番外15. <三人の思い出>
1.
「珍しいものを見つけたぞ」
そう言ってクニヒコがレディ・イースタルの部屋を訪ねたのは、3月も半ばを過ぎ、あちこちに植えられた桜が蕾を綻ばせる、3月の終わりのことだった。
「あ? なんだよ、つーか女の部屋にずかずか入ってくるな」
声だけならばオペラ歌手のそれに匹敵する美麗なソプラノを響かせ、レディ・イースタルはずかずかと出てくると、固まった黒衣の騎士の手に握られた紙切れ――粗く綴じられたノート――をひったくった。
そのまま、クニヒコを一瞥もせず、ずかずかと戻ると、髪と体を拭いていたタオルを首にかけ、用意しておいたコーヒー牛乳を掴む。
ぽたぽたとブロンドの髪から垂れる水滴も気にせず、彼女は腰に手を当てて勢いよく牛乳瓶を傾けると、プハァ、と親父くさい息をつき、ついでにほっそりした腹をパン、と叩いた。
「うーむ、この年で痩せていると腹鼓の出具合が良くないな。大腸癌かな」
「いいからさっさと服を着ろ!!」
ついに叫んだクニヒコの前で、エルフにして<冒険者>、初代レディ・イースタル伯爵にして幻想級の武器を持つ<森呪使い>、そして中身は今年で41になる既婚にして一児の『父親』である美女は、実に気持ちよさそうにラジオ体操を始めた。
◇
「……別に心まで女になれとは言わんが、少しはつつしみを覚えてくれよ、タルさん。
ユウさんだってもう少し羞恥心というものがあったぞ」
「いいか青年……じゃなかった、中年よ。人とは魂のありようなのだ。
例え世の人間が俺のことを美女と呼ぼうが、エルフの大貴族と呼ぼうが、そいつは俺の面の皮だけを見てそう言っているに過ぎん。
人とは、己がそうだと定義して初めて人になる。
たとえ無秩序な機械の集合体が俺であっても、試験管の中の脳髄が俺であっても……」
「漫画の台詞を剽窃してまでくだらないことを言わないでくれ……」
しばらく経って。
ノースリーブにスラックスという、オフの日のOLみたいな格好でしどけなく――はっきり言えばだらしなく――ソファにもたれるレディ・イースタルの戯言を、いつものようにクニヒコは疲れた顔で遮った。
ここはアキバでも比較的中心街に近いエリアにある、小さなコンパートメントだ。
この頃、一時期ほどではないにせよ、増加を続けるアキバの人口に、住宅事情はまったく噛み合っていなかった。
<円卓会議>は対策を打ち出すべく、アサクサ、マイハマ、スモールストーンやイケブクロといった周辺の村落に援助金を出し、<冒険者>の受け入れを進めてはいたが、万全には程遠い。
そもそも、ゲーム的な利便性だけを追及したアキバは、多人数の居住にはまったく適した町ではなかった。
今では、<大災害>直後の混乱の時期にゾーンを買いあさった人間を中心に構成されたアキバの不動産市場は、天井知らずの高値を更新し続けている。
クニヒコも結局、エンクルマたち旧知の友人の援助もあり、なあなあという形で<黒剣騎士団>の持ちビルの一角に間借りしているのが現状なのだ。
そんな中、後発もいいところのレディ・イースタルが、なぜ<水楓の館>徒歩数分という、アキバの一等地にウサギ小屋程度の広さとはいえ、家を構えることができたのか。
それは、彼女自身がまったく望まない形ながら、<大地人>貴族あってのことだった。
『ウェストランデ以来の貴族の最古参、そして<薔薇の伯爵>たる御方が庶民と同じ暮らしなど、あってはならじ』
親切な――本人と<円卓会議>にとってはきわめて迷惑な――横槍の末に、彼女はまともなねぐらを見つけられたのだった。
もちろん、『もし部屋がなければ<水楓の館>の一室に』というもうひとつのごり押しを、レディ・イースタルとレイネシアが協力して断った結果でもある。
だが、貴族たちの期待とは裏腹に、当のレディ・イースタルは貴族というより単身赴任のおっさんサラリーマンに近い生活を満喫していた。
「飯、食ってんのかよ」
清潔すぎるキッチンにクニヒコが問いかける。
冷蔵庫代わりの小さな倉庫の中には、<冒険者>が苦心して作り上げた芋焼酎と水、そしてビールと日本酒が、スルメやジャーキーといったつまみの海の中に難破船のように転がっていた。
「あ? ちゃんと食ってるぞ。朝は<イーハトーブ幻想館>で食ってるし、昼はまあその辺の弁当だが、最近じゃ<じょせふぃん亭>の『時の娘定食』がいいな。突き出しのチキンソテーがいいんだよ。
それから晩は<赤暖簾ますらお>とか<マリーナの宿>まで出向くのとか。
後はやきとんでいいのがあってだな……」
ずらずらと並べ立てる名前は、いずれも外食ばかりだ。
クニヒコはふと、かつて地球で似たような会話をしたことを思い出した。
日本全国から世界各地に、20年以上単身赴任していた先輩が、同じように楽しげに、見る人が見れば悲しい話をしていたものだ。
「……もういいから。たまには自炊してくれ、な」
なし崩しに<黒剣>に復帰した形のクニヒコも、人に誇れるような食生活をしているわけでもない。
ただ、アキバの自室にいるときはせめて野菜くらい切っているだけに、クニヒコは友人の食生活に対し真剣に忠告せざるを得なかった。
……ただ、この世界に来て肥満の地獄穴から解き放たれた、目の前の妖精じみた――実際エルフはたいていの物語では妖精だが――女性に、どこまで聞こえているかはわからなかったが。
くだらないやり取りが一段落すると、ソファに転がったままタバコに火をつけたレディ・イースタルがクニヒコを促した。
「で。お前、俺の生活に学級委員みてぇに文句をつけるために来たのか?
こう言っちゃ何だが、もう少し生産性のある休日を過ごしたほうがいいぞ」
「あ、そうだった」
机にぽいっとおかれていたノートを取り上げ、クニヒコが思い出す。
「そうそう。これを読んでくれよ。ずいぶん懐かしくてね」
「なんだ、これ。 ……お前の日記か。筆まめだったな、そういや。
……これ、去年の秋の頃じゃねえか」
灰が落ちるのもかまわず姿勢を起こしたレディ・イースタルに、クニヒコは懐かしそうに答えた。
「そうだよ。あんたと俺と、それからユウさんの3人で山口を旅していた頃のことだ。
懐かしくてな」
「ユウかぁ……」
半年近く会っておらず、生きているのか死んでいるのかすらわからない友人の名前を、レディ・イースタルはどこかほろ苦く、呟いた。
2.
ドリーネンコルム。
弧状列島ヤマト、その最大の島の西端に位置する、巨大な地下迷宮である。
そこは、いわゆる地下の自然洞窟型ダンジョンとしては、ヤマト最大級といってよい。
オウウの山中にある<奈落の参道>が発見された今では、ヤマト最大という名前こそ譲った形になっているものの、どちらの洞窟も本当の広さが分かっていないだけに、真相は不明だ。
かつてミナミ、あるいはナカスを拠点とし、多くの<冒険者>でにぎわったその場所は、いまや訪れる<冒険者>もなく、モンスターたちの天国になっていると思われていた。
「……<小牙竜鬼>?」
そんな地域に程近い、ユダの町。
のんびりと温泉に浸かり、飯を食おうかと宿の一階に下りた3人の<冒険者>に近寄った男は、挨拶もそこそこにいきなり話し始めた。
よほど興奮しているのか、身振り手振りのたびに汗と旅の埃があちこちに飛び散っている。
せっかくの食事を台無しにされつつあることに、遠くから見ていた宿の主人は渋い顔をしていたが、当の客3人は、真剣な顔で男の訴えを聞いていた。
田舎の村に投宿するには、きわめて珍しい格好の3人だ。
一人は、どこかの騎士団の隊長といわれてもおかしくない、巨躯の騎士。
全身を包む黒鉄の金属鎧は、あちこちに関節の動きを阻害しないような工夫が施され、彼が馬上で部下を指揮するだけの人間でないことをあらわしている。
今は傍らにどんと立てかけられた大剣は、同じく黒く染まった刀身に、精緻な彫刻で登る龍の文様が彫りこまれてあった。
ただ、<大地人>の目から見てもがらくただとしか思えない日用品や玩具を紐で止め、肩がけにしているところが奇異といえば奇異だ。
もう一人は、御伽噺のエルフの森から出てきたかのような、薄い金色の髪のエルフの美女だ。
ほっそりとした面に軽くウェーブのかかった金髪が流れ落ち、体の動きを阻害しないゆったりとしたローブへと落ちている。
その裾から見える手足はあくまで細く、質の悪い獣脂蝋燭の光に照らされてなお、透き通るような白さを持っていた。
最後の一人は、これまた対照的だった。
こちらは艶のあるストレートの黒髪を背中に流し、エルフよりはやや色の濃い肌を、ぴっちりとした黒装束で覆っている。
服で隠していないスタイルは、宿の主人の50年近い人生でも見たことがないほどに完璧な比率で整っていた。
宿に来たとき、腰に差していた二振りの刀は、部屋にでも置いてきたのか、見る限りはない。
彼らの正体を宿の主人も、話に来た男も、あちこちで聞き耳を立てている<大地人>も知らないが、ただ彼らがどういう人間かは知っている。
服装も、外見も性別もばらばらでありながら、いずれも絶世といえるほどに整った美貌と若々しい肉体を持ち、都の大貴族ですら垂涎するであろう秘宝の数々を当たり前に持ち歩く。
そんな彼らを、<冒険者>だと分からない<大地人>はこの世界にはいないだろう。
「お願いします。開拓村が襲われ、子供が2人、連れ去られました。
うち一人は乳飲み子です。このままでは……おそらく」
一散に駆けてきたのだろう。 ユダから峠を越えたマナガという村から来たというその<大地人>農夫は、声を殺して泣き始めた。
そんな彼に、一行を代表して黒衣の騎士――クニヒコが尋ねた。
「……分かった。とりあえずなかないで、何があったか話してみてくれないか」
「………うぅ」
埃まみれの農夫の肩を労わるように叩く彼に促され、農夫はところどころ痞えながらも話し始めた。
◇
その農夫、ザモンの住むマナガの村は、ユダから程近い山間にある。
そこに数匹の<小牙竜鬼>がやってきたのは数日前のことだった。
マナガは、近隣のミネやユダといった町の庇護を受けてはいるが、もともとナインテイル諸州とウェストランデの州境に近い場所でもあり、村人たちが自衛することで存在してきた村だ。
当然、ザモンを含む村の男たちは、<小牙竜鬼>を取り囲み、散々にいためつけて追い払った。
亜人との戦いはよくあることでもあったので、それだけで男たちはいつもの日々に戻った。
<小牙竜鬼>は知能はそこそこだが、一方で<緑小鬼>や<灰斑犬鬼>ほど好戦的ではない。
一旦追い払えば当面戻ってくることはないと彼らは踏んだ。
だが。
その数日後、ユウたちが話を聞いていた時からわずか半日あまり前。
<小牙竜鬼>は今度は数十匹の群れを成して、マナガに襲い掛かってきたのだった。
「我々は柵を壊され、何人か死者や重傷者を出しながらも、撃退に成功しました。
……ですが、帰りがけに連中は村はずれのジェモンの家を襲い、隠れていたジェモンの息子二人と甥と姪たちを攫ってしまったのです。
もちろんわれわれも追いましたが、ジェモンの次男のアーノルトと、姪のエレインが捕まったままです。
私は急を知らせに、ユダまで来たのです。
……村の男は例外なく死ぬか傷を負ってしまい、もう追えません。
<冒険者>さまがいらっしゃったのは天与の好機です! どうか、なにとぞ!!」
一気呵成に言い終え、ザモンは平伏する。
その格好に、クニヒコが即座に応じた。
「なら、もちろん行って助ける。な、ユウさん、タルさん」
「ああ」
「もちろんだ」
クニヒコが見交わす目に、即座に残りの二人が応じた。
食事もそこそこに、3人が立ち上がり、ザモンを助け起こす。
「わかった……ご主人! すまんが飯は食えなくなりそうだ。残りはこのザモン氏にあげてくれ。
支払いはこっちで持つ。それから、弁当を頼む」
レディ・イースタルが叫び、宿の主人が頷くのをみるや、彼女は今度はザモンに向き直った。
「見たところあんたも表の馬もへたばってる。マナガへの地図はあるか?迷いたくない」
「行きがけに書きました……これを」
渡された羊皮紙は、ミミズがのたくったような線が書かれているだけだったが、彼女は頷くとそれをユウに渡した。
「おい地元民。分かるか?これで」
「……県道6号線から28号線を上がる道だな。任せろ、通ったことがある」
山口出身のユウが頷くと、レディ・イースタルは『おっしゃ!』と頬をはたいた。
「なら急ぐぞ。亜人にとっ捕まってしまったら、時間は敵だ。
……だがなザモンさん。最悪のケースだが」
勢いをいきなり殺して、小さく聞いたレディ・イースタルに、嬉しさか安堵感か、ぐったりと椅子に座り込みながらザモンが答えた。
「たぶん大丈夫です。村の人間が<小牙竜鬼>が何かしゃべるのを聞いています。
連中、カタコトですが我々の言葉が分かるので。
『マンゲツ』と『ギシキ』、そう言っていました」
ユウたちだけでなく、全員が窓の外を見上げた。
雲ひとつない秋の宵に浮かぶ月は、まだかすかに欠けている。
「あと1日か、多くて二日ってところだな……」
誰かの声に、クニヒコが大きく頷いた。
そのまま言う。
「最後の質問だ。<小牙竜鬼>の逃げた方角は?」
「北でした」
「……北」
クニヒコが口の中で呟き、ユウの目が殺気を帯び、レディ・イースタルが唇を噛む。
「マナガから北といやあ……」
「……秋吉台。いや、<ドリーネンコルム>か」
3人は互いの目を見、意を決して頷いた。
◇
夜半。
3騎の騎影が、夜の道を疾駆していく。
いずれも並みの馬など歯牙にもかけぬ速度で走るそれは、中国サーバ――華国のユニークモンスターである、汗血馬だ。
その上で、3人の<冒険者>は焦る心を逸らせながらも、一路目的地へと向かっていた。
ドリーネンコルム。
元の地球にあったサファリパークと、あちこちに巨大な穴が開いたカルスト台地、そしてその地下の巨大な鍾乳洞をモデルとした、<小牙竜鬼>たちの巣へと。




