167. <換える者>
1.
<教主>は死んだ。
カイがそう認識したのは、水色の光で作られた獣が虚空に溶けるように消えてから、かなり経ってからの事だった。
もはや不気味なローブ姿はない。
落としたであろうアイテム――その中にはユウから奪った毒の入ったバッグもあった――が落ちているだけだ。
そして、光が収まってようやく振り向いた時、そこには再び倒れこんだ女<暗殺者>と、それを異様なものを見るかのように見つめる仲間の姿がある。
「なんだ……今のは」
「彼女の<厄>と口伝――たぶん、マグナリアで放ったものと同じものだ」
「それは」
「ああ。あの不気味な人格が言っていた、『ユウの魂を押し潰したもの』だろうぜ」
カイはそれだけを言い、なおも動けないテングのわきを抜けて、ユウを抱え上げた。
「ま……とりあえず危険は去ったかな」
「ユウから厄は抜けたのか」
「そうかもしれん。だが、あの道で聞いただろう。 ユウはそれでも普通には戻れない。
それに……本当にいなくなったかは、わからん」
カイはユウの手を無造作に持ち上げると、なおも光を放ち続ける<盟約の石碑>にその手を触れさせた。
なにも、起こらない。
相変わらず石碑は湧き出るように光を放ち、ユウの手も力を失ったままだ。
何度か同じ動作を繰り返した後、彼は振り向いて軽く肩をすくめた。
「……ってことだ。 結果としてはこの建造物もまがい物――『単にそれっぽい』ローズ・ラインだったということだな」
「俺たちが触ったらどうなるだろうな?」
「何も起きないだろうし、起きたところで困るだけさ。 この光を以前見たであろう場所に俺たちが飛ばされでもしてみろ。
この場にはユウだけが残るんだぞ? 何をされるか、わかったものじゃなかろう」
「じゃあ……これからどうする」
「そうさなあ」
カイはおもむろに、空いた手で自らの顎を撫でた。
「このまま何事もなかったようにはいさようならというわけにはいかんだろうなあ。
……一応、俺たちはここの<教主>を殺してるんだから」
「俺とユウは<暗殺者>で、あんたは<追跡者>だ。 逃げるだけなら何とかなるんじゃないか?」
希望を見出したようなテングの声に、カイは苦笑して首を振った。
「ここは<冒険者>の巣だぞ。 <暗殺者>や<追跡者>なんてごまんといるだろう。
<D.D.D.>のクラスティや<黒剣>のアイザックみたいに、斬り破るのも無理だろうさ。
それにほら。 ……ご来客だ」
「休憩は十分でしょうか?」
あたかもカイの発言が空間に消える間際に聞こえた、その聞き覚えのない翻訳済の英語による呼びかけは。
まるで、登場を待っている劇の人物のような正確さで二人の耳朶を打ったのだった。
◇
「よろしく。トーマスといいます」
どこにあったのか、暗闇の回廊の中にぽかりと空いた空間から外に出た二人は、改めて手を差し出した青年をうさん臭そうに見た。
一見すると、若いアメリカの青年そのものだ。
<冒険者>には違いないが、どこか無造作に束ねられた髪はぼさぼさとした印象を醸し出し、羽織っているのはそれこそシリコンバレーの若い技術者にこそふさわしい、模様も何もない白いシャツに青いズボンだ。
その姿はファンタジー世界の片隅の荒野ではなく、アメリカの都会の街角から出てきたかのように現代的だった。
「ああ、念のため言っておきますが、私は武器も何も持っていませんよ」
「ああ、そうかい」
それでも握手どころか手すら上げない二人に、肩をすくめてトーマスと名乗った男は言った。
「ま、別にいいですよ。手を合わせてお辞儀をする日本式の挨拶はよく知らないし。
ともかく、こちらへ。 別室でくつろいでください」
「あんたは、誰だ?」
背を向けかけた男は、一瞬だけ目を細めると、次の瞬間にはにこりと微笑んだ。
「ま、元の世界じゃしがない会社員です。 仕事とビールとメッツの試合を見ることだけが生き甲斐の。
で、今は<暗殺者>ですね。 まともに戦闘なんてしたこともないですが。
……こんな説明では不満です?」
「ああ、不満だね」
カイはユウを三度肩から下ろした。
その表情は先ほど<教主>と対峙した時と同じか、それ以上に緊張に満ちている。
<教主>には、どこか人にひれ伏させるような威圧感があった。
と同時に、得体のしれない存在に対する不気味さもだ。
だが、目の前の男は似ているようでどこか異なる。
それは、得体の知れない<人間>を前にした時の不気味さと、言っていいものか。
「……仕方ないな。 じゃあ今の身分と目的を明かしましょうか。
私はトーマスと言いましたね。
正式には<教団>の教父――わかりやすく言えば司教みたいなものですが――のトーマス。
お察しの通り、<教団>の幹部です。
先ほどあなた方を石碑まで案内したジェニーも同僚ですよ」
「ほう……教父ときたか」
カイは軽く鼻を鳴らした。
ジェニーといい目の前のトーマスといい、一見すると聖職者風とはとても言えないが、思ったよりも<教団>は自分たちを注視しているらしいことに気が付いたのだ。
「……そして。 あなた方を連れ出した目的は、先ほど我々の<教主>を倒した技を知りたいためです。
とりあえず、あの<教主>を殺したことは不問に付しますし、ひどいこともしないつもりです、ね」
よく見れば、周囲には隠れているが多くの人影がある。
石碑に気を取られていた往路と違い、今の二人は殺気立った彼らの存在を<辺境巡視>よろしく感じることができていた。
「さあ、早く来てください」
背を向けたまま、顔だけをかすかに振り返らせたトーマスの口調には、有無を言わさぬ冷たいものが宿っていた。
2.
太平洋。
今では太古の時代のように、人が通ることを拒む魔の海と化したこの大洋も、沿岸部だけはかつてのように人が細々と道を繋ぐことを許している。
その海が、ここ百年は見ていないであろう船団が波を割って押し通っていたのは、参謀長率いる部隊が<時計仕掛けの廃都>を制圧してから三日後、ユウたちが<聖域>にたどり着いた、ちょうどその日のことだった。
「裏帆を打たせるな!」
わずか1年にも満たない急造の船員だったはずの<不正規艦隊>の乗組員は、今や歴戦の海将でも満足げに頷くであろう機敏な動作で、この十数隻の船団を動かしている。
メカニズムがほぼすべての動作を代行する現代の船と違い、帆船はほぼすべての作業が人力だ。
そこで物をいうのは<冒険者>の並外れた肉体能力と、何よりも経験だった。
数少ない海軍出身の<冒険者>を中心に、昼夜を分かたぬ訓練をしながら進む<不正規艦隊>の遠征艦隊は今、目的の海にたどり着こうとしていた。
「左舷! 海竜!」
「各船は警戒を厳にせよ! <召喚術師>は即時召喚待機!」
がしゃ、と無数の砲門から弩砲が顔を出し、召喚獣たちが船の周囲を円を描くように取り巻いた。
それを知ってか知らずか、銀色の背鰭を翻した海竜は、近づくことなく徐々に波濤の彼方に消えていく。
海竜が完全に去ったのを確認しても、彼らの仕事は終わらない。
わずかな休憩をすることもなく、彼らは各々の仕事に戻っていくのだった。
そんな中、ユグルタは<マサチューセッツ>の士官用会議室で、何人かの部下とミーティングを続けていた。
「……本当に放置されているのだろうな?」
「間違いはないかと。 もちろん、危険の有無とは別に、ですが」
真剣な顔を突き合わせる部下たちを尻目に、ユグルタはじっと壁にかかった地図を見ている。
アメリカの西海岸南部を描いた、大きな地図だ。
その一角、くぼんだような陸地のへこみの真ん中に、小さなバツ印がつけられていた。
ユグルタの猛禽のような眼は、その印をまんじりともせずにじっと見つめていた。
「参謀長たちはうまくやりました。 ……まあ、戦力化できるかはまだ未知数ですが」
「<不正規艦隊>最後の作戦、少なくともその三分の一は達成されたということです」
「どうかな」
浮かれたような一人の声に、ユグルタは静かに応じた。
途端に、彼らが水を打たれたように静まり返る。
その中で、提督は一人一人に目を合わせてからもう一度言った。
「どうかは分からんよ。 戦力化は未知数、我々の艦隊はまだその入り口にかかったばかりだ。
何より、戦場を最後に支配するのは常に人だ。 歩兵だ。
参謀長の<機械仕掛け>も、今から我々が制圧するモノも、そのための手段にしか過ぎない。
……何より、<ジョン・ポール・ジョーンズ>の動きも分からん。
カリブに残した船からは、一目散に西へ向かっているあの船に振り切られたという報告があったきりだ。
……十中八九、我々の後を追っているだろう。
連中は精霊動力と外輪による複合推進だから、速度は速い」
「……スワロウテイルは、仕掛けてくるでしょうか?」
一人の参謀が、俯きかけた顔をあげて尋ねた。
海軍の少尉あがりで、スワロウテイルとは――ゲームの中だけでだが――面識もある男だ。
「彼は確かに勇猛で有能な男ですが、この<マサチューセッツ>以下、なおも16隻を擁する船団に仕掛けてくるほど無謀ではないでしょう」
「そうでもないぞ。 既に我々は遠征のゴールにたどり着きかけている。
もし奴が機を見ることのできる男なら、仕掛けてくるのは疲労が溜まり、ゴールが目の前に見えた今しかない」
別の参謀が口をはさむ。
「だが、相手は一隻だ。 取り囲んで袋叩きにすれば」
「いや、召喚獣をけしかけて船腹に穴をあけてやればいいのではないか?」
「相手が竜や精霊を出してきても、これだけの人数だ。対空防御に死角がないのは、あのパナマでの鳥相手の戦いを思えば自明だ」
「だが……」
なおも議論しかけた部下たちを、片手をあげてユグルタが制する。
「どちらにせよ、作戦目的は完遂されていない。 万全を期すならば出来るだけ今の艦隊を保全することが必要だが、言い方を変えれば人が脱落していない限り我々は本来の目的に向かうことができる。
……各員に一層の注意を命じる。 我々の征途は、いまだ途上なのだ」
誰もが頷いた。
窓から見える海は、今は穏やかに凪いでいる。
かつて太平洋の海運におけるメインポートのひとつだった事こそが幻想であったかのように、それは静かな光景であった。
◇
風が緩やかに吹く湾内に、16隻の船は滑るように入った。
かつて有名な橋が架かっていた湾口――この世界の通例として、そこも以前は神代の橋がかかるイベントスポットであったが――をくぐり、<教団>が本拠を構える南方ではなく、北方に舵を切る。
リッチモンドとサン・ラファエル――いずれも今は原野だが――にはさまれた狭い海峡を抜けたユグルタたちは、さらに奥へと転舵した。
参謀長が確実な勝利のために<時計仕掛け>を奪ったように、ユグルタたちにも狙うべき獲物がある。
やがて、狭い河口を遡上した彼らの前で、両岸が急激に広がった。
「……来たか」
さすがに会議を続ける気にもなれず、甲板に出たユグルタたちの前に広がっていたのは、決して広くは無い湾内を埋め尽くすように広がる、神代の建造物と現代の植物たちの奇怪な融合体の群れだった。
<サスーンの墓場>。
それが、この場所の名前だ。
どこかのどかな温帯の海に、大小無数の金属がさまざまな格好で沈んでいる。
塗装が剥げ落ち、妙にサイケデリックに映る錆を浮かせたそれらをあたかも抱きすくめるかのように、水生樹の群れが自由自在に絡み付いている。
そうした植物群の樹上を飛び交う動物の中には、どうみても自然の色彩ではあり得ない、妙に陽光を反射する飛行体がいることも確認できた。
<時計仕掛けの蜂>をはじめとする機械系モンスター――<時計仕掛け>達だ。
彼らがいるのは偶然ではない。
ゾーン名称が示すとおり、ここは<時計仕掛けの廃都>同様、ウェンの大地西部に存在する機械系ダンジョン、そのひとつなのである。
「よし、作戦行動を開始する。 各員、配置につけ」
ユグルタの号令一下、金属の群れに近づく木材の群れは、かねての訓練どおりに準備を開始した。
旗艦<マサチューセッツ>がするすると下がり、2隻の船が代わって先頭に立つ。
やがて帆船たちは、二本の槍のような陣形を組み上げると、帆を半分ほど降ろした微速で徐々に廃船の群れに近づいていった。
既に各船に置かれた砲門は開かれ、空を舞う<時計仕掛け>たちに備えて魔法職は呪文の準備を終えている。
「うまくいきますかね」
「最悪ゾーンを買えばいい、というのは参謀長のアイデアだ。
まあ、無理せずやるさ」
いつの間にか後ろにやってきた男に、ユグルタは軽い口調で答えた。
男――エヴァンズは苦笑して頷いた。
「ま、シミュレーションをしたわけでもありませんからな。
駄目で元々、うまくいけば丸儲け――その程度に思っていたほうが案外うまくいくものです」
彼は海峡突破の際に自らの船ごと爆発する間際、自らの<高速移動>で命を拾って後は、そのまま旗艦<マサチューセッツ>に乗り組んで、参謀をしていた。
別の船を任せようとしたユグルタに、「冗談ですか?」という一言を返して、だ。
ユグルタも一瞬赫怒したものの、やや考えてから彼をいわば無任所参謀とも言うべき立場に置いている。
確かにエヴァンズは得がたい資質のある水上指揮官だが、他の艦長たちも決して劣っているわけではないからだった。
そんな彼らが見守る中、一見して<墓場>に動きは見られない。
頭上を飛ぶ機械系モンスターも襲ってくる素振りも見せないままだ。
「元々はこの湾そのものがダンジョンゾーンだったな?」
「ええ。ですが、入り口は岸側にありました。 ゲームの頃は海からダンジョンを攻めることは出来ませんでしたから、ダンジョンも稼動しないのかもしれません」
「念のため今のうちにゾーンを買い入れておきます?」
近寄ってきた別の男に、ユグルタが曖昧に頷いた時だった。
異変は、海から起きた。
梯隊を構成する2本の槍、アルファ隊とブラボー隊、そのブラボー隊の2隻目の船が、突然よろけたのだ。
甲板の<冒険者>達が突然の傾斜に手も無く転がる中、傾斜を増した船はわずかな時間で横転した。
自重でへし折れたマストが、巨大な水音を立てて海面に横倒しになり、その合間で<冒険者>達が溺れていく。
「敵襲!!」
だが、空を見ても<時計仕掛けの蜂>たちに動きは無い。
正面に広がる船の墓場も、沈黙を保ったままだ。
「敵は水面下だ! 両舷弩砲戦! 俯角急射!」
誰かの叫びに、各船の動きが慌しくなる。
動きの良い一部の船は、既に最初の射撃を水面に向かってはじめていた。
その頃になると、ようやく<冒険者>たちの目に水面下を遊弋する銀色の物体が見えるようになる。
「潜水艦か……!?」
最初はそれは、彼らも良く知る水面下の猟犬のように見えたが。
「違う! 魚だ! <時計仕掛けの魚>だ!」
誰かが当てずっぽうに叫んだ名前が真実だと言わんばかりに、その銀色の群れは生物的なまでに優雅に体をくねらせた。
「沈船の残骸かと思ったら……っ!!」
言いながら、<召喚術師>の一人が召喚獣を呼び出した。
その顔色は、青い。 緊張と度々の召喚で、精神とMPの双方を磨耗しているのだ。
更に悪罵を漏らしつつ、召喚獣に指示を出そうと舷側に駆け寄ったその<召喚術師>が、不意に消えた。
同時に彼の居た場所に巨大な水柱が立ち、油でも混じっているのか、毒々しい虹色の色彩がその表面を染め上げる。
呆然と見上げていたユグルタたちが、咄嗟に自分たちが慣れ親しんだものを思い出すのも無理のないことだった。
「魚雷!!」
反応の遅い陸上生物たちをせせら笑うような旋回から一点、全身を棒のように固めて突っ込む<時計仕掛>の群れを、<不正規艦隊>の<冒険者>たちは絶望の面持ちで見つめるしかなかった。
<時計仕掛の雷魚>というのがこのモンスターの名前である。
セルデシアの中でも特に機械系のモンスターが多い北米サーバの固有種とも呼べるモンスターで、現実の雷魚をよく知らない担当者の手によって誤解を招く名称にされたものの、その実態は自律行動する魚雷にほかならない。
レベルは平均して50にも満たず海中ゾーンでしか行動できないことから、さほど著名なモンスターでもなかった。
実際、ゲーム時代には船のシステムは実装されていたものの出現ゾーンを選ぶこのようなモンスターのいる場所に好き好んで船を出すもの好きなどそうはおらず、たまにいたとしても船自体がオブジェクトに近い扱いだったために、悩まされるということもそれほどなかった。
その特性上、自爆によってレベルに見合わぬダメージを与えてくるわりに、レベル相応の素材しか出さないために、一部の愛好家を除けばほとんどが「割に合わない敵」と切って捨てる程度の扱いだったのだ。
だが、現実化したこのセルデシアにおいては、『雷魚』たちは本来彼らに望まれていた役割を、極めて厳酷に果たすつもりであるらしかった。




