177. <福音装置>
1.
時間は若干遡る。
参謀長たちが華国の援軍とともに出陣を決め、ユグルタたちが巨大な<時計仕掛け>を動かそうと四苦八苦し、そしてユウが闇夜に飛んだのとほぼ同じ時刻。
<聖域>の奥まったところにある木造のログハウス、その一室で、場にそぐわぬ陽気な声が上がっていた。
「教主に!」
「トーマス先生に!」
暖炉が赤々と燃える広間からは今は椅子が取り払われ、装飾のない木のテーブルの上にはチーズやサラダといった軽食が並べられている。
6月のサンフランシスコといえば元の世界ならとっくに夏の装いだが、肌寒い空気を照らす暖炉の暖かさと、薪の燃える臭いが、なんともいえぬ風情を場に醸し出していた。
広場の中央で人に取り囲まれているのはトーマスだ。
いつものとらえどころのない笑みではなく、本当に面白いといわんばかりに屈託なく笑う表情は、今の彼を外見相応の若者に見せていた。
「それにしても<魂魄処理装置>とはすごいものですな。さすが先生だ」
声をかけてきた男とグラスを合わせ、アップルサイダーを飲むトーマスは上機嫌だった。
研究の成果が、まずは効果を発揮したのだ。
しかも、<ノウアスフィアの開墾>を実装済の<冒険者>にも効果を及ぼすという、望みうる最善の形で。
1人は逃がしたが、それは些細なことに過ぎない。 <冒険者>は英雄ではないのだ。
いくら腕が立ったとしても、百人単位で追いかければあっけなく捕まるだろう。
<不正規艦隊>の侵攻――彼にとっては侵略も、それほど重大な事態とは思えない。
既に<魂魄処理装置>は、整備員の手入れを受けつつ前線に向かって進んでいる。
中身もこの程度の連続使用で問題が出るとも思えなかった。
「それにしても、<魂魄処理装置>……いえ、信者の言葉では<福音装置>でしたかな。
あれはどのような原理なのですか」
別の人間が質問する。
いつもなら冷笑で返すトーマスだったが、この時の彼は珍しく、少しは馬鹿に説明してやろうという気になっていた。
「簡単に言えば、<教主>のお力、その一部分を人為的に再現できないかという試みですよ」
「……<教主>の」
座が僅かに静まる。
<教主>とは、ゲーム時代にはあり得ない技を使うことを許された選ばれた<冒険者>だ。
一般の信者はおろか、高位の幹部でもその全容を知る者はいない。
そもそも誰が<教主>になったのかすら、謁見した幹部でさえ知らないのだ。
ステータス画面を覗き見しても、意味の分からぬ文字列が絶え間なく動くのを見るだけだから。
この広間でトーマスを囲む男女を含め、ガンマやジェニーのような高位幹部でも、<教主>の力は神の御業と捉えられている。
彼らにとっては至極当たり前の発想だ。
人にできない奇跡を起こせるものといえば、それは神か悪魔しかいないのだから。
「それは……しかし神の御業を人が真似することができようなどとは」
「むろん、神の力を人が真似ることなど不可能。 我々凡俗にできるのは、その現象を自分たちの知識の及ぶ範囲で観測し、まがりなりにも似たようなものを作ることだけですよ」
答えているようで、実は何の返答にもなっていない返事だったが、聞いた男はなるほどと言わんばかりに頷いた。
「そういえば、あの黒い<暗殺者>の放っていた光も、ゲーム時代にはなかったものでしたからな。
なるほど……さすがはトーマス先生だ。 <教主>のご信任も厚いだけはある」
「この<教団>の創立者、その最後のおひとりだけはあるな」
再び活気づく一座に会釈すると、彼は座を抜けてテラスに出た。
頭上には、やや青みがかった月が傾き、夜風は涼やかに酔いの回った彼の顔を嬲る。
(人は見たいものしか見えない、というのは誰だっけ。 ワシントンかな?)
くすくすと笑う彼の手に、一本の煙草がある。
元の世界では吸おうとも思わなかったが、この世界に来てつい吸ったのがきっかけで、いつしか常喫するようになったのだ。
カチリ、と火打石で火をおこし、ふう、と煙を吐き出すと、彼は口元を抑えて尚も笑った。
(福音装置とは……<魂魄処理装置>にずいぶんとたいそうな呼び名をつけるものだ)
この世界はゲームではない。
精霊稼働船<ジョン・ポール・ジョーンズ>しかり、<星条旗特急>しかり、黒い水しかりと、ゲーム時代になかったものが次々と生み出されているではないか。
おそらく、ウェンの大地ほどの混乱を免れた他のサーバなら、それはさらに発展していることだろう。
この世界におけるアメリカは、間違いなく技術後進国になりつつあるのだ。
(そんな危機感を考えもせず、呑気にはしゃいで……俺より頭がよかろうが、現実でマシな暮らしをしていようが、結局は軒並みバカだな)
そもそも、<魂魄処理装置>なる代物自体、半分以上使い捨ての機材なのだ。
銃が弾丸を入れないと銃としての役割を果たさないように、装置も中身がないと動かない。
とはいえ、中身などすぐ取り替えることができる。
そのために、あの<教主>と取引したのだから……
「トーマス」
ふと肌寒さを感じた。
トーマスがテラスの手すりで煙草をもみ消した時、図ったかのようなタイミングで眼下から小さな声が届く。
見下ろせば、闇夜にあってなお白い肌をした女<冒険者>が彼を見上げている。
その非人間的なまでに無感情な目に、トーマスは知人に会ったかのような気安さで片手をあげた。
何しろ彼女を『こうした』のは自分の命令だ。
<装置>の実験台でしかなかったが、よほどに鬱屈したものがたまっていたのか、期待以上の働きを見せてくれる。
彼には死体愛好の趣味はなかったが、愛人とでもしておいて、何らかの地位を与えたほうがいいかもしれない。
そう埒もないことを思いながらトーマスは手を挙げたまま階下の<吸血鬼妃>、ローズマリーに声をかけた。
「どうした? パーティならまだ階上でやっているよ?」
「……あの黒い悪魔を倒しに行く」
「黒い悪魔? ……ああ」
昨日――彼の認識上はまだ今日だが――暴れまわって消えたヤマトの<暗殺者>を思い出す。
「無理に追いかけなくてもいい。 どうせ奴が来る場所は決まっている」
「……追いかける……」
確認に来たというより、単に告げに来ただけなのだろう。
同じ言葉を繰り返す彼女に、尚も言葉をかけようとして……トーマスはふと気を変えた。
どうせ実験の一環で生まれただけの使い捨てだ。
黒い悪魔を倒せるならそれでよし。 どうせ居たら<不正規艦隊>相手に役に立つかなと思える程度の存在だ。
ぶつけてみるのもいいだろう。
「なら、頼むよ」
あっさりとした承諾を聞く間も惜しいとばかりに、白い吸血鬼が身を翻す。
その姿を目で追いながら、トーマスは二本目の煙草に火をつけた。
2.
「いたぞ、そこだ!」
「あっちだって!」
(なんだか懐かしいな)
右往左往する眼下の<教団>メンバーを見下ろしながら、ユウの胸に感慨が広がる。
思えばこの世界に来て最初のころも、こうやって夜を走っていた。
だが、あの頃にあった興奮も悔悟も今は彼女の中にはない。
代わりに抱いているのは、一言でいうなら悲哀だった。
当初、だれも傷つけることなくカイたちの囚われた場所――あの<盟約の石碑>に向かおうとしたユウだったが、その目論見はごく序盤の間に軌道修正を余儀なくされていた。
当たり前だが、個々の小屋や広場は個別のゾーンとして設定されていても、<聖域>全体は元は広大なフィールドゾーンだ。
そして<教団>には<追跡者>もいれば<辺境巡視>や<探索者>といったサブ職業持ちもいる。
さらにはカイたちの奪還にユウが向かうことを予測した<教団>側の手配りもあって、彼女はいつの間にか包囲され、その輪は刻一刻と縮まるという状況に直面することになった。
であれば、残り時間の少ない彼女にとって取れる手は、結局いつもの通りとなる。
「殺せ!」
「魔法職ども! 灯火を上げろ!」
次々と打ち上げられる<魔法の明かり>によって周囲が照らし出される中、ユウは叫ぶ一人の<冒険者>の真後ろに着地した。
そして一撃。
背中を深々と斬り割った緑の刃がもたらす猛毒に、一瞬でその男のHPが半減する。
「寝ててくれ」
元より殺さずに無力化などという真似ができる状況ではない。
ユウはよろけた男の口を右手でふさぐと、左手に持ち替えた<風切丸>をその喉に滑らせた。
ぷしゃ、と存外軽い音とともに頸動脈の血が噴き出す。
血の音に周囲の仲間が気付いた時にはすでに彼女は闇の中だ。
「隊長!」
駆け寄った若い<大地人>兵の頭蓋が西瓜のように砕けた。
すぐそばの暗がりに潜んでいたユウの肘による一撃だ。
続けてそのまま、顎から上を失った頭部から股間までを一太刀で斬り下ろす。
「ひゃう」
何も残酷に殺したいわけではない。
<冒険者>と違い、<大地人>はかなりの確率でその場で蘇る。 <敬虔な死者>として。
それを防止するためには、蘇っても邪魔にならないよう、死体をひどく損壊させておくほうが楽なのだ。
(楽……と思うあたり、私も結局変わっていないということか)
暗澹たる思いは一瞬、首をかすかに振ってユウは余分な思いを吹き払う。
彼女の思いも、心ももはや無限ではないのだ。
<毒薙>や彼女の中の協力的な<厄>が、<ワイルドハント>――その残滓を抑え込んでいてくれるまでの時間。
その間にカイたちを助け出し、脱出させる為に、余計なことを考えている暇も余裕もない。
「て、敵」
叫びそうになった別の<冒険者>に、ユウは躊躇なく体当たりした。
もつれ合うように転げた相手の男の口を、自分の胸をのしかからせて塞ぐ。
これまでの彼女なら絶対にやらなかった戦法だ。
恐怖とも歓喜ともつかない、何とも言えない表情――といっても目しか見えないが――そのその男に、ユウは「ゴメン」と呟き。
躊躇いなく目を抉った。
ぱきりと音を立てて眼底が割れ、ぐちゅ、と脳を刃が貫く感触が彼女の手に届く。
ひくひくと痙攣させて泡と変わったその男の胸を手で突き飛ばし、転がった彼女の胴、正確にはそれがあった場所を矢が貫いた。
「弓使いか!」
答えは言葉ではなく、するどい羽音だった。
立ち上がれぬまま転がる彼女の頭蓋を射抜く位置に、次々と矢が突き刺さる。
頭上を<魔法の明かり>に照らされているとはいえ、すさまじい技量だ。
建物と大地が描く陰影に隠れようとしても、矢は正確にユウの肉体を狙って飛んできた。
今のユウ、特にその上半身はほぼ布一枚だ。
弓矢と侮れば、一撃で射殺される可能性も絶無ではなかった。
「<シェイクオフ>!」
叫びと共に、もうもうと煙が上がる。
その中を無音透明のまますり抜けた彼女は、自分の期限がさらに削られたことを重い疲労と、わずかな意識の混濁から悟っていた。
(……特技は使えないな、これじゃ)
内心で呟く間にも、矢は次々と飛んでくる。
特技を使って身を隠したユウをあぶりだすために、どうやら弓使いは狙撃から乱射に切り替えたらしかった。
文字通り雨を髣髴とさせるほどの数の矢を、それでもユウは避けながら走る。
幸いにして、巻き添えを恐れてかほかの連中は襲ってこない。
弓使いは優勢を確信しているのか、位置取りを変える気もないらしく、一方向から立て続けの連射を浴びせかけている。
ユウは思い切って飛んだ。
手近な小屋の庇を足場に、高く飛んだ彼女が見るのは、どうやら女性らしい弓使いの位置だ。
銀の光が飛ぶ。
投げ込まれたナイフに塗られていた毒に、弓使いは対処しようもなく、そのまま射撃位置だった出窓から落下した。
矢がやんだこと、地面に女が倒れていることから、周囲で見ていた男たちがユウと誤認して殺到する。
たちまち無数の刃を仲間に突き立てられて絶命するその女弓使いに、ユウは一瞬手を合わせると、そのまま屋根の上を走っていった。
◇
その女は、ユウが追っ手を撒いて屋根から降りた場所に、唐突に居た。
闇夜になお白い肌、だがその顔は見覚えがある。
それでも一瞬、亡霊と見間違えたのは、その顔に浮かぶ表情のあまりの空虚さからだった。
ユウに残された記憶によれば、彼女はそれほどに無感情な顔をしてはいなかったはずだ。
奴隷としてこき使われ、<大地人>の欲望の吐け口にされていた彼女の顔は確かに空虚だったが、その上には絶望や諦念、悲嘆といった感情が薄皮のようにただよっていた。
だが、今はどうだ。
そこにあるのは無、だ。
あの欧州で出会った不死の毒王を思い出させる、デスマスクのような無表情。
その無表情のまま、白い女――ローズマリーはいきなり駆けだした。
「!?」
速い。
かすかに見えるステータス画面では、『ローズマリー <妖術師> 26レベル』の文字が揺れているが、そんな低レベルの、しかも<妖術師>に出せる速度ではない。
ユウが反射のみで駆けだす。
速度を誇る彼女の、しかしローズマリーはそれに迫る速度で走り寄ると、不意に片手を軽く振った。
瞬時、彼女の手が黒くぼやけ、霞のように消え失せる。
ユウが咄嗟に握ったままの<風切丸>を目の前にかざしたとき、ガキン、と音を立てて奇怪な意匠の大鎌の刃が、彼女の眼前で火花を散らした。
「死になさい、幸福な悪魔」
大鎌を片手のみで振り抜いた少女は、無表情のまま、それだけを呟いた。




