132. <アゼウフ>
1.
騒がしい場所だ。
ユウは、完全な静寂の中にある、かつての研究所跡を見て、そう思った。
騒がしいのは、人ではない。
場所だ。
この場所を今のようにした、過去の賢者たちの妄執のようなものが、無音の場所をして彼女に騒々しいと思わせていた。
「……この世界は、かつて一度滅び、そして再び甦らされた、という古い伝承があります」
神殿長の言葉を、3人の<冒険者>はただ聞く。
もとより、この世界がゲームであったという事実は、3人のみならず、この世界の<冒険者>ならだれしもが知ることだ。
だが、<大地人>たちは違う。
「この遺跡のみならず各地にある神代の遺跡は、滅びる前のこの世界のものだったという伝承があります。
……思えば不思議な話です」
神殿長は、ふわりと近くに落ちていた羊皮紙を拾い上げた。
「私たちにはMPとHPがあり、それは見ることができます。
動物やモンスター、そして<冒険者>にもそれはある。
これはなんなのでしょうか?
HPがなくなれば死ぬ、それがいかなる動物でも同じであれば、
たとえば私たちが見ることのできない、微小な生き物であっても同じようにHPやMPはあるのでしょうか。
蟻は? 小魚は? 羽虫は?
彼らにも魂があり、踏めば死に、泡となって消えるというのであれば
我々が雨上がりの森を歩けば、足元は無数の泡で埋もれつくしてしまうことでしょう。
ですが、それはない。
蟻をつぶしても、羽虫を潰しても、光となって消えはしない」
「そういえば……そうだな」
ロビンが頷き、神殿長の話は続く。
「私の先達たちが賢者であることを辞め、神官となったのもそうした疑問に突き当たったからです。
そして、ロビン殿、あなたは狩人でありましょう。
肉、というもの、おかしいとは思いませんか?」
「……思うね」
何かの機械の部品らしい、小さなガラクタに目を落として、ロビンはおもむろに答えた。
「人やモンスターは死ねば光になり、肉体は消え、所持品だけが残る。
モンスターは死ねば素材や物品を残す。
一部の動物もそうだ。
それは、おかしなことだ。食物連鎖が起きなくなるし、無論のこと肉などは取れるわけもない」
「植物は光で酸素を作り、草食動物に食べられる。草食動物は肉食動物に食べられる。
肉食動物は死んで微生物に分解され、植物の餌となる。
……死んだ肉体が残らないのであれば、それらが起きようはずもない」
ロビンのあとを継いだエルの答えに、神殿長は頷いて、片手の羊皮紙をぱらりと落とした。
奇妙にゆっくりと舞いながら、小さな羊皮紙は地面に落ちていく。
「動物は、なぜ生きているのか? 植物は、なぜ生きているのか?
なぜ我々人間の間に、肉を用いたあれだけの料理が伝え残されているのか?
そしてなぜ、それらは味がなかったのか?
獣は生きて死んで、他の生き物を生かすのがこの世の摂理であれば、なぜ一部の生き物だけは
その節理から外れているのか?
……そこに思い至り、この地の賢者は恐怖しました」
◇
ロビンも、エルも、ユウですら、その異常さに改めて思い至った。
それと同時に、神殿長が言わんとしていることも。
うわん、と、耳の痛くなるような沈黙の音がした。
「我々の先達達、偉大なる賢者達は考えた。
人間をはじめ、一部の生き物だけに、今の人間のありようが与えられたのだと。
どこかの時点で、印付がされたのだ、と。
死して大地ではなく天に還り、魂は循環する。決してその外には行くこともなく、戻ることもない。
ここはそういう……狭く、閉じた世界なのだとね」
言葉を切った神殿長の目をユウは見た。
それはそれまでの穏やかなものではない。
絶望に満ちたものだ。
「この、苦痛と悲嘆に満ちた世界は……人間やモンスターの牢獄ではないか。
そこで無限に、生きて死ぬことが、我々に与えられた役割なのではないか。
そう思った時、賢者たちは賢者であることを自ら辞めたのです。
……そしてこの場所は封印された。
もし、これが真実であるならば、次には当たり前の疑問が浮かびますから」
「……『そうさせたのは誰だ』」
ユウが、ぽつりと呟く。
その言葉に頷く神殿長の顔は、まさしく恐れ戦いているように、3人には見えた。
「存在そのものを歪める魔法……いわば呪いをかけられる者が人であろうはずもない。
それは神と呼ばれる存在に他なりません。
だが……歴史上には多くの伝承がある。
かつて神代のころ、人は人を作り、天より高い塔を作り、巨人を使役し、竜の翼で飛び、
大空の彼方まで行くことができたと。
ならば……神を称える神殿の長として、決して思ってはならぬことですが。
人の摂理を歪め得る者を、神と呼ぶのであれば。
神、ウェニアやユーララとは……つまり…あなたがたの…」
「やめておけ」
ユウは、片手で刀を抜いた。
言いざま、神殿長の前の空間を、<蛇刀・毒薙>で薙ぎ払う。
ひゅ、と小さな風が、澱んだ空気を斬り割り、禍々しい緑の剣風に、唇を震わせていた神殿長がはっと目を向けた。
縋るような彼の視線を見つめ返してユウは言う。
「…もしかするとその推測は、真実の一片かもしれない。
私たち<冒険者>が神代――少なくともそれに似た世界からの漂流者だというのも、事実だ。
だが、私たちのいた時代には、人にHPを与える技術なんてなかった。
……私達の知りうる限りにおいては、だが」
教え諭すようなその口調に、神殿長が俯いて唇を噛む。
「この疑問に突きあたった当時の賢者たちの長は、憂悶のあまり自ら命を絶ったと伝えられています。
気が狂ったり、悪に堕ちた賢者もいたと。
……私があなた方を敢えてここにつれてきたのは、あの幼い哀れな少女を連れてきた礼ではない。
知りたいのです。賢者達が知ろうとして果たせず、私に託された疑問の答えを」
首を垂れた神殿長に、3人のだれもが何も言えなかった。
『その通りだ。あなたたち<大地人>もモンスターも、<冒険者>の娯楽のために作られた、
ただの操り人形だ。
だから死んでも甦るように設定された。
ウェンやユーララという存在は架空のもので、実際はアタルヴァ社が世界も含め、そう作ったのだ。
小虫や微生物は、そこまで作るのは手間だったから放置されたに過ぎない』
それは、ユウたちが知る、覆しようの無い事実だ。
この世界に生きるあらゆる者を嘲弄する、冷厳で確定的な事実。
ユウたちが本当に無慈悲で、人の気持ちもわからない人間だったなら、言うだろう。
目の前の神殿長や他の<大地人>を、NPCとしか思えないならば、言うだろう。
だが、それは言えない。
それだけは、言えない。
「<緑衣の男>の気持ちがわかる気がするぜ……」
神殿長に聞こえないように、小さくロビンが囁く。
そういう彼にとっても、もちろん対岸の火事ではない。
今や<冒険者>もまた、何者かによってこの世界に入り込まされた、この世界の<登場人物>なのだから。
エルもユウも、おそらくは過去の神殿のありようを知ってからずっと、同じ苦悶に苛まれ続けてきたであろう神殿長を見た。
彼女たちは、神殿長の問いの答えを知っている。
だが、<冒険者>がここにいる以上、それは問いの答えの一部分でしかないのもまた、事実なのだ。
「……それを知るために旅をしている」
しばらく経って、答えたのはユウだった。
「私たちも、元いた世界から流されてここにきた。
このセルデシアのことは知っていたが、決して望んでやってきた世界ではない。
だからこそ、答えを探している。
元の世界に帰る方法はあるのか、この世界とはなんなのか、を」
神殿長の答えはない。
俯く彼になおもユウが語りかけようとした刹那、怖気すら感じるほどの近くで、カツン、と足音がした。
2.
「あははははははは」
哄笑。
楽しげな、高音域の声が、静けさを保つ研究所跡に響いた。
「!!」
3人の動きは早かった。
ユウが二刀を抜き放ち、エルが戦槌を腰から外す。
ロビンはなおも動かない神殿長の襟首を一瞬で掴むと、そのまま部屋の片隅に飛んだ。
まるで少年になりきれていない子供が、楽しくてたまらず笑うというようなその声。
何の悪意も感じられないその声の主を、3人の<冒険者>は知っている。
「神殿長どの! そこから動かず、合図したら一目散に逃げてください!
そして、エリシールやここの住民全員を連れて、町かどこかまで避難を!」
神殿長が返事をしたかも確認できず、3人は開きっぱなしの扉を見つめた。
そこから、当たり前のように現れた小柄な影を。
アゼウフ。90レベル。パーティランク2……<典災>。
その名前をステータス画面に光らせる、小柄な少年は、笑みで三日月状になった目で、3人を順に見た。
その瞳の中は、見えない。
「貴様……なぜここに」
「あは、あは、あはははは」
問いに答えることなく笑い続ける<典災>に、エルの額に青筋が立った。
「答えろ!! 上の人たちは!!」
「あははははは、処分していないよ、まだね」
部屋の中央近くで立ち止まったアゼウフに、三角形に取り囲むような形で<冒険者>が立つ。
正面のエルは戦槌と盾を構えた防御陣形だ。
右手のユウは刀を構え、いつでも飛び出せるように腰を低くかがめている。
そしてロビンは矢をきりきりと引き絞り、一瞬で放てる体勢だった。
「あははははは。面白い問答だねえ、あはははは」
「貴様……何をしにここへ来た」
恫喝そのもののユウの言葉に、アゼウフの笑い声がふと止まった。
笑みの形に固まっていた、<典災>の目がわずかに開かれる。
その眼は、白目が一切ない、黒曜石のような黒。
人ならざる瞳を持つ怪物は、不意に笑いの全くない、無機質な声で告げた。
「<共感子>を得るため。……この世界は牢獄ではない。
……我らのための、<共感子>の餌場さ」
◇
ユウが飛んだ。
瞬時に振り抜かれた刃は、まさしく光の速度でアゼウフの首筋を襲う。
だがその一瞬前、ぬるりとアゼウフの腕が伸び、その肘から肉を付けた鎌とも呼ぶべきものが現れた。
その鎌と二振りの刃が、すさまじい音を立てて噛み合う。
「それが貴様の武器か、<典災>!!」
ユウが叫ぶと同時に、アゼウフは少年の顔で嗤った。
「あはは」
ユウの首が動く。力比べをやめた彼女の首のあった場所を、もう一つの鎌が抉った。
彼女の刀を受け止めた腕だけでなく、もう一つの腕からも鎌を生やして、アゼウフが奇襲をかけたのだ。
それだけではない。
ぐにゃぐにゃと肉が蠢き、骨が歪んで形を変えていく。
ほっそりした足も、まるで筋肉が捩れていくように徐々に形を変えていった。
時間にして二呼吸あるかないか。
それだけでアゼウフは、まったく別の形に変わっていた。
「……それが貴様の本性か」
『あハ』
ロビンの呻き声に、アゼウフは奇妙にひずんだ笑いを返す。
<典災>の全身は、1mそこそこだった人間型から離れ、目測3m近くまで伸びていた。
かろうじて少年の姿を残す胴体を包む、麻色の短衣から伸びているのは、手足ではない。
巨人の四肢を生やし、さらにそれを捻じれさせているように、
両手は巨大な鋏状の鎌に、両足は脛と爪先に刃を生やした戦槌のように変貌していた。
ここだけは変わらぬ金髪の少年の頭部が、眼下の3人を不気味な笑顔で見下ろしている。
スプリガン、というモンスターがいる。
イングランドの伝承にもある、自由に姿を変えられる巨人のことだ。
目の前のアゼウフは、まるで変身途中のスプリガンだった。
両手両足に生えた刃が、まっすぐユウに突き付けられている。
『あハはハ、アははは。さあ。<共感子>を捧げよう』
その声が、本格的な戦いの合図だった。
◇
「<グレイスフルガーデン>!」
エルを中心に金色の光が伸びる。
広範囲の味方を包み込み、その中で行われる回復魔法の威力を大幅に引き上げる特技だ。
おもに接敵するユウを対象としたものではない。
アゼウフが広範囲特技を持っていた場合に備え、ロビンや神殿長を守るためのものだった。
同時に、ユウに向けてのメッセージでもある。
戦場となるかつての研究室は、決して広い場所ではない。
周囲を隙間なく埋め尽くした発掘資料などのために、動ける範囲はさらに狭いだろう。
どれだけ飛び跳ねても構わない、という無言の指示だった。
ユウがだん、と床を蹴る。
対応するアゼウフの速度は、その威容に比較すると異常なほどに速いが、彼女の突進速度はさらにその上を行った。
振り下ろされる両手の鋏を体をひねっただけで避け、下腹部を抉る膝の刃を一歩横に逸れて避ける。
アゼウフを狙う刃は、常にまして毒々しい。
「<ヴェノムストライク>!」
もはや必殺ともいえる技だ。
同じ毒属性を持つモンスターすら沈める毒は、狙い通りにアゼウフの股間を切り裂く。
「あは、あははは……あは?」
股間から右脇腹まで。
一直線に振り抜かれた刃が、アゼウフの笑い声を止めた。
「毒が効く!」
「あいつ、またえげつない場所を……」
ロビンが快哉し、エルが思わず呻いた。
そしてアゼウフは、笑みを止めた無表情で、自らの脇腹から流れる毒々しい血を抑える。
ユウの連撃は止まらない。
振り抜いた勢いで飛びしさり、飛びかかって二撃。
前方に蹴られたアゼウフの足を柄で殴り、無理に軌道を変えた彼女の動きが霞む。
<アクセル・ファング>だ。
突進してダメージを与えるだけの技も、常時毒を持つ今の彼女の刀にかかればすべてが致命の一撃足りえる。
「遅い、遅い!」
巨体のアゼウフの全身から血が噴き上がり、<典災>は切り飛ばされた爪先からどう、と膝をついた。
HPはまだ青い部分が8割以上だが、ユウの流れる髪にすら、アゼウフの一撃は届かない。
だが、踊るユウの何もいないはずの背中から、不意に血が飛び散った。
真っ青だったHPが一気に赤へと落ち込み、エルがかけた<反応起動回復>が輝く。
そして動きを止めた<暗殺者>の鳩尾を、<典災>の刃が貫いた。
「<ヘヴンズロウ>!」
かろうじて呪文が間に合った。
相手のダメージを局限する、エルたち<施療神官>の奥の手の一つだ。
だが、それでもなお、ユウのダメージは深い。
貫かれたまま、ぶん、と振り回された巨腕に、壊れた人形のようにユウが飛んだ。
一瞬遅ければ、彼女は即死していただろう。
アゼウフという名のモンスターの、単体用特技に違いなかった。
「ユウ!」
叫び、回復魔法を立て続けに唱えながら、エルは前に出た。
かばうように盾で身を守りながら、無意識のうちにカウントを始める。
今の攻撃が本当に特技であれば、何十秒かのタイムラグを置いて次の敵――立て続けに矢を放ち、ダメージマーカーをつけていくロビンか、あるいはエル自身にそれは襲いかかってくるはずだからだ。
だが、彼女の目の前でアゼウフは全身を捻じれさせ、ぐるぐるとまわっていく。
全身が巨大なドリルのようになった瞬間、エルは叫んだ。
「ロビン! 神殿長の盾になれ!」
同時に、アゼウフが爆発する。
そう形容してもよいほど、無数に伸びた刃の付いた触手が、周囲の空間すべてを薙ぎ払った。
もはや盾だけでは防御しきれない。
エルは、ユウを背中にかばい、全身の鎧を信じて、肉色の暴風に耐える。
頬がすぱりと切り裂かれ、彼女の歯茎が切り落とされる。
厭らしいことに、触手たちは意志を持っているかのように、エルやロビンの鎧の継ぎ目を縫うように襲っていた。
みるみる減っていく3人のHPを<リアクティブエリアヒール>で癒しながら、エルは頭の中でもうひとつのカウントを始めていく。
もっとも敵愾心の高い敵への単体攻撃。
さらには全員を狙った全体攻撃。
自らの回復特技と、敵からのダメージを冷静に計算しながらも、エルは内心で舌を巻いていた。
おそらくは、この<典災>というモンスターは単独では決して強い相手ではない。
手の内もある程度分かった。
通常は肉弾攻撃で、時間をおいて特技を繰り出すという、ある意味で<エルダー・テイル>らしい敵だ。
であると同時に、この攻撃の精密さは異様だった。
まるで相手が鎧を着た人間だと知り抜いているかのような、攻撃。
延々と続く肉の暴風に、エルは盾を掲げて耐えながら、そう思った。
◇
颶風が止む。
触手がするすると巨人に戻っていった瞬間、3人は動いた。
「ユウ! 15秒後だ!!」
叫んだエルの両手から白い光が飛ぶ。
<施療神官>必殺の攻撃呪文、<ジャッジメント・レイ>だ。
ごり、と光に削られた怪物のHPは、わずか数%。
しかし、それは目くらましに過ぎない。
ロビンの弓もそうだ。
本来、<盗剣士>である彼が装備できる射撃武器は投擲武器に限られており、弓はその範疇外だ。
彼が<イチイの大弓>を使えるのは、ひとえに彼のサブ職業である<狩人>の恩恵に過ぎず、<盗剣士>のほとんどの技が突進型の近接攻撃である以上、彼は通常の弓使い以上にハンデを背負っている。
<狩人>由来の特技と、イチイの大弓そのものの威力でそれは相殺されているが、レベルもあいまって彼はボス格の敵に正面切って挑めるほどの力は持っていない。
攻撃役は、あくまでユウなのだ。
「<アサシネイト>!!」
二振りの刀がアゼウフを切り裂く。
光に紛れて隣接した彼女は、しかし振り回される腕をかいくぐり、離れない。
「<デッドリーダンス>!」
青い刃が井桁を描くようにアゼウフの胸を抉った。
そして、<典災>の攻撃に劣らぬほどの刃の暴風が収まった時。
「あははははは」
哄笑とともに、再び触手がずるりと伸びた。
それは巨大なハンマーと化してユウの脳天に落ち、砕く……ように見えた。
「<デボーション>!!」
次の瞬間、アゼウフの姿がまさしく槌で殴られたように吹き飛び、緑に変じたHPバーが赤に半分以上振れた。
『あは、あはは……は?』
「さすがにボスの特技だ、よく削ってくれる」
エルがにやりと笑う。
彼女の絶技、口伝と化した<デボーション>は、正確にアゼウフの必殺の一撃を本人に打ち返していた。
その暇は誰一人逃さない。
カカカカ、と連射された弓矢がアゼウフの全身に無数のマーカーを浮かばせ、ユウが毒を次々と入れていく。
『窒息』、『腐敗』、『発火』。
アゼウフの肉が腐り、顔が青く染まり、そして全身の傷口から流れる血が奇妙な色の炎で燃える。
HPはみるみる減っていき、そしてアゼウフは再び肉色のドリルへと自らを変じさせた。
「範囲攻撃?!」
「いや、違う!」
肉の渦と化したアゼウフの全身が不意に燃え上がる。
ユウの毒ではない。
その色は、赤ではなく、黄色に近い色だった。
周囲の景色が歪み、落ちていた羊皮紙が次々と燃える。
ガラス瓶はぐにゃりと溶け、そして四人のステータス画面に『熱波』の文字が揺らめいた。
「火属性だったのか、こいつ!?」
「神殿長を逃がせ!」
ユウの叫びに、ロビンが頷く暇もあらばこそ、息も絶え絶えの神殿長を抱えて離脱する。
舞い散る火弾を掻い潜り、エルの<オーロラヒール>を受けての撤退だ。
「すぐ戻る!」
ロビンの声を聞きつけてか、炎の柱と化したアゼウフの触手が飛んだ。
「させるか!」
今にも神殿長の裾に掴まろうとするそれを、ユウの毒刀が切り落とす。
だが、ばっ、と散った火の粉の一つが、膨らんだ神殿長のローブの背中に取り付いた。
「神殿長!!」
蜘蛛の糸のように広がった炎が一斉に燃え上がる。
アゼウフの魔炎は、意志を持つかのようにローブをするすると這い登り、たちまち<大地人>を一つの火柱に変えた。
そしてそれは、唐突に終わる。
神殿長がいたはずの場所には、何も無かった。
唯一彼のいた証である、床に焼きついた足の皮を除いて。
「……神殿長」
ロビンが、小さく呻いた。
彼は結局、代々持っていた疑問を解くことも、伝え残すことも出来なかったのだ。
この地の謎と、賢者達の悲嘆は、死者のみが知る秘密となるのだろう。
――そう、彼に背を向けていたユウとエルは、哀れみとともに思った。
唯一。
ロビンを除いて。
◇
(まるでジェットコースターだ)
ロビンは弓を構えなおしながら、一人ごちた。
この世界に来てから、いや、正確には、今も目の前で、巨大な火柱と化した<典災>相手に臆せず挑む、二人の極東からの旅人と出会ってからの自分の人生を振り返ってだ。
<蝕地王>や<蠢きもがく死>との戦い、<緑衣の男>やタクフェルとの邂逅、エリシールの護衛、
そしてこの<典災>という、異様なモンスターとの戦い。
出会いと別れ、涙と怒り、喜びと悲嘆の感情を、生きてきた20年ほどの時間で使った総量よりなお多く持ったような気がする。
そして、今度は神殿長だ。
アゼウフの炎に包まれていった彼は、燃え尽きる寸前、彼に言ったのだ。
『この場所と神殿を、ロビン。あなたに頼みます……僧衣は…』
ユウでも、エルでも、単なる<冒険者>にでもない。
間違いなく、神殿長はロビンの目に向かって名を呼び、『あなた』とそう言ったのだ。
そして、満足したように微笑んで燃え尽きた。
(なぜだ)
元から面識があったわけではない。
この半日ほどで、特段親しくしたわけでもない。
ロビンが『神殿長』という重責を担うには若いように見える彼の身の上を知っているわけでも
ロビンの旅路を神殿長が知っていたわけでもない。
そうであるのに、旅の<冒険者>に、この場所……聖域と神殿を託す、と彼は言った。
時間にして一瞬ほどの後、彼ははっと気がついた。
神殿長は、死んだ。
賢者達の歴史と、彼らが篆刻してきた古代の研究を、彼は後継者には伝えることなく死んだ。
だが、神殿長は秘密の枢要だけは伝えることが出来ていた。
他ならぬ、ユウたち3人にだ。
神殿長が死んだ今、ユウたちは神殿長の後継者にそれを伝え残す義務が生じた。
末期の数秒間、神殿長は思っただろう。
ユウ、エル、ロビンの誰にそれを託すべきかと。
結果として、目の前にロビンがいたからロビンに託しただけかもしれない。
だが、真実を求めて旅をするユウと、奇妙な縁で同行するエル。
いわば二人は去る人間であり、残れといわれて残る人間ではない。
だから――ロビンに託した。
ひょう、とロビンの手から矢が放たれた。
それは、彼の迷妄を掃う矢であったろう。
その時、この数奇な男は、ユウと共に真実を追う、という己の為すべきことを捨てたのだった。
◇
ロビンが放った矢は深々と、燃え盛る肉の柱と化したアゼウフの巨塊に突き立った。
もはやアゼウフは人の姿も、巨人の姿も為していない。
腕も足も刃も体も、金髪の少年の顔さえなく、まるで肉と炎で出来た奇怪なオブジェのような塔だけが、じりじりと周囲の空間を灼いている。
モンスターと言うより、それは名を持った怪異であった。
「……闇に潜む物には、名が無い。よって、最も恐ろしい」
<ホーリーヒット>で一撃を与え、自動的に受ける『火傷』によるダメージを癒しながら、
エルは言う。
汗にぬれ、焦げ付いた皮膚が浅黒いドワーフの外貌を凄愴に見せていた。
「<典災>が、来し方も、行く末も、正体も目的も分からない敵であることは分かった。
だが、名を称るからには、それは人の至り得ぬ闇の中の影ではない、ということだ」
『<共感子>』
口すら失ったアゼウフの、その妄念のような声をエルが哂い、ユウが嗤った。
心気を糺したと言ってもよい。
触れば発火するような熱気に覆われた部屋に清涼の気が吹いた。
「無よ、<典災>」
刃を振り上げ、下ろしながらユウが言う。
『……無?』
「すなわち之を欲する有らば、欲する莫れ。無は有なれば有は無なるが如し」
『……<共感』
「その、エンパシオムとやらが欲しければ、そのようなゲームの能力に寄らず、
心胆一つで向かって来い」
ユウが一喝した。
エイレヌスも含め、意味も分からぬ獲物を探しに、奇怪な追撃を行う<典災>たちへの怒りがある。
「夫れ、己の全身全霊を持って他者の財を奪おうとするのであれば、なぜ論を立てない。
なぜ己の一剣一腕を持って挑まない。
ダンバトンのエイレヌス、そして今の貴様。
貴様らの望みには陋劣さがあるぞ」
「その通りだ。そしてもはやお前達には恐怖が無い。
恐怖を失えば、所詮はパーティランク2の格下の敵よ」
エルも言うが、実態はもう少し難しい状態だ。
重ね重ねの攻撃を、ユウとエルは凌いでいたが、生きているように体に取り付こうとする炎を援軍に、人型を外れたアゼウフはさらに暴れくるっている。
特技も、単体に対するダメージを与える特技は<デボーション>を警戒してか差し控え、
エルが口伝で跳ね返せない、広範囲特技でじわじわと<冒険者>を痛めつけていた。
一方で、一概に圧されているともいえない。
ユウとエル、ロビンはエルの回復魔法が間に合っているためか、大きくHPを削られてはおらず、
一方で、ユウの与えた毒によって、アゼウフのそれは漸減していた。
もはや1割も無く、残されたHPも緑に染まっている。
『あはハハ、アはハ』
炎に炙られたような笑い声が、勢いを増した火勢の隙間から洩れ出た。
それは、既に人としての声色すら残っていない。
『奇怪ナ<共感子>、オ前ハ』
「貴様に奇怪などと呼ばれたくはない」
何かの覚悟を決めたらしい、ロビンの矢が空を貫いた。
エルが最後の足掻きとばかりに全方位に炎の触手を伸ばそうとするアゼウフから自分と仲間を守るべく、<エナジープロテクション><セイクリッドウォール>などの強化特技を叩き込む。
そしてユウは、炎の下に刀を緩やかに振った。
言葉の一声もないまま、かすかな嘲笑を残し、アゼウフは死んだ。
◇
幸いにして、上は無事であった。
半ば焼け焦げた研究所跡地を再び閉じ、奥へ行くことなく封をしてから、ユウたちは上に戻って事の顛末を告げた。
神殿長の横死に、人々は立ち騒いだが、神官たちを一喝したのがロビンであった。
「神殿長には、既に継承の儀を戴いた。再びどなたかが神殿長の位に就くまで、代理を務める」
「<冒険者>が神殿長代理など、それも流れ者が」
「モンスターが出たというが、そのような怪物など誰も見てはいない」
猜疑を込めて眉をひそめた古参の神官に、ロビンが放り投げたものがある。
それは、地下の研究所跡地の扉を封じる鍵、神殿長が肌身離さず持っていたはずのものだ。
目を見開いた彼らにどさどさと、アゼウフの落し物――素材やアイテムを見るに及び、神官たちもようやく愁眉を開いた。
そもそもロビンはあくまで代理としか言っていないのであるし、そもそも今は乱世だ。
<冒険者>をおだてて守ってもらう、と思えば気も楽だと、彼らは思った。
一部の女神官や下女達に至っては、野性味のあるロビンの風貌に目を煌かせている者もいる。
一同がロビンの就任に応諾を返したのを確認したその日の夜、
かつて神殿長の私室だった部屋で、ロビンはユウとエルに頭を下げた。
「すまない。付いていけなくなった」
「神殿長に頼まれたんだろう、というか任せている形になってしまったな」
律儀な彼は、それでも敢えて謝罪の言葉を重ねる。
「神殿長のメモには、世情が落ち着くまで南方に神殿を遷したほうがいい、とあった。
分神殿があるらしい。
出来うるならば、可能な限り早くそこへ遷ろうと思う。すまない」
「落ち着くまで護衛しようか? <妖精王の都>の連中の動きも気になる」
エルの質問に、ロビンは首を振った。
「何かあれば、同じサーバなら念話を飛ばす。
先へ行け、構うな。 もう1年が過ぎ去ったんだから」
そういって僧衣をまとい、イチイの大弓を背負った彼は、決別の餞に、と袋を渡す。
アゼウフが落としたものの全てだ。
全てのやり取りを終え、辞去しようとするユウたちに、窓を向いたロビンがふと訊ねた。
「そういえばあの<典災>に対して言っていた、無だの有だのって、どういう意味なんだ?
翻訳機能もあまり働かないんだ」
「何かを欲しいと思えば、何かを捨てろ、欲しがらずにいろ、ってことさ」
「……? 欲しがらなかったら手に入らないだろう、何を言っているんだ」
ロビンの問いかけに、ユウはひらひらと手を振った。
「城を攻めようと思えば一旦兵を退き、物を取ろうと思えば一旦諦める。
そうすれば人ではなく天が与えてくれる。
<典災>も、ああやって怪物として訳の分からぬものを取りに来る前に、一旦諦めればよかったのさ。
諦めて、あのエンパなんとかを持っている連中と仲良くなって、譲られるなり盗むなり、
あるいは夜半にまぎれて殺して奪うなりすれば良かったんだ。
連中は天を知らん」
「そりゃ、<エルダー・テイル>のモンスターが、老荘なんて知るわけないだろう……」
「??」
呆れた口調でエルがいい、いまいちわけが分からないままのロビンが首をひねる。
だが、結局ユウはそれ以上の説明をする気はなかった。
◇
エリシールに別れを告げ、神殿の門を出たエルは、隣を歩くユウをちらりと見る。
「おまえ、変わった考え方をしているんだな。昔からそうなのか」
「天がどうの、こうの、って奴か?」
戦友であり敵であるドワーフの少女を見下ろして、ユウは小さく嗤う。
「家族を放り出してネットゲームをやる現代人にしちゃ古風かね」
「まあね」
「別に神様やら運営やらのつもりで天がどうの、というものじゃない。
ただ、人の小智が天の大智に勝るということはない。
口伝とか毒なんて、所詮は小細工。私の旅も、多分そんなもんだろう」
空を見上げて、ユウは奇妙に楽しそうに言った。
「なるようにしかならないし、陰徳を積んでも幕の外には出られない。
多分私は、なるようにしかならないだろうね。
それでも一緒に来るのか?」
エルも、大地を向いて足で石を蹴る。
「どこかでお前を殺してやりたいからね」
一人減り、奇妙な三人連れから二人連れになった人影は、そういって丘の向こうに消えていった。




