163. <大洋のかなたへ>
1.
悠々と流れる黄土色の大河。
どこか色の違う、黄色みがかった大地。
緩やかに吹く風にさらさらと流れる高粱は、まだ穂を実らせるには早いのか、青々とした茎を少しでも高く伸ばそうと、背伸びするように揺れていた。
ギャロットたち<ファラリス>の5人、そしてアンディたち2人が<妖精の輪>から踏み出した大地は、そんな異国的な風景に包まれた場所だった。
「……ようやく、ついたか……」
懐かしい故郷――華国の風を胸を広げて吸い込むジーヨウと対照的に疲れ果てて項垂れているのは、<施療神官>のマイヤーだ。
彼だけではない。 ほぼ1年ぶりの故国への帰還に浮かれるジーヨウ以外の面々は大なり小なり、どこか気だるそうに周囲を見回していた。
彼らの母国であるウェンの大地を離れて1週間、さすがに強靭な<冒険者>といえど疲労はたまる。
途中に高山の稜線上にある絶壁だの、今にも沈みそうなサンゴ礁の――しかも鮫の巣だった――上だの、ろくでもない場所を介していれば尚更だ。
途中で<輪>に入る時間を間違えて、ルートを外れてなお脱落者なく目的の国にたどり着けたのは、もはや僥倖と言ってよい。
風が一瞬、強く吹き付ける。
背中からマントをはためかせるそれが、前途を祝福する女神の激励であってほしいと願いながら、ギャロットはへたり込みかけた一行を励ました。
「さあ。 ソルガムの畑があるということは、近くに人がいるということだ。
明るいうちに何とか人里まで行くぞ。 この場所はわかるか?」
最後の一言は、周囲をきょろきょろと見回していたジーヨウへの言葉だ。
彼は、周囲の地形や、特に川の形を見てから、ややあって頷いた。
「分かります。 かなり運がいいですね、ここは中国の北のほう、北京――<燕都>から離れたところです。
少し歩けば古代の都のあった大同にも行けます。
アメリカの人にもわかりやすく言えば、要はかつての人民共和国の首都のあるエリアですよ」
「おれたちは燕都に向かう気はないぞ。 アメリカだけでも面倒なのに、中国の厄介ごとに巻き込まれてたまるか」
「分かっていますよ」
オズバーンにこたえつつ、ジーヨウが俯く。
しばらくして顔を上げた彼の顔には、わずかな緊張が薄く刷かれていた。
「……西へ向かいましょう。 もし、私のいたころと華国が変わっていたならば、そこに行けば目的――<不正規艦隊>からの依頼を半分は果たせるはずです」
「……そこには何があるんだ、ジーヨウ。 お前のその顔、どうもいい話だけではなさそうだな」
ギャロットの問いかけに、ジーヨウは唇をかみしめて頷いた。
「そこにあるのはかつてのギルドウォーの中心部の一つ、<黒木崖>。
ここから最も近い、<冒険者>の牙城です。
……そこは私が華国から逃げ出したころ、この大陸に混乱をもたらした連中、<邪派>の根城でした。
アメリカにも聞こえてきた噂の通り、華国が立て直されていたならば、そこに行っても話を聞いてくれるでしょう。
ですが、もしその噂が嘘であれば」
死ぬより恐ろしい目に遭う。
ジーヨウの目が、一切の妥協なくそう告げていた。
だが、その目をギャロットもしっかりと見つめ返す。
「すでにかなり時間をロスしている。 噂が真実である事を期待して、行くとしよう」
◇
<道姑>レンインは忙しい。
先代の幇主だったメイファから引き継いだ<日月侠>の運営のほかにも、華国における彼ら大手GvGギルドの連合体である<夏>の評議員としての仕事もあり、彼女はほとんど毎日を自らの居城、<黒木崖>と<夏>の首府である<嵩山>との往復に費やしている。
都市間ワープポータルがあれば楽なのだが、元々対人戦エリアであった嵩山や黒木崖にはそれがないし、あってももちろん使うことはできない。
それに加えて、暫定的に<日月侠>が統治している周辺の<大地人>との交渉だの、<燕都>から流れてくる悪徳<冒険者>の討伐などがあり、その合間に幇員と親睦も深めねばならない。
幇主のあまりの激務に、今や名実ともに<日月侠>No.2の地位を手に入れた<盗剣士>のフーチュンなどは、夏を総べる二人の王、ベイシアとメイファに対して彼女を評議員から外すよう陳情したが、帰ってきたのはすげない拒否だけだった。
『かつて邪派の盟主であり、いまだに規模では夏政権内で第一である<日月侠>の幇主を評議員から外すのは、我々に従っている旧邪派の面々の気持ちを考えても肯い難し』
それがベイシアたちの下した結論だったのだ。
だが、そんな部下たちの不安をよそに、レンインは青い顔をしながらも必死で職務を果たしている。
訴訟の類は自らが必ず決済し、<大地人>と<冒険者>との揉め事に自ら姿を見せるのも一再の事ではない。
いくら先々代幇主の養女格とはいえ、彼女がそこまで身を粉にする意味を、他ならぬ副幇主たちごく少数だけが知っていた。
すべては、贖罪なのだ。
自らの策によって死んでいった無数の<大地人>や亜人たち、何より――彼女の罪を一切合財被って汚名を甘んじて受けた、一人の日本人<暗殺者>への。
その日。
レンインが黒木崖の門前に不審な<冒険者>がいるという情報を受け取ったのは、彼女が書類に花押を押しながら、野菜を挟んだ包子と水という遅い昼食を取っていた時だった。
「不審者?」
レンインの玲瓏な声が、やや訝しげに揺れる。
報告を上げてきた<日月侠>の若い幇員は、やつれ果てた美少女というべき自らの幇主の姿に目を奪われながらも、きびきびとギルドマスターの疑問に答えた。
「諾。 発見は15分前、人数は7人。 ステータス画面は英語のようで、うち5人は<Phalaris>というギルド名を持っております。
どうも街道を通らなかったらしく、街道沿いの哨戒も発見できなかったようです。
見たところ暴れる風でもなく落ち着いていますが、開門と幇主への面会を申し出ております」
「ナンベイはなんと?」
レンインは、現在黒木崖の守備を任せている幹部の名前を告げた。
「ナンベイ師伯はまず自分が様子を見る、と出て行かれました」
「ふむ……なら、彼の判断に任せましょう」
レンインはそれだけを告げると、「下がりなさい」と彼をさがらせた。
ナンベイはかつてレンインの(演技としての)養父である先々代幇主、ウォクシンに忠節を尽くした古参のプレイヤーである。
年齢も高く、やや杓子定規に過ぎるが判断を誤ることの少ない彼は、今のレンインにとって数少ない腹心だ。
その彼が直々に異邦人たちを見る以上問題はないだろう、と彼女は再び、とある土地を巡る<大地人>同士の訴訟に意識を振り向けた。
◇
「急いでいるんだよ。 会えないならそれでもいいから、これを必ず幇主に渡してくれ」
「……ふむ」
ナンベイは、ギャロットと名乗った目の前の奇妙な格好の男――大航海時代の船乗りだと言われてもおかしくない――から渡された一通の封書に目を落とした。
高級素材を使ったその封書は丁寧に折られ、赤い蜜蝋で封がしてある。
やや古めかしいが、きちんと作法にのっとった親書だ。
「我らの幇主は忙しい。 それに、アメリカから来たんだったな? 君たちの土地はどうなっているか知らないが、この華国は今も混乱が続いているのでね。
悪いが、私がこの場で開けてみてもいいかね」
「できればそれは辞めてほしい。 とはいえ、あんたが見たうえで、必ず幇主に渡してくれると約束してくれるならば」
「約束はできかねる。 この世界、紙の形をした毒というものも不可能ではないのでな。
それに、時間はいささか貰う。 重ねて言うが、幇主はご多忙なのだ」
「それを言うなら、こっちも重ねて言う。 こっちもかなり急いでいる。生きるか死ぬかなんだ」
「約束はできない」
「そこを重ねて頼む」
周囲のナンベイの部下たちも、マイヤーやヴァネッサたちも口をはさめない。
まだ険悪、とまではいかないが、両者の間に微妙な雰囲気が漂い始めた時。
「ナンベイ師叔! 大丈夫か?」
どすどすと重い音がして、一人の巨漢が<冒険者>たちを割って姿を見せた。
「海外の<冒険者>ということで念のために来てみたんだが」
「ああ、すまないな、カシウス」
「「「ヨーロッパ人だと!?」」」
そのステータス画面を見て驚いたオズバーンたちの声が、周囲に響く。
苦笑したその男は、兜をかぶっていない金髪をぽりぽりと掻いて、見知らぬ同胞に向き直った。
「ああ。 おれはカシウス。 元は<七丘都市>出身のプレイヤーさ」
2.
結局、ギャロットたちは黒木崖の域内には通された。
だが、その場所と言えば。
「ま、さすがにしょうがねえな」
オズバーンが苦笑して肩をすくめるような場所――つまりは、門を入ってすぐの衛兵詰所だった。
「連中もかなりよそ者を警戒してるし、しょうがないんじゃない?」
軽く返したのはヴァネッサだ。 その腰にいつもあるはずの愛用の戦斧は今はない。
ほかの面々も似たようなもので、ナンベイの求めに応じておとなしく自らの武器を出している。
唯一、ジーヨウだけはやや抵抗したが、今は彼もおとなしく椅子に座っていた。
「ま、こっちにも事情があってね。 そこは汲んでくれると助かる」
7人に向かい合って座るのは、ナンベイとカシウス、二人の<日月侠>の幹部だ。
イタリア人である彼は本来ギャロットたちと一面識もないのだが、同じ欧米人ということからか、今は通訳よろしく硬い表情のナンベイの横に座っていた。
「……それで、だ。 あんたら、単にウェンの大地に居づらくなって逃げてきた難民だ、というわけでもなさそうだな」
「その通りだ」
カシウスがいることもそうだが、見たところ目の前の彼らはジーヨウが言っていたろくでもない邪派というわけでもないらしい。
そのことにそっと安堵のため息を漏らしつつ、ギャロットは自分たちの大陸の事情をかいつまんで説明した。
無法と混乱のこと。
<教団>と名乗る不気味な団体のこと。
滅ぼされた<クレセントシティ>や、滅亡寸前までいったマグナリアのこと。
長い話に一言も口を挟まずナンベイとカシウスは聞き終えると、ややあって同時に口を開いた。
目上への敬意からか、カシウスが軽く促した手に頷き、まずはナンベイが口火を切る。
「まず、事情は分かった。 気の毒だともな。 と同時に、この親書の内容もわかる。
君たちのような<冒険者>が、わざわざ太平洋を越えて来るような事情がほかにあるとも思えない。
そのうえで、私的な意見という事を前置きしてからいう。
……今の華国では、君たちの希望に沿うことはできかねるだろう」
「援軍は出せない、ということか?」
マイヤーの問いかけに、ナンベイは小さく頷いた。
「我々は君たちに比べて安定しているように見えるだろうが、それは薄皮一枚の事に過ぎない。
半分とはいえ、この大陸は広すぎるのだ。
事実、我々が実質上制圧できている地域は、かつてこの大陸に存在した古代王朝と比べても、随分ささやかなものに過ぎない」
そうして、ナンベイもまたかいつまんで語り始めた。
<大災害>以降の苛酷を極めた彼らの状況について。
自分たちが加害者の側に立っていたことも含めて、すべて包み隠さずにだ。
ギャロットたちも黙って聞いている。
どこも似たようなものとはいえ、やはり心には堪える。
自らを文明国家の住人と位置付けていれば尚更の事だった。
「……というわけだ。 我々<冒険者>は、我々が生きていくために群れなければならない必要があるからこそ群れているに過ぎない。
統制を離れれば、起きてしまうのは再びの――そしてよりひどいであろう混乱だ。
そうなってしまっては我が教主――いや、命を落とした多くの人々に対する裏切りにしかならない」
「……確かにな」
頷くのは目的に背くとわかっていながらも、ギャロットたちも苦い顔を見合わせる他はない。
彼ら、米国のプレイヤーが一年を苦しんで生きてきたように、中国のプレイヤーも同様なのだ。
ましてや中国は国内と他国とに多くの問題を抱えている。
多くの血と涙と悲しみを経て手に入れた、平和への第一歩を他国のために失うわけにはいかなかった。
何かを象徴するように、小屋の外でびゅう、と強い風が吹き抜けた。
ふと、ギャロットの張りつめていた神経がぷつりと途切れた。
(思えば――ほかのサーバに助けを求めるなんて任務、うまくいくわきゃねえよなあ……)
それまでよほど緊張していたのだろうか、人の体温で温かい小屋の中で、ギャロットに急激な睡魔が襲い来る。
確かに、ビッグアップルやサウスエンジェルの住人に頼むよりは、まだほかのサーバのほうがましだ。
比較的安定している日本や中国、東南アジアなどのプレイヤー――その中には在外国民もいるかもしれない――に助けを求めるというのも、道理として理解できる。
だが、あの激戦を繰り広げたマウンドの上で、自分たちにこの依頼を持ってきた<不正規艦隊>の男も言っていたではないか。
『あなた方の作戦は、いうなれば予備、です。 我々には遠路援軍に来てくれた異国の<冒険者>たちに返せるだけの十分な礼ができない。
その上で、お願いしたい。
<教団>がこのまま変化せずに蔓延れば――目の前のような光景が増えるかもしれないのだから』
このまま本隊に合流し、<教団>の<聖域>に攻め入るというその青年は、心底申し訳なさそうにそう告げていたではないか。
もしかしたらそれは、一つの街の滅亡に立ち会うという、許容範囲を超える悲劇に遭遇した同じ米国人プレイヤーとしての、彼なりの憐みだったのかもしれなくて。
「……我々がアメリカ人だから――という、理由ではないのだな?」
「違う。 ……といいたいが、中国の今の教育を受けた世代の中には、諸君らを敵視する人間もいるだろう。 ……我々はかつてお互いを憎み合うのを避けるため、偽りの正邪の戦いを繰り広げた。
それは今の<夏>が出来て終わったが、人というものは潜在的に敵を求める生き物だからな」
なかば夢うつつに、ナンベイとマイヤーの問答が聞こえる。
ギャロットがこくりこくりしかけているのを見てカシウスがちらりと片眉を上げた。
彼自身、つらい旅をしてきた経験がある。
仲間を脱落させず、<妖精の輪>をくぐってきたギャロットに内心共感していたのだ。
「……疲れているのだろうな」
「ああ」
ほとんど眠りかけたギャロットを見て、カシウスが呟く。
返しているのはジーヨウだ。
共に異国で異邦人として過ごすだけに、二人は似たようなまなざしでリーダーの<海賊>を見つめた。
「異国で、長い旅をするというのは大変なものだ。 あの娘もそうだったのだろう。
何とか、無事に目的を遂げていればいいが」
「あの娘?」
ナンベイとマイヤーがなおも問い交わす横で、ちらりとカシウスが尋ねた。
何の気なしにジーヨウも答える。
「ああ。黒い服に黒髪の、日本人の女<暗殺者>だ。 少ししか聞いていないが、彼女もユーラシア大陸を横断して、アメリカまでやってきたのだという。
元の世界に戻るために、一人で<盟約の石碑>まで行くと言っていたが、今はどこで何をしているやら。
<盟約の石碑>がある場所は、今はさっき説明した<教団>のまさに本拠地だ。
一人で行って何とか目的を達成できるとよいのだがね」
「黒い服に黒髪の日本人<暗殺者>だと!!?」
カシウスの変化は劇的だった。
だん、と椅子を蹴倒して立ち上がると、そのままジーヨウの肩をがしゃがしゃと揺さぶる。
「おい! そいつの名前は何と言った? まさか、<毒使い>じゃなかったか!?」
その剣幕に、思わずナンベイとマイヤーも変貌した<守護戦士>を見やる。
「カシウス……?」
「名前を教えてくれ! そいつの名前を! 頼む!」
「た、確かにユウといったよ、<毒使い>でもあった。 ……! 痛い! 離してくれ!」
切れ切れに答えたジーヨウを放り出し、カシウスはどかりと座り込むと、やおら片手で顔を押さえた。
「ははは……はは、やりやがってた、あいつ……アメリカまで行ったのかよ、ユウ……!」
「どうしたのだ?」
同僚の変化についていけずナンベイが問いかけるも、答えはない。
顔を天井に向け、目の端から光るものを落としながら、彼は手で覆った顔からきれぎれに笑っている。
その時、ぱちりと目を覚ましたギャロットが、不意に聞いた。
「あんたはユウを知っているんだな」
「……ああ。 戦友で、恩人だ。 おれと、おれにとって大事な連中のな」
「なら、手伝ってくれ。 あんただけでもいい。 あいつは今、<教団>の本拠地に向かっている」
「已むをえまい……ナンベイ」
「議論をひっくり返したな、カシウス」
両手を『お手上げ』といった風に掲げて、ナンベイは小さく苦笑した。
「ヤマトの黒い<毒巧手>と言えば、お嬢さんとフーチュンを助けた、あの娘か。
ならば、すべては話は別だ」
そう言って彼は立ち上がり、自ら小屋の扉を開いた。
「あの娘が危難に遭っているのであれば、お嬢さんも決して見逃されるまい。
案内しよう、我らが幇主が、お会いになる」




