ケ、キウ感子を採取スル為ニ来タリ』
続いて、上体が揺れる。
人間であれば、目線を向けたであろうそこにあったのは、<盟約の石碑>だ。
『石碑は門デモアリ、門デモナシ』
韜晦するようなその言葉は、禅問答のようでもあり、
(ああ……やっぱり、そうだったのか)
不思議とユウに安らかな納得を与えてくれた。
あの青い月の向こうから、怪物は来たのだ。
同じことを言っていた、アゼウフやエイレヌスも。
おそらくは、同じ場所から来たのだろう。
青く輝く月には、蒼銀のベールがかかっている。
秘密という名のベールだ。
そしてその秘密は、自分たち<冒険者>の存在における秘密――<大災害>の謎にも関わっているのだろう。
そのベールをこじ開けるものが居るとすれば。
怪物は、たたずむユウを触手の一本で指差した。
『我の身体は砂ナリ。 沙ニシテ砂にアラズ。 我が仮初は採取の手を持ツアタワザレバ』
ひゅ、と続いて怪物自身の下半身を指差す。
『現地存在の助力を得、宿サレル必要アリと認ム』
「だから……<教主>か」
『現地存在に助力を得ル為ニハ、部分的ナ被付与能力の提供は許可サレルト認識スル』
しゅるしゅる、と触手を出し入れさせながら呟く<教主>に、思わずユウはくすりと笑いを漏らした。
黙る<教主>に、リラックスした表情で手を振って見せる。
「……ああ、すまん。 打ち明け話をありがとうよ。最後の言い訳は、あの世でお前の上司にでも言っておけ」
『……ダガ助力は失ワレタリ。 更ナル採取ニハ更ナル助力が必要ナリ。 ソノ身体と共感子を提供セヨ』
軽口のような会話を交わしながらも、徐々に緊張が高まるのをユウは感じていた。
相手も同じなのだろう。 しゅる、と触手が解け、一瞬で八方に広がる。
足を完全に広げた蛸のように、無数の触手がトーマスの腰の上からゆらゆらと揺らめいた。
それは、いかなる一撃も受けるという、怪物の宣戦布告だ。
ユウの腰が僅かに落ちる。
穏やかなその瞳が一瞬閉じられ、再び開かれた時。
そこには、揺らめくような水色が輝いていた。
◇
すらり、と刀を抜く。
素人目に見てももはや実用には耐え切れぬような、緑と青、二振りの刃は、
それでも主の手できらりと互いの輝きを競う。
「トーマスごと、殺すぞ」
『不可能』
「そう言わずに、受けていけ」
ユウは、より深く腰を落とした。
一挙動で疾走に入れる姿勢だ。
全身が軽く、刀は手にしてなお、その重さを微塵も感じさせない。
かつてほどではないとはいえ、いまだに違和感を覚えていた女性の肉体も、今は生まれてからずっとこの身体ですごしてきたかのようにしっくりと馴染んでいる。
揺らめく黒髪を包む夜風の肌触りさえ感じ取れるような、澄んだ感覚の中に彼女は居た。
もはや満身創痍などとは言うまい。
ベストコンディションだ。
燃えゆく蝋燭が最後の蝋を吸って輝くような、その感覚は先ほどの戦いで終わったと思っていたが。
「今なら。 ……戦えるんだ」
『……』
<教主>は何も答えず。
ただ、人間のままの足を広げ、その周囲に碇のように触手を突き立てる。
いかなる攻撃も己を倒すことはできぬと宣言するようなその姿は、同時にユウの一撃を真っ向から受けるという誓いだ。
その姿を見た時、ユウは目の前の怪物に対するあらゆる感情を捨てた。
<敬虔な死者>を作り出し、町を滅ぼしたという話を聞いた時に感じた怒りも。
謎に満ちた正体への探究心も。
勝ちたい、という欲求すらも。
思い出すのは、遥かな前の光景だ。
まだ、ゲームをゲームとして楽しんでいた、学生のころ。
自分に対人戦のイロハを教え込んでくれた師匠とも呼ぶべき<守護戦士>はいつも、実戦形式の稽古の最後には、画面上に仁王立ちして、こうチャットを打ってきた。
『さあ、どこからでもかかって来いよ。 全部受け切ってやるぜ』
その男に毎日毎日、飽きもせず挑んではぶちのめされ。
そしてようやく打ち倒したその日に、彼はゲームを引退した。
『これからまた、お前の前にこうして立ってくれるヤツが出てきてくれるだろうさ。
その時は、今みたいに』
「真っ向勝負を……かけるんだぜ」
ユウの前髪がばさりと顔に落ちかかり。
見上げた瞳が、決意を宿す。
だん。
砂浜が爆発のように舞う。
踏みしめた軸足が、その肉体をトップスピードに叩き込むまでコンマ一秒の数十分の一。
古の騎士の決闘のように、顔の正面に立てられた<蛇刀・毒薙>と、横に流した<疾刀・風切丸>が、共に光の尾をまとう。
接敵するまで、僅か二秒弱。
間、髪を入れずに触手が四方から襲い来た。
一撃を浴びるという約束はしても、触手の弾幕を抜けられなければそれを為す資格は無いとでも言いたげに。
ユウは止まらない。刀を微動もさせない。
朽ちかけた二つの愛刀は、触手『ごとき』と引き換えに出来るものではない。
一太刀。
最後の花道は、あの怪物の正面、それだけだからだ。
壁のような密度で触手が迫る。
時間にすれば僅か一刹那だ。
次の瞬間には肉体を貫くべく殺到する触手を、肘で跳ね、肩で飛ばし、正面に来たものは膝と頭突きで吹き飛ばした。
元より防具など無い。
髪をまとめていた布切れは飛び散り、全身の服がズタズタになる。
青かったHPバーが恐るべき速さで赤く染まっていく。
<苦痛><回復不能>……状態異常がユウのステータスを彩る。
と同時に。
ふわりと全身にまとっていた光が揺れた。
夕暮れの決戦のように、ユウの周囲に幻のように仲間たちの腕が浮かび上がる。
豪壮な大剣が触手を薙ぎ払い、
槍と化した杖がユウの首筋を狙う触手を貫き、
風乙女を宿した棍棒が、風を起こして触手を吹き飛ばす。
頭上には、まるで彼女を守るように方天画戟が風車のように回っており、それら武器の隙間から突き出された掌は、主たる船を守る神話の暴風のように、周囲に破壊を撒き散らしていた。
ぽろり、ぽろり。
砂の城が崩れるように、ユウの魂が剥がれて落ちていく。
厄が失われていく。
<禊の障壁>が崩れるように、ユウの魂を使い切った厄が消えていく。
「じゃあな、クニヒコ」
黒い竜の大剣を握るごつい手は、親指を立てて。
「冗談は顔だけにしとけよ、タルさん」
槍を操っていた細いエルフの手は、『またな』とばかりにひらひらと手を振り。
「ああ、頑張るさ、ティトゥス」
白亜の大剣を握っていた手は、ユウを鼓舞するように拳を握って。
「ありがとうな、ロビン」
勇壮なイチイの弓を手にした腕は、その弓を振って。
「いい本に逢えるといいな、法師」
バットを振り回していた手は、どこかの野球漫画のように<教主>をそのバットで指して。
消える。
ユウがユウであり続けることができた、無数の厄が虚空に溶けていく。
ロージナの、アールジュの、ローレンツの、レンインやフーチュンの。
そして、あの青い長剣を手にしたエルの。
それぞれの<厄>は、きっと本人たちもしたであろう、それぞれの仕草で、ユウに別れを告げていく。
そのとき、ユウは自分の得た口伝、<厄の召喚>の真の意味を知った。
口伝とは、魂そのものの生み出した奇跡なのだ。
この世界で、必死で生きる魂が作り上げた、ほんの少しの――特技を基にした――魔法。
それは自分ひとりだけで生み出したものでは、おそらく無い。
誰もが、自分の中に他人を持っているのだ。
ただユウの場合、それが人よりわかりやすい、厄という形で見えていただけで。
嬉しいことも、辛いことも、憎いこともすべて含めて、他人という砥石で研磨された魂が、口伝を生み出す。
人と共に在ることを拒否し続けていたユウの口伝は、突き詰めて言えばそれだけのものだ。
『仲間に――友達に、助けてもらうこと』
それが、ユウの口伝の正体なのだった。
気づけば、怪物は指呼の間に居た。
無数の触手が織りあわされたその姿からは、いかなる内心も伺えない。
だが、周囲に突き立つアンカー代わりの触手は、微塵も動かず。
怪物は堂々とユウの前に身体を晒して、その一撃を待っている。
その姿は、クニヒコにも、あるいはゲームを始めたころの師匠たる<守護戦士>のようでもあり。
さらにその後ろでは、まるで巨大な異星人の機械であるかのような電子回路めいた光の格子を描いて、<盟約の石碑>が低く唸りを上げる。
待ち望んでいた何かが現れたかのように。
ユウの横を半透明の竜が駆け抜けた。
ユウ自身とまったく同じ格好の影が、すり抜けざまに彼女の背中をどんと叩く。
同じく半透明の騎士は、敬礼をするかのように額に小さく指を当てた。
すべての厄がその身から去り、うつろな筈のユウの心は、その時確かに満たされていた。
だん、と音を立てて足が止まる。
疾走の威力をたわんだ膝に溜め、ユウはつま先が交差するほどに近い怪物を見上げた。
(ああ、こいつは)
待ってくれているのか。
であれば。
ユウの全身から水色の光が完全に消えた。
もはや厄の助力は無い。
今更に邪毒の呪薬でお茶を濁す気も無い。
こと、この時に至っても彼女の手に残された、自らの最も得意とする技を仕掛けよう。
それは。
「<ヴェノム――」
力をそのままに、刀を持った彼女の両手が大きく後ろに曲げられた。
緑と青、二つの光が最期とばかりに輝きを強める。
そして最後の一歩を踏み出しざま、ユウは誇らかに叫んだ。
「――ストライク>!!」
最後の一撃は、要はガトチュ・ゼロスタイルです。




