150. <マグナリア>
1.
「遅くなった、カイ」
「ようやくお姫様も納得したか?」
「ああ」
自らの傍らを駆け抜けた影は、その言葉だけを残して<水棲緑鬼>の渦へと消えた。
やがて、喚声を押しのけて徐々に大きくなっていったのは、悲鳴だ。
カイの眼前で、預言者の前で海が割れるように<水棲緑鬼>の渦が割れていく。
そして現れたのは、全身を返り血で染め上げた<暗殺者>の姿だった。
テングに近い場所にいた<水棲緑鬼>から音なき悲鳴が上がった。
男女の違い、持つ装備の違いはあれど、それは先ほどまでブルドーザーのように仲間たちを押しつぶし、切り払った黒衣の<暗殺者>の再来だったのだ。
(強くなったなあ)
自分もまた、先ほどまでに倍する勢いで縦横無尽に剣を振るいながら、カイは慨嘆する。
一年前の、プライドと自意識だけが高かった少年から、なんという成長なのだろうか。
年長者として、年下の少年が戦いの技に長けていくことに忸怩たる思いは、もちろん存在する。
いわば『非常の才』とも言うべきか、テングという少年は、生き物を殺す才能は、あるいはユウや、カイ自身すらも上回っているかもしれない。
だが、戦時である今は、それが単純に頼もしい。
「……っ! <デッドリーダンス>! <クイックアサルト>!」
普段は少年らしく多弁なテングだが、戦いに躍り出れば別人のように寡黙になる。
特技の発動を促す言葉以外は殆ど喋らないのも、テングが心の中で師と仰ぎ、目標としてきた女<暗殺者>がそうだったからだ。
彼が振るう武器もまた、アキバで誂えた特別製のものだった。
両刃の異形の長刀から、二つに分かれた片刃の刀へ。
両手持ちで発動する<エクスキューショナー>と、片手二振りの攻撃速度を両立させた逸品だ。
両手に刀を持ち、手数で圧倒する戦術もまた、ユウを目指した彼なりの、師への尊敬だった。
「……っらぁ!!」
だが、一年にわたって冒険を共にしたカイには分かる。
テングは、今怒っている。
<水棲緑鬼>に、ではない。 ユグルタたちにも――絶無とは言えないだろうが――怒ってはいない。
激怒しているのは、ユウと、彼女を取り巻いていた環境にだった。
自分が進んでいた間、前進しつつも後ずさりを繰り返していた、憧れだった<冒険者>。
――自分を、救ってくれた相手。
その彼女が、今は自分に叱り飛ばされるほど脆弱で、不安定で、頑なになっている。
そんなユウに、そしてそれを許容してきた、テングの知らぬ彼女の周囲の人々に、彼は怒っているのだった。
「……来たかぁ!」
怒りに燃える若き<冒険者>の目に映るのは、<水棲緑鬼>たちより頭二つは高い、回遊魚に似た頭部の怪物。
自分から離れた場所で、いまだ少し爛れている腕で三又の槍を突き出すモンスターに、テングは獰猛な笑みを向けた。
距離を挟んで対峙する<水棲緑鬼の航海長>もまた、表情の見えぬ顔をわずかに動かす。
互いに見交わす目が、互いへの殺意を映し出した。
テングにとっては、憎悪の対象ではないが、それでもユウを殺しかけたことへの怒りはある。
かつて対峙した<緑小鬼の将軍>よりもレベルは高いが、ランクはたかだかパーティランクだ。
おそらくは、レイドランクのボスが一般化する前の時代のボスだったのだろう。
少年から成年へと移り変わる寸前の、しなやかな肉体が撓み、必殺の刃が、向けるべき敵を捉えて脈動する。
ユウの<蛇刀・毒薙>のように神秘を纏ってはいないが、歴戦を主とともに潜り抜けた刃は、澄み切った水のように水魔の王を映し出した。
<水棲緑鬼の航海長>もまた、呼び出した雷雲を背に、威圧的な咆哮を上げる。
先ほど自分を追い詰めながらも取り逃がした、あの女<暗殺者>と同種の敵。
滴る殺意は本物だが、狂気すれすれのあの女の殺気にはまだ、遠い。
そう思ったか、どうか。
<水棲緑鬼の航海長>は一つ、考慮に入れていなかったものがある。
あの女は一人だったが、この男は一人ではないということに。
2.
ユウは、屋根の端から、じっと戦場を躍動する二人を見つめていた。
撤退を勧められた――ありていに言えば命じられた――彼女であったが、黙って去ることは彼女の中の狂気と戦意を司る一部分が、頑として応じなかったのだ。
とはいえ、もはや鉄火場に舞い戻る勇気もない。
テングの言葉は、ユウの心に燃え盛っていた兇気の炎を吹き消していた。
彼女自身の心の炉にくべるべき、激情という名の練炭を。
テングが踊り、カイが進む。 テングが戦場を縦横に舞う鷹であれば、カイは地上を驀進する<猛進犀>だ。
それは奇しくも、二つの連想をユウにもたらした。
ひとつは、自分自身だ。
カイによく似た、わずかに色の違う鎧をまとい、黒いマントを翻して、竜の刻印が穿たれた大剣を振るう<守護戦士>。
カイたちにはいないが、自在に槍へと変ずる杖を掲げて、仲間たちの傷を癒す<森呪遣い>。
そして彼らの援護を受けて、戦の空を飛ぶ自分。
年齢も、立場も、思う物も全く異なるが、同じように互いを信じ、背中を預けあって戦った日々。
もうひとつは、あのアキバの冬の夜、風がびょうびょうと吹き抜けるビルの上から見届けた、小さな<暗殺者>の姿だ。
菫色の長い髪を靡かせ、ユウのそれに似た小太刀を掲げ、アキバの夜を駆け抜けた墨色の疾風。
彼女にはたった一人の騎士はいなかったが、その代わりに何十人もの仲間たちが彼女を援護し、守り、遂には敵手を斃すことを得た。
彼女にはたった一人の守り手はいなかったかもしれないが、代わりがいたのだ。何十人も。
今の自分の境遇と引き比べて、なんとも輝かしいことか。
失われつつある記憶は、彼女が頑ななまでに守っていた孤独への憧憬すら、奪ってしまっていた。
「……!」
不意に、ユウの目が見開かれた。
先日激闘を繰り広げた相手、あの<水棲緑鬼の航海長>が前に出てきている。
さすがに無傷とはいかないようだが、ユウと激闘をおこなったはずの肉体は、傷痕すら見当たらない。
(やはり、回復呪文の使い手だったか)
パーティランクモンスターでありながら、<妖術師>と<森呪遣い>の呪文を同時に使って見せた敵。
回復職である<森呪遣い>の呪文が使えるならば、攻撃だけでなく回復の特技を操れても不思議はない。
とはいえ。
進む<水棲緑鬼の航海長>が、魔法の効果範囲の線上でぴたりと足を止めた。
すでに凝集していた黒雲が豪雨をもたらし、打ち付ける雨と風、そして雷がテングを阻もうとする。
暗幕のような水気の渦を前にして、ユウには遠くのテングが笑みを浮かべたのが、見える気がした。
◇
カイは盾を前に掲げると、大きく前進した。
「<シールド・スイング>!」
振り回された凧型の盾に、哀れにも横面を張り飛ばされた<水棲緑鬼>たちが、悲鳴を上げて吹き飛んでいく。
それらは地面に激突し、ひくひくと動くと、示し合わせたように泡へと変じていった。
周囲は阿鼻叫喚の渦だ。
カイに殴り飛ばされる者。テングに切り捨てられる者、だけではない。
先ほどのユウとの戦いの焼き直しのように、主の呼び出した雷によって、ユウとの戦いを生き延びた幸運な<水棲緑鬼>たちも、哀れ消し炭となっていく。
そんな中、カイが徐々にテングとの距離を詰めていることに、<水棲緑鬼の航海長>は気づいたかどうか。
そして、<水棲緑鬼の航海長>の腕が雷球を生み出し、投げつけた瞬間、カイは動いた。
「<ステップオーバー>!!」
本来はダンジョンなどで罠を無理やり踏み越えるための特技だ。
ある意味で罠といってもいい、この怪物たちの巣を特技が罠と判定してくれるかは賭けだったが、その賭けには半分成功し、半分失敗した。
特技による急加速がカイを包む。
だが、本来の特技が持っていた強引な踏破能力は失われ、<守護戦士>はすさまじい勢いで前方の<水棲緑鬼>たちに激突した。
「……痛ってぇ!!」
だが、突進といってもよい勢いで金属の塊に激突した<水棲緑鬼>の方をこそ、哀れむべきだろう。
一般人が戦車と正面衝突したようなものだ。
粉々になって、轢死体と化した<水棲緑鬼>が飛散する中、特技で付けた勢いで、カイがテングの後方へと躍り出る。
そのままカイは叫び、盾を体の前方に向けた。
「<カバーリング>!」
チェスの入れ替えのように、<守護戦士>と<暗殺者>の位置が切り替わる。
脆弱な<暗殺者>の防御を貫くはずだった雷は堅固な装甲に当たり。
代わりに自由を得た二振りの刀が飛ぶ。
「<アンカー・ハウル>!」
ユウの<毒と致命>程ではないにせよ、カイも自らの特技を習熟しつくしていた。
コンマ以下のタイムラグで唱えられた挑発特技が、<水棲緑鬼の航海長>に激突する。
それは即座に、魚類型の脳細胞を刺激し、亜人の冷静な精神をどす黒い殺意で覆い隠す。
「KKIIIIIIIIIIIIIII!!!」
本来の用途に使うべく、持ち変えられた三又の槍がカイに向けられ、たくましい足が足元に取りすがる部下たちを蹴散らして進みだす。
悠然たる歩幅はじきに駆け足になり、疾走になって、カイの眼前へと躍り出た。
先ほどのカイを人間大の重機と例えるならば、今度はさしずめ魚型の大型クレーンだ。
己の体重すら武器と化し、魚の頭を持つ巨人が槍を叩き付ける。
その動きは、刺し貫くというよりも、むしろ圧力で押しつぶすかのようだった。
カイがフン、と笑う。
その余裕の表情は嘘ではない。
神話の怪物じみた迫力の槍は、カイが頭上に掲げた盾によって、1㎜も進むことなく止められていた。
目を見開く<水棲緑鬼の航海長>に、カイが嘯く。
「80レベル、パーティランク6。 確かに強かっただろうな、昔の<エルダー・テイル>だったなら。
……だが、今は現代さ」
剛腕が横合いからカイの顔を襲う。
それを止めたのは、拳を刺し貫く、<守護戦士>の剣。
「ユウから生き延びて勝った気になるなよ、<水棲緑鬼の航海長>。
<冒険者>は一人でも強いが、パーティを組めばより強いんだ。 テング!!」
混じり気のない信頼を込めて、盾が叫ぶ。
右往左往する<水棲緑鬼>たちを斬りながら、突進する怪物の側面から後方に回り込んだ<暗殺者>が、手にした刀を重ねて振り上げた。
一振りに戻った二つの刀が、轟く雷鳴にぎらりと輝いた。
「おう! <エクスターミネイション>!!」
それは、<アサシネイト>と比肩する、<暗殺者>最大の攻撃だ。
両手持ちの武器でのみ使用可能となるその技は、<アサシネイト>並みのダメージと同時に、一定の確率である特殊効果を敵に賦与する。
ザシュ、と音を立てて振り下ろされた長刀。
動きを止めた<水棲緑鬼の航海長>の首――であろう両鰓の間――に青い線が入り、それは次の瞬間、ぶちゃ、と体液を放って割り開かれた。
即死。
残るHPなど関係なく、能力も何も関係なく、与えられる絶対の死だ。
<暗殺者>を<暗殺者>足らしめる、もうひとつの絶技に、それまで生命力に満ち溢れていた<水棲緑鬼の航海長>は、どうと倒れこんだ。
カラン、と槍が地に落ち、続いてボスを斃したことによって得られるアイテムや資材が、音を立てて散らばる。
そしてその音は同時に、<水棲緑鬼>たちの士気を崩壊させる、最後の引き金ともなった。
王の死に算を乱して海へと逃げていく<水棲緑鬼>たちを、ユウは不思議な感覚とともに、カイとテングはどこか寂しげに見守っていた。
◇
「カイ。テング。礼を言う。おかげで助かった」
引き続いて野戦司令部と化した<大神殿>の広場で、ユグルタは邪気のない笑みをヤマトの<冒険者>たちに向けていた。
いくら隠密行動に優れ、レベルも高く、あまつさえユウによる露払いが為された後とはいえ、たった二人で死地へと送り出したことには変わりがない。
それに対する贖罪であるかのように、ユグルタは親しげに肩をたたいてカイたちの健闘を誉め、周囲の<不正規艦隊>も惜しみない拍手を彼らに向けている。
カイたちが討ち取った<水棲緑鬼の航海長>は、やはり今回の侵攻における<水棲緑鬼>側の将軍だったのであろう。
彼の死とともに、彼直属の<水棲緑鬼>の兵団は、文字通り潮が引くように海へと逃げ、その壊走――日本語で言うならば裏崩れに巻き込まれた中央部の兵団も逃げて行った。
亜人とは原義を言えば人の亜種だ。
戦場特有の心理が、彼らにも働いた可能性は無くはない。
残るは、<大神殿>間近まで前進していた部隊だが、後背がぽかりと空いたことにより、彼らの運命も決まった。
迂回して後方から逆撃した<不正規艦隊>の別動隊によって、彼らもまた、全面壊走へと移行しつつある。
集団戦闘で最も戦果が上がるのが、敵が崩れた後の追撃戦だ。
亜人に逆襲を仕掛けるゆとりも統制もない以上、マグナリアのもっとも厳しい半日間はこれで過ぎ去ったといっても良いだろう。
ユグルタたちの顔にも安堵がある。
どこかリラックスした雰囲気のまま、ユグルタは佇む二人に尋ねた。
「おとぎ話の王様じゃないが、何か欲しいものはあるか? 情報でも資材でもアイテムでも、
我々で手当てできるものがあれば言ってくれ。
ああ、もちろん。 <水棲緑鬼の航海長>のドロップアイテムとは別にだ」
「ありがとう」
互いにちらりと目を見交わすカイとテング。
やがてユグルタに返事をしたのは、カイだ。
「ありがとう。 でも俺たちもいずれヤマトに戻らなければいけないからな。
皆の手助けが出来たし、俺たちもそろそろ帰還のために動こうと思う」
「……そうか? だが……これは俺たちの希望なのだが、俺たちは敵を抱えている。
ここに残って手助けをしてくれるとありがたいのだが」
「余所者はあまり出しゃばらないほうがいいと思うよ、ユグルタ。
マグナリアは君と君の仲間たちが生きる場所だ」
突然の離別の宣言に眉を曇らせたユグルタだったが、やがて軽く頭を振った。
カイたちの決意が固いことを悟ったのだ。
「では」と、かつての軍人は、椅子から立ったまま、笑顔で問いかけた。
「餞別を渡したい。 リクエストをしてくれ」
「なら、ユウに謝ってくれ。 全員の前で、あんたが」
その場にいた、カイを除いたすべての<冒険者>が固まった。
ユグルタもまた、一瞬前までの上機嫌が嘘のような空白の表情で、声を発した<暗殺者>を見据える。
「……なんだと?」
「ユウに、あんたが、謝るんだ。 俺たちの欲しい餞別はそれだ」
口を閉じたテングに代わり、言葉を出したのはカイだった。
口調は穏やかであったが、内心の激情ゆえか、中身は辛辣というのもおこがましい。
「あんたたちが<教団>を憎むのは、分からないでもない。 連中の布教についてはよく知らないが、ゲーム時代に見たこともない不死者を生み出し使役する。
そんな連中が、正しいわけがない。
だが、だ。
あんたたちは、状況が分からないままに<教団>と接触したユウを、それだけで敵と決めつけ拷問した。
助けのこない船の中で、彼女を裸に剥いて犯そうとさえした。
あまつさえ、そんな彼女に謝罪のひとかけらもすることなく、たった一人で死地に放り込んだ。
彼女が集団戦闘を苦手とする<暗殺者>であることを承知の上で、<水棲緑鬼>の群れの中に突っ込めと命じた。
ユウは行った。
あんたたちに屈服したからじゃない。 <水棲緑鬼>が憎かったからでもない。
彼女の心には、敵に対する殺意しか残っていなかったからだ。
友人とも知人とも別れ、長い旅をして、多くの記憶を失い、ボロボロでたどり着いたあいつに、あんたたちは手を差し伸べるどころか、足蹴にして死ねと命じた。
ユウはこの町を守った。 <教団>の幹部も捕えた。 <水棲緑鬼>を誰の援護もなく斃し続けた。
そして、<水棲緑鬼の航海長>を死ぬ一歩手前まで追い込んだのもユウだ。
なのに、あんたたちは今、俺たちを呼び、手厚い褒章を約束しながら、ユウは呼ばない。
なぜだ!?
ユグルタ、あんたの殴られて傷ついた名誉は、彼女の命よりも尊いのか!?」
「……カイ」
「俺に、あんたたちに求めるものがあるとすれば。 それはユウへの謝罪だ。
暴行し、強姦しかけ、それを恥じずに酷使し、名誉の一かけらも与えないあんたたちへの弾劾だ。
ユグルタ。 あんたが独善的な独裁者じゃなく、真に民主国家の軍人だったなら、謝れ。
ユウに、自分たちの非を認め、心から謝罪してくれ。
そのためなら、俺はこの場で殺されても構わん」
カイの長広舌が終わり、広間に沈黙が戻る。
何があったのかと顔を出した外の<冒険者>も、仲間たちに耳打ちされて押し黙った。
その視線は、じっとりと粘ついている。
そして中央、ユグルタは目を閉じ、動かない。
唇は微動だにしない。
参謀長もまた、動こうともしない。
友人だとも思った彼らの沈黙に、ついにカイたちが怒鳴りそうになった時。
ユグルタが、ゆっくりと口を開いた。
「……ユウを呼べ」
◇
戦闘が終わったユウを迎えたのは、出た時と変わらぬ姿の地下牢だった。
あまりの仕打ちに普段のユウなら激怒し、後先考えず戦闘に移っていたかもしれないが、今の彼女は違う。
この大陸に来て最大規模の虚脱感とともに、ユウはむしろ呆然と、汚い藁の寝床に倒れこんだ。
看守役の<冒険者>たちの反応は様々だ。
変わらずにユウに唾を吐く者、申し訳なさそうに俯く者、中には上司に訴える者もいる。
「彼女はこの戦いの英雄ですよ?! <敬虔な死者>を操っていた連中を捕まえたのも、<水棲緑鬼の航海長>に挑んだのも彼女です!
なんでこんな目に合わせるんですか!」
「……ユグルタの命令だ」
「……っ!」
だが、ユウに好意的な人間は少ない。
<敬虔な死者>の掃討戦は夜間の出来事で、かつ少人数による奇襲だ。
<水棲緑鬼の航海長>討伐も、その前の<水棲緑鬼>の制圧も、知らない<冒険者>のほうが多い。
彼らにとって、ユウは戦闘が始まるとどこかに隠れ、終わるとのこのこと戻ってきた腰抜けに他ならないのだ。
無数の悪意と、わずかな善意と憐憫に囲まれてぼうっと座っていたユウが腕を引っ張られたのは、どれだけ時間が過ぎたころだろうか。
外に出るとすでに夕闇が濃い。
残る<水棲緑鬼>の掃討は、夜の闇に潜む彼らをどれだけ討ち果たせるか、あるいは海に追い落とせるかの勝負となるだろう。
「……<大神殿>」
引っ立てられるように連れてこられた、貧相な外観の建物を見て、ユウの唇がかすかに動いた。
「今更、なにを」
彼女の内心を言うならば、今は誰とも会いたくない。
もし<大神殿>で殺され、あの銀の浜辺に行けるのなら、永遠にあの場所に座り込んでいたい。
テングたちの、言葉と行動によって言葉にできないショックを受けた彼女は、そう思い、のろのろと足を動かしていった。
「……ユウ」
夕暮れの光を背に、薄暗い<大神殿>の広間に足を踏み入れた彼女を迎えたのは、無数の視線だった。
その中央、入り口を向いて立つユグルタとその幕僚たちに相対するように、見覚えのある二人の男の背中が見える。
その片方が、悄然としたユウを向いて、驚いたような、哀れむような言葉を投げかけた。
「……なぜ」
そのユウの言葉は、そっくりそのままカイたちの言葉だ。
テングとの会話で、戦闘意欲を失ったとは聞いていたが、目の前の亡者のような女性は戦闘意欲どころではない。
普段のユウが凶暴な野獣だとするならば、今のユウはさながら獣の毛皮だ。
カイたちは痛ましそうに、自らの隣、ユグルタの正面に引き据えられた旧知の<暗殺者>を見据えた。
「ユウ」
マグナリアの王が呼びかける。
返事をせず、視線すら向けようとしないユウに、ユグルタは思いのほか静かに声をかけた。
「ユウ。 お前はよくやってくれた。 <敬虔な死者>を破り、操っていたリンティアと仲間たちを逮捕した。
たった一人で港に向かい、<水棲緑鬼の航海長>をあと一歩まで痛めつけた。
……類稀な戦果だ。 感謝する」
言って、押し黙る。 望みとは違う言葉に、叫びをあげそうになったテングを、ユグルタはしかし、視線と片手だけで抑えた。
「……その上で俺は言う。 俺はお前に何の名誉も与えたくない。 褒章も与えたくない。
いや、できることならばこの世界から消え去ってほしいとすら、思っている」
独白に近い口調だが、中身はすさまじいものだ。
今更ながらにカイとテングはユグルタの怒りの深さを思ったが、同時に内心で首をひねる。
彼らの付き合ってきたユグルタは、決して自己中心的な男ではなかった。
肥大したプライドに押しつぶされ、善を善、正義を正義と言えない男ではなかったはずだ。
だが、彼らの疑問は、ユグルタが続けた言葉によって徐々に溶けていく。
「……俺がなぜ、そこまでお前を憎むか、分かるか。
お前は、俺の大事なものの、汚らしい暗部を曝け出してしまったからだ。
お前が今更に<教団>の内通者だったとは、俺は思っていない。
だが、お前をきっかけに、俺は心のどこかで信じたかったものを砕かれてしまった」
「……何が、言いたい」
ユウのかすかな返事に、ユグルタは一つうなずいて周囲を見回した。
「俺は、飯を食うために軍人になった。 幸いにしてそれなりに昇進し、外地勤務も内地勤務もした。
俺自身プエルトリカンだ。 人種的な差別も今は薄れていたアメリカ軍を、俺は好きになった。
俺が<エルダー・テイル>を始めたのは、そんな軍務の息抜きのためだ。
仲間や同僚、ほかの軍の愛好家とも一緒に遊び、俺はますますゲームが好きになった。
同時に一緒に遊んでいた同僚や仲間、顔も知らない軍人たちのこともな。
理性的で気高く、正義を守り、忽せにしない。 こいつらはいつしか、俺のもう一つの誇りになった」
ユグルタの、奇妙な独白は続く。
「このさっぱり事情の分からない災害が起きて、アメリカ中が滅茶苦茶になった時も、俺は心のどこかで安心していた。
どんな異世界に放り込まれようと、軍で鍛え上げられた俺たちの結束は無敵だ。
ほかの連中――軍人でもなんでもない連中がどれほど強かろうと、悪事をしようと、俺たちの正義は揺るがない。
俺はついこの間まで、それを心から信じていた。
……信じていたかったんだ。 俺自身が、現実から目をそらすために」
徐々に悲痛の度を増すユグルタに、カイたちの怒りが沈静化していく。
「最初のきっかけはスワロウテイルだ。 あいつは……同じギルドで仲のいい奴だったんだ。
神を騙り、何も知らないNPCたちを籠絡する<教団>なんかに入るような、頭のネジの緩んだ奴じゃなかった。
あいつは、『変なカルトが流行っているらしいから調べてくる』と俺たちに言い残して一人で消え――次に会った時には、お前のみたとおり、<教団>の幹部に成り果てていた」
「スワロウテイル――カールセン大尉ほどの人が、カルトにひっかかるとは思えません。
彼は敬虔な長老派でしたし、『宗教で人をひっかける人間は屑だ』と言うような人でした」
参謀長が、補足のように口をはさむ。
うなずいたユグルタが、燃えるような瞳でユウを睨み付けた。
「俺がお前に怒りを感じたのはその時からだ。 もちろん<バーミンガム>の件もあるが……俺が許せなかったのは、お前が喋ったスワロウテイルの言動が、俺の、俺たちの仲間だったあいつそのままだったからだよ。
……八つ当たりだ。 あいつの変貌も、お前があいつに会ったのも、別に意図したことじゃないとは分かっている。
だが、それでも、昔のあいつと同じようにふるまう今のあいつを語るお前がどうしても許せなかった」
「…………」
「それだけじゃない。 お前が来てからだ。 俺が見ようとしなかった、見たくなかったものを見させられたのは。
俺たちは民主国家の軍人だ。 非戦闘員や捕虜の虐待は絶対にあってはならないと骨の髄まで叩き込まれている。
……むろん、例外は知っている。 アラブ人を虐待した糞女や、お前の国の女を強姦した糞野郎がいることもな。
だが、俺が集め、俺が指導し、俺たちが認めた仲間に、そんな奴がいたとは信じたくなかった。
俺は、お前が拷問され、暴行されかけているとカイたちに聞いた時、お前への怒りに道筋がついたような気がした。
だが、目の前で辱められたお前を見たとき、俺はこれ以上、俺の仲間が腐っていると思いたくなかった。
お前を見ると、お前を犯そうとした奴ら――俺が認めた連中を思い出してしまう。
そして、三つ目だ。
お前の戦い方は素晴らしかった。
たった一人で敵地に向かい、恐れを知らず戦い続ける。
それは、軍人としてこうありたかったと思う戦士の姿だ。
……それに引き換え、俺の部下は。 強姦魔だけでなく、カルトに心をささげた裏切り者までいたとはな」
徐々に激するユグルタの指が、不意にパチンと鳴らされた。
同時に、横に控える参謀長が右手を掲げる。
その瞬間、何人かの<冒険者>が同時に動いた。
事前にひそかに位置を整えていた彼らは、先刻までの同僚にいきなりつかみかかると、四の五の言わさずに取り押さえる。
抵抗しないものはそのままぐるぐる巻きにし、抵抗するものは容赦なく刃を振り下ろして。
その中には、ユグルタや参謀長の側近、あるいは参謀の何人かすらいる。
「な、ど、どうしたんです! ユグルタ!」
叫ぶ側近に、懐から参謀長が何かを取り出す。
それは、小さな十字架だった。
普通の十字架というより、より縦横の大きさが同じ、いわばケルト十字に近い文様に、英語で小さく、「To our Elysion」と書かれている。
目の前に見せつけられたその紋章に、その参謀が声なき悲鳴を上げた。
「……お前をきっかけに、俺は決めた。 ひそかに、この<不正規艦隊>のメンバーを洗うことをな。
そして見つけたのは、かつて仲間だったゴキブリが24匹。
……笑ってもいいぞ。 俺が信じたかったアメリカ軍に籍を置く、俺の大事な仲間。
その中で中隊戦闘規模が内通者だったよ」
「……あんたは神を恐れない背信者だ、ユグルタ!! 終末の裁きが怖くないのか!!」
独白を遮って、側近だった男が叫ぶ。
その眼はぎらぎらと狂熱に輝き、それまでの理知的な風貌との落差に、誰もが息を呑んだ。
「……最後の審判は、はたして我々に来るのかな? 死んでも生き返る世界にいるんだよ、我々は」
参謀長がこめかみを抑え、ため息をつくように答える。
「こんな事態だ。 神に縋るのも無理はないが、せめてバチカンの教皇くらいにしておくことだ。
こんなゲームに敬虔な聖職者がいるはずがないことくらい、貴官にもわかっていただろうに」
「そんなことはない! 教主がいる! 彼ならば、我々をもう一度、天の国への道に戻してくれる!
聖杯を手にしてな!
こんなエルサレムもない、メッカもない、偽りだらけの世界に取り残されなくてもいいんだ!
ユグルタ! あんたたちは後悔するぞ! 教主をカルトと罵り、敵対したことをな!!」
「……殺して捕まえろ。 リンティアと同じように吐かせる。 一切の手加減をするな。
した奴がいたら……次のスパイ容疑者は、そいつだ」
疲れ果てた声のユグルタの手がゆっくりと振られる。
裏切者たちは、あるものは神の栄光を、あるものは無実を、あるものはユグルタたちへの呪いの言葉を金切り声で吐きながら、会議室の一隅に引きずり込まれ、そして。
「死ね」
◇
「……というわけだ。 あんたを責めるのがお門違いだとも分かっているが、それでも責めたくなる気持ちのほんの一かけらであっても、理解してほしい」
陰惨な粛清が仮初の終わりを告げると、ユグルタはそういって、粗末な椅子に座り込んだ。
「どのみち、いずれは気づき、向かい合わなければならないことだった。
俺が無邪気に信じていた『仲間たち』も人間で、心も揺れれば信じるものもある。
こんな世界で、抵抗できない異性を前に、欲望の箍が外れる者もいるだろう……いて当然だ。
だが、それでも……俺はお前さえいなければ、幸福な夢を見続けていられたのではないかと、
そう思うことが多いんだ」
ユウはのろのろと、動かなかった首を上げた。
己を見失った旅人と、信じていたものを打ち砕かれた将軍が、目を見交わす。
疲れ果てた二人の視線の間を彷徨うものは、憎悪か、あるいは同情か。
ユウの視線を受け止めたまま、ユグルタがぽつりと言った。
「お前は好きに行くがいい。 俺たちでできる援助はする。 エリシオン――連中の聖域へ行くもよし、行かずにヤマトへ戻るもよし。
ここに残るのであれば、仲間として遇しよう。
……どうする」
「………行く」
長い沈黙の後に呟かれた言葉に、ユグルタは頷いた。
「……なら、武具は修理していけ。毒や素材、呪薬も必要だろう。……持って行け。
なあ、ユウ。
俺があんたを見て、憎しみや八つ当たり以上に思っていることは、なんだと思う」
黒衣の女<暗殺者>から返される言葉はない。
それでも、ぽつりとユグルタは呟いた。
「お前のために、カイもテングも命を懸けてくれる。 一年も前に、ほんの少し出会っただけのお前にだ。
ここで孤立する危険も冒して、お前を助けてくれる。
……俺はな、ユウ。 仲間も部下もいないお前が、羨ましくて仕方ないんだ」
蹌踉と、夜の闇の中へと出ていくユウを、黙ったままのユグルタの目が、ゆっくりと追っていた。
そこにはもはや、軍人たちを束ねる将軍はいなかった。




