155. <欠けた三日月>
最近更新が遅くてすみません。
1.
「……インヴィクタス、なぜ、あなたが」
痙攣しながら消える<敬虔な死者>を踏みつけたまま、若き<教団>員は現れた狼牙族に問いかけた。
ルフェブルの密偵だった、あの黒髪の<暗殺者>と一緒に海に出たはずの彼が、なぜここにいるのか。
何よりも。
なぜ、彼は恐怖ではなく、不満そうな――ある意味ではこの場に最もそぐわぬ顔をしているのか。
「……インヴィクタス!」
「何をしているのです」
返ってきた返答に、アンディの筋肉が再び緊張する。
(……今の彼は危険だ)
<大災害>より一年。いかなるステータスにも、情報にも載っていない目の前の男の異質さを肌で感じ、アンディとリアラの全身にぞわ、と鳥肌が立った。
「何をしている、とはこっちの台詞です。ここは危険です。不死者に襲われる前に、早く港へ」
その言葉にも、顎を手にやったまま、インヴィクタスは動く素振りさえ見せない。
いや、動いた。
彼の口、その両端がつ、と釣り上がり、奇妙な半円の笑みを形作る。
「いや、そうではなくてね」
そのまま黙る彼の横に、物陰から現れた人影がある。
その瞳は、奇妙に毒々しく赤く彩色されていた。
女だ。
おそらく<製作>級ですらないだろう、簡素な鎧に、武器はない。
その少女は、外見年齢に似合わない艶めかしさでインヴィクタスに近寄ると、対峙するアンディたちを見た。
その目の無機質さは、まるで人というより昆虫のようだ。
「……どうしたの? インヴィクタス」
「いや、一応彼らは同志なのだが……どうも状況を理解していないようだ。彼らとは一応、知り合いなので困っていてね」
苦笑して肩をすくめるインヴィクタスに、少女が冷眼を向けたまま言う。
「この街にいて、状況を伝えてもらえていない。 ならば、役割はひとつじゃなくて?」
「まあそうなのだがね。 それもちょっと哀れかなと。 主任に一言断って、連れて行くか」
「………」
「……なに、あの人たち」
「大丈夫だ、リアラ」
アンディの背中で怯えるリアラに、少女が眼差しを向けた。
「……幸運と不運は常に等価交換。 私はかつて不運で、今は幸運。
一方、あの子はかつて幸運で、これから不運になる。 それが世界のあるべき姿だし、そうすべきだわ。
<教団>の情報は常に複相しているべき。 ……彼らには街と運命を共にしてもらいましょう」
「どういうことだ! 街と運命を共にするとは! それにやっぱりあんたも<教団>の」
少女の不気味な宣言に怒鳴り返したアンディの口が止まる。
インヴィクタスが片手を上げて、彼を制したのだ。
やがてその口から、漏れた言葉は。
「そうだな。 個人的な親交で教主の指示を歪めることがあってはならない。
彼らには、<教団>を信じる人々のための贄になってもらおう」
「……インヴィクタス!!」
殺気が膨れ上がる。
次の瞬間、アンディと少女は同時に飛び出していた。
◇
一歩踏み込んで、剣を持つ肘を体に引き付ける。
鍛錬を怠っていたものの、それでも<冒険者>の体は自分で思ったよりも数段鋭く動いてくれた。
「<リアクティブヒール>!」
<施療神官>の代名詞とも言える特技が、アンディの全身を包む。
ダメージに応じて自動回復をするこの技は、たかが屍人相手には無用のものだ。
だが、徒手空拳で突っ込んでくる目の前の不気味な女性には、これが必要だとアンディは直感していた。
そして、それは次の瞬間に正しいことが証明された。
「……っふっ!」
残像すら残して振るわれた長剣の下を潜り、少女の曲がった膝が力を込めてたわむ。
次の瞬間、アンディは凄まじい衝撃を顎に受け、一瞬意識が飛んだ。
「……な!? なんだこのダメージ!」
一撃で10%。決して低くない彼のHPを、特技でもない単なる拳がもぎ取った量だ。
あるいはこれが特技であれば、もしくは自身のレベルが低ければ、アンディはここまで驚かなかった。
暖かな回復の光が全身を駆け巡るのを見つつ、アンディは咄嗟の判断で後ろに飛び退る。
だが、それよりも相手の方が速い!
「アンディ!! <ディゾナンススクリーム>!!」
さらに二発、少女がアンディの腹部に拳を埋めたところで、後方のリアラを中心に耳障りな音波が広がった。
耳から小さく血を流し、少女が詰めてきた間を一瞬で開ける。
狼のようなその身ごなしに二人の<冒険者>が驚く間にも、悠々と立った少女は戦況を見守るインヴィクタスのもとへ戻り、彼に耳打ちした。
横を向いた耳から流れる血は、まるで粘土のようにどろりと重く、滴っている。
その時になってようやく、アンディとリアラは目の前の少女の名前を確認する余裕を得た。
「……ローズマリー。<妖術師>。 レベル……!? 23だと!?」
アンディはもちろんだが、リアラもレベルは90だ。 その3分の1もない彼女――ローズマリーは、彼らに向き直ると無表情のまま、かすかに口元を歪めた。
それを見ながら、リアラが震える声で報告する。
「サブ職業……<吸血鬼妃>。 ……なんで、実装されていないサブ職業を!」
「どうでもいいじゃないですか。 君たちも教主に誓ったのでしょう? <教団>のためにこの肉体を捧げると。
黙って従いなさい。 何、別に死ねと言っているわけじゃない。
<大神殿>で復活すればいい。 まだあのあたりに<敬虔な死者>はいないですからね」
「……<教団>が不死者を操っていたのか」
インヴィクタスの面倒くさそうな声に、アンディの頭で、揃えたくなかったパズルのピースが嵌っていく。
目の前の、おそらく自分たちを町ごと見捨てた男に対し、ふつふつと怒りが激ってくる。
「なぜだ! この街には多くの<大地人>がいたんだぞ! 我々の声を聞いてくれる人たちだって、少しは!」
「状況が変わっただけですよ」
ひょい、と肩をすくめてインヴィクタスはそう嘯き――そのまま傍らのローズマリーに命じた。
「殺れ」
「<ホーリーヒット>!!」
アンディが叫び、その剣に光が宿る。 わずかながら命中率を上げる、<施療神官>の呪文だ。
疑問は山ほどあるが、今はどうにもならない。
この場を生き延び、助けを待つ子供のもとへ急がねばならない。
弾丸のように急迫するローズマリーに躊躇いなく剣を叩き込みながら、アンディは気合のこもった叫びをあげた。
「……さよなら」
接触する寸前、ローズマリーの体が蛇のようにくねる。
慣性も重力も無視したように、彼女の上半身が仰向けに倒れ、足がアンディの顎を狙った。
脳を揺すぶるべく振り上げられたその一撃を、アンディは横合いから手を伸ばして掴み止める。
「<ホーリーライト>!」
掴んだその手で呪文。不死系に対し防御無視ダメージを与えるそれは、相手が<冒険者>であっても変わりがない。
聖なる光で文字通り脹脛を打ち抜かれ、ローズマリーの体が僅かに震える。
「<フェイスフルブレード>!」
足一本とは言え相手を拘束したアンディの剣が再び輝いた。
本来ならば貯め時間に応じて威力が倍加するこの特技を、だが今は悠長に貯める時間などない。
上位モンスターの名前を冠したサブ職業を持つローズマリーの筋力は、レベル23の低レベル<冒険者>とは思えないほどに強大だ。
もう一本の足が自身を襲う前に溜を終え、剣を振り下ろす。
それは、ローズマリーのもうひとつの足にざくりと食い込み、どろりと暗赤色の血をしぶかせた。
「ぐっ……!」
「舐めるな!」
両足にダメージを受けたローズマリーを振り回し、アンディは舗装もされていない地面に彼女を叩きつけた。
そして、尋常とは比較にならない速度で、彼の両手が印を結んで突きつけられる。
「! ローズマリー!」
野犬の耳を生やし、インヴィクタスが突っ込んでくる前に、アンディは後ろのリアラによる<ウォーコンダクター>の支援を受けて倍加した速度で詠唱を終えた。
「不浄な不死者、消えろ! <ジャッジメント・レイ>!!」
眩い白光が、尻餅をついたローズマリーを後ろのインヴィクタスごと飲み込む。
<施療神官>である彼の最大魔法だ。
レベルがたとえ90であっても、無事で済むものではない。
だが。
アンディの手が凍りつく。
光の隙間を縫うように、氷の波が押し寄せる。
それはアンディの両手を凍りつかせ、両足を大地に縫いとめ、後ろでもたもたと――仲間の速度を上昇する代わりに自らの速度を奪われる<ウォーコンダクター>の効果だ――避けようとするリアラを飲み込み。
「な、な……!!?」
光すら、凍りつかせていく。
「……<フリージングライナー>」
それは、間違いなく23レベルの<妖術師>が放てる威力ではない。
90レベルの<施療神官>の最大奥義と打ち合って競り勝つなど。
しかも、<吸血鬼妃>というサブ職業はゲーム時代はなかったが、モンスターとしての<吸血鬼妃>は<吸血鬼>系の上位種族だった。
つまりは<吸血鬼>特有の特徴――昼間には能力が低下する――を持つ。
今は、そして黄昏だ。 既に僅かに顔を出しているだけだが、まだ太陽は沈みきってはいない。
つまり、ローズマリーは本来の力を出せないままに、アンディを圧倒しているということだ。
「くっ!! <ディバインマイト>!!」
凍った足を無理やり引っこ抜き、アンディが<ジャッジメントレイ>を中断して走る。
耳元を雪崩のような音とともに氷の渦が駆け抜け、アンディとリアラをすんでのところで死から免れさせた。
「食らえ、怪物!!」
その瞬間、日が没した。
一瞬遅れて到達したアンディの剣は、しかし簡単に止められる。
刃をものともせずに握った、少女の細腕によって。
周囲に闇が薄く広がっていく中、少女の姿をした怪物は、うっすらと笑っているように見えた。
◇
アンディとリアラは絶望的な抗戦を続けていた。
相手は一人、<大地人>にすら劣るレベルの<妖術師>だ。
その相手に魔法すら使われることなく、傍観しているインヴィクタスに戦闘参加させることすらないまま、
二人は圧倒されていた。
既にアンディの手に剣はない。
先ほどの交差で奪い取られ、へし折られたのだった。
「……なんで僕たちを殺そうとする! それにこの街も!」
「陳腐な言葉だね」
息を荒げながら叫んだアンディに、インヴィクタスは組んでいた両手を解いて肩をすくめた。
「インヴィクタス!!」
「まあいい。 ローズマリーもちょっと待ちなさい。 仲間の誼だ、教えてあげましょう。
君たちがそれなりにこの街で受け入れられているからですよ」
「なんだって!?」
「あのルフェブルと関係を結べたのは良好でした。 保安騎士長である彼が認めたとなれば、この街の<大地人>に対する信用は大きく上がります。
……ま、その割に信者が増えていないのは君たちの怠慢でしょうが。
ともあれ、せっかくの<大地人>からの信頼を壊すわけにもいきません。だから死んでもらうのですよ」
その言葉に、リアラがピンときた。
「……! このゾンビの襲撃が<教団>の仕業と思われないために……あるいは思わせるのを遅らせるために!」
インヴィクタスの表情は、彼女の推測が的中していることを示していた。
「僕たちがゾンビと戦って死ねば、<教団>がすぐに疑われることはない。
いずれはそうでも、『仲間を殺すか?』という疑問が先に立って発覚が遅れる。
……そのためだけに、僕たちを殺すというのか!」
「ご名答」
ぱちぱち、と手を叩くインヴィクタスの目には何も映っていなかった。
屠殺場に引きずられる牛が『僕を牛肉にするんですか』と聞いたとしたら、同じような返事を返されるだろうか。
「じゃあ、なぜこの街を滅ぼす! <聖域>から離れたこの場所に、うまみなんてないはずだ!」
「それは実験ですよ。 まあ、せっかくだから見ていくといい」
ざあざあ、という水音が急にアンディたちに届いた。
気のせいではない。 本当に増水している。
その水はやがて、ひたひたと4人の<冒険者>の足元を濡らし、くるぶしまで瞬く間に溜まっていく。
薄闇の中でも見て取れる、その妙な水の黒さに、本能的な場所でアンディとリアラに警戒心が浮かんだ。
「水……!? だが」
「君も<聖域>で見たことがあるでしょう。 あそこに来た<大地人>は、聖別の水を飲みます。
そして額に同じ水を垂らされる。 洗礼というわけですね。
……そしてその水を飲んで死んだ者は」
インヴィクタスが示す、自らの組織のおぞましい暗部に、二人の顔がさっと青ざめた。
表情の変化も気にせず、彼はちょいちょい、と誰かに手招きした。
やってきたのは、もがく何かの塊を不器用に抱えた二体の<敬虔な死者>だ。
「やめて、離して!」
「やめろ!! トッドに手を出すな!!」
「……ちょうど近くにいたのでね」
「足がない子供……それから目に傷のある子供……!!」
「インヴィクタスっっ!!」
屍人が抱きかかえているもの、それがまだ幼い少年達だということに気がついたアンディが大地を蹴った。
その突進も、すかさず割って入ったローズマリーの一撃によって殴り飛ばされ、アンディは無様に水しぶきを撒き散らして転がった。
だが、今度ばかりはアンディも、そしてリアラも止まらない。
ゾンビを押し止めようとする二人を、ローズマリーが阻む。
もつれ合う3人の<冒険者>を尻目に、インヴィクタスは懐から短剣を取り出すと、何のためらいもなく喉を掻き切った。
痙攣するトッドの横でラバンが絶叫するのも気にせず、今度は喉を握り潰す。
それを見てリアラが悲鳴をあげ、アンディはぎりぎりと歯を食いしばった。
奥歯が割れたのか、その口からつう、と血が滴り落ちる。
「貴様、よくも子供を…!」
「どうせ遅いか早いかですよ」
インヴィクタスの言葉とともに、<敬虔な死者>たちがぽい、と死体を放り出した。
地面に転がった死体は鮮血を吹きながらボロ切れのように転がり、泡となって消え―――なかった。
「……!!」
二人が驚愕に目を開く前で、少年たちのステータス画面が変わっていく。
<浮浪児>から―――<敬虔な死者>へと。
やがて、ラバンだったものはむくりと起き上がり、足のないトッドだった死体は、肘を支点に立ち上がった。
紛れもない、不死者として。
「……よかった。なんとかなりそうだ」
「貴様、何を! まさか洗礼の水を飲ませたのか!?」
絶叫したアンディに、煩そうに答える。
「飲んだ、といえば飲んだでしょうね。死体になって、この水を」
「……! じゃあ、この足元の水は」
インヴィクタスがにやりと、悪霊そのもののような笑みを見せた。
「……<教団>の実験はとりあえずは成功です。 さて、ではローズマリー」
「はい」
「彼らを殺して、新たな<敬虔な死者>の素材を作りに行きましょうか」
「ええ。 それに私はあのリアラは先に殺しておきたいです」
「……リアラ! 逃げるぞ!!」
アンディはそれを聞くやいなや、相棒の手を引いて走り出した。
化物そのものの目が二対、その背中をジッと見つめている。
2.
ルフェブルは人気のない街路を歩いていた。
老ドワーフは普段と異なる全身鎧に、巨大な斧を両手で持っている。
完全武装だった。
『市街にゾンビが現れた』
その情報は、逃げてきた人々の口を通じ、爆発的に広まった。
恐慌寸前の人々を抑えたのは、近隣から入港した何隻かの船だ。
歴史を知る人間であれば奴隷運搬船と呼べるほどに、それらの船は今、隙間なく住民たちを受け入れては出航していく。
だが、全員ではない。
残された――あるいは残ることを強いられた人々は今、絶望の瀬戸際にいた。
そんな彼らを抑えるための策の一つが、保安騎士長として治安を預かる任務にある人々、つまりルフェブルたちによる見回りだ。
本当にゾンビがいたとしても、ゾンビのレベルは低い。
ルフェブルや、彼の同僚が手塩にかけて育てた<大地人>の治安執行騎士たちであれば、決して倒せない相手ではない。
そうして彼らが抑えている間に、残る住民が脱出する船の到着を待つ。
それが、崩壊しつつある市議会が下した、最後の結論だった。
既に夕闇は消え、のしかかるような深い闇が行く手に黒々と蟠っている。
ルフェブルは怖気付こうとする内心を叱咤し、部下とともにゆっくりと歩みを進めていた。
「……!! 騎士長! あれを!」
なんじゃ、と問い返す間もなく、闇が形を成して切り取られたかのように蠢き、それは男女二人の姿となって現れた。
アンディと、リアラだ。
「……おぬしら!」
「逃げてください! 化物が来ます!」
最初に怒鳴ったのはアンディだ。続いてリアラも恐怖に駆られたように絶叫する。
「この足元の水の上で死ぬとゾンビになります! 早く港へ戻って、みんなに避難を!!」
「……もう、遅いようじゃ」
周囲の執行騎士たちがひっ、と呻く中、ルフェブルは長年愛用してきた大斧をがちゃりと構えた。
その、彼の視線の先に、青白い肌の、この場にそぐわない軽装の少女が、ふわりと姿を見せる。
ローズマリーだ。
「……見つけたぁ」
「…!? お主、ジョルオのところにおった女奴隷か!」
無機質な目が、老ドワーフをじろりと見た。
「あなた、たしか、保安官」
「そうじゃ。 自由になったと聞いておったが……そんなところで何をしておる」
「彼女は<教団>の手先です! <教団>が……この襲撃を!」
自身も<教団>の一員であるアンディの告発に、保安執行騎士たちが一様に絶句し、ルフェブルすらも「ううむ」と唸る。
「……そなたらがこの街に仇なすものの手先であった……ということか?」
「そうです! そしてそれを聞いた以上、僕たちも<教団>にはいられません!」
「お話はそれくらいにしてもらえるかしら」
なおも言い募ろうとするアンディを遮ったのはローズマリーだった。
いつの間にか彼女は、一人の保安執行騎士の横に音もなく立っている。
「おま、な……」
「<アイシクルインペール>」
囁く一言ともに、その騎士の上半身が『割れた』。
手刀で頭から股間まで両断され、そしてそのまま凍りついたのだ。
がちり、と倒れ込んだ彼は、しばらく経って不規則に痙攣する。
まるで死んだ蛙が電気信号で震えるかのように。
「……!!」
「逃げてください!!」
「そうね。逃げたほうがいいわね」
リアラとローズマリーの声が期せずして重なる。
だが、その内容は正反対だ。
「私は、そこのリアラを殺したいだけよ」
「……たしかお前さんのいた農場に、彼女はいなかったはずじゃ。昔の因縁か」
逃げ切れるわけがない。
そう半ば覚悟したルフェブルの問いかけに、ローズマリーはゆるゆると首を振った。
「……彼女は幸せだったわ。こんな暖かい街にいて、装備を奪われることも、奴隷になることもなく、そっちの<施療神官>のような男に守られて温々とこの一年を生きてきた。
だから、これからは私より不幸になるべきよ。
私はこの一年、耐え難いほどに不幸だったから」
「奴隷だったからなの!?」
命を狙われるリアラが絶叫する。
「私だって不幸だった!! 家族にも友達にも会えないし、誰も私たちを助けてくれない!
来る日も来る日も味のないパンと澱んだような毎日よ! 何が幸せなのよ!」
「それでも私よりは良かった。 あなた、仲間に捨てられないために言われるまま誰にでも抱かれる毎日を経験した?
それでも奴隷市に売られ、臭くて汚い牢獄に放り込まれた経験は?
裸になって、自分に好き勝手な値段を付ける男たちの前で媚びてみせたことは?
農場主の、まるでトイレのように好きな時に抱かれ、それ以外の時間は休む暇もなしに麦を作らされ続けたことはあるの?
……ないでしょう、ないよね。あるわけがないよね。
ただあの日、<ビッグアップル>で話をしていた、ただそれだけで私はそんな目にあったの。
これからは私は幸福になるべきだわ。 神様がそう言ってくださってるから、私は強くなれた。
だからあなたは私の代わりに、不幸を背負って死んで」
勝手な言葉、と言い返せない。
それほどの重みが、ローズマリーの言葉にはあった。
そして彼女の視線が、アンディを、続いてルフェブルを見る。
「あなたたちも死んで。アンディさん、あなたはこの子を助けるから死んで。
ルフェブルさんは、私を助けてくれなかったから死んで。
私が一番不幸なんだもの、あなたたちのほうが不幸にならないと、釣り合いが取れない」
「……アンディ、リアラ。 お主らは門を突破して逃げろ」
「ルフェブル!!」
「執行騎士はそのまま下がって港へいけ。 今の情報を議会に伝えよ。……早くいけ!!」
「騎士長!!」
「早く行け、というのが分からんのか!!!」
言いざま、ドワーフの豪腕が一人の騎士の兜ごとその頭を殴り飛ばした。
殴られた騎士は、それでも気丈に叫ぶ。
「従えません! 全員でかかれば大丈夫です! 相手は一人です!
騎士長は死ぬ気ですか!」
「馬鹿者!! ここで全員死ねば今の情報は伝わらん!!」
「なら一人いかせればいい! アドニス、カルウス、行け!!」
最も若い執行騎士二人が今度は上司の騎士に殴られ、走り去る。
それを尻目に、ルフェブルを中心に騎士たちは半円の円陣を組んだ。
アンディとリアラもその横へ立つ。
「相手は<妖術師>です! 魔法に気をつけて!」
「……それは無理そうじゃのう」
やがて。
『生きたまま』この場に立っている人間は、残り2人。
アンディと、ルフェブルだ。
リアラは<大神殿>で目覚め、そして、ルフェブルの部下たちは――<敬虔な死者>と化してゆらゆらと彷徨っている。
既にHPもMPもない。アンディの操る回復魔法とアイテムは、二人を驚異的な長い時間、その場で戦わせてはいたが、それらも尽きた。
「ルフェブルさん。逃げてください。 この場で死ねばあなたも」
傷だらけのアンディに、ルフェブルはちらりと笑う。
「……わしもそうしたいがの。 何しろまだ隠居しておらん。じゃが、部下を軒並み殺してわしだけ生きるわけにもいかんでね」
「あの若いふたりを鍛える役割が残っています!」
アンディが口に出したのは、先ほど情報を知らせに行ったふたりの執行騎士だ。
だが、ルフェブルはその言葉にも黙って首を横に振った。
「……ルフェブルさん!!」
「部下をゾンビのままには出来ん。 そしてわしもゾンビになりとうはない。これでも不信心での、
ウェニアにはまともに礼拝したこともないでな。
そんなわしが<敬虔な死者>なんぞになってみろ、なにかの笑い話のようじゃ」
口調だけは呑気なままで言うルフェブルの血だらけの手が、懐を探る。
それに気づかないまま、ローズマリーがぱちりと指を鳴らした。
「じゃあ、最後は部下たちに食われて死んでね。 ……行け」
命令を与えられた、執行騎士たちの残骸がゆらゆらと近づく。
その手がローズマリーの近くまで突進したルフェブルとアンディをつかみ、その牙が肉に突き立てられていく。
かつての部下に生きたまま食われながら、満身創痍のルフェブルは凄絶に笑った。
「……すまんな、ローズマリー殿。あんたをジョルオから救えなかったのは、心残りではあったよ」
「……!」
その手に握られたのは、かつてすれ違った<暗殺者>が餞別に渡した、紫色の瓶。
「それは!」
「アンディ、巻き込んですまんの」
「いえ……あの世でもお元気で」
苦笑するアンディと、危険を察知して飛びかかりかけたローズマリー、そして<敬虔な死者>を残らず爆風の中へと巻き込みながら、ルフェブルは光の中へ消えていった。
それとほぼ同時刻。
港には、酸鼻な光景が広がっていた。
いくつもの街路からなだれ込んだゾンビたちは、外周部にいた人々から徐々に食い散らかしていった。
ゾンビに食われて死んだ人々もまた、足元を流れる黒い水によって、ゾンビとして蘇る。
そして、先程までの家族を、仲間を、友人知人を食い荒らすのだ。
泣き叫ぶ声、絶叫――それらはやがて潮が引くように消え、そしてその場には生きた人間はいなくなった。
「……思ったより時間がかかったね」
「す、すみません」
トーマスと呼ばれた青年が、<敬虔な死者>を躊躇なく轢き潰しながら到着した<星条旗特急>から降りた時、インヴィクタスは先程までの傲岸さが嘘のように、バッタのように平伏していた。
その彼を無表情で――見ようによっては不審そうな表情で――最後まで抵抗していた市議会の議員たち、その成れの果てたるゾンビたちが見下ろしている。
「それに、ちょっと聞いたよ。 君、ここで使い捨てる下っ端に、実験のことをべらべら喋ったんだって?」
「あ、いえ、それは、その」
この場にいないローズマリー以外に誰が聴いていたのだ。
そう、インヴィクタスが不審に思った矢先、彼の頭を凄まじい圧力でトーマスの足が踏みつける。
そのまま踏みにじられ、鼻の骨が複雑骨折していくのを感じながら、インヴィクタスは悪い予感がこれ以上なく強まるのを感じていた。
「す、すみません!! ですがあの連中の言葉など、誰が」
「あのね。計画を遂行するにあたっての原理原則は、関係者外秘という言葉の意味を知ることだよ。
君も一端の大人なら、そのへん分かってもらわないと困るんだけど」
朗らかな声とは裏腹に、後頭部を踏みつける圧力は更に高くなっていく。
「それに、君、矛盾してるよ。 そのアンディとかいう下っ端が、この街でちょっとは顔が利くようになったから、一緒に殺して<教団>への疑いを逸らすというのが君の目論見だったんでしょ?
なのにそんな情報を与えちゃ、どこに広まるかわかったものじゃないじゃん。
ねえ君、<教団>を宗教かぶれの集まりか、集団自殺集団か何かと勘違いしてない?
……わかってないようだね。 <教団>に、臆病者も馬鹿も要らないんだけど」
「ず、ずみばぜん、次ば、ぎっど」
「君、スワロウテイルからも聞いているよ。<JPJ>では何の役にも立たなかった。
まだ乗客の日本人の方が使えたというじゃないか。
続いてこれ。 せっかく戦わなくて済む役割を与えたのに、余計なことをしてくれて。
……もういいや。 君、要らない」
思い切り蹴り飛ばされ、仰向けに転がったインヴィクタスの四肢を、<敬虔な死者>たちがつまみ上げる。
「な、どうか! ぜひ! 私はまだ! お願いです!!」
「楽しい余生をね~」
そのまま<星条旗特急>に担ぎ込まれていく彼の悲鳴が絶えて――トーマスは周囲のゾンビたち、つまりは彼の手によって化物と化した<大地人>たちを興味なさそうに眺めると、自らも<星条旗特急>のタラップを登っていった。




