133. <旅の始まり、あるいは天国の終わり>
1.
その大地は、かつては人が立ち入ることを許されなかった大地だったという。
後に人はその地にたどり着き、拡がった。
だが、数百年が経過してもなお、その地はあまりに広大であり。
二種類の『人』――<冒険者>と<大地人>が生きるその大陸は、茫漠たる原野の中にあった。
◇
<アルスター騎士剣同盟>の治める地、グロストの神殿を率いる決意を固めたロビンと別れて3日後。
グロスターの町の近くにある<妖精の輪>のひとつが、ウェンの大地に通じる道だった。
分かったのは無論、旅の仲間だったエルが持っていた<鷲獅子王の手甲>の、<妖精の輪>に向かい、手甲を翳せば、<輪>の通じる先のゾーン名称が分かるという能力によるものだ。
「アタルヴァ、か」
はるか地平線まで続く大平原。
ところどころ潅木がある以外は何も見えないその光景は、ユウにかつて見た、華国西部の大草原を思い出させた。
「ロビンはうまくやれるかね」
「さあね」
ユウの独り言に、横合いから声がした。
褐色の肌に、茶色に近い髪の毛、そして人間の子供よりやや高いほどの身長。
この世界に生きる亜人族のひとつ、ドワーフ族の特徴である髪の毛を無造作に編みこんだ少女だ。
溌剌としたその肉体は、女性が着るには無骨に過ぎる全身鎧に覆われている。
日差しよけにマントをまとったその腰からは戦槌が、背中からは方形の盾と剣の柄頭が顔を出していた。
英国での冒険をユウとともにした、ナカスの<冒険者>、エルだ。
彼女は、女性にしては雑なしぐさで、肩をすくめてじゃらり、と鎧を鳴らした。
「ま、うまくやるしかないだろう。仕事ってのはそんなもんだ」
あの学生上がりの若者は、望んでいなかった重い使命を背負って、はるか大西洋の向こうにいる。
たとえ勢いであったとしても、決断したのは彼だ。
その後のことは、年長者として無責任なようだが、二人の知ったことではない。
「まあ、エリシールは幸せそうだったし、いいんじゃないかな」
「美姫の涙こそ騎士の道を阻むものなり、って、何だっけ。シェイクスピアか?モンマスか?」
「知るか。……美姫というにはちょっと小さすぎるがね」
はは、と笑ったエルは、その表情のまま無造作に戦槌を抜き、
躊躇いなくユウの脳天に振り下ろした。
ユウもまた、寛いだ表情のまま、<毒薙>を抜き放ってエルのこめかみに当てる。
互いに武器を突きつけあったまま、二人の元・男の<冒険者>は世間話の口調で会話を続けた。
「……やっぱり、戦るかね」
ユウが呟けば
「ああ、そのために付いて来たんだ」
エルも笑う。
そして互いに武器を引き、3mほどの距離をはさんで向かい合った。
「よく分からない関係だったが、これですっきりするよ、エル」
「もう怨んじゃいないんだが、どうしてもお前を半殺しにしたくてね、ユウ」
物騒な言葉とは裏腹に、二人の顔は親友同士が寛いでいるかのような自然体だ。
「まあ、そうだね。私もよく考えてみたら、こういう関係が自然だったと思う」
「お前の好きな、天命、という言葉か?」
「どうだろう。ただ、天がどう言おうが、私はいつかお前さんと戦っていたと思う」
「奇遇だね、私もだ」
顔の裏で、殺気が膨れ上がる。
巣穴から顔を出したプレーリードッグのような生き物が、地上を一目見るや否や引っ込んだ。
もはや滴る様な殺意を隠そうともせず、二人は最後の言葉を交わす。
「決闘の後はどうする?」
「私は南へ行く。……見てみたい場所があるんだ」
「へえ? それは?」
「密林の奥の神殿、そしてさらに南の黄金都市。さぞかしいい眺めだろう」
「そうか。なら、殺して戻っても恨むなよ、エル」
「手甲がある限り、いつでも来れる。お前こそ<深き黒森のシャーウッド>で泣きべそをかくなよ」
「大きなお世話だ……<シャドウバインド>」
囁くような言葉とともに、ユウの手から何かがこぼれた。
針のような小さな金属片は、黄色い太陽に照らされたエルの影に吸い込まれた。
「……<アサシネイト>」
一瞬でエルの左斜め後ろ、もっとも武器から遠い位置に立ったユウが刀を振るう。
一撃で倒せるとはユウ自身思ってもいなかったが、何しろエルには口伝に昇華した<デボーション>がある。
ほぼ何の障害もなく、対人攻撃を反射するエルに対応の暇を与えれば、ユウ自身の攻撃でユウの首が飛ぶこともありえるのだ。
「<ディバインフェイバー>」
だが、ひそやかに忍び寄る毒刀の一撃を、エルは背負った盾で受けた。
HPが大きく削られるが、それは織り込み済みだ。
すぐさま、エルの絶大な習熟度に裏打ちされた<反応起動回復>がエル自身を癒していく。
そして、振り向かないまま、何も握っていない左手をひそやかに<暗殺者>に向けた。
「<ジャッジメントレイ>」
姿勢を変えずに後ろに放たれた巨大な光芒は、とっさに体を離したユウの顔すれすれを駆け抜ける。
開戦早々、互いに大技を繰り出した二人に、かすかにユウは目を見張った。
そこへ襲い掛かる、鋼鉄の衝撃。
「<ホーリーヒット>!!」
衝撃とともに、戦槌が食い込んだユウの右手が奇妙な形に折れ曲がった。
<疾刀・風切丸>が使い手を離れ、からからと音を立てて大地に転がっていく。
肘を砕かれた衝撃と激痛に、ユウはそれでも耐えた。
「<ペインニードル>!」
足が止まったエルに短剣が飛ぶ。
<ディバインフェイバー>は、ユウの<シャドウバインド>による移動阻害効果を解除したのではなく、あくまで効果の発動を先送りさせただけだ。
動けないエルを始末するなど容易い。
果たしてユウの読みどおり、毒を受けたエルの顔色が見て分かるほどに青く染まり、
口からどす黒い血が飛沫を上げた。
だが。
「……<リアクティブキュア>だって!? 私の毒を!?」
骨の見える右腕を押さえ、距離をとったユウが目を丸くした。
同時に気づく。
いつの間にか、エルのレベルも94になっていたことを。
「……<毒使い>と戦うんだ。解毒もできないようじゃ、戦えないだろう?」
ぺっ、と唾を吐き捨て、エルはにやりと笑った。
2.
戦いは膠着していた。
二人が<輪>を潜ったのは正午に近い時間だが、今はすでに午後だ。
植物がない大地特有の、風を伴う熱気が、戦う二人の<冒険者>の間を通っていく。
昔の西部劇を見たことがある人間であれば、『大西部』とでも形容するような大地で、ユウとエルは互いの攻め手を欠いたまま睨み合っていた。
エルは、ユウの致死毒を持つ攻撃のひとつひとつを確実に潰し。
ユウもまた、エルの<デボーション>を恐れて決定的な一撃を与えられない。
互いにあらゆる決め手を打ち合った、あの廃船上の戦いとは違う。
もうひとつ違っているものがある。
互いの表情だ。
以前の近親憎悪とも呼ぶべき憎しみに満ちた顔ではなく、どこか満ち足りた顔で、二人は互いを眺めやる。
それはまさしく、戦いではなく決闘だった。
(裏を読め)
自然体で戦槌を構えるエルを見て、ユウは自分に言い聞かせた。
かつての自分が、もっとも得意だったもの。
<大災害>以来の一年で、仲間や、通りすがりや、時には敵とも肩を並べて戦う中で、
いつしか忘れつつあったもの。
自分を助けるのは自分だけ。泣こうが喚こうが、誰も助けには来ない。
リングから降りられるのは自分の腕と頭を擦り切れるほど酷使して勝ったときか、
さもなくば無様に負けたときだけ。
そんな対人家としての、本能とも呼ぶべき思考が、ユウの中で回転を始める。
エルの筋肉は緊張してはいない。
弛緩と殺意が調和したその表情は、相手もまた、戦いに最も適した精神状態であることを示している。
だが、そんな相手にも勝ってきたではないか。
正攻法と奇策を織り交ぜ、毒と身体能力を駆使し、画面の向こうの相手の精神状態すら読みきってきたではないか。
ユウの中の『ユウ』が、出来の悪い弟子に辛抱強く教える教師のように彼女に教える。
(相手の意表をつくんだ。相手に用意しておいた解決策を出させるな。
短剣は読まれている。エルは、<デボーション>の反射を恐れる『私』が接近戦に出てこないだろうと踏んでいる。
怒涛のような連撃をしないのであれば、自分の回復能力が勝っていると、『慢心している』。
お前はその裏をかくんだ、そのためには)
ユウは心の中で頷いた。
それしかない。
状況は劇的に動いた。
まず地面を蹴ったのはユウだ。
跳ね上げた砂が大地に落ちる時間も与えず、<風切丸>なき<暗殺者>が走る。
十分に速いその速度は、肩を並べて戦うことで、全力のユウの速度を十分に飲み込んでいたエルにとっては、むしろ遅いといえるほどだった。
「<ホーリーシールド>!」
左手の盾が輝き、それを正面にしてエルもまた、突進する。
それはまさしく怒れる野牛の突撃だった。
戦槌を構えたエルの手から、再び白光が伸びる。
<ジャッジメントレイ>は、ユウの進路を変えるためのものだ。
だが、今のユウのHPでは即死しかねないその光の中に、ユウは迷わず飛び込んだ。
「……っは!」
エルが上げたのは、勝利の確信か、あるいは驚愕か。
すさまじい衝撃が、ユウのHPをごりごりと削り、抗いきれない力が彼女を吹き飛ばそうとする。
その時、閃光の中でユウの瞳が水色に輝いた。
見れば、小さな鎖がユウの<毒薙>を握った左手の、その指の一本から伸びている。
それは小さな短剣に繋がっており、そしてその短剣は、離れた場所に落ちたままの<風切丸>に繋がっていた。
(エルは、刀を片方失えば、私の口伝は使えないと思っているだろう……だが)
ユウの脳内と左手の先、二つの場所で同時にばきり、と音がした。
取り返せない喪失が、ユウの全身に力をみなぎらせる。
<ジャッジメントレイ>を放ったまま、エルが突進している。
彼女はそのまま、バッファローの突進のようにユウを轢殺するか、あるいは反撃も耐え切れると思っているのだろう。
そうだ。
<ジャッジメント・レイ>を放ち、<ホーリーシールド>を構えたエルは、光線がやむまでのほんのわずかな時間、<デボーション>を用いる反応速度を、失っていた。
ユウの背後に、巨龍の幻が一瞬、浮かんだ。
吹き飛ばされそうなユウの足、そこに幻想の龍脚が重なり、ユウの爪がぐにゃりと伸びて靴を割る。
大地を踏みしめたその足は、激流の中でしっかりと彼女の体を支えた。
そして、光線が尽きる。
HPが危険域に入ったままのユウの口が、がばりと大きく開いた。
「<サモン・ディゼスター>!! ……食らえ、<氷竜王の凍てつく吐息>!」
エルは、何がおきたのか分からなかった。
<ジャッジメントレイ>の断罪の光の中で、ユウが吹き飛ばされなかったのは分かっていた。
勝利のためならば何であろうと捨てる彼女のことだ。自らの足を短剣で大地に縫いとめるくらいのことはするだろう、と思っていたが。
光がやむ。
その瞬間、自分を襲い、天高く吹き飛ばしたものが、<竜の吐息>、それも氷属性を持った巨大なものであると、地面にたたきつけられて初めてエルは理解した。
どぼ。
ズタズタになったエルの鎧が、重い水に包まれる。
(なんだ!?)
戦場は水気の一片もない荒野だ。なぜ自分は水の中にいる?
それも、じくじくと体に入り込み、回復すら間に合わぬ速度で毒を入れてくる、黒い水に。
(これは……あの<黒森>で)
ばしゃり、と顔を地面に浮かび上がらせ、エルは息をついた。
毒が回ったか、朦朧とする頭を振り、回復を唱えようとしたところで、
自らの眉間に突きつけられた切っ先と、その向こうの黒衣の<暗殺者>を見る。
鋭い目を向けたまま、<暗殺者>は小さく技の名前を告げた。
「<湧き立つ血潮の泉>……これで王手だ」
「……また負けたか」
エルは苦く笑うと、戦意を持っていないことを示すように、戦槌をあさっての方向に放り投げた。
そのまま、ちぎれ落ちた鎖をちらりと見る。
「なるほどね。 ……口伝は封じたと思ったんだが」
「対人戦は工夫さ」
「なるほどな」
あーあ、という口調で沼から足を抜き、ぼろぼろの自分とユウに<リアクティブキュア>と<リアクティブエリアヒール>を掛けながら、エルは晴れ晴れと笑った。
◇
平原に夕暮れが来た。
装備を脱ぎ、携帯用の修理道具で打ちなおしているエルの横で、ユウは黙って座っていた。
二人の影が、奇妙に艶かしい形で、二人の前方に長く伸びていく。
「ほら、刀を貸せよ。餞別に直してやる。本格的な砥石じゃないのは勘弁しろ」
「すまない」
答えて決闘の勝者と敗者は、大陸の夕日を黙って見つめていた。
「……やっぱり、行くのか」
どれほど時がたっただろうか。いつしか打ち終えた武器を置いて座るエルに、ユウが短く尋ねる。
答えるドワーフの声もまた、小さい。
「ああ」
「一緒に<盟約の石碑>まで行ってほしかったんだがな。お前さんの手甲は、ずいぶん便利だ」
「せめて回復魔法がほしいと言えよ」
小さく笑いあう。
「……なあ、お前の名前はなんだ?」
徐々に空を埋めていく星の光の中で、エルが口を開いたのは無言の時間が30分ほど続いた後だった。
茶化すでもなくユウが返す。
「鈴木雄一……だった」
「どこの生まれだ」
「山口県周防大島町」
「どこに住んでた」
「東京都の深川」
「仕事は」
「サラリーマンだよ」
「家族はいるのか」
「女房と子供が二人。……お前さんは?」
「私か?私は」
深夜までユウとエルは語り合った。
この世界のことでも、<エルダー・テイル>のことでもなく。
何気ない、元の世界のことを。
その時ようやく、ユウはエルが元の世界ではどんな人間なのか知った。
二人は子供のころに流行っていた音楽の話題、趣味の話、学生時代のスポーツが二人ともバスケットボールだったこと、仕事のこと、人生のこと、親のこと、家族のこと。
どんな少年時代をすごし、どう大人になって、どんな人と出会い、どんな風に生きてきたか。
そうした他愛のないことを、初めてゆっくりと二人は話し、笑い、時にはツッコミを入れながら
静かな夜の時間をすごしていった。
何か、重要な、それでいて儚いものを、互いに共有するように。
互いに失われていく記憶を、互いで覚えているようにと。
◇
翌日は綺麗な快晴だった。
雲ひとつない晴天が、地上で立ち上がる一人の<冒険者>を見下ろしている。
「……よし、行くか。<汗血馬>!!」
そうして再び孤影となった<冒険者>は、地平線の向こうへと消えていく。
西へ。
<大災害>より一年後のことだった。




