180. <攪乱>
1.
無秩序に連打するドラムのような音がユウの耳に届いたのは、夜が明けてしばらく経ってからのことだった。
異国の大地を照らす朝の陽光はか細く、まだ夜明けから時間も経っていないこともあって、空気はひんやりと夜の帳の名残を残している。
(何が起こった?)
既にカイたちとも連絡が取れ、彼らの囚われた場所があの<盟約の石碑>のある場所だということはユウには分かっていた。
だがさすがにそこまでの道のりは遠い。
ローズマリーとの戦いを遠くで観測していたのだろう多くの<教団>側の<冒険者>が、いまやユウを追っている。
狩る者から狩られる者に変わってしまったユウの焦りは深い。
(時間切れだけは何とか……避けなければ)
ローズマリーとの戦いで<サモン・ディゼスター>を使ってしまったのは失敗だった。
手持ち時間が一気に消えたのが分かる。
自我を保てる時間はあと何日か、あるいはあと数分かもしれない。
その後は、あの華国で見た男のように、何もできずにただ生きているだけの残骸となるだろうことを、ユウは感じていた。
「美咲、玲子、幸一……」
本音を言えば、自分の精神が砕け散る最後の時は、家族のことだけを想っていたい。
妻子は消えた父の最期など知りもしないだろうが、それでもだ。
しかし、カイたちの顔がそれでもユウを進ませる。
彼らに受けた恩義が、どこか人の来ない場所で朽ちるというユウの望みを妨げる。
ぎり、と彼女の唇が何度目かに鮮血を滴らせた時、不意に聞こえるはずのない声が耳に届いた。
◇
「ユウさん!」
本陣でレンインは絶叫していた。
彼女の目には、もはや二度と輝くことはないと思っていた名前が、フレンドリストの中でひときわ明るく照らされている。
「ユウさん! 無事なら返事をして!!」
『ああ、レンインか。 お久しぶり』
自分を殺し、自分に殺された友人の声が彼女の耳朶を打つ。
『こんなところにどうした? ウェンの大地にレイドでもあったのか?』
「この状況でよく……軽口が」
すすり泣くレンインの声は、言葉にならない。
代わりに顔を近づけた参謀長が声をかける。
「ユウ。 ……この女性は話ができる状況じゃなくなった。 いったん念話を切って私と繋いでくれ。
今の状況じゃ君に声を届けることはできても君の声が聞こえない。いいな?
問題なければ5秒後にこっちから発信する」
きっかり五秒後、今度は参謀長の耳にユウの声が響く。
『参謀長もいるのか。 ユグルタはどうした? 遠くに聞こえる爆音はお前さんがたのせいか?』
「ああ。 話せば長いが、<時計仕掛けの戦車>を率いて<聖域>に強襲をかけている」
『戦車だと!?』
驚くユウに、参謀長はなおも続けた。
「戦艦も現在ユグルタのところで修復中だ。使えるか分からないがね。
時間がない。 質問をいくつかする。
カイたちは一緒か?」
『違う。 連中は捕まった。<盟約の石碑>のあるゾーンにいる』
「わかった。次だ。 昨日から見ていた変な光と音は君のせいか?」
『そうだ』
短く事務的な応答に、参謀長は思わず小さく手を握った。
「……結果的には君の行動はいい撹乱になった。我々はこのまま<聖域>を押し潰す。
君はカイたちの救助を優先するか、無理ならこちらと合流しろ。
もうすぐユグルタたちも来る。 拿捕した<ジョン・ポール・ジョーンズ>と帆船だけではあまり陽動にもならないだろうから、彼らも湾側から突入する。
……連中の親玉、<教主>は見かけたか?」
『いたし、倒したが……あれは変だ。 <教主>本人にさほどの求心力はないのかもしれない』
「なんだと?」
話しながらも本陣は徐々に前進している。
参謀長たちの前方では、<不正規艦隊>と華国の連合軍が、<教団>側と壮絶な白兵戦を行っていた。
戦況は、人数と支援砲撃で優位に立つ連合側がやや押しているといったところだ。
<大地人>兵がいるにもかかわらずそれほど優勢でないのは、<教団>側が<冒険者>と<大地人>とを問わず、命を捨てて応戦しているからだった。
<教団>の<冒険者>にしてみれば、たとえ死んでもすぐそばで復活ができる。
また、<大地人>の多くは逃亡奴隷や小作人あがりだ。
彼らにとって――たとえ死ねばゾンビになる運命が待っていたとしても――ここは苦難に満ちた人生の、文字通り聖域なのかもしれなかった。
「参謀長! ここで停止します!」
「よし、戦線を押し上げろ! 穴を作るなよ! 連中は突撃してくるぞ……ユウ。どういうことだ?」
ユウが短く話す内容を聞いた参謀長の眉が、徐々に角度を増していく。
その形相と反比例するように彼の声はますます隠微に、密やかになっていた。
何を話しているのか、その隠微な声からは、誰も聞き取れない。
やがて念話を終えた彼はなおも茫然自失のレンインと、その隣で佇む<古墓派>のシャオロンに振り向いた。
「作戦目的を変更する。 狙いは<教主>ではなく幹部と<盟約の石碑>だ。 部隊に前進を命じる。
それと……引き続き各部隊には集合を」
◇
「ようし、行くぞ!」
豪放に笑い、カシウスが愛馬の腹を蹴り飛ばした。
華国に来て習い覚えた大槍を振り回し、敵陣目指して駆けるその姿はまるで中国史の英雄だ。
突撃する主将に遅れまいと華国の侠者たちが歓声を上げて後に続き、その熱気に煽られてか、元は軍人のはずの<不正規艦隊>のメンバーもまた、口々に叫んで彼らを追った。
<聖域>の西部、荒野と木立の境目で、帯のように広がって押し合っていた戦線が崩れる。
絶え間ない砲撃に加えて、<冒険者>による突撃に、<聖域>側は完全に浮き足立った。
そうなれば、経験の差がものを言う。
元々軍人として訓練を受けた者が大多数を占める<不正規艦隊>。
<大災害>以降の一年近くを、互い同士の血みどろの内戦で過ごしてきた華国の<冒険者>。
集団としての力量という点で、烏合の衆に過ぎない<教団>側に押しとどめられようはずもない。
「そうりゃ!!」
カシウスが槍を掬い上げるように振り回すと、面白いように<教団>員たちが吹き飛ぶ。
彼がこじ開けた戦線の綻びに<冒険者>が殺到し、それぞれの特技でそれをこじ開けていく。
<時計仕掛けの戦車>が同士討ちを恐れたフーチュンによって静止されられた時には、既に相手はほとんど壊乱していた。
「<大地人>は殺さん! 手向かいするな、武器を置け!!」
「奴隷商どものところには戻さんぞ!」
連合軍側が口々に叫ぶ声に、<大地人>たちの中にも武器を捨てるものが出始める。
「ええい! 戦え!!」
<教団>側の指揮官らしき男が怒鳴るが、その声も大歓声の中に埋もれていく。
フーチュンは悔しかった。
本音を言えば、カシウスのように敵陣に真っ先に飛び込みたかったのだ。
だが、彼には戦車隊の前線指揮という任務を兼ねており、戦闘に没入するような贅沢は許されていない。
(畜生……)
腰の剣は、あの西域で手に入れた砂塵剣など及びもつかぬ業物だ。
その剣が泣いているような気さえする。
同時にフーチュンの心には喜びもあった。
レンインから、ユウと連絡が取れたことを知らされていたからだ。
あの敵勢の向こうにはユウがいる。
そう思って逸る心に任せ、彼は鋭い目で敵勢を見つめ続けた。
2.
ユウは走っている。
参謀長たち、あるいは海から来るであろうユグルタたちと合流するためではない。
逆だ。
自分を多くの<教団>員が追っている――半ば包囲されかけていることは理解していた。
ならば、いっそ出来るだけ引き付ける。
まったく別の方向に彼らを誘導しておけば、その分<盟約の石碑>を守る人間も、参謀長たちに対応する人間も減るという算段だ。
と同時に、ユウの内心には安堵もある。
レンインが来た、ということだ。
彼女が来たということは、華国――<夏>が組織としてウェンの大地に援軍を送ったことに他ならぬ。
ヨコハマで初めて会ったときと異なり、今のレンインの挙措進退には、それだけの重みがある。
であれば、カイたちを助けるのは――彼女自身が念話で参謀長に依頼したように――自分でなくてもよい。
よしんば彼らが殺されたとしても、生き返るのはこの<聖域>内でなのだから、そこを保護すればいいだけだ。
つまり。 ユウは自分が捨石になることが出来るということだった。
(であれば)
残酷な決断をあっさりと下した彼女は、むしろ周囲に見せ付けるように家々の屋根を飛ぶ。
紺碧色が徐々に鮮やかな青に切り替わる黎明の空で、彼女は踊っているかのようだった。
「いたぞぅっ!」
地上から自分を指差す兵士の声に、次々と兵士が現れる。
遥か下方を右往左往する彼らを手にかける気は、今のユウにはない。
彼女に匹敵する身の軽さを持って迫り来る<暗殺者>や<盗剣士>、そして<召喚術師>の召喚獣にのみ気をつければ良いだけだ。
先程のローズマリーのような怪人が相手として出てくるかもしれなかったが――そのときはその時だ、と彼女はあっさりと割り切っていた。
空はどこまでも澄み渡っていた。
砂漠の果てに浮かび上ぶ太陽は、ゆっくりとだが確実に、光を大地に溢れさせようとしている。
紺碧の夜は既に西の空に落ち延び、雲ひとつない晴れた天が孤独な<冒険者>を包み込んだ。
高い建物のない空から望むアメリカの大地は絶景の一言に尽きる。
旧サンフランシスコやロサンゼルスの廃墟群は視界を遮ることなく、
東方の砂漠や、西に茫漠と広がる太平洋までも一望できた。
北を見れば、草原の向こうに炊事の煙が見える。
遥か彼方のダンジョンから来たのでもあろうか、天を悠々と泳ぐ竜族が翼をはためかせるのが見えた。
東方に靄のように広がるのは、参謀長やレンイン率いる<冒険者>たちだろう。
砂煙を上げ、激しく動きながらも彼らは原初の多細胞生物が触手を伸ばすように、着実に<聖域>のあるエリアに近づいている。
ふと思い立ったユウは、持っていた爆薬の瓶を空中に差し伸べた。
中身の詰まったそれを、まるで触れるように、蹴る。
地上へと落下していく爆薬を尻目に、ユウはさらに高く飛んでいた。
空中を渡ることも多かった彼女でもめったに見ることの出来ない高空だ。
ヤマトで竜と戦ったときよりも、北欧で鷲頭獅子と戦ったときよりも、遥かに地上からは遠い。
両足を地上から話しての高度では、恐らくあの氷竜王の背に乗ったとき以来であったろう。
今の彼女の行動に戦術的な意味はない。
単に、美しい夜明けを迎えつつある世界を、深く己の記憶に刻み付けたかったのだ。
それが、遠からず砕け散ってしまう記憶だったとしても。
さらに高く、<冒険者>が自分の足で到達することが出来る、最も頂点へ。
そこは――気のせいだろうが――地表が丸く見える気がするほどの場所だった。
北には長大な西海岸の海岸線が連なり、南は中米の熱帯林に続く。
(そういえば、エルの奴はジャングルを渡って黄金都市に行くとか言ってたっけ)
自ら取り込んだ厄でもある、宿敵ともいえる女ドワーフの顔を思い出す。
憎み、その生き様を嫌悪し、反発し――それでもどこか似ていた彼女は今も、セルデシアで出会った大事な男の形見たる青い長剣を背負い、どこかの森を歩いていることだろう。
東方を見ると、いまや<不正規艦隊>側は明確に押しているようだった。
<教団>側はもはや部隊の体を成していない。
その戦闘で槍を振るう白面の武者と、やや後方で督戦する小柄な青年の姿を、ユウは捉えた。
「カシウス、フーチュン……!」
フレンドリストから彼らもこの大地にきていることは分かっていたが、やはりじかに見るとユウの心にもなんとも言い知れぬ感慨が沸いた。
そして。
西の彼方、様々な色合の青色に彩られた大洋がある。
その、ユウから見れば足元のような距離を疾駆する帆船が見えた。
あれがユグルタたちなのだろう。
さらに、遠くを見るユウには、このとき現実ではないものが視えていた。
遥かな太平洋――半分の地球であっても無限ともいえる距離の向こうに、ヤマトがある。
彼女が棄てた、この世界での最初の居場所だ。
そこには、まだ、大事な友人たちがいる。
「世事浮雲何ぞ取るに足らん……」
自分が見る最後の夜明けかもしれないその光景に、ユウは数秒の間見惚れていた。
例え、数時間後には追われた獣のように狩り立てられたとしても、この光景だけは忘れたくない。
この奇妙な世界こそが、ユウの一年を象徴するものなのだから。
突然、横合いから挑戦的な叫びが轟いた。
見れば、鋭い尾を風に靡かせた巨大な古代翼竜ともいうべきものが、自由落下を始めたユウの側で滑空している。
その眼を見れば、通りがかった野生動物でないことは知れた。
鋼尾翼竜だ。
その尾がぎらりとユウの眉間を向き、鋼尾翼竜は突撃を開始する。
ユウがいかに敏捷を誇っても、そこは<ガストステップ>でたどり着いた高空だ。
彼女の持つ運動エネルギーは、ほとんどが位置エネルギーに変換されている。
高度数百メートルからのコードレスバンジーに向かいつつある彼女には、回避することすらままならない。
「……これは渡りに船」
徐々に強まる周囲の風に口元の皮膚がめくれながらも、ユウの口がにんまりと笑む。
その表情は鋼尾翼竜に負けず劣らずの獰猛さだ。
残り少ないナイフが飛び、それは首を向けた鋼尾翼竜の口の中に突き刺さる。
「<アトルフィブレイク>」
突如全身が麻痺した翼竜がなぜ、という顔を向けるのも構わず、ユウは風に乗って近づく竜の動かぬ首筋によっこら、と乗った。
スカイダイビングの要領だ。 そのまま、手が裂けるのも構わず鋼尾翼竜の首をねじり、無理やり風に乗せる。
下で誰かが騒ぐ声がする。
遊覧飛行を精々した後で、嫌がらせに連中の幹部の屋敷にでもぶつけてやろう……
その時のことだった。
ざわりとした悪寒が全身を駆け抜けた。
恐怖でも畏怖でもない。
微かな歌のような音が、聞こえる。
ユウは、自分と鋼尾翼竜の落ち行く先が奈落であるような気すらした。
あわてて、まだ息の根を止めていない――死ねば消えるのだから当然だが――翼竜の向きを変えようとする。
だが、竜にユウの指示に従ういわれなど元よりなく……結果としてユウは落ちざるを得なかった。
飛び出そうにも、射程に入るや否や、魔法と矢が対空砲のごとく打ち上げられたからだ。
哀れな誰かの鋼尾翼竜が絶命するまでの僅かな時間で、ユウは煙に包まれる。
<シェイクオフ>だ。
こんな所で死に、そのまま目覚めないというのはさすがに願い下げであったのか、ユウが脱出を果たそうとする。
だがそれより前に、装置はうなりを上げて本格稼動に入っていた。
「うまく行きましたな」
「意外と丈夫だからね、今度のコアは」
それを見ていたトーマスが、横にいた男――鋼尾翼竜の主たる<召喚術師>と立ち話をしている。
その<召喚術師>はふと気がついた。
服装こそいつものシャツにズボンの軽装だが、ひとつ見慣れないものがトーマスの腰に下がっていることに気がついたからだ。
「おや? 先生、それは?」
「いや、ちょっと運動をしようかと思ってね。実験代わりに」
腰の『刀』をぽんと叩いて、トーマスは楽しげな笑いを響かせたのだった。




