148. <航海長>
1.
日本でマグロが珍重されるようになったのは、比較的新しい時代である。
江戸時代、寿司といえば小肌であり、蝦蛄や烏賊、貝類を下ごしらえしたものであり、あるいは白身の魚、そして稲荷寿司であった。
マグロは古来、鮪と呼ばれ、古くは縄文・弥生時代のころから食べられていたが、鯖の仲間であり脂分の多いこの魚は腐敗しやすく、せいぜい食べられるのは赤身までで、脂の多いトロは廃物として捨てられていたという。
ユウの父親ごろの世代まで、鮪と言えば寿司よりシーチキンの缶詰を連想する人が多いのも、証左であろう。
(……そんなことを思い出す前にやるべきことがあるだろう)
ユウは、軽く頭を振って余計な考えを振り払うと、改めて目の前の現実に集中した。
姿を見せた<水棲緑鬼>の上位種、<水棲緑鬼の航海長>の全長は2mをはるかに超える。
普通の<水棲緑鬼>と同様、立ち上がった魚に腕と腰から下が生えたような奇妙な格好だが、小柄で、どこか愛嬌すら感じさせる普通の<水棲緑鬼>と異なり、<水棲緑鬼の航海長>から受ける印象は獰猛の一言だ。
大地を踏みしめる足は、ユウの足が3本束になっても足りないほどに、太い。
王の登場に、周囲の<水棲緑鬼>たちが槍を掲げて応える。
鷹揚に返した<水棲緑鬼の航海長>の無生物的な魚眼がユウを映し、ぼうっと開いた口が、かすかに引きつった。
「<ヴェノムストライク>!」
ユウは、余計な時間を使うつもりはなかった。
<水棲緑鬼の航海長>と会話できるか分からない以上、問答を試す時間は、まさに無意味だ。
目の前の怪物がどれほどの力を秘めているにせよ、出させる前に、殺す。
だが、次の瞬間彼女は驚愕に目を見開くことになった。
ぬるり。
そう称してもいいほどの奇妙に粘ついた感覚とともに、毒を纏った刀身が<水棲緑鬼の航海長>の銀と青黒の鱗の上を滑っていく。
(外した!?)
ユウの毒に耐えた敵は多い。 俊敏な身ごなしでかわした敵も同様だ。
だが、『鱗で滑らせた』敵は初めてだった。
彼女が一瞬バランスを崩した時、<水棲緑鬼の航海長>の手にした槍がバチバチと火花を散らした。
バチリ、と漏電の時に近い音とともに、ユウの全身が泡立つ。
その衝撃はまさしく感電だ。
それは、<妖術師>の呪文と同じ、
「<サンダーボルトクラッシュ>……だって!?」
呻いたユウが片膝を突く。
呪文の付属効果によって麻痺したのだ。
<毒使い>特有の高い状態異常耐性を持つ彼女にとってはわずか数秒。
だが、その数秒は、<航海長>にとってもまた、一方的に敵を蹂躙するための得がたい時間だった。
「KIKIKIKIKIKIKIKIIIIIIIIII!」
片手を掲げて<水棲緑鬼の航海長>が叫ぶ。
その手の彼方に、いつから湧き出したのか、黒雲が渦を巻く。
その呪文もまた、ユウにとっては慣れ親しんだものだ。
戦友――<森呪遣い>が多く使うその呪文の名前は、<コールストーム>。
暴風雨を呼び、その効果範囲の中では雷系の呪文の威力は大きく向上する。
あちこちに雷が落ち、不運な<水棲緑鬼>が焼き魚となり果てる中、立て続けに打ち込まれる雷球が、ユウのHPをガリガリと削っていった。
動こうにも、麻痺の効果と、感覚に残る痺れのおかげで、足に力が入らない。
さらには、王に加勢せんとばかりに、周囲の<水棲緑鬼>が次々と槍を突き出してくる。
ひとつひとつはさしたる威力でもないが、間をおかず数十本が突き刺さるとあれば、ユウも顔を青くせざるを得なかった。
(これは、まずい)
以前戦った<緑小鬼の将軍>や、口八丁で操った華国の亜人たちと同じと甘く考えていたのがまずかった。
血を見ると凶暴化し、好き好んで前線に立っていた彼らと異なり、目の前の<水棲緑鬼の航海長>は、自らは呪文を用いたユウの足止めに徹している。
周囲の部下たちがユウをめった刺しにするに任せ、自らは決して攻撃範囲に入らない。
部下が自分の放つ呪文に巻き込まれても気にしないままだ。
非人道的だが、彼我の戦力差を考えればきわめて合理的な判断といえるだろう。
(あれだけの体格で呪文使いか……どうすれば)
押し競饅頭の如く、四方を<水棲緑鬼>に押さえつけられたユウは、自力で動くこともできない。
空中に飛べば、それこそ<水棲緑鬼の航海長>の呪文に迎撃され、落ちるだけだ。
その時、ふとユウの焼け付きかけた頭脳がひとつの案をひねり出した。
「<シェイクオフ>!」
パチン、と指がなると同時に、ユウの周囲が煙に包まれる。
煙幕によって一瞬だけ敵の視界を遮る特技だ。
だが、あくまで視界を閉ざすだけ。透明になるわけでも姿を消せるわけでもない。
事実、<水棲緑鬼>たちは煙など関係なく、ひたすら三又の槍を突き刺し続けている。
だが、ただでさえ<コールストーム>で荒天に閉ざされた港で、<水棲緑鬼の航海長>が一瞬呪文を唱えるのを止めた。
それだけで。
残り5割にまでHPが減っていた、ユウの手が指輪の奥から目的の物体を引っ張り出す。
次の瞬間、槍を突き出した<水棲緑鬼>の肩口から先が、いきなり千切れ飛んだ。
<水棲緑鬼の航海長>が異変に気づく。
だが、一旦発火した爆薬は、豪雨をものともせず次々と誘爆し、あたりは特技によるものではない煙に覆われた。
ユウがしたこと。
それは、自分を中心に置いたままでの自爆だ。
そして、それは周囲の敵を吹き飛ばすためのものでは、ない。
煙を抜け、四肢が半分以上ちぎれとんだ何かが空中を舞う。
あまりに人体とかけ離れたその姿に、一瞬<水棲緑鬼の航海長>すらも、その黒っぽいものが何なのか分からず、呪文の手を止めた。
ガジャリ、と口にくわえた回復の呪薬、その瓶を噛み砕いて、四肢を失った壮絶な姿のユウが哂う。
手で掴める、ありったけの爆薬を用いた、緊急脱出というのもおこがましい行動だ。
残るHPは一桁。
飲んだ呪薬が、それを一瞬で回復させ、ちぎれた手足が再生する。
ビデオの逆回しのように、肉色の生々しい傷口から新たな手足が生え、それを包むように<上忍の忍び装束>が覆っていく。
やがて、五体満足に戻ったユウは、ふわりと空き瓶のかけらを投げると、そこにつま先をかすかに触れさせた。
「!!」
<水棲緑鬼の航海長>の脳が、空に舞う奇妙な物体が敵であると認識した瞬間、ユウは落下の勢いと<ガストステップ>の能力によって、十数メートルの高度を一瞬で埋めていた。
その手には当然のように、主に向かって飛来した二振りの刀が握られている。
「<アサシネイト>!」
左手に握った<蛇刀・毒薙>を斬るのではなく、もう片手の<風切丸>で支えるようにして、刺す。
<水棲緑鬼の航海長>の人外の硬度を持つ肌に対しても、切っ先の一点への圧力は有効だった。
ずぶずぶと埋め込まれる刃から、緑の光があふれ出し、それは<航海長>の体内から魚眼を通して放たれる。
刺突による<絶命の一閃>は、それでもなお怪物の致命を制するには足りない。
「<ヴェノムストライク>……<毒と致命の一撃>!」
それは口伝ではない。
実戦と鍛錬の果てに、二つの特技をほぼ同時に出せるようになったユウの、もうひとつの必殺技だ。
この世界で特技の発動条件には大きく二つある。
ひとつはステータス画面を表示し、特技アイコンを脳内でクリックして発動するもの。
もうひとつが、特技に固有の行動を自ら行うことで発動させるというものだ。
この世界で曲がりなりにも『戦える』<冒険者>の多くは、後者を訓練の結果として習得している。
そして、熟練すればするほど、発動に必要な挙動は小さく、僅かになっていくのだ。
ユウの<ヴェノムストライク>は、その熟練位階の最高峰、秘伝だった。
だからこそ、<アサシネイト>の直後に、刃を毒が滴る僅かな動きだけで、特技を発動させることができる。
<水棲緑鬼の航海長>は初めて悲鳴を上げた。
刃が貫通する重傷に加えて、刀から内部に直接毒を送り込まれたのだ。
魚肉が腐る、なんともいえない臭いがあたりに漂い、じくじくと膿胞が浮かぶ腕から、だらりと力が抜ける。
「<パラライジングブロウ>!」
ぶちゅり、と音を立てて<水棲緑鬼の航海長>の左目が潰れた。
ユウが逆手に持った<風切丸>が、鱗に覆われていない目から頭蓋を貫通したのだ。
支えるべき眼球を失った頬肉がぴくぴくと動き、瞬く間に水分を失ってツナに似た色に変わっていく。
ユウは一切の容赦をするつもりはなかった。
二本の刀を無理やりねじり、どこかの本で見たとおり空気を体内にこれでもかと送り込みつつ、
ずるりと引き抜く。
周囲の<水棲緑鬼>たちも、王の巨体が邪魔になって、三叉の槍を突きつけることができない。
(思ったとおりだ)
立て続けの雷撃と、四肢がちぎれる激痛で再発した頭痛に苛まれながらも、ユウは微かに笑った。
この場において、無数の<水棲緑鬼>の攻撃を避けうる最良の場所は、<水棲緑鬼の航海長>の懐に他ならない。
状況が違えば、抱きついているように見える格好で、ユウは刀を抜くと、鱗の隙間を縫って再び突き刺した。
絶叫があがる。
だが、<水棲緑鬼の航海長>もさすがにそれだけで斃れはしなかった。
何度目かの刺突を繰り出した<暗殺者>に、<水棲緑鬼の航海長>が小さく口を窄める。
それが、『笑み』だとユウが察した瞬間には既に、<航海長>の醜く爛れた手に力が戻り、皮が破れ腐肉を飛び散らせながら、拳がユウの刀の柄を殴っていた。
そこからバキバキと、氷が広がっていく。
それは、ユウの手、<毒薙>、それどころか自らの肌すら凍らせながら、白く濁って固まっていく。
「自分ごと、<アイシクルインペール>を!?」
<コールストーム>の嵐は、いまだ収まっていない。
<妖術師>が普段操るそれよりも、はるかに早く、広範囲に広がった氷塊は、ユウの腕を刀ごと絡め取っていた。
そして、腕が取れないことを察したユウが、自らの腕を<風切丸>で切り落とすよりも早く。
<水棲緑鬼の航海長>の太い腕が、ユウの腰を掻き抱く。
「……動けない! まさか、貴様!!」
ユウが顔色を再び変えたのと、<水棲緑鬼の航海長>が笑みを深めるのは同時であった。
「Kikikikiiiiiiii!!!」
叫びとともに、雷雲を裂いて雷が落ちる。
<妖術師>の呪文である<ライトニングチャンバー>なのか、あるいは<森呪遣い>の<ライトニングフォール>か。
あるいはそれを交互に繰り出しているのか。
<水棲緑鬼の航海長>は、自分自身を誘導搭代わりに、立て続けに自分ごとユウに落雷を浴びせかけた。
さすがに<水棲緑鬼>とはいえ一軍の長というべきか。
自らごとユウに雷を落とすその思い切りの良さに、ユウは内心で感嘆していた。
だが、褒めてどうにかなる状況ではない。
毒で刻一刻と削れつつあるとはいえ、元はボスモンスターであるだけに、<水棲緑鬼の航海長>のHPは高い。
所詮は<冒険者>であり、しかも自爆のダメージを回復し切っていないユウのHPと、どちらが先に尽きるかは、それこそ神のみぞ知る、というところだ。
いや。
(コイツ、<森呪遣い>の呪文が使えるということは、<脈動回復呪文>も使えるんじゃ……!?)
実は魔法戦士だった<水棲緑鬼の航海長>だけに、これで回復呪文を用いたとしても驚くほどではない。
そしてそうなれば、呪薬以外に回復手段のないユウは終わりだ。
彼女は、唇を噛んだ。
◇
ユウの内心で、囁くものがある。
『口伝を使え』という声だ。
例えば口伝を使い、氷竜王が現れたならば、<コールストーム>で冷気系の攻撃に強化が入る今の情況であれば、一瞬で戦局を覆すことだろう。
そうでなくとも、ユウの口伝を用いて現れる何者かは、たかが<水棲緑鬼>の上位種に過ぎない<水棲緑鬼の航海長>の回復能力も上回るに違いなかった。
だが。
代わりに今度支払われるのは、どの記憶だろうか。
学生時代の親友の顔か?
妻のかすかに残る声か?
子供と遊んだ公園の日の思い出か?
彼女に残された地球の記憶は、もはや少ない。
口伝の行使のみならず、口伝を持っている、そのことそのものが、絶えず彼女から記憶を奪い、貪っているかのようだ。
ユウが、自分が『鈴木雄一』というサラリーマンだったことを示す縁が失われる日も、また近い。
それでもなお。
(私は、口伝を使うのだろうか……)
今、<水棲緑鬼の航海長>を殺さなくても、ユウに何の落ち度もない。
文字通りただ一人で敵のど真ん中に行かせたのはユグルタたちだし、行くことを決めたのはユウだ。
ユウはマグナリアの住人でもなければ、カイとテングを除いて好意を抱いた人間もいない。
極論すれば、マグナリアが陥ち、<不正規艦隊>が全滅しても、マグナリアの大神殿でよみがえってこの場を離れればすむことだ。
<大地人>の避難も進んでいるだろう。
あらゆる点において、『無理をせずこの場で死ぬ』ことこそ最良だ。
度重なる落雷に、ユウの意識が薄れ始める。
もはやHPも残り少ない。
その時、自分の体を誰かが抱き上げる感触を、ユウは感じた。
2.
気がつくとそこは、どこかの家の庭先らしい、小さな空間だった。
春を迎え、主が丹精に手入れしたであろう花々が、見るものもなくさびしく咲いている。
庭の一角には、主が連れて行ったのか、小さな犬小屋と外された鎖がぽつんと落ちていた。
そんな中、ユウは傷口を傷めないよう、やわらかく湿った土の上に、布を敷いて寝かされている。
「……?」
「気がついたか?」
「……テングか」
ユウを覗き込んでいた若々しい顔の青年が、彼女と目を合わせて嬉しそうに笑った。




