151. <忘却>
1.
ユウは、部屋を与えるというユグルタの言葉を完全に無視し、自分から元の薄暗い牢獄に戻ると、アイテムの整理を始めていた。
旅に必要なものを除き、一切を傍らの『要』『不要』と書かれた箱に放り込んでいく。
傍らの焦げ臭い松明に照らされて蹲る彼女は、剥がれかけた煉瓦が織り成す複雑な陰影に照らされて、100歳に近い老婆にすら見えた。
このマグナリアの街には<銀行>がある。
ヤマトでならば『供贄』と呼ばれる、特定のNPC――<大地人>が管理するシステムだ。
そこの役割は金を預かり、利子をつけて返すことでもなければ融資という名の借金をさせるものでもない。
アイテムと現金を預かり、現実世界で何年経とうと傷ひとつなく預かり、要望に応じて返すもの。
そこには金融も経済もない。 ただ、預かる人間と預ける人間がいるだけであった。
そして自分の銀行に預けた物である限りは、世界のどの銀行に預けたアイテムであっても、<銀行>という建物さえあれば、どこででも受け取ることができる。
どの<冒険者>もその秘密を知らない、一種の魔法だ。
ユウはこのシステムを利用して、預けていたすべてのアイテムをその日、マグナリアの銀行で受け取っていた。
「これは……要らんな」
十年以上前に入手したとあるボスモンスターのドロップ資材を、ユウは『不要』と書かれた箱の中に放り込んだ。
当時であれば万金の価値があり、ユウもどこかで売るつもりで忘れてしまっていたものだ。
今では中級レベルの<冒険者>にすら見向きもされないものだったが。
長いプレイヤーに相応しく、ユウの銀行には宝物からガラクタまで、様々なアイテムが眠っていた。
いずれも彼女にとって、長い思い出のよすがだった品々だ。
例えば――20年前、<エルダー・テイル>が英語の文字チャットだけの沈黙の世界だったころに持てはやされた、英語で書かれた一冊の本。
そこには、<黎明の冒険者たち>の、もはや忘れ去られた名前とともに、彼らが夜明けのセルデシアで行った冒険の数々が、多彩な表現で生き生きと描かれている。
あるいは、今にも折れそうな<製作>級の刀。
今となっては初心者すら「使えない」とせせら笑うであろうそれは、ユウがまだ若いころ親しかった<鍛冶師>が彼女のために打ってくれた、彼女のためだけの刀だった。
かつて若かったウォクシンと戦ったユウが、彼に止めを刺した時の武器だ。
勝利と引き換えに役割を終えた刀を直そうにも、既に作ってくれた<鍛冶師>はこの世にはおらず、結局刀は、激闘の痕を残り1という耐久度に刻んだまま、静かに眠っている。
薄い冊子もあった。 ユウが一度引退するとき、当時身を寄せていたギルドの仲間が書いてくれた寄せ書きだ。
その時の仲間も、ギルドも、もう誰もいない。
十年以上前の褒章アイテム。<エルダー・テイル>スタート4年記念の風変わりな花火。
20年近い時間の間に培った、思い出の数々。
だが、ユウはそれらを次々と『不要』の箱へとそれらを送っていく。
「なんだ、このボロ布。 ……なんでこんなものを大事に取っておいたんだろう……」
独り言を呟きながら、ユウはかつて2005年の華国<大演武>でベスト4に登ったときに愛用していた装束を、無造作に箱に捨てた。
次に、『ユウ、また今度ナゴヤ闘技場で会おうぜ!』と書かれた誰かのメモを放り込む。
思い出を、歴史を、ユウという<冒険者>の仲間も敵も、すべてが省みられる事もなく捨てられていく。
「これは……なんだっけ」
初心者用の、小さなナイフを手に取ったユウは、沸き起こる頭痛に額を軽く指で揉んだ。
何かを忘れてしまったような気がする。
この小さなナイフや、ボロボロの刀、見知らぬ名前が書かれた本。
それらは、何かの記憶だったはずなのに。
「………、思い出せん。まあ、この耐久度じゃ使えて一発だな。 捨てよう、これ」
初心者だったころ、どんなアイテムよりも大事だったナイフを、そういってユウはぽいと投げ捨てた。
2.
この夜。 マグナリアでもっとも忙しかった<冒険者>は、おそらく確実に参謀長だったろう。
ユウが去り、ユグルタもまた悄然と奥に引っ込んだ後、彼は<冒険者>と<大地人>の最高位者として、休む間もなく考え、指示を出し、報告を受けていた。
戦いの褒賞、被害の確認、<大地人>の死者やけが人の確認、いまだ残る<水棲緑鬼>への討伐隊の編成、大穴の開いた街の防衛、幸運にも難を逃れた船での海上警備、そして裏切り者の尋問と、ユグルタが職務を一時的に放棄した今、やることは山積している。
いくら徹夜が苦にならない<冒険者>の肉体とはいえ、精神的な疲労は別だ。
夜半を過ぎ、報告に来る<冒険者>が途切れたところで、彼はどさりと椅子に身を投げ出した。
眠りたい。
生物としての本能的な欲求を苦い茶で抑え、ずきずきする頭をだらりと垂れさせて、彼はようやく得た休息に脱力する。
(ボブも可哀想なことだ)
今は奥の部屋で物音ひとつ立てない自分の提督のことを思う。
彼は強かった。精神的にも肉体的にも。
そして今は<冒険者>だ。 ゲームの肉体に現実の戦闘技能が加わった彼は、誰に言われるまでもなく実に強い男だった。
そうした力と、そして現実社会での位階、そして何より仲間を大事にする彼の人柄こそが、今の彼を打ちのめしている。
(これで変な方向に歪まなければいいが……)
信じた相手に裏切られたのだ。
今になれば、参謀長にもわかる。
<大災害>という、未曾有の事態を前にして、参謀長たち軍人あがりの<冒険者>は彼を頼ることで、そして彼は皆に頼られることで、砕かれかけた精神の平衡を保ったのだ。
俺たちは鷲と星条旗の下に集った軍人だ、俺たちは大丈夫なのだ、と自らに言い聞かせて。
それは信頼ではなく、信仰だ。
神ではなく、提督への。
だが、強く頼れるリーダーとしての姿の裏で、ユグルタもまた、部下たちを信仰――依存していったのだろう。
友人の変貌。 部下たちの醜悪な裏切り。
高い倫理観を保ち、プレイヤータウンとも、<教団>とも違うはずの、己の仲間たちが、実は同じ穴の狢でしかなかった。
そうして、彼も気づく。
自分が信じていた仲間たちは、幻想に過ぎなかったのだと。
はぁ。
誰もいなくなった会議室に、思いため息が響いた。
自分は、いや、自分も、ユグルタを責められない。
彼を偶像化し、彼の参謀長という楽な立場に安住したのは彼自身だ。
その為に、もはや彼を本名で呼ぶ人間すらいない。
<大災害>の前までは、自分で決め、自分で動き、自分だけでゲームの世界にいたはずなのに。
今の自分は、ユグルタの手足でしかない。 有能な手足だという自負はある。
だが、手足という立場が齎す無責任な安逸に溺れたのも、事実であった。
(……それに引き換え、彼女は)
ユウのことは、カイたちに大まかな事については聞いている。
たった一人でプレイヤータウンの<冒険者>に牙を剥いた狂犬。
ゴブリンキャンプに一人で立ち向かおうとした戦士。
心が折れていたテングに、強靭な接木をしてくれた女。
そしてたった一人で住みなれた故国――それを模したヤマトから去っていった<冒険者>。
(『冒険者』か。 彼女こそ、真に<冒険者>と呼ばれるに相応しい)
仲間もなく、信じる相手もなく、だからこそ彼女は本当の意味で強い。
もし。
ゴブリンキャンプでテングを助けたのがユグルタだったら。
彼はテングに戦わせず、自分がいきなり将軍を倒してしまったことだろう。
そして彼の面倒を親身に見て、傍について時間をかけて鍛え――信者にしてしまっただろう。
テングはもしかしたら、今より強くなったかもしれない。
だが、ユグルタの言葉に逆らえるだけの自立心は、彼には育たず。
テングはそのことに、何の疑問を持たなくなっていたに違いない。
<妖精の輪>を探索するカイたちに、彼の面倒を見る余裕などなかった。
そのことが逆に、テングに自ら考える癖をつけさせ……今の彼になったのだ。
「……の」
まあ……あとはユグルタ次第だ。
「……い、あの」
彼も子供ではない。頑なでもない。柔軟な発想が出来ない頑固者に、軍は少佐の位を与えはしない。
「……おい。ちょっと」
あとは誰かが何とかするだろう。 今は少し……十分くらい……休んで………
「おい!」
「………うお!?」
いきなり耳元で怒鳴られた大声に、眠気を吹き飛ばされた参謀長は思わず飛び上がった。
何事かと思って振り返れば、さっきまで考えていた異国の少年が、ばつが悪そうに頬を掻いている。
「あ……寝てたんですか。 すみません、起こしちゃって」
「いや、いいよ、テング。ぼうっとしてただけさ。 どうした? 何か緊急事態か?」
「いや……ちょっと話したくて」
貴重な休息を奪ってしまったことに気づいたのだろう、申し訳なさそうな彼に、参謀長はやわらかく微笑んで隣の椅子を指差した。
「いいんだ。 そういえば君とは、きちんとこうやって話したことはなかったな。どうぞ」
「あざす」
おずおずと座ったテングの代わりに参謀長は立ち上がると、会議室の隅に置かれた水瓶から、カップに水を汲む。
「すまないが、当直以外はもうみんな寝ているだろう。水で勘弁してくれないか」
いいながらもテングを見やる。
若々しい――参謀長自身も十分若々しいのだが――顔に、かすかな屈託がよぎったのを察し、参謀長は隣に座った少年をじっと見た。
「参謀長も、アメリカ軍の兵士だったんですよね?」
「そうだよ。 あいにく日本の勤務はなかったから、あまり日本人を知らないんだけどね」
「そうなんですか。俺、異世界に来るまで、外国の人と話したことがなくて」
「君は何歳だい?」
「18です」
元の世界では学生だったという彼だ。 この世界に入って当初、心が折れたのも頷ける。
参謀長は、テングの言葉を引き出すように、ゆっくりと言葉を続けた。
「……では君は本当に大変だったろう。 生き物を殺すなんてことは、我々本職の軍人でもなかなか出来ない。
君たち日本人ならなおさらだ。 それをよくここまで成長したね」
「……カイやあんにゃまたちのおかげです」
「彼らはいい教師で、いい先輩だったのだろうね。 ……かつてのユグルタのように」
「……提督のことを聞いてもいいです? 彼はなぜ、あんな風になったんですか」
それは、テングの本当に問いたかったこととは違う気がしたが、参謀長は微笑んで頷いた。
腕を組み、対等な相手にのみ見せる表情で、口を開く。
「彼は、現実の世界じゃ、海兵隊の少佐だった。 君のお父さんが自衛隊とかでないと分からないかもしれないが、少佐というのは誰にでも出来るものじゃない。
肉体も、精神も、鍛え抜かれた人間が初めてなることができるのさ。
ユグルタはそうした人間だった。
加えて面倒見がよく、親切で、兄貴分で、強くて……<エルダー・テイル>にいる俺たち軍人の中じゃ、まあリーダーに推されるのはだいたいあいつか……もう一人だった」
参謀長の声が暗くなったことに、テングは小さく眉をあげたが、何もいわない。
年少の友人のささやかな親切に内心で礼を言いながら、参謀長は言葉を続ける。
「この災害――君たちの言葉を借りるならば<大災害>――が起きて、俺たちも君たち同様に呆然とした。
そんな時、皆をまとめたのがあいつだ。
彼は自棄になる仲間をどやしつけ、泣き叫ぶ奴の愚痴に黙って付き合い、残った仲間を組織し、ここマグナリアに導いて、そして<不正規艦隊>を作った。
私たちは彼を喜んでリーダーにし、彼もその立場として責任感を持っていた」
参謀長が語るのは、あるプレイヤーたちの記録だ。
テングがカイたち<エスピノザ>の仲間に助けられたように、一人の男に助けられた男たちの記録だった。
だが、と再び参謀長の唇が苦く歪む。
「それがまずかった。 私たちは彼に何もかもを頼りすぎてしまったんだ。
軍隊の弊害かな。 階級が上なら、どうしても指示を仰いでしまう。
上の階級の人間は、指示をし、決断し、部下を信頼する。 こんな状況なら、尚更にね。
私たちが彼を信じたように、彼もまた、私たちを信じすぎてしまったのだろう。
私たちも人間なんだ。 迷いもするし、悪事もする。
だが、私たちを信じ、私たちを育てた米軍という組織を信じていた彼には、耐えられなかった」
「……それで、ユウを」
「ああ。彼女には頼る仲間も頼られる部下もいなかった。 さぞかし不愉快だったろうね。
自分が白といえば烏も白いと言う部下たちの中で、堂々と彼を責め、あまつさえ喧嘩したのだから。
だが、最初は苦手だ、くらいのものだったろう。
ユウをきっかけに、彼女を強姦しようとした仲間を取り調べていて、ユグルタは気づいた。
……マグナリアから離れた村、<不正規艦隊>の投錨地。そうした場所の女たちや、行商をする女たち。
あるいは捕虜にした<教団>の女性<冒険者>や<大地人>。……彼女らがどうなっているかを」
おぞましい想像に、テングの顔が嫌悪に歪む。
若い彼には、偽悪的な性癖もなければ、そうしたものを喜ぶ趣味もなかった。
「……<サラトガ>だけではない。 兵士を中心に、一部の<大地人>も共謀して、彼らは密かに欲望を満たしていた。 ユグルタや私の前では、謹厳な軍人の格好を取り続けながらね」
「………」
「ユグルタには信じられないことだったろう。 彼が教え、仲間として親しく接していたはずの男たちに、そんな獣がいたなんて。
そして、とどめになったのが夕方のアレだ。 カルトを嫌うユグルタの仲間に、<教団>の内通者がいた。
内通者だったのか、単に信者だったのかは尋問してみないと分からないが、それで彼は崩れたのさ。
自分が信じていた仲間、自分のやり方、それらを丸ごと否定されたんだからね。
彼は……裸の王様だった自分に耐えられなかったんだ」
「俺にも、なんとなく分かる気がします」
テングがぽつりと呟いた。
「俺も学生のころ、付き合っていた女を別の男に取られたことがあります。
ユグルタのショックよりは小さいかもしれませんが、確かに……辛かった」
「規模は違うかもしれないが、同じことだよ」
眠気を完全に失った顔で、参謀長がぽんと肩を叩く。
「人は人をどうしても信じてしまう。 どこかで理想の世界を、理想の仲間を求めてしまう。
人間というのは、そんな簡単なものじゃないのに。
ほら、シェークスピアも書いているだろう。 シーザーは、自分が刺されるその時まで、ブルートを信じていたんだから」
沈黙が重く、暗い会議室をたゆたった。
ユグルタほど深刻ではないにせよ、参謀長自身にも衝撃はある。
普段は冗談を言い合っていたような仲間が裏切っていたのだ。
ただ、先にユグルタが倒れたから彼は動けていたというに近い。
「……ユウも、そうだったのかもしれないな」
ぽつりとテングが言った。
その声に、参謀長が俯いていた顔を向ける。
「どういうことだね?」
「ユウは、このゲームをかなり長くやっていたプレイヤーだったんだと聞いたことがあります」
テングの言葉を、参謀長は黙って聞く。
「20年。俺が生まれた頃から、<エルダー・テイル>にいたんです。
思い出もたぶんたくさんあったし、友達もいただろうし、別れも経験していたはずです」
沈黙を相槌に、テングの独白が流れた。
「ユウは……たぶん、<エルダー・テイル>は、<冒険者>はこうあるべきだ、みたいなものがあったんじゃないかと思います。
たとえ<大災害>に遭ったとしても、例えばユーモアを失わないというような。
でも実際は違った。 彼女よりずっと年少で、何も知らない人間が、好き勝手に悪事をやったり、
初心者プレイヤーを虐げたり。 そんな世界を、許せなかったんじゃないですかね。
だから、アキバで討伐されるほどに<冒険者>を殺し、住み慣れたヤマトを飛び出して……こんなところまで来たんじゃないでしょうか」
「……そうかもしれないね」
「ユウは<盟約の石碑>に行きたいといっていました。 あそこなら何かあるかもしれない、とは俺も思います。
だって、アタルヴァ社の本社だったんでしょう? あそこは。
もし。
この<大災害>に、何か彼らの思惑が入っているのなら、あそこは確かに、ひとつのきっかけかもしれないと、俺は思うんです」
参謀長は、小さく頷いた。
確かにあの場所は、神話的な場所だ。
現実のアタルヴァ社の本社であったというだけでなく、多くの伝説でその一本の碑は飾られている。
フレーバーテキストが現実化したこの世界であれば、何かがあってもおかしくはない。
「……だから<教団>も、あそこを本拠地にしたのかもしれないな」
参謀長は、自らの推論を確かめるように言った。
「<教団>を率い、教主とだけ呼ばれる、おそらくは<冒険者>。
彼がゲーム時代、なんと名乗っていたのか、私もユグルタも知らない。
彼は突然現れ、人々を率い、奴隷を助け、荒野にキャンプを作った。
確かに、あの場所は<盟約の石碑>を除けば何もないどころか、強力なモンスターの跳梁する場所だ。
ウェンの大地は広い。 プレイヤータウンを避けて住むには、他にも候補地は多かった。
このマグナリアがそうだったように。
……だが、彼はあの場所に住居を構え、<教団>を作った。
もしかしたら教主は、この世界の秘密に、手を伸ばそうとしているのかもね」
「……そして、おそらくユウも」
そこまで言って、テングは小さく目を泳がせた。
その仕草にぴんときた参謀長が、黙って椅子に背を埋める。
ここから話されるのが、おそらくは今夜テングが自分を訪ねてきた本題だ。
「……彼女にも秘密があるんです。 参謀長、あなた現実の記憶で、明らかに忘れたものはあります?」
その言葉に、頭の中で無数に言葉を考え――ため息をついて彼は平凡な答えを返した。
「……ああ。一年も異世界にいるから、細かいことはずいぶん忘れたと思うが、忘れるはずのない記憶はひとつだけ。 私が子供の頃かわいがってくれた祖父の名前だけだ」
その言葉に、テングも頷く。
「俺も、学校の友達の顔と名前を忘れました。 飼っていた犬の種類も。
ユウは違うんです。 彼女は、明らかに異常なほどの記憶を忘れているようだ」
「彼女は一人旅をしていたのだろう? 死ぬ機会は我々よりはるかに多かったはずだ。
その差が、記憶の差じゃないのか?」
それは、この世界の<冒険者>ならばもはや常識に近いほど広く知られた事実だった。
死ねば、地球の記憶を何かひとつ、失う。
<大災害>当初は、あまり注意されなかった問題だ。
忘れるといっても、地球から来たばかりの彼らに地球の記憶はふんだんにある。
一週間前の夕食のメニューを忘れようと、電車で足を踏んづけられた経験を忘れようと、たいした問題ではなかったからだ。
だが、<大災害>から一年が過ぎた現在では、相当に深刻な問題だ。
人間の記憶は、一年も前の些細な記憶を覚えるようには出来ていない。
自然、記憶は重要なものだけが残り――死ねばそれらが忘れられていく。
記憶が無限のディスクではなく、日々消えていく陽炎だということに、<冒険者>は気づいたのだ。
参謀長は、それを指摘していた。 だが、ユグルタと同じ――だが実年齢ははるかに若い<暗殺者>は、
年長のその言葉に、黙って首を振った。
「彼女は何日か前、船の上で子供の頃の話をしてくれました。 山にあった空き地で遊んだと。
だけど、次の日に聞いたら、そのことを忘れていた。 山なんて知らない、と言ったんです。
あれは嘘じゃない。
聞いたら両親の名前ももう覚えていないと言う。生きているか死んでいるかもわからないと。
断じて言いますが、ユウは暴行されかけましたが死んでいない。
なのに忘れていくんです。
砂が砂時計から落ちていくように、過去の記憶を、なにもかも」
参謀長はぞわりと総毛だつ身体に、思わず震えが走るのを抑えられなかった。
テングの言葉を是とするならば、それは明らかにおかしい。
健忘症という可能性もない事はないが、そうした難病がこの世界にもあるのか、彼は知らなかった。
ただ、怪我で半身不随の人間が、こちらに来て治ったという話は聞いている。
何より、<冒険者>の体は元はゲームのデータなのだ。
異常をもたらすものを含めて、遺伝子と言うものがあるかどうかも疑わしい。
顔色をわずかに青ざめ、黙った参謀長に、テングは訴えるように聞いた。
「参謀長。あなたなら何か分かりませんか。 ヤマトのユウはたぶんだけどあんなじゃなかった。
戦うとき以外で、時々彼女がぞっとするほど何もない表情を浮かべていることがあるんです。
まるで……作り物のように。
俺たちはユウをどうすればいいんですか。 あのまま旅をさせていいんでしょうか。
それとも無理やりにでもアキバに戻したほうがいいんでしょうか!」
必死のテングに、参謀長が黙って首を横に振ったのは、ゆうに30分は過ぎてからのことだった。
「……治療法は調べてみる。 まだ何人か心当たりがある、昔のゲーム仲間に聞いてみるよ。
可能性は薄いが、細かい事情を伏せて艦隊のメンバーにも聞いてみよう。
だが……あまり期待しないでくれ。
変化点なら彼女自身に聞いたほうがいいかもしれない。 ……君とカイにはそちらを頼みたい。
彼女はもうすぐマグナリアを出て行く。 そうなったら私の援助もきわめて限定的になる。
……だが、彼女が非常に特殊な――危険な状態であることは理解した。
ここからはあまり考えたくはないが……元の世界の記憶をすべてなくした<冒険者>がどうなるのかは知られていない。
単にこの世界の住人と同じようになるのか、廃人になるのか。
あるいは……もしかしたら」
<大災害>以来姿を消した、古来種のことがふと頭をよぎり、参謀長は最悪の予想を手を振って振り払うと、笑顔を作ってみせた。
明らかに無理をした笑顔だ。 微笑む薄皮の下には、恐怖がとぐろを巻いている。
「いや、いい。 君はユウにしっかり張り付いて、彼女から事情を聞きだしてくれ。
君と別れてから今までの間に、必ず手がかりがあるはずだ。
それを見つけ、判明したら君で対処できるものなら対処してくれ。だが無理はするな。
君まで罹患したら取り返しがつかないから」
頷くテングは、すっと立ち上がって一礼し、去っていく。
早速ユウの元へ行くのだろう。
よく見れば、薄いカーテンの向こうには、既に朝の光が煌々と輝いていた。
今日もまた、事務として、指揮官として戦いの一日が始まる。
だが、疲れていても普段なら燃え立つ闘志の代わりに、今は得体の知れない不気味な恐怖だけが、参謀長の心を占めていた。
◇
毛布代わりにもなるマント。呪薬が少々、ナイフ、毒と爆薬、そして乾燥したパンに水。少しの金貨。
徹夜の整理の結果、最終的にユウが<暗殺者の石>にしまったのは、たったそれだけのアイテムだった。
膨大な空きスペースには、<不正規艦隊>で直して貰っている二本の刀と<上忍の忍び装束>、そして毒と資材が埋める予定だ。
それ以外のすべては、現金も含めてすべてチェストの中だった。
『不要』と無残なレッテルを貼られた箱の中に、彼女が得てきたかけがえのない宝物の数々が散乱していることを、ユウは気にもしなかった。
いや。
気にするための記憶を、既に今のユウは何も持ち合わせていなかったのだ。
刀がないと現れないはずの緑の光がちろりと、まるで蛇のようにユウの肩に一瞬現れて、消えた。
3.
ユウが旅立って7日が過ぎた。
ギルド<ファラリス>が執行騎士として守る村は、平穏な春を過ごしている。
唯一といっていい変化は、農場主ジョルオの権威が失墜したことだった。
代々村に住み、食料供給を一手に握っているとあって、あからさまに失脚などはしていないものの、彼はユウを招いた夜以来、屋敷に引きこもって一歩も外へ出ていない。
その屋敷には、時折使用人の悲鳴や皿の割れる音が鳴り響き、周囲の<大地人>たちの興味を引いている。
「屑が見えなくなって結構なことさ」
とは<冒険者>の中でも最も奴隷という言葉に嫌悪感を示すオズバーンの言葉だ。
何しろ、彼のアバターも同じだが、彼は黒人、それも奴隷の子孫だった。
他はそこまで露骨に嫌悪を抱くそぶりは見せないが、それでもアジア人であるジーヨウなどには複雑な思いがあるらしい。
ともあれ、ジョルオは出てこず、彼の農場では辛そうな顔をした奴隷たちが一心に麦の世話をしている。
それ以外は何事もなく過ぎるかと思われた日々は、8日目の朝に破られた。
「……北の荒れ野に旅人がいた?」
いつもの酒場でバーボン片手にブラックジャックをしていた5人に、ある農夫が報告に来たのは、朝もまだ早い時間だった。
四六時中飲んだくれているようであるが、これもギャロットたちが考えた結果だ。
<冒険者>は、単純な力仕事であれば無類の力を発揮できる。
魔法や特技を用いた行動でも同様だ。
だが、結局それらを積極的にしていては、今の<大地人>の誰かの仕事を奪うことになってしまうし、
周囲の受けもよろしくない。
片手で自分の胴すらねじ切れる『怪物』と毎日付き合いたいと思う人間は、いないものだ。
その結果、彼らは仕事の時以外はつとめて怠惰にみえるよう、酒場の片隅で暇つぶしをしているのだった。
農夫は、特に危機感のない顔で<冒険者>たちを見回している。
実際、彼にとっては『変な場所に人がいるな』くらいの気分なのだろう。
だが、ギャロットたちの顔は曇った。
北の荒れ地は近隣の村や<クレセントシティ>との交易路でもなければ、かつてゲームだったころの<エルダー・テイル>にあった、ウェンの大地の東西をつなぐ大動脈、『大陸駅馬車』の線路でもない。
農夫の話によれば、その旅人は数人で、徒歩だったという。
ただの<大地人>が、そんな荒野にいるはずがないのだ。
ギャロットは、嫌な感じを覚えた。
口に運びかけたバーボンのグラスを降ろすと、仲間たちも緊張した顔で自分を見ている。
単なる道に迷った旅人ならば、良い。
百歩譲って亜人でも対処は簡単だろう。
だが、これが<冒険者>であったならば。
「いくぞ。オズバーン、お前は念のため村に残れ」
ギャロットの指示に、4人の仲間が頷いた。
◇
そこは、異様なまでに荒涼とした場所だった。
岩が転がり、砕けた石が鋭い角を上に転がっている。
ユウが村に来た時の道よりも、その険しさは数段上だ。
そこをよろよろと歩く人影を見たのは、正午に近くなった時分だった。
「あれだ」
遠くを指さし、マイヤーが示した先には、何十人かの人影がよろめくように歩いている。
見たところ馬車や大きな荷物などはなく、全員が徒歩のようだ。
彼らの歩いている場所は、農夫が見かけた場所よりも数段村に近い、ある丘のふもとだった。
「……難民? それとも、山賊にやられた交易隊か何かかしらね」
ヴァネッサが杖で目をかざすように見ながら呟いた。
ギャロットも同感だ。
少なくとも、武装はない。もし<冒険者>であれば、誰に襲われるとも限らない荒野で装備を脱いで歩くなんて酔狂な真似は、それこそ<裸族>のサブ職業持ちででもない限り、絶対にやらないだろう。
「馬車をなくして行き倒れたのかな? ……ジーヨウ、偵察頼めるか」
「俺の召喚獣で飛べるのは大型梟だけなんだが……まあ、やってみる」
そう<召喚術師>は答え、次の瞬間くたっと倒れこんだ。
同時に、呼び出された梟がケエ、と昼間の召喚を抗議するように低く鳴く。
そのまま、首を回して『任せておけ』とばかりに飛び立った。
<召喚術師>の呪文のひとつ、<幻獣憑依>を使ったのだ。
本来、長い詠唱を必要とする呪文だが、梟を事前に呼び出しておいたとき同様、先に唱えていたのだろう。
手回しの良い男ではある。
◇
(……もうそろそろか)
乾いた強い風の中を飛びながら、ジーヨウは眼下を見下ろしていた。
おおっぴらに言うものでもないが、空を飛ぶという行為を彼はいたく気に入っている。
種族的に空を飛べない人間にとって、『飛翔』という行為はどこかで幻想的な、憧れに近いものなのだろう。
子供のころ、空を飛ぶ夢を見て感じた万能感のようなものが、彼の心を浮き立たせていた。
(しかし、梟が昼間に飛ぶものではないな)
飛べなくなるというほどでもないが、暗視に慣れた目に、日陰すらない昼間の光は強すぎる。
眼下の大地も照り返しが強すぎ、下を歩く人影もよく見えない。
しょうがなく、ジーヨウは翼の角度を微妙に変えた。
重力にひかれ、梟がゆっくりと高度を下げていく。
そして、地上の人影がはっきり見えるようになった瞬間、ジーヨウは、叫びを上げて失速し――無様に地上に激突していた。
濛々と土煙が上がり、人影が――人影たちがゆっくりとジーヨウの方を向く。
痛みで動けない召喚獣は、よろよろと近づいた<敬虔な死者>が自分に濁った目を向け、腐った口を大きく開いて肉を咀嚼する異常な光景を、痛みで気絶するその瞬間まで、恐怖に満ちた目で見上げていた。
◇<蛇刀・毒薙>
種 別:製作級 刀
持ち主:ユウ
能 力:毒の威力大幅上昇。
瀕死の敵を吸収。
いくつかの口伝が使用可能。
『剛剣から主を守り散った二振りの刀を、<アメノマ>の多々良が鍛えなおす。二つの刀を一と成し、蛇の呪いと人の恨みを転じて、毒と厄が<毒使い>を護る』
能力:口伝<サモン・ディゼスター>の発動触媒となる。
斬った相手を一定確率で『厄』として吸収することができる。
『厄』は口伝によって召喚し、攻撃させることが可能。
なお、『厄』の維持のため、持ち主の記憶を不断に奪う。




