181. <対峙>
1.
死とは祝福であるという。
死ねば肉は固まり、強張り、変色し、やがて腐り、干からび、朽ちていく。
もし、人が。
その肉体が消えて果てるまで、意識を保つことがあったとすればどうだろうか。
たとえ虫に食い荒らされ、火に焼き尽くされる苦痛が自らのものでなかったとしても。
おそらく発狂するだろう。
死という眠りは幸福だ。
一切の苦悶、憂悶、自らの肉体が変わり果てていくおぞましさを、直視しないで済むのだから。
今。
ユウを苛むのは紛れもなく苦悶だった。
光の薄い午前の大地に、重低音が鳴り響く。
名も知られぬ神に捧げる祝祷歌のように、歌は多重螺旋のようにユウを取り巻き、
そして、彼女を分解した。
ユウ。
94レベル。
<暗殺者>
<毒使い>。
この世界でユウを構成するさまざまな要素が、彼女からふわりと浮き上がる。
無論、比喩的な表現だ。 現実のユウは、とある広場で足をもつれさせて倒れていた。
だが、彼女のステータス画面では別だ。
彼女を示すさまざまな説明が無数の文字列に塗り潰されていく。
「がっ、がっ、がっ……!!」
<ワイルドハント>に魂を押し潰されたときとは違った。
ユウの乏しい知識ではきちんと理解できないが、いうなれば記憶というのはハードディスク内における雑多なファイルのようなものだ。
有用なものも無用なものもあるが、少なくとも無くなっても肉体に影響はない。
職業だとか、レベルであるとか、そういったものは……いわば、システムファイルなのだ。
<冒険者>が<冒険者であるための、基幹となるべき情報。
ユウを取り巻いた歌声は、それを半ば強制的に歪め、書き換えようとしていた。
「がぁぁぁぁっ!!!」
ユウの目尻から鮮血がほとばしる。
びくびくと痙攣する手の爪が意味もなく地面を引き毟り、爪が剥がれて肉片が地面を舞った。
叫びの形に絞られた口の端は裂け、のたうちながら何度も頭蓋が地面に叩きつけられた。
自分の意識とは無関係な衝撃に、脳が揺れて正常な思考が薄れていく。
「がはっ……げ、げふっ!!」
撒き散らした吐瀉物に突っ伏したユウは、程度のひどい二日酔い、というにはあまりにガンガンする痛みに、寒気すら覚えながら感じていた。
自分を変えられるという拒否反応。
いきながらミイラにされるかのような想像を絶する苦痛。
その後に待っているのが変貌した自分という、恐怖。
ユウは<魂魄処理装置>という存在をまだ知らない。
だが、自分が目覚めた瞬間に響いた重低音、カイたちからの簡潔な状況説明、先ほど戦った奇怪な<冒険者>などから、この地には何か、自分の想像を絶するモノがあることは理解している。
そしてその牙が、ほかならぬ自分に今向けられていることも。
(自分が……変わる)
人がミイラになるように、ゾンビになるように。
まったく別の属性のものへと変わっていく。
「これが……死か」
元の存在特性を失い、別のモノとして生き続けるとするならば、そこにそれまでの自分との連続性はない。
それは、確かに<毒使い>の死、そのものだ。
この怪物めいた能力、あるいは装置が自分に向けられていれば、参謀長やカイ、レンインたちも無事であるという前提に立つならば、むしろ望むところと言ってもいいだろう。
(だけど、こんな死は迎えたくない)
我侭と言わば言え。
しっかり生きてきたのだから、せめてしっかりと死にたいではないか。
場末で吐瀉物を撒き散らしながら怪物に転生なんて死んでも死に切れない。
ユウは、断末魔の獣のように痙攣する腕で、それでも胸元から呪薬を取り出した。
囮になることを決めてから用意しておいた変形の爆薬――音と光が破壊力より大きい、一種の閃光弾だ。
相手の攻撃方法はわからないが、少なくとも音を遮断する。
ユウ自身の決意とは裏腹に、投げようとしたそれはころころと転がるようにしか飛ばなかったけれど、
それでも彼女が意図しただけの破壊を周囲に撒き散らしてくれた。
すさまじい爆音とともに、あたり一帯が一瞬の間光に包まれる。
低音の唸りが遠ざかり、自らの脳を揺らす無形の衝撃がかすかに薄れた瞬間、ユウはふらつく腕を叱咤して起き上がった。
さまよう目つきが、煙にかき消されつつも周囲を見る。
手は、次々と同様の爆薬を投げつけていた。
投げるべき爆薬がなくなった時が、多分ユウの最期だ。
ふと、異質なものが見えた。
なかば夢うつつのうちに、ユウはそこに向かって走り出していた。
2.
それは、一見すると不恰好な物体だった。
適当に継ぎ合わせたと思しき、金属と木材の集合体だ。
無理に形状の近いものを探すならば、木枠に嵌められ、下に台車をつけたトレーニングジムの日焼け装置が近いだろうか。
だが、『日焼け装置』には窓も扉もなく四隅の辺は乱雑にリベットで止められ、上からどうやったのか知らないが溶接までされた痕があった。
周囲の木枠と台車は、その装置を保持して移動させるためのものなのだろう。
直立した鋼の棺桶のような――訳のわからない物体だ。
だが、その『訳のわからなさ』こそが、それが異変の元凶であると彼女に告げている。
実際、その装置を取り巻くように武器を構える<教団>の<冒険者>たちは、装置がよほど大事なのか肉体を盾のようにして立ち塞がっているではないか。
相変わらず頭はガンガンする。
精神が砕けそうな焦燥感もそれまでどおりで、<大災害>後だけに限っても、ユウのコンディションは全盛期には程遠い。
口伝も使えず、ヤマトやユーレッドで見せたような、怪物じみた高速戦闘も不可能だ。
だが――頭蓋を錐でねじりまわされるような痛みの中でも、まだユウが培ってきた戦いの経験は、彼女を見捨ててはいなかった。
「化け物っ!!」
叫びざま、槍を突き出してきた一人の穂先を払う。
爆音で耳が聞こえないのか、後ろで呪文を唱える仲間の声も無視して槍を振り回すその男の正面にユウは膝蹴りを一発。
股間を押さえてうずくまりかけたその男の襟首を掴んで彼女は大きく振り回した。
直後、着弾した<オーブ・オブ・ラーヴァ>が、ユウの代わりにその男を火達磨へと変える。
「こんなところで呪文を打つな! <福音装置>に影響が出たらどうする!」
誰かの悲鳴のような叱咤を尻目に、焼死体じみたその男を投げ落とし、ユウはナイフをばら撒いた。
男の喉笛に、あるいは他の男女の喉元や腹に、ナイフが突き刺さる。
出し惜しみをする気はない。
それらの短剣には、もちろんながらとっておきの邪毒が塗りこめられている。
窒息する者、全身を溶け消えさせるもの――<外観再決定ポーション>を混ぜたのだ――、黒い血を吐いて即死する者。
ユウの投擲の的にならなかった幸運な<冒険者>が、恐怖におびえた目であとずさった。
<大地人>はそれ以上だ。
彼らの信仰をもってしても、<冒険者>すら惨死させる毒を操る化け物に立ち向かえというのは、人間としての精神の限界を超えた何かだった。
ざあ、とユウの周囲から人が離れていく。
「<教主>と<教団>のためだ! 臆せず立ち向かえ!!」
駆けつけてそう叫んでいた黒人の戦士――ユウは知らなかったが、<教団>幹部のガンマだった――が、するすると近づいたユウの刀によってばっさりと斬り倒されると、ついに彼らの士気も崩れた。
鳴り響く低音も圧して、人々が叫び、逃げていく。
その声に意味などはない。
人間が死から逃れるための、本能的な叫び。 相手を威嚇し、自分を殺したら恐ろしいぞと脅し、逃げるまでの数秒の時間を稼ぐための、魂からの咆哮だ。
まだ戦意を有していた人々も、仲間たちのその叫びに徐々に混乱し、そして一人一人と踵を返していく。
しばらく後には、そこに動く人間はいなくなっていた。
◇
「こい……つか」
口元から唾と血の混じった液をぺっと吐き出し、ユウは震える足で謎の箱の前に立った。
今はほとんど聞き取れないが、かすかな唸りは今も消えずに響き続け、ユウの脳髄をぐちゃぐちゃに書きわし続けている。
その音源はこの箱であることは明らかだ。
ユウは、普段の彼女からするとゆっくりと――実際にはすらりと二本の刀を構えると、躊躇いなく突きたてようとした。
「はい、それまで」
刃が箱に届こうとした、その時。
一瞬早く箱に到達した<疾刀・風切丸>が、横合いから伸びた刀に弾かれる。
ベキ、と異音が成り、<幻想級>のはずの刃が、その中央から円状に伸びたひび割れに埋め尽くされた。
誰がどう見ても、もはや武器として役に立たないことは明白だ。
その一撃を為した者――トーマスは、突き出した自分の日本刀をしげしげと眺めて、嫌らしい笑みを浮かべた。
「これはこれは。 腐っても<幻想級>ですか。
まあいいでしょう。 どうせ<教団>のものになる」
「きさ……ま」
「あなたがいれば、極論この装置は壊れてもいいんですけどね。 ただの箱ですし。
でもまあ、もう少しあなたが再起不能になるまで、しばらくは保ってもらわなければ」
にたにたとした笑みを浮かべたまま、ユウにとっては顔もあまり覚えていないその男は、部下がすべて姿を消した後の広場で、箱をぽんぽんと叩いた。
まるで親しい旧友の肩を叩くように。
「何……者だ」
「言葉が喋れるとは存外ですね。 まあ、特殊な個体だからそれもあるのかな?
きちんと挨拶するのは初めてですかね、<教団>の幹部のトーマスです。
別に出てこなくてもよかったんだけど、腑抜けの部下が逃げましたし、せっかく面白そうな敵なのに、
後ろで<装置>に任せきりなのも面白くなくて。
訓練がてら、相手してもらうので、よろしく」
「よろしく」の言葉を発し始めると同時に、唐突に男――トーマスは足を踏みしめた。
一瞬でトップスピードに躍り出た速度は、嘗てのユウに勝るとも劣らない。
「<暗殺者>!」
「殺しはしない。 ……<毒使い>の残骸」
振り下ろされた黒い日本刀が、ユウの翳した<毒薙>に激突し、妙に音楽的な音を響かせた。




