169. <幻想のゾーン>
最初に感じたのは灰色だった。
(どこだ……ここは)
紫紺の鎧をまとい、剣と盾を装備した男――<守護戦士>のカイは、どこともしれぬ空間に取り残された己を自覚して、ふと呟いた。
周囲はまったく見えない。
雨雲の中に入ったかのように分厚い霧が、彼自身の肉体をすら覆い隠している。
そんな中、彼はふと思い立って自分の肉体に触れてみた。
感触がある。
元の世界の自分と同じ意識を共有する生物とは思えないほどに発達した肉体。
胸の鎧を叩いてみると、金属同士がぶつかり合う硬質の音が周囲に響いた。
「……肉体があるのか」
彼をこの地に連れてきた呪薬、<亡霊転生薬>は時間制限で服薬者を人間ではなく<亡霊>へと変貌させる。
薬の元になった呪文と異なり、これを作成した<ロデリック商会>の知り合いは、効果が切れても肉体に戻るだけだと言っていた。
ただし――<亡霊>が肉体と同じゾーンに存在していれば、の話だ。
「ゾーン名称<ユウの幻想>……どう考えてもさっきと同一のゾーンじゃないな」
つまりは、制限時間内にここで目的を果たし、テングと自身の肉体が待つ<聖域>へ戻らないといけない、ということだ。
苦笑して、カイは周囲を見回した。
まるでタイミングを合わせたかのように、周囲の霧が徐々に晴れていく。
呼吸を十も数えたころだろうか、鮮明になった景色に、カイはどこか納得した顔で頷いた。
「ゾーンの名前から分かっちゃいたが、やっぱりここがあんたの世界なんだな、ユウ」
朽ち果てた、遥か太古のビルの群れ。
それらを繋ぎ、あるいは征服するように天高く聳える巨樹。
彼が最後に見たような<冒険者>の手による装飾も横断幕も暖かな街灯の明りも何もない、ヤマトサーバ最古にして最大のプレイヤータウン。
すべての虚飾を取り払ったアキバの町が、神域のような厳かな空気をまとって、彼の前に現れたのだった。
◇
人の精神の中には、他人の踏み入ることができるゾーンがある。
よほどに<エルダー・テイル>に通暁した人間でも、その話には苦笑して頭を振るだろう。
口さがないものであれば、嘲笑すら向けるかもしれない。
だが――カイは確信があった。
もし<大災害>が、<エルダー・テイル>というゲームの舞台であるセルデシア世界を完全に現実化するものであるならば、そのゾーンは必ずあると。
その根拠は、もう何年も前に挑んだ、小さなローカルイベントだ。
当時、今もギルド<エスピノザ>でともに冒険する友人、あんにゃまと組んで遊んでいた彼は、知る人も今はあまりいないであろうそのイベントで、似たような世界に送り込まれたのである。
『少女に潜む悪魔を倒せ』
わずか20人ほどのプレイヤーに提示されたそのイベントの最後の舞台こそ、悪魔の潜む少女の心の中――NPCの精神の中に構築されたゾーンであった。
もともと、大規模戦闘イベントに限らず、イベントゾーンが通常立ち入れないエリアに設定されるのはよくある話だった。
天空の神殿、地下の魔城……それらは後に通常ダンジョンとして開放される場合もあったが、小さなゾーンではそのまま置き捨てにされることも珍しくはない。
プレイヤーの中には、それらは特殊ゾーンとして、テストサーバと同じサーバに構築されているのではないか、あるいは地下の超高密度物質の下に存在するのではないかという説を論じた者もいたが、どのみち真実はアタルヴァ社や各運営会社に聞かない限りはわからないものだった。
だが、それらもすべてゲーム時代のことだ。
もし、セルデシアがかつてのMMORPG<エルダー・テイル>に存在した事象すべてを再現しているのであれば。
そこには、本当に人の心の中のゾーンが存在するのではないか。
カイの考えは、ほとんど博打であったが、結果として彼はアキバに似た、見知らぬゾーンに立っている。
自らの口伝――任意の場所に繋がる<妖精の輪>を模したテレポートゲートを作り出すという、誠にもって探索者らしい口伝が、そこへの到達を可能にした。
<亡霊>である以上時間制限はあるが、それでもユウの中で暴れ狂う何者かを押さえつける一助にはなりそうだ。
だが、と同時にカイは周囲を見回して、背筋から凍えるような気分を味わっていた。
この寂寥さはどうだ。
季節はどうやら冬らしく、身を切るような冷風がビルの合間を駆け抜けている。
アキバは広い関東平野の端に位置していることもあって、晴れた日には、場所によっては<陽光の塔>やフジまでも見ることができたが、どんよりとした雲に覆われた目の前の空の向こうにはいかなる景色も見えてこない。
ふと振り返ると、ブリッジ・オブ・オールエイジスの向こう側もまた、雲によって地面まで何も見えなかった。
それはあたかも、ユウの内心の荒廃を表しているようだった。
「だがな、随分とまた……うら寂しいよな、ユウよ」
誰もいない大通りでそうひとりごちると、カイはとりあえず街の北に向かってとぼとぼと歩き始めた。
◇
人気のまったくないアキバを探索するカイは、歩くたびに不思議な気分を感じていた。
ユウの心の中というこのゾーンは、概してアキバによく似ている。
それと同時に、現実のアキバにはあり得ない設置物が存在するのだ。
例えば、<変人窟>――本物のアキバであれば職人<冒険者>たちが腕を競う一角にあったのは店ではなく、ぽっかりと開いた地下への洞窟だった。
その壁面には、鏡が隙間なくはめ込まれ、不思議な色合いで光を反射している。
また、<ブリッジ・オブ・オールエイジス>のたもと、現実であれば警察署があったあたりに聳えていたのは、周囲の寒気をものともせず咲き誇る、一本の桜の巨木だった。
華やかに花びらを舞わせるそれは、どこか御伽草子にも似た妖艶さで、モノクロームの景色に唯一鮮やかな色彩を振りまいている。
他にも、中華風の楼門や、古代北欧風の石造りの神殿、毒々しい水をたたえる沼地などが、カイの見知ったアキバの風景の中にぽつぽつと浮かんでいた。
かすかな不安を覚えさせるその光景は、どこか現実離れしている。
その違和感が更に強まったのは、かつての秋葉原駅――今は進むべき鉄路を失い、空しく空中に佇立するだけの遺跡を目にしたときだった。
「あれは……<星条旗特急>!」
自分たちを<聖域>へと連れてきたその列車は、しかし今は無人のようだ。
虹色の煙を吐くこともなく、ただ静かに佇んでいる。
だが、その違和感を言葉に出す前に、突如として硬質の音が彼の耳に響き渡った。
「ユウ!?」
いつの間に現れていたのか。
彼が立っている広場の中央、かつてはアイドルやロボットアニメのカフェがあった場所で、剣を交える男女の姿がある。
そこにいたのは、黒い服をまとった女と、人間にしては歪なシルエットの半透明の男だった。
互いに短めの刀を抜き放ち、すさまじい速度で飛んでは刃を打ち合っている。
黒い人影はよく見なくてもわかる。 ユウだ。
トレードマークの刀を閃かせ、半透明の人影に一撃離脱を繰り返していた。
一方の半透明の人影にもカイは見覚えがあった。
奇妙に手足だけが膨れ上がったように見える偉容に、体格から言えば随分と小さく見える刀を片手持ちにしたその姿はカイも噂に聞いていた、冬のアキバに跳梁した<大地人>の殺人鬼の姿にそっくりだ。
彼は、本物が持っていたような吹雪を身にまとうことこそなかったが、図体に比べると恐ろしいまでに俊敏な動きで、ユウの猛撃を避け、いなし、反撃している。
カイが見たところ、二人の戦いはまったくの互角のようだ。
互いに決め手を温存しているのだろう、特技を叫ぶ声は聞こえない。
カイは歯噛みして、突如として目の前で繰り広げられる決闘を見つめていた。
今のカイは<亡霊>に過ぎない。
どこまで本来の身体能力を用いることができるのかわからなかった。
それに、相手は高速戦闘を本領とする<暗殺者>に、並み以上の<冒険者>でも足止めできないほどの怪物だ。
下手に割って入れば、カイは斬られたことにも気づかないまま死ぬだろう。
「……っ!」
だが、カイが見たところ、男の側は半透明だが、ユウにはしっかりとした実体があるようだ。
言葉こそ発しないものの、鋭く戦意に満ちた目は、往年のユウと違いがない。
もしかしたら、このまま彼女を外界へ連れ出せるのではないか。
――だが、そんな望みはしばらくして無残に打ち砕かれた。
カイが決闘を見始めて、数分後。
戦いは、きわめて唐突に終わりを告げた。
一瞬で飛び込んだユウが青い刀を振りかざし、殺人鬼の姿を模した人影の首を一太刀で跳ね飛ばしたのだ。
と同時に、冬の亡霊は泡になることもなく、空気に溶けるように消える。
戦いが終わって、動画に停止ボタンを押したかのように動きを止めたユウにカイが呼びかける暇もあればこそ。
「ユウ! あんた、俺がわかるか! カイだ、ユ……」
「……こいつでもない」
彼が言い終えるよりも先に、その一言を残してユウもまた、空気に溶けていったのだった。
◇
そこから、カイは広大なアキバをむやみに駆けずり回ることになった。
アキバのはずれを走っていた彼の目の前に、今度はユウが頭上から落ちてくる。
そんな彼女の<疾刀・風切丸>の切先の向こうには、まるで彼女と踊るかのように絡み合って落ちる、見たこともないほど巨大な白虎の姿があった。
もちろんながら、その虎も半透明だ。
「ユウ!」
悠長に戦いの終わりを待つことなく、カイは駆け寄ろうとした。
だが、そんな彼の目の前すれすれを、巨大な虎の腕が駆け抜ける。
それはあたかも、決闘の邪魔をするな、とカイを制止しているようであった。
今度もカイがただ眺めているうちに、ユウは白虎の尻を十字に切り割って勝利した。
「こいつも違う」
そういって消えたユウのいた場所で、カイは何度目か分からぬ徒労感に、ぐしゃりと膝を突いた。
(……何なんだ、ここは)
アキバの探索部隊の一員として、奇妙なゾーンや理不尽なエリアには何度も遭遇したカイであったが、この異様なゾーンの出来事は、まるで終わらない悪夢のようだ。
アキバの一角に広がっていたアルヴ様式の通りではユウが機械の蛸――人の顔を無数の触手の先に貼り付けた機械の塊を他に何と表現すればよいのだろうか――を切り刻んでいたし、別の街路ではアキバの<冒険者>らしい人影とユウが乱闘していた。
ゾンビに弓を構えるユウ、<水棲緑鬼>を馬で踏みにじるユウ。
まるで御伽噺に出てくる幻想の淑女のように、ユウは彼の前に唐突に現れては、彼に気づくこともなく消えていく。
自分の心の中でさえ、ただひたすらに戦いを続ける彼女の姿は、孤独というテーマで描かれた連作絵画のようだった。
本当ならば、そこには彼女とともに戦った仲間たちがいたはずだ。
それぞれ境遇は違えども、彼女の刃に力を与えてくれていた人々が。
だが、その姿はどこにもない。
ユウは、かつてハダノで、マグナリアでカイが見た孤高の戦鬼そのままに、斬り、刺し、殴り、殺していた。
まるで、自分自身を滅ぼすかのように。
カイがそう思いながらのろのろと顔を上げると、ふと視界の隅に何かがよぎった。
また戦いか、とさすがにうんざりとして目を向ければ。
「お晩で。 寒うてあきまへんな」
妙に血色のよい男が、『しっかりとカイの方を向いて』にこにこと立っていた。




