179. <ローズマリー>
1.
ユウの記憶が不意に蘇った。
もとの世界なのか、この世界のことなのか。
地面にぶちまけられた汚水のような卵から、無数の虫が孵化する瞬間の光景だ。
ぶつぶつと泡を浮かび上がらせる、かつて<妖術師>だった生き物は、まさに幼虫が孵化するかのごとく、不意に全身を巨大な泡と化し――爆発した。
黒い霧が一瞬でユウの全身を包む。
直後、露出した彼女の肌、さらには単なる布に過ぎない上半身の服のあちこちが、鋭利なナイフで削がれたように切り裂かれた。
うめき声を漏らし、霧から飛び離れようとするユウの足を不意に何かがつかんだ。
驚いた彼女が目を向けると、そこにあったのは霧から突き出たローズマリーの手だ。
手首をひねり、バランスを崩したユウを嘲笑うように、手は再び霧の中へ消えていく。
いつしか周囲は完全に、暗雲のような不気味な霧に包まれていた。
武器を振っても、掠るのは空気だけ。
『<吸血鬼妃>を舐めないで』
不意に声が響き渡る。
陰々としたその声は、周囲すべてから聞こえてくるかのようで位置関係を把握できない。
「……なるほど」
ことここに至って、ユウもようやくローズマリーの攻撃に気が付いた。
ハンガリーに悪名高い公爵夫人の名を冠したモンスターである吸血鬼妃は、ゲーム時代は純粋な意味で吸血鬼の上位互換種族だった。
同じく男性吸血鬼の上位互換であるモンスターと合わせ、「遭遇したら死ぬ」と西欧サーバの<冒険者>たちを恐れおののかせた存在である。
ごく稀に、召喚獣として契約を行うこともあったものの、それをなし得た<召喚術師>は全世界を通しても両手の指に足りるとまで噂されていた、ボスクラスの大モンスターだ。
どうやらローズマリーは、そのモンスターとしての特殊能力をほとんど使えるらしい。
ユウは噂でしか聞いたことはないが……ゲーム時代、HPの減った吸血鬼妃は自らの体を霧状に変え、その中から自由自在に攻撃を仕掛けるという、一種の無敵攻撃を特技として持っていたという。
その攻撃をまともに食らえば、複数パーティであっても壊滅は免れ得ない――ダンジョンに挑む<冒険者>がそう話しているのを、ユウは聞いたことがあった。
(おそらく、その技だ)
それも、攻撃範囲が画面内に限定されていたであろうゲーム時代と違い、大災害後の吸血鬼妃は文字通り気体として目に届くすべてに自らを拡散させることができる。
日没後ということもあって、霧がどこまで広がっているのか、もはやユウの目にも判別することは不可能だ。
その中で、吸血鬼というモンスターの持つ絶大な身体能力を生かして襲ってくるローズマリーの攻撃に、防御力が低いユウでは太刀打ちは難しかった。
『駄目ね、駄目ね、悪魔。 私を救うこともできなかったくせに、私が苦しむのを横でなにもしなかったくせに、私の攻撃にも耐えきれない。 あなた、駄目ね。 やはり弱々しい悪魔ね』
「面白いことを抜かす」
四方八方から来る攻撃を警戒し、崩れかけた石壁に身を寄せたユウがせせら笑った。
ローズマリーが、かつての吸血鬼妃と違うところが一つだけ、ある。
彼女には、感情があるのだ。
ならば。
<毒使い>の毒は呪薬だけではないことを、教えてやれる。
「たかがモンスターと混ざった程度で、偉そうに論評とは。お里が知れるな、小娘」
くすくすと笑う声が途切れ、代わりに貫手がユウの足を狙った。
その手をとっさに蹴り返して、なおもユウは笑う。
「私は<毒使い>だぞ。 どうやらこの霧、状態異常効果も与えてくるようだが、こっちにとっては涼しいだけだ、莫迦め。
気が向いたら、またお手手を出してくるといい。片手は二枚におろしてやったから、残る手でね」
言いながらも、心の中でカウントする。
これが吸血鬼妃の特技、その一つなら、時間制限は必ずある。
いつか、霧の体を維持できなくなる時が来るはずだ。
その時、ローズマリーがもし、血まみれのユウになおも完勝しようとするならば。
それは、吸血鬼が持つ最大の対人攻撃でしかあり得ない。
徐々に暗闇が晴れていく。
霧の範囲が縮小しているのだ。
どこかうす赤い、巨大な月が雲の間にかすかに見えた。
月の影が、にやりとした笑みを形作る。
毒々しいその笑みが哂ったのは、<毒使い>か、<吸血鬼妃>か。
(……60!)
カウントを終えた瞬間、ひやりとした吐息が首筋にかかった。
ユウは崩れかけた石壁に背を向けて立っている。
その石組みの間から、にゅるりと頭を伸ばしたローズマリーは、牙を剥き出してユウの耳元に囁いた。
「悪魔。あなたを眷属にしてあげる」
勝利を確信した蠱惑的な瞳が、ユウのうなじの裏で瞬いた、その瞬間。
「こっちも眷属はいるんで御免こうむる」
『……ってことさ、生憎だったな』
「『<サモン・ディゼスター>』」
ユウの体から緑の光が伸び、ぱきりと刃がさらに砕ける音がして。
半透明の、長剣を構えたドワーフの娘が、目だけを振り向かせたユウの横で、悪戯っぽく笑みを見せた。
ローズマリーが、驚愕する暇もあらばこそ。
『<デボーション>』
かつての宿敵が口伝にまで高めた技が発動するのと、ローズマリーが伸びた牙をユウに突き立てるのは同時だった。
牙が白い首筋に突き刺さると同時に、ローズマリーの青白く光る同じ部分に、ぽつりと二つの傷穴が浮かび上がる。
それは一瞬で巨大な裂け目となって広がると、どろりとした血を吐きだした。
<デボーション>――口伝による完全な攻撃反射。
本物をコピーしたただの厄に過ぎない半透明のエルでは完全反射は不可能だったのか、ユウの首にも傷跡が残るが、ローズマリー自身へのダメージははるかに大きい。
「うがぁっ!!」
痛みにのけ反った<吸血鬼妃>が、なおも手を伸ばす。
噛めないとなれば、せめて首の骨をちぎり取ろうと。
相手はボスモンスターだ。 いくらユウが<冒険者>でも、一瞬で頸椎はへし折られるだろう。
だが、伸ばした手が触れたのは、たおやかな項でも、流れる髪でもなく。
「……瓶?」
転瞬、ユウが大きく上体を前に倒す。
前転のように転がった彼女の背後で、閃光と爆音が響いた。
爆薬だ。
「……死体は火に弱い」
自ら転がることで衝撃波をやり過ごしたユウが目にしたものは、両手を吹き飛ばされ、顔のほとんども崩れたローズマリーの姿だ。
半ば吹き飛ばされた顔面は、<冒険者>の美しさなど微塵もなく、ほとんど頭蓋骨が露出し、再生した目玉がでろりと視神経でぶら下がるという凄惨なありさまだった。
吹き飛ばされた唇のせいで、余計に骸骨めいて見えるその歯が、悔しそうにカチカチと鳴る。
「どうして……私はこれまで辛かったのに、なぜ今も辛いままなの」
「うるさい」
剥き出しになった鼻腔の中央に、ナイフが突き刺さる。
鼻のあった位置にナイフを刺したローズマリーの姿は、まるで長鼻人形のおぞましいカリカチュアだ。
「不幸自慢なんかするもんじゃない。 もっと悲惨なやつもいれば、私より幸せだった奴もいる。
……分かったら死ね」
本当はローズマリーにはいろいろと聞きたいことがあった。
なぜ、高レベルモンスターをサブ職業として身に着けたのか。
誰が彼女にこのような処置をしたのか。
だが、今のローズマリーに問いかけても、まともな答えは返ってこないだろう。
もはや彼女が正気だったのかどうかすら、ユウには知る由もない。
であるならば。
「涅槃へ行くが情け。 末期の慈悲だ。 厄にはしない」
近づいた彼女の持つ青い刀、<風切丸>が、ぐい、とよろめく<吸血鬼妃>の頸椎に食い込み。
その首は次の瞬間には宙に舞っていた。
2.
ぶくぶくと泡がローズマリーを覆い尽くしていく。
それは先ほどのものと違い、七色に輝いてはいたが、その動きは軽やかに浮かぶ普通のものと違い、地面にしみ込むように広がっていた。
その中で、どこか翳った光に包まれ、ローズマリーが消えていく。
末期の言葉は、ない。
ただ、かすかに動いた歯が、何事かを告げているだけだ。
先刻の音と光で敵が集まってくるリスクも甘んじて受け、ユウは消えゆくローズマリーを見つめていた。
このセルデシアにあってなおも歪な『死』を遂げつつある、<冒険者>と<吸血鬼妃>の混和物を。
「……この世界にも、『まともな在り様』はあるのだろうか?」
ぽつりと呟く。
吸血鬼系に限らず、亜人や不死者系のモンスターは<大地人>の魂が歪んで生まれたものだと、各地の<大地人>に伝わる伝説は知らせている。
それが事実であることを、ユウは欧州で出会ったアルヴ総督のなれの果てを通じて知っていた。
まともに生きず、魂を歪めて死ねば、その意図がどうあれ存在は歪むのだ。
ローズマリーの死は、それが<大地人>だけのものではないことを告げていた。
(魂を歪めて死ねば、通常の生もあり得ない……)
ならば、体に無数の『厄』を抱える自分はどうなのか。
覚悟はしていた。
自分の内面との問いを経て、ただ死ぬことへの恐怖や嫌悪感とも向き合ってきたつもりだ。
だが、目の前でこうもまざまざと、歪められた『死』を目の前にしたら。
不意に、ユウは背を向けた。
そのまま飛ぶ。
その背中が語るものは、もはや何もない。
既にユウは、彼女にとってのルビコンの河を超えてしまっているのだから。
人影の失せた広場の頭上で、月がまた、にたりと哂った。




