183. <典災対災厄>
1.
その男の足はゆっくりと上げられ、振り下ろされた。
同時に、もはや役目を終えかけた鉄製の扉――封印が、音を立てて転がる。
「船長……なのか?」
ユウは言いながらも、その言葉が真実の半分しか言い当てていないことを悟った。
ゆっくりと足を踏み出したその男――<冒険者>スワロウテイルであったはずの男の眼は閉じられ、デスマスクのような無表情からはその内心は伺えない。
ユウが最後に見たときの<秘宝級>であろう提督服ではなく、囚人服を思わせる緑と白の縞柄のシャツを纏い、裸足で立つ姿は、否が応にも異常さを引き立てる。
何より、異常なのはその肌だ。
海の男らしく健康的に焼けていたはずの肌は、今は黒どころか、どこかどす黒い青色に変わっていた。
よく見れば、髪から足の爪まで、わずかに色の変化がある。
それは――明度が限りなく低いが、確かに虹の七色であった。
異常だ。
周囲の<教団>員たちも、幹部であるはずの彼に敢えて声をかけるものはいない。
分かっているのだ。
トーマスの手駒として暗躍し……ユウが殺した吸血鬼妃と同じく、
彼も既に、<冒険者>ではないことを。
<教主>
彼の名前と記されていたはずの場所にあったただ一文字が、それを疑いようもなく示していた。
「…………<教主>……」
ユウ以上に状況を把握できなかったのはトーマスの部下たちだ。
彼らの上司は、その箱をなんと呼んでいたか。
<魂魄処理装置>。
そこに、自分たちの指導者を幽閉している。
少なくとも、その二つ名を持つ人間を。
「どういう……ことだ」
誰かがふらりと近づいた。
未だ動かぬスワロウテイル……いや<教主>に、無防備に近寄っていく。
彼が真の<教主>なのか確かめようとしたのかもしれないが、その意志は誰に伝わることもなかった。
「ひゅぐ」
突然、その男が立ち止まり、奇妙な――聞きようによっては滑稽にすら聞こえる声を上げた。
「おい?」
仲間がその男に声を掛けようとしたところで――彼の腰のあたりから、赤い蚯蚓のようなものがずるりと顔を出す。
それは水を浴びた犬がするようにぶるぶると震えて自分にまとわりついた赤い液体を振り落とすと――躍動するような動きで四方に分裂した。
「!!」
ユウがすかさずバックステップを踏むが、間に合わない。
柔らかそうな外見に似合わぬ速度でユウの肩を触手がかすめ、ささくれだったタンクトップごと肩に一筋の傷を作った。
だが、それはユウなればこそ、その程度で済んだのだ。
自分たちは一方的に有利な立場の狩人であると――そしてスワロウテイルは姿かたちはどうあれ味方であるとどこかで思っていた<教団>側は、それほどの俊敏な回避ができなかった。
結果として。
「うぉ……うぉぉぉぉ!!?」
「いやぁぁぁぁ!!」
「ぎゃああっ!」
あるものは驚愕を、あるものは嫌悪を、あるものは恐怖を叫びながら次々と触手が周囲の<冒険者>に取り付く。
それは肌を貫き、肉の中を蠢き、瞬く間に腕を、足を侵食していく。
「いやーっ!!」
ある女<冒険者>が絶叫とともに蹲った。
暖かそうな布のマントの下では、奇妙なミミズ腫れのように触手が這い回っている。
全身を異物に取り巻かれた嫌悪のためか、涙をだらだらと流した彼女は動かぬ腕を痙攣させて悶え苦しむ。
その姿は奇妙なほどに背徳的だ。
やがて。
唐突にその女性は泡となった。
HPがいつの間にか赤くなっている所を見るに、死んだのだろう。
あのローズマリーのように、どこか濁った虹色の泡に、まるで地上に撒かれた蛙の卵のように包まれて逝った彼女のステータス画面表示は、どう見ても意味があるとは思えないキリル文字やギリシャ文字の羅列へと変わっていた。
それは彼女だけではない。
際限なく伸びる職種に貫かれたその場の仲間たちも、同様にステータスを異様な文字列に変え、レベル表示を漢字や無作為な文字列へと変えて、次々と死んでいく。
まるで、このセルデシアにいることを、許されなくなったかのように。
「なんだ……!?」
ユウは避けながら呟くが、無論答えなど返ってこようはずもない。
今やスワロウテイルは四肢のみならず全身から触手を這わせた異様な姿に変わり果てていた。
かろうじて元が人間だったとわかるのは、全体のシルエットのほかは、奇妙なほどに元のスワロウテイルの形を保った頭部だけだ。
だが、元が<冒険者>――少なくともその姿をしたもの――ということを差し引いても、ゲームの頃からこんなモンスターにユウは出会ったことはない。
まるでパニック映画の悪役だ。
奇妙な緑色の触手を蠢かせ、周囲の<冒険者>を軒並み殺していくそのモンスターは、だが奇妙なまでに現実感がなかった。
そう……英国で出会った、あの怪物たちのように。
その時。
どくん、というひときわ強い鼓動が、ユウの胸を打った。
その痛みに思わず蹲る。
先程から小癪にも触手を避けていた敵の動きが止まったことを知った触手が、うねうねと口吻をちらつかせて近づくが、その動きは次の瞬間、ユウの全身から光が放たれたことで止まった。
水色というには、あまりにも青みがかった光だ。
抵抗するように、かすかな緑の光が漏れるが、それも即座にかき消されるほどに。
生き残った――まだ死んでいない――何人かの目が、絶望の中に僅かな希望を湛えてその光を見た。
トーマスに近侍していた彼らも知っている。
自分たちが追っていたこの<暗殺者>には、常人の測り知らぬ切り札があることを。
ユウがふらりと立ち上がった。
怯えたように下がる触手に、ゆっくりと手を伸ばす。
その手に徐々に光が集まり、凝縮して――それはひとつの頭を形作った。
面長の顔、雄大な角。誇り高い、だがどこか不気味な瞳。
鹿だ。
半透明の鹿は、自分の居場所を確かめるように僅かに目を滑らせると、不意にユウの手から全身を引きずり出した。
半透明の巨大な体を大きくそらし、高く鳴いてそのまま後ろ足で地面を蹴る。
スワロウテイルの反撃も迅速だった。
いくつもの触手が、肉体を持たぬはずの鹿を貫き、その存在を吸い上げていく。
やがて、悲しげに一声鳴いて、青い鹿は横倒しになった。
ハイエナが死骸に群がるように、ビクビクと震える鹿に触手が殺到する。
「あ……」
それはだれかの、あるいはユウ自身のため息であったかもしれない。
だが、その意味するところは逆だ。
<パルスブリット>という<付与術師>の技がある。
手から無数の光弾を生み出して相手を弾幕に包む、<付与術師>の中では攻撃的な技だ。
ユウを見ていた生き残りたちは、死にゆくまでの数秒間に、例外なくそれを連想した。
次々と生まれていく。
半透明の動物たちがユウの手から生み出され、触手たちに殺到していく。
熊、馬、鹿、犬、兎、鳥。
さながら野生動物の大移動のように、青い光で構成された動物たちは矢の如く走り、触手に噛み付き、食いちぎった。
「……<ワイルドハント>」
それは確かに北欧サーバのレイドモンスター、ワイルドハントだった。
なぜここに、しかも人間から現れるのか。
その疑問に答えるすべは、ほかならぬユウ自身ですら不可能だ。
ただ一つ言えるのは、無数に生み出される触手に対し、<ワイルドハント>もまたその数でもって拮抗していること。
そして拮抗が一度破れれば、そこにはどちらかの破滅しかないという予測だけだった。
生き残った僅かな<冒険者>たちの誰かが、ごくりと固唾を飲んだ。
◇
ユグルタは敵の群れをかき分けるように走っていた。
目指す先は、ユウのいる広場だ。
結局、彼ら遠征艦隊は、当初の目的を達成することはできなかった。
<サスーンの墓場>に眠る古代の魔導兵器を目覚めさせることはできず、生き残った帆船だけで艦砲射撃をするほかなかったのだ。
だが、悪いことばかりではない。
当初想定していたよりも海岸沿いの喫水が深く――<聖域>が海に近い場所に広がっていたがために、彼らの短射程の艦載弩砲でも十分以上に打撃を与えられたのだ。
そもそも近代になって、竜骨に沿った位置に背負い式の主砲を持つようになるまで、帆走軍艦は両舷にハリネズミのように砲を据え付けることが通常だった。
ナポレオン時代のフランス軍総旗艦ビューサントルや、彼女と戦った英国海軍のネルソン艦隊の旗艦ヴィクトリー、分艦隊旗艦ロイヤル・ソヴリンなどは、両舷合わせて百門以上の砲を持つ巨艦である。
それには遠く及ばないにせよ、遠征艦隊の残存艦、さらには拿捕した<ジョン・ポール・ジョーンズ>による一斉射撃は、海岸線の建物や<教団>による急増の防御柵を文字通り消飛ばし、一面を肉の混じった更地に変えてしまったのだった。
海岸線から<教団>の<冒険者>たちが後退し――<大地人>たちも<敬虔な死者>に変貌する間もなく砂浜の消し炭に変わったところで、ユグルタは上陸を指令した。
船を操る一部の船員や、直衛用の召喚獣を操る<召喚術師>――そうした一部の人員で引き続き艦砲射撃を継続するよう命じると、残りはそのまま弩砲の弾丸や矢が落ちる合間を縫って飛び降りた。
ロープやタラップなどが使える状況ではない。
<冒険者>の頑強さに任せて、舷側から飛び降りるという、古今の上陸作戦の専門家ならあきれるか苦笑するかするような方法で、彼らは<聖域>の北部から進撃を開始したのだ。
そして今。
彼らは、数においてはるかに勝る<教団>側の防衛部隊を、文字通りなぎ倒していた。
「確保!」
短い念話が分隊の指揮者たちに聞こえると同時に、切り込みを行う艦隊員達が飛び出す。
戦士職が敵愾心を集め、武器攻撃職や魔法職がとどめを刺し、支援職が援護するという形は、通常の大規模戦闘と変わりがない。
しかし、彼らはそれをさらに突き詰めた。
相手が<冒険者>と<大地人>の混成部隊であることを事前に想定していたユグルタは、通常は戦線を整えながら徐々に押していくべきところを、一気に敵陣と接触し、混交状態を作り出したのだ。
これは、皮肉にも<教団>側における<冒険者>と<大地人>との意識の差が作り上げたものだった。
<冒険者>にとって、この世界は仮初のものだ。
と同時に、この世界に来てから徐々に、死に向かう際の痛みが強まっているのも事実だ。
そして、<不正規艦隊>が現実の米軍兵士を母体にした集団であることも理解していた。
結果。
彼らはすさまじい形相で駆け寄ってくるユグルタたちに怯えた。
いくら死んでもいいとはいえ、軍人相手に真正面から立ち向かって殺されることを避けたのだ。
一方で、<大地人>たちにそうした意識はない。
命は常に一度きりのものであり、米軍と言われてもピンとこない。
元の世界における兵士――殺しのプロだといわれても、それよりも戦わなければならないという覚悟が勝っていた。
彼らの多くは元奴隷だ。<聖域>は彼らの約束の地であり、<教主>はその主催者にして守護者である。
ともに逃げてきた家族のため、仲間のために、彼らは<冒険者>相手だと分かっても退かなかった。
その結果が、敵味方の入り混じった混淆状態だ。
それは同時に、数で勝る<教団>側が、その数を頼みにした呪文や特技で押しつぶすという戦術が取れなくなったことを意味する。
考えてみれば当たり前のことだ。
NPCと心のどこかで思っていても、ともに暮らして笑いあった『友人』を躊躇いなく殺せるほどに覚悟の座った人間はほとんどいない。
そして、それはユグルタや参謀長の読み通りでもあった。
「むやみに殺すな!」
指揮官たちの指示が飛ぶ。
仮に<大地人>兵たちが全員死ぬかゾンビになれば――<教団>側も大規模呪文の使用をためらわない。
<スペルマキシマイズ>などで強化された大型魔法の乱れ撃ちでも受ければ、一気に戦線が崩壊するだろう。
「了解っ!」
一人の<盗剣士>が答え、近くにいた<大地人>兵を蹴り倒した。
まだ少年の面影を残すその兵士は剣を取り落し、片足を抱えて蹲る。
大腿骨を軽い一撃だけで折られたのだ。
<不正規艦隊>の言う『殺さない』とはこの程度のものであったが、それでも艦隊の士気を高いレベルで維持することにユグルタは成功していた。
『提督! 状況を』
突然、ユグルタの耳に聞きなれた声が飛び込んだ。
乱戦の巷でもよく聞き取れる声、参謀長だ。
「ああ。敵の抵抗にぶつかっているが、おそらく突破は可能だろう。
連中の動きも鈍い。 どうやらそちらもうまくいっているようだな」
『数で押しています。 さすがは華国人、大規模PvPで鍛えた腕は飾りではないですね』
「ま、こっちの世界では友軍だ。 ありがたいことさ」
元の世界の祖国同士の関係を思い出し、ユグルタが皮肉気に応じると、『では』といって参謀長は本題に移った。
『そちらからも見えましたか、青い光と、半透明の動物の姿が』
「動物は見えていないが、光は確認した。 あれは<盟約の石碑>のある方角ではないな?」
『ええ。提督も見たことがあるでしょう。 ……ユウです』
「やはりか」
進撃中に見えた奇妙な光。
それが自分たちの進行方向上にあることを確認したユグルタは、旗下の部隊を躊躇なくその方角へ向けていた。
その場所には、何かがある。
『我々も部隊を分けて行動しています。<大神殿>――もしくはその役割を果たしているであろう施設の占拠。 <盟約の石碑>の占拠。 そしてユウの救援です』
「危険かもしれないぞ。 少なくともあの女がいまだにまともな<冒険者>かどうか、俺たちにはわからない」
話すユグルタの前方で歓声と悲鳴がない混ざって聞こえる。
<大地人>を盾にして進んだユグルタの兵士たちが、<教団>側の戦線を突き破ったのだ。
<教団>にも戦士職はいるが、時に泣き叫ぶ<大地人>を――文字通りに!――盾にした<不正規艦隊>は、彼らに連携を取らせる前にそのほとんどを撃破していた。
ゲームとしての<エルダー・テイル>との些細な、しかし重大な違いによるものだ。
戦場とは流れが支配するものであり――たとえ力がいくらあっても、心が折れれば取り戻せない。
「追い討て!!」
念話を止めたユグルタの怒声とともに、無数の呪文が撃ち放たれた。
火球、氷柱、雷光――それらが、背を向けて逃げ出す<冒険者>を弾き飛ばし、焼き、地面にたたきつけた。
一度では死ななくとも、二度、三度。
自らの力も忘れ、恐怖から逃げることだけを念じる<冒険者>たちに無慈悲な攻撃が降り注ぐ。
ユグルタは、部隊間の距離が広がるリスクを冒しても、部下たちのしたいようにさせた。
波に乗っている状況を止めて相手に再編成の機会を許せば、再度、今度は自分たちが奇襲される恐れがあるし――何より、これはマグナリアとクレセント・シティ、いや。 ヒューストンとニューオーリンズの復讐なのだ。
彼らの復讐心という炎に、ユグルタは適度に薪をくべてやる必要があるのだった。
◇
「共感子」
ユウは、自分の体からあふれ出る、レイドボスだった生命体の奔流をただ一心に浴びながら。
微かに呟く<教主>の声を耳にした。
彼女を取り巻く光は、ますます強まっていた。
もはやそれは水色ではない。 気炎のように取り巻くそれは、完全な真碧に染まっている。
搦め手から延びる触手もその光に触れるや否や、砂のように崩れだし、鈍い虹色の泡となって砕けていった。
「<厄の召喚>」
呟くユウ自身、明白な意識が残っていたわけではない。
あたかも芋虫の体を食い尽くした寄生虫が外の世界に出ていくように。
水がなみなみとたたえられた容器から流れ落ちていくように。
ユウの一切合財、中身すべてを道連れに<ワイルドハント>は空を駈ける。
そこに悪意は無かった。
ただ、適当な入れ物としてユウを選び、操り――怨敵を前にして猛っていただけだった。
いずれ。
数秒か、数分か――きわめて短い時間の間に、<ワイルドハント>の残滓はすべてユウから出ていくだろう。
ユウが貯めてきた思いも何もかもをともに流しつくして。
(それは、嫌だ)
ユウは<ワイルドハント>とほとんど一体化した心の片隅で思った。
自分の旅は。
自分の苦悩は。
自分の、家族への思いは。
自分の挑戦は。
こんなところで終わるのか。
戦ってもいない、自分のことを単なる寄生先としか思っていないレイドボスに奪い去られて?
ユウの脳裏に、過去の記憶が怒涛のように流れていく。
元の世界のことも、セルデシアでのこともすべてだ。
地球で生まれて育ち、<大災害>までに見聞きしたことも、アキバで目覚めてから過ぎたことも。
西ヤマトへの旅も、華国に向かってからも、それ以降も。
それは、深く暗い滝壺へ流れ落ちるように、ユウの心をかすめては消えていったが、同時に言い難いほどの激情を彼女の中に遺していった。
その激情が、ユウの心を気づかせ、起こし、奮い立たせていく。
確かに、<教主>は敵だ。
元の世界へは帰りたい。
ヤマトの仲間たちの力に――もうなれないにせよ――少しでもなりたい。
その為には、<教主>という、目の前の怪物は滅ぼしておくべきだ。
それが自分の旅の、一つの終着点なのだろう。
だが。
それは<ワイルドハント>のような余所者が成すべきではない。
私が、自分の意志で行うべきことだ!
その瞬間、ユウの眼が緑色に輝いた。
青い光を内側から押し返すように光芒が貫き、ユウの前で腕を組んで立っていた半透明の騎士――<ワイルドハント>の核がぎくりと振り向く。
「……私は!」
ユウはぎりぎりと、まるで重石をつけられたような鈍さで腕を振り上げ、握ったままの刀――<毒薙>を振りかざし。
「私だ!!」
叫んだ次の瞬間、刃は騎士の体を両断していた。
◇
「<厄を召喚する>!!」
ユウが雄叫びを放った。
意味するところは、先ほどと逆だ。
同時に、逃れるように青い光がユウから離れて半透明の騎士――<ワイルドハント>に取りつく。
そのステータス画面は、文字列に覆われていて見えない。
最初の邂逅ではユウも気づかなかったその情報が意味するところは明白だ。
<ワイルドハント>は一度<教主>と戦い……敗れていたのだ。
「なるほどな」
<ワイルドハント>という厄の青い光ではない、緑がかった水色の光に覆われて、ユウはぽつりと呟いた。
自分を乗り物代わりに扱ったこの怪物にも、物語があったのだろう。
<冒険者>も自分も知ることのない物語の果てに、ユウと出会い、今この場にいるのだろう。
その物語を知る由はない。
だが、一つ言えることは。
ユウにはユウの物語があり――それは、<ワイルドハント>を必要としないものであったということだけだ。
そして今、ユウは本当の彼女の厄を呼び出す。
ビシリと巨大な亀裂が<毒薙>に入り、刃はもはや振るだけで砕け散るかのようだ。
だが、そのひび割れのあちこちから、ユウにとっては懐かしい声が聞こえてくる。
本人ではないが、それでもともに戦いたいと願った人々の声が。
◇
皮肉にも、<教主>と<ワイルドハント>の均衡は破れていた。
本来のレイドボスとしての機能を他ならぬ<教主>によって歪められていたレイドボスは、<教主>の攻撃に耐えられなかったのだ。
半透明の獣たちが次々と触手に貫かれ、狩人や姫君たちが倒れこむ。
だが、それらを押し渡って、ユウと<ワイルドハント>の核を包み込もうとした触手は、今度は青緑色の光に阻まれた。
それでも、かろうじてユウのうなじに迫った触手を、突然の颶風が切り飛ばす。
猛る竜の浮彫を美しく刻んだ、その大剣は空中から現れた武骨な手甲に握られていた。
「『<黒翼竜の大段平>』」
かつて、アキバの夜にユウと鎬を削った親友の主武器だ。
主の代わりに駆け付けた、その大剣は意志ある生き物のように周囲の触手をまとめて斬り飛ばす。
「……」
なおも静謐な表情を崩さない<教主>から、さらに無数の触手が生えた。
生き残った<ワイルドハント>の残滓たちを貫き、消しながら、触手たちがユウに迫る。
だが、彼女は動かない。
動かぬままに、今度は純白に輝く大剣が彼女の背中から飛び出した。
「『我が敵を縛れ……<女王の拘束>』」
遠く白銀のヒマラヤで肩を並べた、強敵の声がユウに重なる。
<第二軍団>の軍団長、ティトゥスの誇る大剣は本来<暗殺者>には使えないはずの<守護戦士>の特技、<ヘヴィアンカー・スタンス>そのままに触手たちを縛った。
そしてユウの頭上から、珊瑚のような瀟洒な彫刻で満たされた杖が振るわれる。
「『行け、梟熊!』」
ユウのもう一人の親友、レディ・イースタルの忠実な従者たる梟熊、その姿を模した厄が、本来の獰猛さをむき出しにして触手に食らいつき、引きちぎった。
「『切り飛ばせ!』」
砂塵をさらさらと零しながら、中華風の直剣が回る。
それらの武器に援護されるようにいつしか、ユウ自身も走り出していた。
「『<ワイヴァーンキック>!』」
友人の武闘家が得意とした美しいフォームで、ユウのつま先が<教主>を直撃する。
至近距離に来たことで爆発的に広がった触手は、続けての刀の一閃に切り飛ばされた。
華国の友人が得意とした回転しての剣閃――<ワールウインド>だ。
その攻撃がやむのを待つことも、今のユウはしなかった。
かざされた手から氷と光線、二筋の光が<教主>を飲み込む。
<フリージングライナー>と<ジャッジメントレイ>、共に友人たちの得意技だった。
「なんだ、あれは……」
あまりの状況に、周囲の生き残りたちは自らの目を疑うことしかできなかった。
<カテゴリーエラー>というサブ職業があるが、いうなればユウはそれだ。
だが、数多くの特技を使用可能にする代わりに、その技は初伝同然というそのサブ職業とは全く違い、ユウの攻撃はひとつひとつが磨き抜かれたものだった。
あたかも、彼女とともにその使い手たちがその場で戦っているかのように。
「あれが……<冒険者>なの……か?」
その問いに答えられるものは、誰もいない。
「おい!」
唐突に呼びかけられた声に、生き残りたちは総じてびくりとした。
改めて自分たちがいつ死んでもおかしくない死地にいることを自覚する。
だが、ユウが呼びかけたのは彼らのいずれでもなかった。
「おい! <ワイルドハント>!」
怒声交じりの声に、半透明の騎士が顔を上げた。
無表情なはずのその顔は途方に暮れたように弛緩し、その体は徐々に消えつつある。
宿主であったユウから追い出され、触手によって存在そのものを削り取られ、<ワイルドハント>は消えかけていた。
その表情の意味は、言うまでもない。
絶望だ。
レイドボスが人間と同じ性格をしているかは、ユウにはわからなかった。
分からないまでも、思うものはある。
それは、経緯はどうあれ、目の前の<教主>に対し、<ワイルドハント>も戦うためにこの場にたどり着いたということだった。
流された結果として戦うユウより、もしかすると戦いにかける思いは強いかもしれない。
だからこそ、ユウは叫ぶ。
「ともに戦え! お前もこいつを倒したいんだろう!!」
かつての宿主の言葉を、レイドボスは最初は理解できないようだった。
だが、徐々に理解の光が彼の顔を照らすと同時に、その顔が変わっていく。
元の無表情ではない。 激情と――喜びに。
『感謝する』
ユウにも、ほかの生き残りたちにも、<ワイルドハント>がそう告げるのが、確かに聞こえた。
◇
ユウが躍る。
<暗殺者>の技と、無数の毒、そして彼女の中にあった宿敵たちの技を駆使して、彼女は三度空中を舞う。
そこに切り込んだのが<ワイルドハント>だ。
弓を持つ手を剣に持ち替え、ユウの背後を守るように半透明の騎士は触手を切り捨てる。
もはや触手の塊と化した<教主>は、玉葱が外から削られていくように、少しずつだが確かに滅ぼされていく。
それだけではない。
ユウの叫びに反応したのはもう一人、いた。
『う……』
うめき声は、他ならぬユウの正面から上がった。
見ると、<教主>の、そこだけはいまだに人間の顔を残した頭部が、わずかに目を開いている。
その眼が、かすかにユウを捉えた。
『ユウ……』
「スワロウテイル!」
この男とは、ほんのわずかな縁だった。
それでも呼びかける声に、ユウは叫んで応じる。
「貴様、気が付いたのか!」
『うう……』
触手の攻撃は止まらない。 それは、スワロウテイルがすでに自分の体の支配権を完全に奪われていることを意味していた。
『助けてくれ……』
二つの声が同時に彼の口をつく。
ユウは、その声にかすかに目を苦く歪めつつも、傷だらけの<毒薙>と<風切丸>を止めない。
『どうか……』
「すまない……」
本来は殺しても仕方ない相手なのかもしれない。
と同時に、考えれば助ける方法はあるのかもしれなかった。
その方法は、先ほどのユウ自身が示している。
「できるかわからないが、一瞬でいい、触手を抑えろ」
ユウの声に応じて、触手の動きが押さえつけられたように鈍くなる。
事情を察したか、<ワイルドハント>も剣と盾で<教主>の体を抑え込んだ。
青い光と、青緑の光が渦を巻き、<教主>の体全体を包み込む。
すべては同時だった。
半透明の騎士がかすかにユウに頷き、<教主>の体に重なるように消えていく。
ユウの背後から現れた厄たちの――友人たちの武器。大剣、長剣、杖、槍、戟、バットまでもが<教主>の体に突き刺さり。
青緑の光が、巨大な銃弾のように<教主>の体を打ち抜いた。
◇
収縮していく。
ねじれ、広がった触手が逆再生のごとく戻っていき、人間の腕へ、足へと変わっていく。
顔以外は異形と化していたスワロウテイルの全身が人間へと戻り、その色も浅黒い、<冒険者>としての彼へと戻っていく。
そして青い光が消えたとき、そこには囚人服を着たスワロウテイルがいた。
<ワイルドハント>の姿はもうどこにもない。
彼は――ユウの推測でしかないが――彼の旅を終えたのだ。
「……すまねえ」
そして、ぐったりと身をもたせかけたユウの耳に、スワロウテイルが小さく囁いた。
◇
「交戦を停止しろ」
生き残った幹部たちの多くは、トーマスの名で発されたその命令を一笑に付そうとして――できなかった。
<時計仕掛けの戦車>や帆船による砲撃、間断ない白兵戦――それらによって、<教団>は組織だった行動ができなくなっていたのだ。
ユウが気絶してしばらくして戦場に駆け付けたユグルタの名において、<不正規艦隊>側も徐々に戦闘をやめていくに従い、彼らはその意志とは裏腹に降伏を余儀なくされていた。
「こうなれば<敬虔な死者>で」
そう企図した者もいないではないが、そうした抵抗はごく小規模のうちに鎮圧されていた。
<教団>側にとっては想定外の出来事だ。
<不正規艦隊>側がゾンビの襲撃を十分に想定し、できるだけ<大地人>を殺さずに無力化することを目指していたのもそうだが、実際に周囲の<大地人>を殺すよう命じられた<教団>の<冒険者>も、多くがその命令には従わなかった。
戦場とは特殊な状況だ。
丸二日以上にわたって<大地人>とチームを組むことにより、皮肉にも<冒険者>側に仲間意識が生まれてしまっていたことが、彼らの蜂起を大規模なものにさせなかった。
そして。
<盟約の石碑>は周囲の壁を軒並み取り払われ、その姿を再び太陽の下にあらわにしていた。
時刻はもうすぐ日没だ。
囚われていたカイとテングが回復呪文を受けている横で、スワロウテイルはゆっくりとユウを地面に下した。
彼女は再び眠りについている。
それが一時のものなのか、永遠のものか、それは規則正しく上下する胸からは推し量ることはできなかった。
「……ユウ。 あんたはここに来たかったんだろう」
スワロウテイルの手向けのような言葉は、一抹の真実と欺瞞をともにあらわしていたが、周囲の<教団>も<不正規艦隊>も、誰も何も言わない。
<教団>側は武装を取り上げられ、個人化された装備は地面に放り出された非武装で、呆然としたように立ち尽くしていた。
スワロウテイルや、広場にいた<冒険者>たちからの情報――<教主>は怪物であり、スワロウテイルが宿主にさせられ、しかもそれを<魂魄処理装置>という名前でトーマスが私していたこと――を咀嚼し切れていないのだ。
「ユウ! ユウさん!!」
その中で、泣き叫びながら駆け寄る姿がある。
レンインだ。
動かぬユウに取りすがって、彼女は部下や敵の目も気にせず慟哭した。
いつ果てるともしれないその光景を、誰もが黙って見守る中で。
「……まだ、何かある」
カイが、ぽつりと呟いた。




