142. <海戦> (後編)
1.
戦場をもし俯瞰する存在がいたとするならば、航跡を残してのたうつ二匹の海蛇、その頭のような二隻の船は、まるで互いに踊るようにくっついたり離れたりしているように見えただろう。
そして、まさに今、こう見えたはずだ。
のたうつ蛇の片方が、もう片方の首筋に牙を突きたてた、と。
「! 敵船、船尾楼消失!行き足、落ちます!」
「ようし! よくやった!」
つんのめったように揺れる<バーミンガム>の甲板上で、船長らしい男が剣を振り回す。
同時に<妖術師>や<付与術師>とも見えるローブ姿の人影が、一斉に手を向けた。
「精霊装!」
ぶわり、と<ジョン・ポール・ジョーンズ>の四方から水柱が立ち昇り、放たれた<ブレイジングライナー>――豪炎の渦を放つ<妖術師>の呪文――を打ち消した。
<JPJ>が持つ精霊船としての装備で使役している水乙女が、敵の炎を叩き潰したのだ。
スワロウテイルは満足そうに頷くと、三角帽をあみだにかぶり、周囲の部下を見渡した。
ひとたびの勝利に、誰の顔もがほころんでいる。
それを見て、あえてスワロウテイルは手近な一人を殴り飛ばした。
そして叫ぶ。
「貴様ら、もう勝った気でいるのか! 戦いはこれからだ! 義務を果たせ!<教団>と神への義務を!!」
はっとして顔を引き締める全員の耳に、カンカンという音が響いた。
木に金属が当たるその音は、全員の視線の先。
船尾から徐々に沈もうとしている敵船の、その船尾と自らの舷側を細い何かが繋いでいる。
それは最初は数本だったが、瞬く間にいくつもがかけられていき、気づけば緊密に括りつけられていた。
いずれも、かつての海戦クエストで広まったロープである<海神の艫綱>だ。
船というゾーンを用いた海戦をドラマティックにするためか、『<海神の艫綱>を使用して船ゾーンへ入ったプレイヤーはゾーンの所有者による排除を受けない』という能力がある。
船尾から沈み行く<バーミンガム>の上で、<冒険者>たちが次々と武器を抜くのが撓む綱越しにユウには見えた。
「斬込戦か、面白い!」
<バーミンガム>の船長らしい敵の<守護戦士>と目線を合わせ、スワロウテイルが唸った。
自らの武器を抜くと、いつの間にか後ろに近づいてきたユウを見、存外に落ち着いた声で聞いた。
「……で、どうするね。ユウ。俺としちゃ、あんたは知り合いだ。さっきの弩砲戦でも手伝ってくれた。
個人的には、このまま姿をくらましてもらいたい。
非常短艇を使えば、今ならどちらが勝っても逃げ切れるはずだ」
戦場では人は正直になるものだ。気遣わしげに声をかけた船長に、ユウは軽く左右に首を振った。
「あんたの話を聞く限り<教団>は私の敵になりそうだが、あんた個人とその船はそうじゃない。
今回限り、手伝ってやるよ」
「……」
苦悩するスワロウテイルの顔を見て、不思議に思ったユウが問おうとした時。
船長が、辛そうに言った。
「……恩に着る。だが……この船の<大地人>は……いや」
「キャプテン!! 奴ら来ますぜ!」
たちまち、特技を叫ぶ怒号と、カンカンという剣戟の音が広がっていく。
スワロウテイルは、言いかけた言葉を飲み込むと、そのまま背を向ける。
同じく背を向けて敵に向かおうとしたユウに、振り向くことなく声が飛んだ。
「ユウ! 相手は<不正規艦隊>といってな!
反<教団>を掲げる連中で、元々米海兵隊や海軍のゲーマーどもがつくったギルドを中心とした集団だ!
いくらお前が歴戦とはいえ、相手は軍人かもしれん! 気をつけろ!」
そういう自分は、臆することもなく<不正規艦隊>の一人を船上刀で切り倒している。
ユウはそんなスワロウテイルを見て苦笑し、刀を抜いた。
いまや<ジョン・ポール・ジョーンズ>の甲板上は、まさに乱戦の巷と化している。
2.
かつて旧大陸からの圧制に立ち向かった男達の象徴、世界史上で最も新しく、不敵で、勝手で、正義に溢れた国の旗。
ばたばたと揺れるその旗は、今敵味方に分かれて戦う二組の男達を黙って見下ろしている。
戦うのは、共にその旗を仰ぐ集団だ。
片方はその星と十字架をよりどころとし、片方は十字架を心から否定している。
その中で唯一、旗に忠誠を誓わない女<暗殺者>が、戦場を駆け抜けようとしていた。
◇
ユウは、びり、と自らを覆っていた服を破り捨てた。
ルフェブルにもらったドレスが音を立てて千切れていく。
その代わり、その下に隠れた艶のない黒色の装束があらわになっていき、ユウは最後の布を落とすと不敵に笑った。
「狂信者め!」
すらりと抜いた<蛇刀・毒薙>の峰を返したユウに、一人の敵兵が襲い掛かる。
動きやすい革鎧に短杖を構えた姿は、ちょっと職業を推し量りづらい。
「<サーペントボルト>!」
ばちばちと火花を散らして飛ぶ電球を、ユウは身を翻して避け、そのまま逆刃で殴りつけようとする。
だが、男はにやりと笑うと、ユウの刀をかわし、肘を取った。
そのままひきつけられたユウの肘からみしり、と音がする。
「格闘だと!?」
ユウの腕を極めて引きながら、そのままの動きで顔を狙ってきた肘を、ユウはかろうじて避けた。
顎すれすれに掠めた肘のためか、ユウの視界がぐらりとゆらぐ。
まずい、と思ったときは遅かった。
押し倒されるように倒れこんだユウの首筋に、いつの間にか<サンダーボルトクラッシュ>を唱えていたらしい、男の短杖がナイフのように迫る。
「レベルの差で甘く見たか、民間人!」
「抜かせ!」
強引に蹴りはがそうとしたユウの首に電撃が当たり、彼女は目から火花を吹いた。
それでいながら何とか距離を置き、ごろごろと転げて衝撃を吸収する男を見やる。
「なるほど、軍人あがりか」
「日本人か中国人か知らんが、こんな船に乗り込む以上敵だ、死ね」
そういって再び笑った男の身体が、不意に揺れた。
そのむき出しの手に、小さな切り傷がある。そこには、文字通り蛇のように、小さな緑色の光が蠢いていた。
「<毒使い>相手に接近戦とは、お前さんもいささか甘く見すぎたな」
嘯くユウの目の前で、男が泡を吹いて痙攣し、やがて文字通り泡となって消えた。
◇
ユウは駆けていた。
彼女の正直な思いとしては、敵味方が定かでない以上、むやみに殺戮はしたくない。
スワロウテイルが教えてくれた<教団>の暗部が事実であればなおさらだ。
だが、狭い船の上ではそうもいかない。
敵である<バーミンガム>の乗員たちは、文字通り<ジョン・ポール・ジョーンズ>の乗員を皆殺しにする勢いで、かさにかかって攻め立てている。
<バーミンガム>側が<冒険者>のみで構成されているのに対し、数に劣る<ジョン・ポール・ジョーンズ>が、<大地人>やインヴィクタスのような非戦闘員も連れていることが、状況をさらに不利にしていた。
結果としてユウは、相手に勝る速度で迫っては、秘蔵していた自作の毒を叩き込むという、効率の悪い戦い方を強いられている。
「ユウ!!」
<痙攣>の毒で痺れた<守護戦士>を舷側から蹴り落としたユウに、彼女を呼ぶ声が聞こえた。
<ジョン・ポール・ジョーンズ>の船長、スワロウテイルの声だ。
何事かと振り向いた彼女の目の前で、彼が振り回していた船上刀をだらりと下げるのが見えた。
「スワロウテイル!?」
降伏するのか、とユウが問いかけようとした刹那。
何人もの敵兵に囲まれながら、スワロウテイルは異様なほどに陽気な声で言った。
「ユウ! 悪いな! お前は敵に降伏してくれ!」
「何だと!?」
「排除」
ユウの視界がその声を聴いた瞬間、再び大きく揺れる。
それが自分がよろけた為ではなく、船の舷側から大きく離れた空中に『移転させられた』ためであることに、彼女は海にたたきつけられて初めて気がついた。
バンの影響を受けないのは、<海神の艫綱>を通ってゾーンに入った<冒険者>のみ。
すなわちスワロウテイルは、ユウをゾーンから任意に排除できるのだ。
「何をする! スワロウテイル!!」
「悪いなあ、だがな、お前に巻き込まれてほしくないんだよ、俺としちゃあな!」
ユウがかろうじて浮遊物―<大地人>の死体―に掴まり、泳ぎながら叫ぶと、絶叫と悲鳴、金属の打ち合わされる戦場音楽の向こうからその声が聞こえた。
その瞬間、ぶるりと死体が揺れる。
同時に、ユウは唐突に違和感を覚えた。
(そういえば)
さっきまで私が『片付けていた』ものはなんだったか?
あまりに自然だったので忘れていたが、ここは地球ではない、異世界だ。
なぜ、私は死体を片付けることができたんだ?
ユウの手ががしりと掴まれた。
自分が、この世界にあって、『あるはずのない』物体を浮き輪代わりにしていたことに、ユウの顔がさっと青ざめたとき、無残に半身を吹き飛ばされ、当然息があるはずのない<大地人>――つい数時間前までそうであったもの――がむくりと海面から顔を上げる。
その目は真っ白に白濁し、まだピンク色に近い傷口が、海水にさらされて奇妙に白く見えた。
「ゾンビだと!?」
よみがえった<大地人>ともみ合い、その拍子にずるりと海に沈み込みながらも、ユウはしがみつくゾンビを殴り飛ばした。
爆発したように頭の半分が吹き飛ぶそのゾンビのステータス画面には、生前の名前の下に、職業を示す欄がある。
そこには、<敬虔な死者>と書かれていた。
意味は分からないものの、五賢帝の一人を髣髴とさせるその単語が、おそらく死人の上につかない言葉であろうことは、ユウにも分かる。
そして、それが恐らくは、極めて冒涜的な意図によって名づけられたものであることも。
「スワロウテイル!! インヴィクタス!!」
ユウの髪が、水面の張力すら無視して怒りに揺らめいた。
怒りのままに、目の前のゾンビを思い切り殴りつける。
首から上を西瓜割の西瓜のように爆砕され、不死者としての偽りの生命を失った肉体が、今度こそ泡となって海に消えていく。
だが、ゾンビを沈めたユウの怒号にも、返ってくる言葉はない。
頭上からは、<バーミンガム>の乗組員らしい悲鳴や断末魔の叫びが響くのみだ。
ユウは気づかなかったが、<敬虔な死者>は一般のゾンビに比べてレベルが高い。
それが船室――ユウがなんとなしに理解していたところでは医務室――から沸いて出たのだから、いくら軍人上がりを主力にした<バーミンガム>の<冒険者>であっても、不意を衝かれた。
戦場の勝敗は、勢いの有無だという。
一旦勝ちかけた、と思ったところへの、死者の援軍。
それは、<バーミンガム>の<冒険者>の勢いを殺すには、十分すぎた。
ユウは、悲鳴を上げて舷側から落ちる<冒険者>の数が増えつつあることに気がついた。
いずれも、<教団>のギルドタグを背負っていない。
彼女が裏切られたような気分で浮いている横を、幻想的な精霊の光をまとい、巨大な外輪を回しながら、悠然と<ジョン・ポール・ジョーンズ>が過ぎていく。
そのとき、巨大な外輪に跳ね飛ばされるように、一人の人間が落ちてきた。
あわてて避けるユウの横で、水柱を立てて一旦は沈んだその男が、ぷかりと力なく浮かぶ。
その男に息があることに気づき、あわててユウは泳ぎ寄った。
「おい!大丈夫か!? ……! ……お前さん」
「う……」
既に死相が色濃く浮かび、青白い顔をしたその若い顔に、ユウは見覚えがあった。
「……あんた…あの時の客人殿……か」
ユウが、塩辛い海水を飲み込むのも気にせず頷くと、彼女に甲板への入り口を教えてくれた<大地人>の水兵は、唇の端をかすかに歪めた。
その腹部からは、海蛇のように太い赤色が波間に伸びている。
どうみても、致命傷だ。
男は、かろうじて動く口をかすかに開け閉めした。
「教主様の……教えを守り……司教様……」
「しゃべるな!」
「リンシア……」
人名だろうか。
ユウにはよく聞き取れなかった言葉の後に、いきなり男はびくびくと痙攣を始めた。
勢いなく流れ出る血流が不意にゆらめき、うねうねと曲がり、不吉に海水を紫色に染めていく。
「おい、おまえ!!」
ユウははっとして、手元の刀に手をやった。
さっきの<敬虔な死者>の原料が、<JPJ>に乗り組んでいた<大地人>たちであるならば。
「嫌だ、嫌だぁ! ゾンビなんかになりたくない! 死んでも教主様に仕えるのは、嫌だ!
眠らせてくれ! 女神と神様のもとへ行かせてくれ!
嫌だ、嫌だ、嫌だ!!」
別人のように叫び、もがく彼のステータス画面、そこにあった<船乗り>という文字が、徐々に薄れていく。
同時に浮かび上がりかけているのは、あの、<敬虔な死者>という文字だ。
HPはもはやほとんどない。かすかに残った青色が、出血によって真っ赤に染め上げられたとき、彼は蘇るのだろう。
あの、奇妙な名前の不死者に。
ユウは躊躇することをやめた。
「暴れるなよ、……介錯、御免」
振り上げられた<毒薙>が、ずぶりともがく男の首に食い込んだ。
ざく、と皮を裂き、柔らかい肉と筋張った首の筋肉を易々と貫き、頚椎を真横からへし折る。
呆気ないほど簡単に、首の後ろから現れた刃は、簡単に残りの肉組織を切断すると、そのまま首を刎ねちぎった。
白く濁りかけた男の目が、ぱちぱちと瞬きしながら飛んでいく。
それが海面に落ちる前に、首と、ユウが支えたままの胴体は、ゾンビになることなく泡となって消えた。
ざぶ、とバランスを崩して海に沈んだユウが再び海面に顔を見せたとき、既に<ジョン・ポール・ジョーンズ>は遥か遠くに帆を広げていた。
どうやらスワロウテイルたちは勝ったらしい。
遠目に、甲板をふらふらと歩く人影が見える。
それが何であるか、考える気はもはやないまま、彼女はかろうじて舳先のみが海面上に残っている<バーミンガム>の残骸に向かって泳ぎ始めた。




