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ある毒使いの死  作者: いちぼなんてもういい。
第9章 <エリシオン>
231/245

173. <天暗>

前回に引き続き、オヒョウさま『私家版 エルダー・テイルの歩き方 -ウェストランデ編-』http://ncode.syosetu.com/n4000bx/

より主人公、西武蔵坊レオ丸法師をお借りしております。やっぱりコピーですけど。


あわせて、彼の言葉に関しては、オヒョウ様の示唆を頂きましたこと、御礼とともに申し上げます。


二次創作物としては論外も良いところの独自設定ばかりのこの文章、終わるまで今しばらくお付き合い頂けましたら誠に幸甚です。

1.


「………ウ! ………う!」


 なんだ、五月蠅いな。

美咲(女房)か?

あの山の神、いつも俺が寝坊するとああやって起こしに来る。

数年前まではそれは子供たちの仕事だったが、もうあいつらも思春期だ。

子供はそうやって親から離れていくんだろうな……


「ユウ!」


 懐かしい綽名だ。 学生時代、まだ付き合い始めたころ、美咲はそうやって呼んでいた。

大家の婆ちゃんもそれに乗っかって、俺のことを『ユウちゃん』なんて呼びやがる。

もういい年のおっさんなんだからちゃんづけはないでしょう、なんて言っても聞きやしない。


そうか。そういえば婆ちゃんも再来年は七回忌か。

婆ちゃんは蕎麦と洋食が好きだった。 美咲のコロッケは何より好きだったっけ。

出張から戻ったら、婆ちゃんを偲んでその日の夕食はコロッケにしてもらうか……


それにしても、なんだか不思議な気分だ。

爽やかというか、耳詰まりがうまく取れた後のような、気分よく飲んで寝た次の日の土曜の朝のような。

頭に懸っていた靄がすべて晴れているかのような……


…………ここは。


 気づけば、俺は廃墟の町に立っていた。

無数に立ち並ぶ廃ビルに、埃をかぶったショーウィンドウ。

アスファルトは溶け消えて、まるで江戸時代のような土の路上からは、好き勝手に木が生えている。

それにしても、この木の大きさはどうだ。

見上げるほどにその背は高く、幹は力士の胴体よりも太い。

振り仰げば、澄み切った青空をモザイク状に散らばせて、天空を覆う巨大な枝葉が見えた。


どこなんだろう、ここは。


 俺はぼんやりと歩き出した。

歩きながら、考える。


 不思議な気分だ。

何と表現すればいいのか、妙な疲労と焦りが俺の中にわずかに蟠っている。

強いて言えば、俺はこの奇妙な廃墟を歩いているはずなのに、同時に肉体が走り回っているような感覚だ。

俺の主観とは別の部位に、疲労がじんわりと溜まっていくようだ。

俺は夢でも見ているのか?

そういえば、この廃墟にしてもそうだ。 現代の日本で廃墟はともかく、ビルより高い大樹なんて聞いたことがない。

あの場所か? 7年前の……いや、違うような気がする。

周囲に建つ朽ちたビル群は、どうみてもオフィスビルのなれの果てだ。

ビルがこんなに密集している場所が、立ち入り禁止区域になったとは聞いたことがない。


それに……俺はどこかでこの風景に見覚えがある。

見たことのないはずの場所に不安を覚えないのも、その所為なのだろうか。


人の影はない。

ふと、埃で汚れた硝子の破片に何かが映った気がしても、それは俺が焦点を合わせるより先に、虹のようにぼやけて消えていた。

さっき、俺を確かに誰かが呼んだんだが……



 ぼんやりと歩くうちに、今度は奇妙な感覚に気が付いた。

体のバランスが取りにくいのだ。

何というか……奇妙な場所に奇妙な(おもり)をつけて歩いているようで妙に歩き難い。


「英国紳士じゃあるまいし、この年で杖の助けは欲しくないなぁ……」


俺が呟いたとき、視界の片隅を別の人影が横切った。



 ◇


 そこにいたのは美しい女性だった。

他人事ながら手入れが大変だろうな、と思える綺麗な黒髪を腰まで流した女性だ。

相手も同時に気づいたらしく、俺のほうを見て「あら」と言うように口をOの字に開けている。


俺はそろそろ中年の坂を上る年だが、一瞬見とれるほどの美貌だった。

全体的な印象は優美と言っていいだろう。

端正に整った容貌を閉じ込めた顔は見事な卵形をしており、その顔の下には異性の理想像のような肉体が広がっている。

グラビアアイドルも裸足で逃げ出すほどに整えられた首はすらりと肩に伸び、白く透き通るような肌は下の黒いシャツに隠されている。

胸は豊かに張り出し、その下の腰の細さは故人の言う『柳腰』とはこういうものかと思わせた。

そうでありながら腰から足にかけてのラインはふわりと広がり、肉感的な美しさを醸し出していた。

纏う服装は黒一色のラフなもので、一瞬喪服ではないかと思ってしまったほどだ。


 だが、そんな姿でありながら、全体としての印象は女性としての色っぽさよりもむしろ毅然さ、清楚さが先に立つ。

男性になよなよと縋るのではなく、共に歩く強さを持つ女性だけが持つ凛とした雰囲気だ。

庇護欲をそそるでもなく、劣情で惑わすでもなく――俺もしっかりしなきゃ、と男に思わせる女性だ。


だからなのだろうか。


俺をじっと見つめるその女性に、思わず声をかけてしまったのは。


「あの」


口から声を出して気づく。

これはまずい。


せめて俺が彼女と同年代の学生であったなら、似合わぬナンパだとごまかすこともできただろう。

だが生憎と俺は40のおっさんだ。 男性的魅力が皮下脂肪と体臭で日々減退していくのを直視すべき年代だ。

そしてそれを覆い隠す魅力を備えているわけもない。

ドン=ファンやルドルフ・ラッセンディルどころか、声をかければ即事案発生だ。


尻に帆かけて逃げ出そうとした俺に、彼女の口が動くのが見えた。


おや?


踵を返そうとした俺の足が止まる。

どうやら、目の前の美女は俺を不審者ではなく、対話に値する他人だと思ってくれたらしい。

珍しいこともあるものだ。 目に障害でもあるのだろうか?


俺は慌てて一礼した。 ふわりと何かが目の横を流れ、灰のようでどこか艶めいた香りを残していく。

その匂いに、俺はふと気が付いた。


「そうか、これは夢なのか」


 目の前の、ちょっと現実味がないほどに美しい女性も、夢だと思えば納得がいく。

深層心理で作り上げた理想の女性なら、俺の都合がいいように動くのも納得だ。

俺はさも余裕ありげに声をかけようと彼女に近づき、何か甘い言葉を言おうとして――唐突に転げた。


むに。


地面に自分の肉体が当たる感触とともに、何とも言えない感覚が自分の胸元を駆け抜ける。

なんというか。 胸から落ちたのに、腹から落ちた時のような、柔らかい衝撃だ。

同時にばさりと、俺の視界を黒い波が埋め尽くした。

その隙間から見れば、相手の女性も転げたらしく、滑稽に見えるしぐさで手をふらふらとさせている。


その時。


俺は自分の勘違いに気が付いた。

目の前にあったのは硝子ではない。 薄汚れた等身大の鏡だった。

そして――女性はその向こうになどいなかったことを。



 ◇


 胸を触る。 ある。 砲弾型のふくよかな感触が自分の手一杯に触れ、ざわりと鳥肌が立つ。

股間に触れた。ない。 妻と協力して命を二つ生み出したはずのものがない。

起き上がりざま頭に触れた。 そこにあったのは、摩耗の兆候を見せ始め、脂で毛穴の詰まった短髪ではない。

黒く流れる、しっとりと吸い付くような感触の髪の毛だ。


『俺』の手が自分自身をまさぐるにつれて、先ほどまでの爽快感が不安感に変わっていく。

と同時に、自分の中から固有名詞が次々と失われるのを感じる。

お婆さん……俺に祖母などいたか? 美咲――みさ……み……誰だ? どんな顔をしていた?

太陽を浴びた布団のような、草原に咲く夏の花のような匂いの髪は、俺にとって大事な人だったはずなのに。

その子どもたち……俺にとって命よりも大事だったあの子たち……あの子たちって、どの子だった?

俺は? 俺は? 俺は? おれ……おれ、という言い方を私はしていたのか?

私はずっと女じゃなかったか? じゃあ誰から生まれた? どうやって育った?

誰に恋をし、誰に体を許し、誰と結婚して誰を産んだ?

いや違う……彼女に恋をし、彼女と体を重ね、彼女と結婚して彼女に産ませた……彼女? 私?


誰だ?


「……戻ってきたようやな」


不意に、後ろから男の声がかけられた。

一瞬で跳ね起きた私が、いつの間にか腰に下がっていた刀を抜く。

逆手に握ったその刀は、まるで生まれる前から共にあったような自然さで、私の手に馴染んでいた。

そうだ。

私は誰からも生まれていない。誰にも育てられていない。 私は戦場で己を育て、戦場で生きてきた。

私は、私は……


「混乱するのは――いや、混乱するフリをするのは仕舞やで、ユウ嬢」

「わた……しは」


言った瞬間、すさまじい疲労感が全身を包む。

まるで、つい今しがたまで全力疾走していたような重い疲労だ。

落ちかけた肩を、私は意志の力で支えた。

それと同時に、さっきまでのとりとめのない思考が晴れ、私は私を取り戻す。


「目覚まし時計はとうに鳴っとるで、<毒使い>。 何人も自分を起こしに来たし、一人はここまで来て起こしていった。

二度寝三度寝は、地蔵菩薩も許さへんで」

「あんたは……」

「さっきまでおった余所さんは、ワシのことをボンさんと呼んどったわ」


豪奢な布鎧に堅牢な足回り、目に黒い遮光器(ゴーグル)をつけて視線を遮るその男は、ウンザリとしたように言った。


「自分、名前を言うてみい」

「……ユ、ユウ」

「上等や。 職業は?」

「<暗殺者>、<毒使い>」

「ここはどこや?」

「……アキバ、だと思う」

「オッケー! や」


アイドルのような言葉をにこりともせずに言い放った男――ボンさんは、軽く肩をすくめると再び口を開いた。


「せやったら、今度は自分の望みをこっちから教えておこか。

ワシは自分のことをよう知っとるからな。

……自分は、死ぬために旅をしてきた。 生きようとするほかの仲間から背を向け、真実を追うことから背を向け、自分にあらがうことに背を向けて。

自分の行動は、完全確実、完璧絶対の自殺のためのそれや。

まさか自殺するために、自分の心もぶっ壊すとは、気合の入った自殺者もあったモンやで」

「……そうだった」


私は思い出した。

その理由も思い出せないが、確かに私は死にたかった。

そのことだけを思い出したのだ。


「私は死ななきゃいけない。 生きてちゃいけない。 誰にすがってもいけない。

希望を感じてもいけない。 希望を……追ってもいけない」

「自分は都合よく、理由も過程も全部すっ飛ばしてそれだけ覚えてくれとるようやな。

それは幸いやった。 これまでのように過去の記憶も経緯も一切合財覚えたうえで死のうとしてたなら、いかにワシらでもどうしようもなかったからな」

「邪魔を……する気か」


非好意的な男の声に、私の口調が一オクターブ下がる。

抜かれたままの刀が小さく震えた。

だが、男はゆるゆると首を振った。


「詳しい事情は省略するケドな、ワシも、この町のあちこちで自分の代わりにたたかっとる全員も、自分を止めることは出来ん。

そういう存在なんや、今のワシらは」

「……どういう、ことだ?」

「自分が死を望むに至る理由を失ったことで、ワシらは動くことが出来るようになった。

そうかて言うても自分の望みを阻むことが出来るんは自分以外の他人だけや。

せやから、ワシは自分を阻みに来たんやない。

せやな……ワシの元ネタ(オリジナル)の言葉を借りるとすれば、説法に来たんや。

ま、聞きい」



 ◇


 彼は走っていた。

重量を無視して疾走する漆黒の鎧に、同じく黒いマント。

背中に吊るされた竜の紋章がある大剣に右手をかける彼の横には、対照的なドレス姿の女性が並走している。

光の具合で様々な色を放つ不可思議なドレスの裾は現在たくし上げられ、流れる金髪の横からは人間にしては長い耳がひょうひょうと風に揺れていた。


「見えたぞ」

「まったく、複製(コピー)までこき使うとか、あいつ、どれだけ人でなしなんだよ……」


ぼやいた美女の手に握られた杖が輝き、彼女の背後から巨大な熊が姿を見せた。


梟熊(オウルベア)! しっかり守れよ!」


叫ぶ彼女の視線の向こうでは、巨大な半透明の地竜と格闘する女<暗殺者>の姿があった。


 ◇


 彼はゆっくりと刀を抜いた。

背後の仲間をちらりと見て、手短に指示を下す。


「相手はどうやら毒持ちのアンデッドのようや。 特技を食らうな、カウントしっかり頼むで。

奇襲は突入当初が命や。 相手に立ち直る暇を与えてはあかんで。ええな? ジュラン、ゴラン、カイリ」


武者鎧のその男に、後ろの男たちも緊張して頷く。

杖を持った男は掲げて呪文を唱え、別の男が唱えた特技によって全員に不可視の壁が張り巡らされた。

全員の意思がまとまったところで、彼らのさらに後ろにいる異形の仲間に目を向ける。


「自分が攻撃役(アタッカー)や。 DPS回せや。 攻撃はこっちで止めるさかいに」

「GURURUUU」

「おっしゃ、緑小鬼の将軍(ゴブリンジェネラル)、頼りにしとるで!」


そういって彼らは、毒の応酬を続ける<毒使い>と<毒王>のもとへ走り出した。


 ◇


「コピーに過ぎない僕たちでも、足止めは出来るはずだ。 ……行けるね?」

「またお前と共に戦えて、イチイの大弓も嬉しがっているさ、なあマリアン?」

「ええ。 ロビン、それからロバート、回復は任せてね」

「俺も忘れるなよ。 草原の大族長の肩書、伊達でないことを見せてやる」


 男たちが弓を構える。 

<盗剣士>、<吟遊詩人>、<森の射手>、ダークエルフ。

種族も職業もばらばらだが、いずれ劣らぬ弓使いたちだ。

その後ろで術を唱え始めるのは、聖女と謳われた<癒し手>。

そして、弓兵の援護の元、騎士たちもまた、背に負った巨大な翼をはためかせる。

その足元では、白銀の騎士たちが突撃の準備を整えていた。

対するは、巨大な竜の群れ。 狂猛な怪物たちだ。

それを見やる彼らの目的はただ一つ。

たった一人で怪物たちと渡り合う、共通の友人の危難を救うこと。


「……ローレンツさん。 準備はいいかい?」

「任せておけ。 グライバルト有翼騎士団(フッサール)の乗馬突撃は無敵だぜ」

「ローマの兵士(ミリーテス)も、ポーランドの騎士(シュラフタ)には劣らぬ事を証明しよう」


馬上の騎士を率いる男が陽気に叫べば、大理石色の剣を構える騎士団長も沈着にこたえる。

彼らに声をかけた<盗剣士>は、その光景を見て何とも感に堪えぬとばかりに頷いた。


「俺たちがここにいる事を、セルデシアのオリジナルたちは知らないが……。

もし俺のオリジナルがこの光景を見損ねたことを知れば、地団太踏んで悔しがるだろうな。

きっと……今の光景は、彼がずっと見たがっていた光景だろうから」


騎士たちの馬上槍(ランス)が高々と掲げられる。

軍団兵たちの剣が揃って前方を指した。

そして射手たちの弓が満月のように引き絞られ――<吟遊詩人>は叫んだ。


「ようし、行こう!」



 ◇


「さて、皆さん。準備はいいかしら?」

「任しておけ」


冴え冴えと輝く騎兵刀をすらりと抜いた女性に、隣の青年がぶんと方天戟を振り回して答えた。

並の人間なら持ち上げる事すらできかねるその魁夷な武器の穂先は、誂えたように彼方をひた走る半透明の巨獣ーー〈猛進犀(スタンピードライノス)〉を捉える。

逃さない。

その凄まじいまでの気迫が伝播したのか、髪の毛が獣のように逆立った。

隣の女性は、戦鬼のようなその青年に比べると一見冷静に見える。

しかし、優しげな奥の目が炯々と放つ光を見れば、その印象は全くの間違いだと誰もが気付くだろう。

戦いを前に怖気づく様な人間は、ここまで獰猛な目はしない。


そんな2人と共にいるのは、これまた不思議な格好の戦士だった。

禿頭に袈裟、一見すると後衛に見える姿ながら、その男の太くより合わさった筋肉に包まれた腕は、彼の正体を暗示している。

その背後には、今度は古代中国風の直剣を手にした偉丈夫が、華奢な〈道姑〉を背に守るように立っていた。

隣に立つのは分厚い鎧をつけた女性戦士だ。

即席パーティを振り向き、最前線に立った軍服の女性が微笑んだ。

全員の詳しい素性も知らないが、互いの背を任せるに足る頼もしい仲間たちだ。

彼女の笑みに、禿頭の男が訝しげに言った。


「何をニヤついてるんだ? 戦えるからか?」

「楽しいからよ。みんなもそうでしょ?」

「そりゃあ、確かにの」


槍の青年が言えば、剣の男も口を挟む。


「ま、あいつは友人だからな。友達甲斐はないが」

「私のオリジナルにとってはあの娘はあまり印象は強くなかったわ。

……でも、頼もしい仲間と強敵に立ち向かうのは楽しいわね」

「さすがだな。 ……来るぞ!」


 恐るべき勢いの<猛進犀>と、禿頭の男の鋼鉄さながらの拳が激突する。






2.



 ユウたちは壮麗な建物の入り口にある、小さな石に腰かけていた。

その建物がなんだったのかは分からない。だが、緑青のような色の壁のそこここに茨をまとわせた3階建てのそれは、周囲のビルや森と比べて違和感を感じさせるほどに異国的だった。


周囲にはいつの間にか、剣戟の音やモンスターの雄たけびが響いている。

その叫びを聞くたびに、自分の中の何かがぽろぽろと零れ落ちていく。

それが不可逆の変化、その一部であることを、ユウは何より理解していた。


「ここは、私の中(・・・)なんだな」

「そのとおりや」


 向かいに腰掛けた、どこかで見覚えがある男は、そういっておもむろに紙を取り出した。

どこかの本からちぎり取ったかのような、破れ目も真新しいメモ書きだ。

そこに、ページが真っ黒になるまで書かれた文字。


『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね』


それは、すさまじいまでの呪詛。

単純な言葉の裏に、無限の憎しみをこめた文字列だ。

文字の裏に塗りこめられた無数の記憶が彼女の脳裏にフィードバックする。

無抵抗の<冒険者>を殺める自分の姿。

相手を悪と断じて言い訳も聞かずに殺戮する自分。

ある時助けた相手を別の場所で躊躇いなく殺す自分。

そんな自分に向けられた、無数の<冒険者>の怨嗟。

何より、自分自身への怨嗟。


『あいつはなぜ、あんなに非道に殺し回れるんだ』

『ちょっとした言い争いだったのに、何でアレは私たちを殺したの?』

『どうして、ことさら残酷に殺したんだ。 友達はそれで町の外に出られなくなった……』

『なぜ』

『どうして』


呪いめいた言葉に窒息するように、彼女はため息をついた。

同時に半ば無意識に、自分への擁護の言葉が渦を巻く。


あれは、PKを働いていた向こうが悪い。

ギルドの大きさで強い弱いを決め、弱い相手には何をしてもいいという連中が悪い。

連中の手によって苦しんだ奴らにしてみれば、私の行動は正義だ。

正義の断罪だったのだ……


「ホンマに、そう思うとるんか?」


 ボンさんの言葉には、温かみや労りという感覚は一切なかった。

まるで数学の定理を証明するかのような冷たい口調で、彼は言う。


「おまえの中には、自分を擁護しようとする心がある。

せやけど、この呪詛はな、自分(おのれ)自身が自分に向けて突きつけた言葉や。

……場所が場所やから視覚的に見えとるが、自分が頭の中に持っとる、自分への弾劾状がこれや」

「弾劾状……?」

「自分はな。 この世界で自分自身の崩れたアイデンティティを守るために、『ユウ』の振りをした。

いかなる戦場でも冷静沈着、人の命を奪うことを苦とせず、永遠に戦い続けられる戦鬼や。

せやけど、戦鬼になるには心まで完全に変わる必要がある。

自分の中にある、真っ当な普通の社会人としての意識は、その重圧に耐え切れんかったんや」

「……知った風な口を利く」


 断定的なその口調に、ユウの中で憤怒の炎が沸き立った。

それは、見る見る火勢を押し広げ、目の前の小癪な男への殺意となって滲み出る。

腹が立つ、から許せない、へ。 許せない、から殺す、へ。

殺す、から惨たらしく泣き喚かせて生きながら刻苦痛悶の地獄へと叩き落してくれる、という意識へ。

怒りは一瞬のうちに殺意を伴う凶暴な愉悦へと変わり、彼女は数瞬後の喜びに打ち震えた。


「……それや。 自分に巣食う一番の病は」


 その時、静謐な声が耳を打った。

一瞬で凶暴なざわめきが消え、心が平静を取り戻す。

そして代わりにやってきたのは、凄まじい自己嫌悪だ。


今。

何を、思った?



「わ……わたしは……」


今の生き物が、自分自身か? 今の凶暴な怪物が、『ユウ』か?!

愕然とする彼女に、切々とした男の声が落ちてくる。


「人は、誰しも心に不満を抱えとる。 愛別離苦(あいべつりく)と言うて愛する者と別れる苦しみ。

怨憎会苦(おんぞうえく)と言うて憎い相手に会う苦しみ。 

人として生まれて、その苦汁を飲み干さん人間は居らん。

せやけど、人は社会に生まれ、社会に生き、社会に死ぬる生き物や。

愛する人と二度と会えんようなっても、憎い相手を前に拳を握っても、明日は平等にやって来る。

人はな。

その苦い汁を舐め舐め、我慢を重ね、自分を見放すことなく、心を隠して足元を踏み固める動物やねん。

この<エルダー・テイル>の世界に紛れ込んだワシらもそうや。

愛する家族や親しい人間と生き別れ、隣におるヤツらは単に同じネトゲを同じ時間にやっとっただけの赤の他人ばかりや。

ガキくさい奴、身勝手な奴、色々おるわな。

せやけど、ここも人間社会なんや。 我慢せなあかんし、誰もが我慢の上で精一杯生きとる。

自分は、その我慢をやめたんや。

自分は人斬りや、孤高の<暗殺者>や、ベテランプレイヤーや年上や大人や、と周囲を馬鹿にしくさってな」


 それは断罪だった。

ユウがひたすらに拒否し――同時に心のどこかで自分に叩き付けていた、断罪の言葉だった。


「若い<冒険者>が道を踏み外したなら、なんで導いてやらん。

諍いを前にしたら、何でお互いの意見を聞き、黙らせて仲裁してやらんかったんや。

自分がするべき事は、片方を悪と断じて心と体に重傷を負わせるより、同じ孤独と苦しみを持つ、ほんの少しだけ人生の先輩やった者として、優しく見守ってやることやないのか。

それは……それだけは、若い同年代の<冒険者>には出来ん。

いくらレベルが高くても、<幻想>級装備で身を固めていても、知恵があっても出来んのや。

この世界でもワシらはワシらのままで居てエエんやと、教えてやるのが年長者の務めや」

「……だから」


 積み重ねられる問罪に、記憶が徐々に鮮明な色をつけていく。

アキバで切り捨てた『悪の』<冒険者>が最後に見せた顔。

『どうして自分たちは』 途方にくれたような顔で彼らは絶命していったではないか。

レンインの――あの若い<道姑(ソーサラー)>もまた、同じ顔をして西域に屍を晒していた。

彼らだけではない。

多くの<冒険者>の、<大地人>の――ユウが手にかけてきた人々の顔に、満足そうなものはひとつもない。

あるのは、理不尽への問いかけ。

なぜ、どうして、自分たちは死ぬのか。 お前に断罪の権限はあるのか。

彼らの顔がユウの脳裏に鮮明に蘇り、彼女は思わず絶叫していた。


「わたしは、わたしは!! だから! 罪を重ねたから! 彼らの助けを請う手をを振り払ったから!

だから!!」

「死ぬ……っちゅうワケかい」



 せやったら死ね。



顔が暗がりにすっと隠れ、目だけでなくすべての表情を失った『ボンさん』の無言の姿は、

ユウにそう告げているようだった。




3.


 周囲の戦闘音楽は徐々に鳴り止み始めている。

<ユウの幻想>は、既存のエリアに比べるときわめて小さなゾーンだ。

元々、この擬似的な精神世界を模したゾーンは、<エルダー・テイル(ゲーム)>時代に起きた特殊なイベントに起因するゾーンである。

人の心の中に押し入って戦う、というだけのゾーンに、セルデシアのそれに勝る広さも深みも、あるいは実存性もない。

むしろ、<冒険者>でありながら他の存在を模倣しコピーする、というユウ独自の環境があったからこそ、いわば過去のイベントの焼き直しのように作り上げられたものだ。

ユウという個人が意識をはっきりさせていくにつれて、仮初のゾーンも揺らいでいく。


 もう、死にたい。


 どれほどの時間が過ぎた後であろうか。

ユウは枯れ、かすれ切った声でそう呟いた。


「逃げるんやな」


 わかっている。

情けない逃避だとも、本当は勇気を持って己の罪に向き合い、贖っていくことが正しいともわかっている。

だが、さきほどありありと感じた自分の中の『ユウ』。

北欧でその異質さに気づきつつも、敢えて深く考えなかった自分の中の『勇気(ユウ)』の本性を、彼女は知ってしまった。

アキバの誰とも、親友たちとも道を同じくできなかったのも道理。

彼女には、彼らに胸を張って進む道を示すための勇気も清明さもなかったのだから。

ユウが次に発した声は、彼女がこれまで放った中で最も惨めで、情けなく、聞き苦しかった。


 そうだ。 もう逃げさせてくれ。 私のこの一年は、過ちだった。


「本当にそうか?」


 為すべきことを為せず、助けるべき人を助けず、行くべきでない場所に来た。

この一年間、私はすべてにおいて間違っていた。


「本当にそうか?」


 私にあったのは、勇気を履き違えた蛮勇と、強さを履き違えた凶暴さだけだ。

それはもう怪物になってしまった。いまさら捨てることは出来ない。

セルデシアに出てしまった凶暴な怪物と一緒に、せめて迷惑をかけずに死にたい。



「せやったらな。 そんな自分に最後の説教をしてやろう」



 ◇



 自殺とは、まず何なのか定義しよか。

自殺とは文字通り、自分で死ぬことや。 理由はともかく自分で自分を殺すコトやと言えるわな。

自死、自害、自決、自裁、自尽、自刎、諌死、憤死……玉砕、特攻、賜死もそやな。

 ……歴史を紐解いたら、クレオパトラ7世にセネカ、紂王に項羽とか、『古事記』の弟橘比売命なんかが有名やね。


 仏教説話やと、“捨身飼虎”や“捨身羅刹”、“焼身供養”なんてのがあってな、 仏さんや教えに対して身体を投げ打って供養したり、他の生き物を救う為に己の身を布施するお話やねんけど。

でもこれは、捨身行って言う修行の一環で自殺とは厳密に違うとされとる。

勿論、即身成仏も補陀落渡海も、自殺とは違うで。 やっとることは変わらんけど。

アブラハムの宗教やったら“殉教”か。せやけど、これも自殺とは違う尊い行いやとされとる。

諸宗教諸宗派では、自殺はしてはいけないものとされてるが、自殺でなければ自殺行為に及んでも構わへんって、判ったような判らんような教えを説いてるわ。


――それがどうした。


 まあ聞き。

去年の暮れにな、ワシの原型になった<冒険者>が知り合いと論争(ディベート)したんや。

その知り合いっちゅうのも、コピーがその辺におるんやけど。

ワシが自殺の『功』、あっちが自殺の『罪』を挙げて、自殺がエエのか悪いのか話し合ってみたんやな。

ま、酒の肴代わりや。 


――ずいぶん辛気臭い肴もあったもんだな。


 ほっといてんか。 自殺志願者が何でそない的確に突っ込むねん。

ああ、ちなみにな。 ワシもそいつも、実際は自殺なんて言語道断やと思うとる。

せやけど、元の職業柄、どうしてもそういう悩みを抱く人に向き合うことはあるさかい。

その頃はアキバでも、この世界に来て何をすればエエのか分からん奴が増えてきとったからな、ワシとしても職業倫理から放っておきたくはなかったんや。


――ふうん。 で?


 さて、ではまず“自殺の功”について、語ろうか。

そもそも自殺に“功”なんてのがあるんか? ……あるんやねぇ、コレが。

“自殺の功”ってのは、それが自殺であると認められなかった時に、認めてもらえるんやね。

ああこれは、詭弁でも頓知でもないで。

自殺に価値があるかどうかは本人が決めるんやない、周囲が決めるんや。

ほな、周囲はどうやってその判断をするかって言うたら、その死が“褒め称えられる”べきものかどうか、やねん。

“全ての責任を一身に背負って”とか、“名誉を重んじて”とか、“誰かの為に”とかってな定冠詞が付いた時のみ、その死は自殺ではなくなるんや。

自殺ってな“自分で自分を殺す事”やん?

例えそれが“自殺願望”や、漠然と自分の死を願った“希死念慮”の発露としてなされた事でも、周囲の者が等しくその死に尊崇の念を覚え、賞賛であったり感謝の意を持てば、その死は昇華されるねん。

“貴方の死は無駄にはしません”って思ってもらえる、……周囲がそう思う事によって全ての問題が解決し、誰もが罪悪感に苛まれる事は無い。

 人が一人死んでくれる事によって誰しもが救われる、ホンで、その人は死を選ぶ事によって多くの人を救える事の喜びを得る事が出来る。

八方万々歳、それが“自殺の功”やわ。

……それが、単なる死者と周囲の自己満足と自己陶酔の結果であったとしても、な。


――じゃあ、罪は。


 じゃあ、“自殺の罪”について、語ろうか。

って言うても、自殺なんてしたらアカン事やねんから、今更言うまでもなく“罪”しかあらへんわな。

さっきも言うたように人って生き物は、親から産まれて命終の時を迎えるまで社会の中で生きる生き物やんか。

自分は偽者の女やけど、自分が誰かを産む時のことを考えてみい。

最初の瞬間はまあさておいて、後は悪阻で飯も食えんようなる、糖尿やらなんやらになる、体に異物持って速くも動けん、うつ伏せにも寝れん。

挙句、陣痛で死ぬ思いして、恥ずかしい所を曝け出して、鋏で体をちょん切られてまで産むんや。

下手したらその後に死ぬ。 産後の肥立ちが悪うて、ってのは現代でも死語やないんやで。

金も手間も体力も命すら使うて人は人を作るんや。

……ま、世の中いろんな人間がおる。 生まれてすぐにロッカーやら何とかポストに捨てる女もいるわさ。

せやけど、どんな愛情のない親でもその苦しみだけは必ず共通しとる。

生きる、っちゅうのはそうして出来た命の借りを返し続けていくことや。

誰かにな。


――孤児もいる。 毒親ってのもいる。 産まれたのは自分の意思じゃない。


 せや。

せやからまず自分自身で考えなアカン。

自分自身はどうして生まれて、なぜ育って生きて、その恩恵は誰に返せばエエんや、ってな。

さっき、ワシは自殺には他を助ける理由があれば肯定される、と言うたな。

それは一面の真実や。 

死ぬことで返せる借りもあることは否定せん。

自分(おまえ)もまた、死ねば誰かは喜ぶかもしれへん。

せやけど、同時に誰かは必ず悲しむんやで。

そんな自殺に尊厳はあらへん。 こと自分自身に有益なものもあらへん。

残るのは今度こそ償いようのない悔悟と、憤怒と悲涙と惨い結果だけや。

自分と、自分に近しい者にとっては、な。


――だが、それでも死ぬほうがより多くの人のためになるなら、死ぬべきじゃないのか?


 自分がそう思うとるように、人は時として“死にたい”って思う時がある。

何でか?

……其れは“生きている”からや。人は生きている限り、常に死と隣り合わせやからな。

“死”ってのは、実に甘美な媚薬みたいなもんや。

誰しもが“楽になりたい”って思いながら、日々を生きているんやから。

まぁ、そんな事を思わへんのは乳幼児くらいなモンかもな?

子供時代は“死”について理解する事なく、玩具が壊れた程度にしか受け止めてへんやろう。

人間が“死”について思索を始めるんは、思春期を迎えた頃やろうか?

鬱々と瑣末な事で思い悩み、未熟な憂愁の美を“死”に直結させたりする。

青年、中年、老年に至り、人は初めて“死”について理解をし、空想のお友達やなく厳然たる隣人として向き合うようになる、んやろう。

“死”とは優しいものではなく、何と恐ろしいものだ、ってな。

自分ももう若造やない。 死について冷静に考えられるのが40歳……不惑、やないのけ?



――貴様に私の苦しみの何が分かる! 


 

 ワシのオリジナルは分からんやろう。 まったく別の道を歩いとるんやから。

せやけど今の『ワシ』は分かるで。

自分は心得違いから他人を傷つけ、外向きじゃ『当然だ』という顔をしながら悩み続け、背負うべきモン以上のモノを背負いすぎて、へたばったんや。

一人で墓石を百も二百も担いで、手がしびれたから潰れてエエですか、と訊ねまわっとるだけや。

そんな自分が、なぜまだここにおる。

なぜ、こんなワシとこんな問答をしとる。

……本当に死を唯一の甘い救いやと思うとる人間は、ここにはおらん。

さっきの黒い手紙、あれは間違いなく自分の本心や。

と同時に、自分にはまだ最後の苦汁を舐めようとする心が残っとる。


それはなんや、と思うやろ?

“生への執着”や。

美しく生きる為に、汚れた自分をリセットしたい。

そう思う自分の裏に、生きる楽しみを甘受したいからもっと生きたい、と自分が思うとるねん。

喜怒哀楽、苦しみや後悔や、自分の凶暴さへの恐怖や残酷さへの嫌悪の中に、それすら生の楽しみや、と思う自分がおんねん。

故郷に帰りたいけど帰れる手段がない? 憂さ晴らしの手段として人殺しに手を染めた? 血塗れの大量殺人鬼となったド畜生の身では妻子に合わせる顔がない? しかもエエ歳こいたオッサンやのに女になってしもうた?


アホか! 何やねんそのダサ過ぎる根暗スパイラルは?

地球上での日常生活でそうなったんやったら、第一被害者を殺す前に死ねや! 人殺しを実行しようとした時点で、……実行した時点では遅いからな、そんな奴に生きてる資格なんざない!

入水でも焼身でも、好きな方法で死んだらエエやろう。

でもなぁ、此処はセルデシアや。なんぼ現実に近づいたとは言え、此処はファンタジーでファジーでファンシーな世界や。

死んでも命がある、へんてこりんな世界や。

此処でのありとあらゆる善行と悪行をしまくったんは、鈴木雄一やない、ユウや。

何でユウがしでかした事で、鈴木雄一が死ななアカンねん?

お前がユウに与えようとしている事は、ユウを死なせようとしとるんやない、鈴木雄一を殺そうとしとるんや!

キェルケゴールが(のたま)った“死に至る病”ってのは、19世紀中葉に著された二部構成の哲学書の書名でもある。

第一部が『死に至る病とは絶望である』やねんけどな、キェルケゴールが述べたかったんは、第二部のタイトルや。

第二部のタイトル、つまり『絶望とは罪である』ってのが、真意や!

たかが幻想(ファンタジー)如きで、現実(リアル)に絶望なんかすんなや、アホンダラが!


 ついでに言えば鈴木雄一(じぶん)が死ぬって事はな、彼が大事に護りたいって思うとる妻子、つまり家族を悲しみの淵に叩き込んで、死への道筋に蹴り込むって事や。

事実として言えば、自殺者を出した家族は死へのハードルが低くなって、自傷行為を繰り返したり、同じく自殺を選ぶ傾向があるそうや。

“死にたいから、自殺する”って考えはな、他人を巻き込んでの自爆テロとイコールや、……つまり自分を取り巻く全てを道連れにするって事や。

お前は、護りたいモンを殺したいんか!



――貴様!!



 ◇



 輪郭がぼやけた<ギルド会館>の正門前で、女<暗殺者>は男<召喚術師>の首を締め上げていた。

長い髪は激怒にゆらゆらとざわめき、細い腕が片手で首を、もう片手で左手を掴み絞めている。


べぎり。


いやに乾いた、不気味な音の直後、べちゃりと粘着質の音が地面に響いた。

ボンさんの左腕を、ユウが握力だけでねじ切ったのだ。

手首を文字通り引っこ抜かれた激痛に脂汗を流しつつも、ボンさんの表情は変わらない。

そのまま、むしろ優しいとすら言える口調で彼は言いたいことを続けた。


「……『人間失格』みたいに恥の多い生き方をするんが、人生や。

その終焉は、望む望まぬに関わらず、必ず全員に平等に訪れる。

生きたくても、生き続けたくても、人は必ず死ぬんや。 この世界でも、いつかはな。

せやから人は死ぬ為に生きている。せやけど生きていくって事は誰かの為でもあるんや。

親か兄弟か友達か仲間か、何処の誰かも知らん誰かの為にな。

誰かが自分の死を喜ぶように、誰かは自分の生を喜んでくれる。

こんな異世界(セルデシア)に放り込まれてなお、誰もが希望を捨てんのも、そのためや。

……自分の物であると同時に、自分以外の誰かの物なのが、此岸(地球)でも彼岸(ハーフガイア)でも命っちゅうモンや。

お前は、自分勝手な独りよがりの為にそれを奪うんか?

誰かの大切な命まで奪って、死にたいんか?

家族の、友達の、掛けがえの無い大切な命まで略奪して、抉り取ってまでしても、死にたいんか?

それって、ダレトクな行為やねん? それで、誰が救われんねん?

死にたいって思うんやったら、精一杯生きてからにしろや。

散々っぱら泣き喚いて、グジョグジョのみっともない面を晒して、ジタバタと足掻くだけ足掻けや。

ごめんなさい私が悪かった、私はクソです役立たずの老害ですと土下座して、後ろ頭を踏ん付けられてぐりぐりされても生きてみろや。

それをしたくない、って言うんやったら自殺なんざするまでもない。

ワシが殺したるわ。

お前が二度と復活出来ひんようになるまで、徹底的に殺したる。

せやけど、その前に。

お前が護りたいって思うとる、愛する者達全員を惨たらしく殺戮して、その死体に残る尊厳とやらを完璧に消し飛ばしてから殺してやる。

死んでからもお前が『ああ、死んで良かった』なんて思わんですむように、後顧の憂いがないようにバッチリとアフターケアしといたるわ。

もう生きていたくない!って心の底から思えるような最適な状況を用意して進ぜたるわ♪」

「首をへし折られる寸前で、よくもまあ口が回る」


ユウは激怒そのものの表情で囁いた。

目の前の、遮光器に包まれた顔は、この期に及んでしらっと平静だ。


「私を殺す? 愛する者を殺してから殺す? ……やってみろよ。

生憎だが、私の愛する者はすべて別世界だ。 やれるもんならやってみろ。

てめえの首がポキリといく前に、それが出来るんならな」

「それなら、お言葉に甘えて」


ポウ、と男の残された手のひらが輝いた。

そこには小さなプリズムがあり、その向こうに何かが見える。

それは、大人二人と子供二人。 何かの記念写真なのか、しゃちほこばった顔で固まっている。

その四つの顔に、ユウは見覚えがある気がしたが、口に出したのは殺気にまみれた声だけだった。


「……そいつらが、何だ」

「……このゾーンの片隅に残った小さな残骸や。 こっちは」


今度はもっと若い子供たちの顔。何が面白いのか、猫を掲げて満面の笑みを浮かべている。

悪童たちに捕まったと思しき猫は、やれやれとでも言いたげな顔でだらんと伸びていた。

その子供たちの顔のひとつが、今しがた見かけた顔と面影が似ていることにユウは気づいた。


「そんな汚らしいガキを見せて、いまさら命乞いか?」

「ほんなら、こっちは」


今度は老婆の顔。 煙草盆を載せた炬燵に座り、ゆっくりと蜜柑を剥いている。

さらに次、また次と、ボンさんは手のプリズムにいくつもの顔を出していた。

いずれも今のユウには見覚えのない顔だ。

ただ――どこか体の奥底に、何かを訴えるものがある。


続いて出てきたのは、印象の違う風景だった。

古ぼけたビルの合間、3人で歩く自分と――残る二人。

遠くに廃墟を見る野原で、子供を遊ばせる女性。 ユウ自身だ。

今度は崩れ落ちた家から必死で人を助ける自分。

その他、もろもろ。

記憶の詳細は失われていたが、自分の旅路だとユウは気がついた。

そこにあるのは、黒い手紙に篭められていたような怨念でも、見捨てられた悲しみでもない。

喜びと、幸福感と、感謝が、ユウの知らない『ユウ』を取り巻いている。


「……多少は思い出したか?」


 ユウの締め上げる手が緩み、落とされた男がゲホゲホと咳き込みながら告げた。

持ち主の動きと関係なく、プリズムはゆらゆらと揺らめいて、二人の頭上で光っている。


「自分はこの世界で過ちだけをしたんやない。 恨みだけを買ったワケでもない。

時には人間としてすべきこともしたんや。

自分が向かおうとする自殺への道は、こんな顔の誰もをも捨てることや。

異世界におる自分の家族は知らんやろう。

せやけど、自分が破滅して、今見えた何人かは、必ず悲しむで。

ワシが殺す……つまりはオマエが殺すのは、そんな人らや」

「……そういう貴様は、一体誰だ」


 ユウは搾り出すように口を開いた。

その声が引き金になったように、男の全身がゆらめき、姿を変えていく。

再びはっきりした輪郭は、僧衣をまとった男の姿ではなく、黒い装束に黒髪の女の姿をしていた。

その腰には、かすかに緑の光を放つボロボロの刀が提げられている。


『私は、厄として取り込まれた誰かの人格(ペルソナ)を核にしたお前の一部だよ』


そう言ってボンさんーーいまやユウの一部であった事を明らかにしたその〈欠片〉は、不意に腰に提げた刀を抜くと、ひび割れた刃を握って突き出した。


目の前に差し出された刀ーー〈蛇刀・毒薙〉を見て、元からユウだった側が無言で問い掛ける。


「この刀は、お前の最後の守り神だ。こいつはそれ自体がとんでもない厄病神だったかもしれないが、お前がここまで歩いてこれたのも、この刀のお陰だよ。

感謝して、使い尽くしてやれ。

この刀の意思も、それを望んでる」


そう、ユウの欠片は笑うと、不意に天を仰いだ。


「さて、脳内一人芝居はおしまいだ。

どうせいつかは死ぬんだから、それまでもう少し、足掻いてくれ。

それが厄達(ワシら)の…願いだよ」


ユウが愛刀を受け取る。

その瞬間に、ユウの全身から水色の光が吹き上げた。

それに触発されるかのように、曇り空が晴れていき、爽気が世界を満たしていく。

青空の中、もはや揺らめくような姿になった〈欠片〉が囁いた。


「今のお前の身体は全身から厄を抜き続けていた。

だが、何だか変な雰囲気だ。

目覚めたら、気を付けろ。

後な、お前を探しに来てくれたやつらを助けてやれ。

じゃあ、な。

旅が終わったら、また会おう」

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