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ある毒使いの死  作者: いちぼなんてもういい。
第9章 <エリシオン>
233/245

175.  <省己>

1.


 彼女が目覚めた瞬間。

世界は異音に包まれていた。


深く続く恨み言のように、かすかに唸る重低音。

強制的に開かれたステータス画面には、無数の<欠片>の文字が躍っていたかと思うと、一瞬で消えたそれらの代わりに、不気味な文言が渦を巻く。

紙魚(しみ)が本のページを侵すように、徐々にかすれていく己をあらわす文字。

名前、職業、レベル、経験値、<毒使い(サブ職業)>、ユウがユウである証が奪われる。

代わりに<聖痕>という名の聞いたことのない状態異常が彼女に取り付き、不気味な痛みが全身を駆け抜けた。



 気づけば彼女は高く飛んでいた。

地上で(くずお)れるカイやテングを助ける暇もない。

ただ、彼女はどこかの屋根を踏み台にさらに跳び、その目の端に二人が捕縛されているところを映すしかなかった。

彼らが何をしてくれたか、無数の<欠片>を束ねた今のユウには分かっている。

義侠の一言で言い表せないほど、彼らには助けてもらっていたことも。

だからこそ。


(カイ! テング!)


彼女の<暗殺者の石>から、小さな液体が空中に飛んだ。

誰の目にも触れることなくそれは二人の体の一部にこびりつく。

<痕跡の呪薬(マーカーポーション)>だ。

本来、大規模戦闘(レイドバトル)などで動くボスを追跡するのに使う呪薬だが、これで二人が死なない限り、ユウはそのあとを追うことができる。

<不正規艦隊>の参謀長が、ユウ自身が気づかぬうちに与えてくれた、贈り物のひとつだった。


 そうして夜の空を駆ける彼女の心臓は、どくどくと音を立てて脈打っていた。

後悔と憎悪、自己嫌悪と殺意がないまぜになった血が、彼女の体を流れていく。

だが、今の彼女はそのどろりとした血流の中にほんのわずか、清澄な流れがあることを知った。

それこそが、ユウを『ユウ』から引き離し、二人を生かして取り戻すための、最後の命綱だった。


(今、私が衝動に任せて彼らを救いに戻れば)


待っているのは破滅だ。

異形の力をふるうユウを捕獲するためにこそ、二人の命は存在する。

ユウが捕まれば、90レベルを超えているとはいえ、単なる<冒険者>に過ぎない二人を生かしておく意味は<教団>になくなることだろう。


だからこそ今は、逃げる。

ユウの影は、<教団>の誰もが追い切れない速度で、闇の奥へと幻のように消えていった。



 ◇


 <聖域>はかつてのシリコンバレー全体を覆う、巨大なエリアだ。

その中に、ある程度の秩序を持って建物が立ち並び、全体として巨大な街を形成している。

市域だけで言えば、サンフランシスコ湾の最奥に位置し、サンノゼ、サンタクララ、ミルピタスといった市街区を含む広大な地域が含まれていた。

その中には、人の目につかぬ、小さなゾーンが無数にある。

ユウが身をひそめたのも、そうしたゾーンのひとつだった。

小さな小川を引き込んだ、納屋と思しき小屋だ。

<大地人>の洗濯場ででもあったものだろうか、壁の下から滔々と流れる小川は、透明な水をたたえて、静かに傷ついた<暗殺者>を映し出している。



 彼女は、重い疲労と鈍い疼痛に眉を寄せながら、ゆっくりと自らの装備を外した。

ブーツを脱ぎ、手甲を外す。

素肌を見せた手のひらで、ユウはばさりと自分の黒髪をかきあげた。

続いて、既に防具としての役割を放棄した<上忍の忍び装束>をゆっくりと脱いでいく。

固結びにしていた紐を外し、ぼろぼろの上着を脱ぐと、下から現れたのは焼き色も綺麗な帷子だ。

いわゆる鎖帷子ではなく、皮革を丁寧に(なめ)して作り上げたそれは、<ロデリック商会>の<裁縫師>苦心の一作だ。

少しでも防御力を、だが体の動きの邪魔にならず、音を立てないものを。

高レベル素材から作られたその鎧は、今までユウの体に与えられるはずだった致命の一撃から、紙一重で彼女の命を救ったことも一度や二度ではない。

だが今、ささくれてあちこちが破れたそれは、<冒険者>の努力がついに力尽きたことを示していた。


鎧を落とすと、下から黒い無袖の下着が露わになる。

タンクトップのようなそれを脱ぎ、胸を押さえていた晒を外すと、忍びには似つかわしくないほどに豊かな胸がぼろんと零れ落ちた。

同じように下半身も脱いでいく。

ズボン型の上着を外し、膝につけられた金属製の膝当てを外し、飾り気のない下着を脱ぎ捨てると、ユウは裸身のまま、ゆっくりと小川に身を沈めた。


 水浴びをしたのは、いつ以来だろうか。

疲れも、おそらくは<聖痕>なる状態異常効果(バッドステータス)によるものであろう疼きも止まないが、それでも清冽な水に浸されて、彼女の緊張がゆっくりと解れていく。


(……ユウ(・・)


水面に移るのは、あの幻のようなゾーンで見た美しい女性だ。

年のころは20を過ぎたあたりか、あの時と変わらぬ端正な顔立ちは、今は泥や埃に汚れ、泣きそうに顔を歪めている。


ふと思って、ユウは自らの視界で存在を主張する砲弾型の乳房を掴んでみた。

生きている人間が持つ暖かさと、体に触れた時の感触、それと同時にかすかな感覚が彼女の神経を駆け上る。

かつて全身全霊で嫌悪した感触だ。

理由は言うまでもない。

彼女の、『鈴木雄一』というアイデンティティを脅かしていた、それは『女』の感触だからだ。


ユウは自らの心臓の鼓動を確かめるように、じっと自らの胸に触れていた。


今ならわかる。

なぜ女の肉体を持ちながら、ひたすら女としての自分に気づかない振りをしていたのか。

惹かれていたからだ。

ユウ自身が、女としての自分をどこかで肯定していたからだ。

故郷に戻り、家族の父親で、夫でありたいという心の裏に、異世界で女のままでいたいという欲望があったからだ。

<外観再決定ポーション>というアイテムがある。

<エルダー・テイル>においていったん作り上げた肉体(アバター)の容姿性別を変える呪薬で、<大災害>直後、世界に残っていたポーションはひと財産に勝る価格で売買されたと聞く。

この世界において、ユウのように元の世界とセルデシアでの性別が不一致になったプレイヤーを、数多く救ってきたアイテムだった。

ユウ自身、ほしがらなかったといえば嘘になる。

アキバで連続殺人に手を染めた自分に手に入れられる伝手はないと諦めていたが、本当にそれが諦めた理由だったのだろうか。

殺人を犯す前に、彼女には時間があった。

クニヒコのような、大手ギルドに所属する友人もいた。

彼らの伝手を辿れば、手に入れることは難しくても決して不可能ではなかったはずだ。

それからの旅においても、ポーションを持つ人間には出会っている。

北欧サーバ、<傷ある女の修道院>で出会った女性<吟遊詩人(スカルド)>、アールジュだ。

彼女に頼めば、それを譲ってもらうことも可能であったろう。


なぜ、しなかったのか。

それは、今までのユウにとっては考えるのも恐ろしい命題だった。

『<外観再決定ポーション>を使いたくなかったから』

その結論に行き着くことが恐ろしかったから。


だが、今ならば平静に受け止めることができる。

ゆっくりと水を浴びながら、ユウは自らの肉体を改めて見下ろした。

女性としての魅力を存分に、かつ永遠に湛えるその体をもってすれば、どんな男にも取り入ることができるだろう、古の妲己や西施にも比肩すべき傾国傾城の肉体を。


(……そうだ。 私の中の一部分は、女であることを確かに肯定していたんだ。

だからこそ、『ユウ』を名乗り、男とも女ともつかぬ口調をしてきた。(ユウ)は、(ユウ)でいたかったんだ……)


やがて、ユウは手を離した。

ふる、と揺れたたわわな胸をもう一度見下ろし、かすかに笑う。


「今まで邪険にして悪かったな、『ユウ』。お前は、私が作った肉体(アバター)なのに。

日本でも中国でもヨーロッパでも、お前に傷を負わせてばかりだった」


最後に愛おしげに自らの肉体を撫でると、彼女の口から小さな決意が漏れ出た。


「だが、もう少しだ。 もう少しで、私も、お前も、お役御免さ。

だから、これからちょっとだけ、私に力を貸してくれ」


 体を洗い終え、滴る雫をふき取ると、彼女はゆっくりと、<上忍の忍び装束>を裂いた。

胸に汚れた今までの物の代わりに、裂いた布から作った晒を巻きなおし、胸を動かないように固定すると、続いてタンクトップをまとう。

その上に着るはずの革鎧や上着は着ないまま、彼女は今度は洗い立ての髪をたくし上げた。

何の香水もつけていないのに、ふわりと香気が彼女自身の鼻をつく。

かつてはそれすら嫌がっていたが、今のユウの口から洩れた言葉は違うものだった。


女房(あいつ)の匂いだ……」


顔も名前も忘れていても、髪の匂いだけはかろうじて思い出せていた。

甘美な、そして長い記憶を象徴する香りが、ユウにはまるで別れの残り香のように思えた。

ふ、と笑ってその髪を後頭部でまとめ、布で結ぶ。

ポニーテールのような恰好にまとめた髪をぱしっと払い、ユウは続いて下半身を整えた。

下着を着、<忍び装束>のズボンを履くと、膝当てをつけ、ブーツを身に着ける。

靴紐と腰のベルトをしっかりと結ぶと、破り余った布は尻の側に、スカートのように流した。

動きの邪魔をせず、同時にそれまでになかった、女性らしいシルエットを形作っていく。


その恰好は、今までのユウと比べてもなお軽装だった。

上半身は薄いタンクトップ一枚であり、体の線をはっきり浮かび上がらせたその恰好に防御力は言わずもがな、皆無だ。

<忍び装束>はもはや下半身を覆うだけで、かつてそれが誇った防御力も耐久力も失われている。

だが装着者の速度を上げるという、装備の持つ能力だけは、まだ失われていなかった。



 その恰好のまま、続けてユウは鞘ごと岸辺に置いていた刀を手に取った。

一振りを腰の後ろに、もう一振りは背中に背負う。

腰に置いた刀の鯉口を切ると、かすかに緑の光が輝いた。


彼女にとって、刀――<蛇刀・毒薙>の隠された能力もまた、既に知るところだ。

緑の輝きを纏って自らを護り、同時に破滅へと追いやっていた、毒の刃。

だが、彼女の戦いに常に在ったのもまた、この刀だった。


すらりと抜いた刀はすでにボロボロだ。

あちこちのひび割れは刃紋と既に区別がつかず、乱反射する輝きは頼りなく、弱弱しい。

ステータスを見るまでもなく、刀が限界を迎えつつあることは自明だった。

そんな自らの愛刀に、ユウは人間に対するように、優しく語りかけた。


「すまない、<蛇刀>。 そして私を護ってくれて、礼を言う」


脳裏に、自分と全く同じの、ただ眼だけが蛇のそれに変わった人影が浮かび上がる。

<破片>の記憶から再構成した、自分の脳裏における<毒薙>の姿だ。

セルデシアにおいては、この刀は刀以外の姿をとることなく、無論返事もせぬ。

それでも万感の思いを込め、ユウは愛刀に囁いた。


「いずれ共に死のう。 それまではもう少し、私と一緒に戦おう」


リィン、とかすかに鍔鳴りの音がして、輝きがわずかに揺れる。

刀の意志と呼ぶべきものが何を自分に答えたのか、ユウは疑っていない。

結果的に自分を煉獄に追いやったとしても、このかつてのレイドボスの牙から作り上げられた刀は、最後の最後まで、ユウの手にあり続けるだろうから。


<毒薙>を鞘に納めたユウは、今度はもうひとつの刀を抜いた。

青い光を放つ、<幻想>級の大業物。

かつては同じく<幻想>級の黒剣を手挟む騎士の手にあり、ユウに譲られたものだ。

こちらには何も告げることなく、彼女の眼はじっと青い光を見つめ、やがてゆっくりと納められる。

<風切丸>に意志はないかもしれない。

だが、緑の輝きに飲み込まれかけたユウを救い上げ、口伝という形でその厄を祓ったのは、この刀であっただろう。


服に武器を整え、いつでも戦場に出られる形になったユウの目が壁の向こう、<盟約の石碑>を見据える。

その口に浮かぶのは決意の言葉でも、泣き言でもない。


青海長雲(せいかいのちょううん)  暗雪山(せつざんくらく) 、 孤城遥望こじょうはるかにのぞむ  玉門関(ぎょくもんかん)

黄沙百戦(こうさひゃくせん)  穿金甲(よろいをうがつも) 、 不破楼蘭(ろうらんをやぶらずば)  終不還(ついにかえらず)……いや」


ユウは小さな声で言い直した。


仲間(とも)を救わずんば……生きてまた還らず。 カイとテングを救い出し、私は生きる。

生きて、仲間(クニヒコ)たちや敵たちの元へ……その向こうにある家族の元へ、還ってみせる。

<毒使い>のユウ、行くぞ」



 いつしか失っていた、燃えるような目に輝くのは、どろりとした殺意の炎ではない。

子供を、<大地人>を――他人(ひと)を助けるために戦った時の、冷静と激情の間にある怜悧な炎だ。

黒い瞳はなお黒々と濡れたように輝き、全身にまとう青と緑の光も、今のユウの体を這うのを避けるようにかすかに光るばかりだった。


そうして<毒使い>は飛び出す。

夜明けを迎えつつある、<聖域>に。


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