129. <旅の途中>
あまり進んでいません。ごめんなさい。
1.
風が飄飄と鳴っている。
高山を渡る風は、季節を意に介することの無い寂寞さを持って旅人を打っていた。
その風は、あの白銀の地獄の猛風に似て、ユウのマントに覆われた全身を容赦なくちぎり飛ばそうとしていた。
一歩、一歩。
荒れ狂う峠を越える<冒険者>たちが向かうのは、かつて北海と呼ばれた黒い海……ではない。
まったく逆方向、イングランドに戻る道だ。
その理由は、エルの広い肩に、幾重もの毛布を重ねて背負われている、小さな<大地人>にあった。
◇
「いいのか?」
峠を越え、おそらく近在の住人が建てたのだろう簡易な小屋で休みを取りながら、何度目かわからない問いをロビンが口に出した。
残る2人は返事もない。
黙って、その辺から汲んできた水を飲みながら、ユウは奥に、エルは崩れかけた扉の近くに座り込んでいる。
「なにが?」とも「で?」とも返事のない、無音の時間。
やがて、ロビンは痺れを切らしたように喋り始めた。
「……いいのか? 本当なら今頃は<遠い港>の近くまで行けたはずだぞ。
なのに、こうやって来た道を戻っていいのか? エル……ユウ」
そうなのだった。
3人は、ダンバトンの街から南に下り、山岳を越えて南、グロストと呼ばれる地方に向かっている。
当初の目的地だった英国北部、スコットランド北辺の港からはまったくの逆方向だ。
5月の空気は寒く、薄暗い曇天は、まるで彼女らの道が大きく本来から外れたことを諌めるように、時折強烈な風雨を伴って重く垂れ込めていた。
「……クエストだよ、ロビン」
沈黙の後、答えたのはユウだ。
この3人の<冒険者>の中で最も――唯一といってもよいほどに大洋を渡る動機がある彼女が、ロビンの問いかけを一言で切って捨てたのだから、ロビンもそれ以上問い返しようがない。
だが、さすがにそれだけだと気の毒だと思ったのか、髪を拭って湿気を落としていた黒髪の女<暗殺者>は、再び口を開いた。
「私たちは、ダンバトンの住民に犠牲者を出した。
戦いの後倒れて看病も受けた。その上で改めて、エリシールを修道神殿まで送るよう、伯爵から依頼を受けたんだ。
……ウェンの大地なんていつでも行ける。
クエストを受けた以上、完遂するのが<冒険者>だ」
「そういうことだな」
エルも雑な口調で相槌を打つ。
「加えて言うと、これでお前が同じことを言うのは何度目だ?
確かに本来の目的からは外れるが、今眠り込んでいるエリシールが聞いていたらどう思う。
……まずは彼女をきっちり送り届けよう。先のことは、その後だ。
それに」
のろのろと、彼女は黄金色の篭手に覆われた腕を出して見せた。
「ウェンの大地に行くために、必ず船を使わなければならないという事もないさ」
「……そういえば」
外からざあ、という音がする。
再び降り始めた雨に、小屋の中をむわっとした湿気が漂った。
そんな中、ユウの炯炯とした眼光だけがエルの手に注がれている。
「その篭手、どこかで見たことがあるんだが思い出せない。なんというアイテムなんだ?」
「<鷲獅子王の手甲>」
エルの声に、ユウが思わず唸る。
それは、<幻想級>装備、そのひとつだ。
能力としては他の<幻想級>の篭手と比べて特筆すべきところはないが、唯一、少なくともユウの知る限りではこの篭手はきわめて特殊な能力を持っていた。
同時に思い出す。
それはかつて、北辺の地ですれ違った、同情すべき下種とも呼ぶべき男が、なんとしても手に入れようとしていた武具であったことを。
「<妖精の輪>の行き先が事前に分かる、という装備だったな、それは」
<妖精の輪>。
ユウもよく利用していた、その簡易テレポーターというべき魔法装置は、このセルデシアの特定の地点から特定の地点までを、タイムロスなしで結ぶという機能を持っていた。
だが、この装置にはひとつ、重大な欠点がある。
行き先が分からないのだ。
月の満ち欠けと時間経過により、1時間ごとに切り替わる<妖精の輪>の向かう先は、単純に24地点×30日で、ひとつのゲートあたり720個もある。
さらに問題は、このゲートが双方向式でないことだ。
つまり、行った先のゲートが出発地点のゲートと繋がるのは、1ヶ月にわずか1時間。
残る719時間については、まったく別の、世界のどこかのゲートと繋がっている。
かつては、それでも良かった。
『便利になりすぎるとゲームは陳腐化する』という信念をアタルヴァ社が持っていたのか分からないが、
結局プレイヤーたちは、行く先知らずのそうした<妖精の輪>の移動網を、20年かけて開拓してきたのだ。
<輪>は世界各地に無数にあったが、プレイヤーはそれらを一つ一つ探索し、情報サイトにまとめ、
そうして得た集合知で、この転送装置を利用していたのである。
だが、今は<大災害>後だ。
プレイヤー――<冒険者>たちは情報サイトを見ることはできず、記憶と経験を頼りに使うしかない。
ましてやホームグラウンドではないサーバの<妖精の輪>など、入るほうが狂気とさえ言える。
そんな中で、<召喚術師>であれば、召喚獣を失う覚悟で<輪>に飛び込ませ、行き先を確認させるという手も使えたが、<暗殺者>、<施療神官>、<盗剣士>であればそれも難しい。
エルが装備した<鷲獅子王の手甲>は、それをわずかに覆し得る装備だった。
<妖精の輪>の前で念じれば、その<輪>の向かうゾーンの名称が分かる。
行き先を操ることはできず、分かるのもゾーン名称だけで、それがどのサーバにあり、どういったゾーンなのかは分からないものの、ゾーンの名称を示す文字や、読めるのであればその名称から、傾向だけは分かるのだ。
情報サイトが十分に整備されたゲーム時代であれば、「使いどころの薄い<幻想級>」としてさほど省みられなかったこの装備は、<大災害>以降、その重要性が劇的に変化したアイテムのひとつだった。
だが、多くのギルドが遮二無二得ようとして手に入れられなかったのもまた、事実だ。
それは北欧の小島という、既存のプレイヤータウンから遠く離れたゾーンに出現するという理由もあったし、このアイテムをドロップする<鷲頭獅子の黄金王>が飛行型モンスター――<大災害>によって三次元化された戦闘ではきわめて倒し辛くなったモンスター――であるという、より直截的な理由もあった。
当然、ソロプレイヤーがやすやすと手に入るものではない。
その疑問を、一語でユウは問いかける。
「どうやって?」
「大規模戦闘のあがりを掠め取った」
肩をすくめたエルの顔は、珍しく悪戯っぽく笑っている。
ユウも苦笑した。
自分たち――初対面の<冒険者>たちに疑われることなく参加したエルの手練手管をこの目で見ているユウとしては、エルがどうやって大規模戦闘に参加し、そしてあがりを掠め取っていったのか、
言われずともよく分かる。
まあ、と一息をおき、エルは状況についていけていないロビンに向き直った。
「そういうわけさ。ここは北欧サーバ、<エルダー・テイル>の先行サーバのひとつだ。
同じく先行サーバである米国サーバへの<妖精の輪>くらい、探せばあるだろう。
雲をつかむような話だが、同じくあるかどうか分からない大西洋航路の船を捜すよりは可能性があると思うね、私は」
「……なるほどな」
ロビンは頷くと、毛布に包まって横になっている、もうひとつの物体を見やった。
雨や風が直接当たらないよう、慎重におかれたその毛布の中では、彼らのクエストの護衛対象である貴族の娘、エリシールが、すやすやと寝息を立てている。
それを見るロビンの目がかすかに緩んだ。
「まあ、ユウ、あんたなら『まだ貴族の義務は果たされていない』とか反対するだろうと思ったけど」
「彼女の勇気は、あの時戻ったことで領民や騎士たちに示された。
その上で改めて、市民たちもいる中で伯爵は神殿に行くようエリシールに命じたんだ。
否やはないさ、彼女にも」
雨が止むまで寝るぞ、というユウの声に、明かりのない小屋の中で、3人はめいめいの思考に耽溺していった。
◇
10人。
ダンバトンにおける<典災>との戦闘で、巻き添えを受けて死んだ<大地人>の数だ。
決して多くはない。
<冒険者>とモンスターとのいきなりの戦闘で出た犠牲者としては、少ないと褒められてもよいであろう。
理由もまた、<冒険者>側にはない。
先に戦端を開いたのはエリシールを狙ったエイレヌスの側であり、ユウたちは応戦した形だ。
実際に、領主たる伯爵も、その夫人や騎士たちも、市民たちでさえ、<冒険者>に対しては一片の恨み言も言わなかった。
だがユウたちにとってみれば、問責されなかったことを自らの免罪符には出来ない。
聞かされたロビンが絶句するほどの罪に塗れていればこそ、なおさらユウやエルには「10人」という数が重く圧し掛かっていた。
それに戦闘終了後、特にユウが時間差で反射されたダメージによって危うく死ぬところだった中で、看病に当たってくれたのはダンバトンの人々だ。
建物は壊され、妻や子、夫や父母を殺され、嘆き悲しむ声の中で、<冒険者>たちに伯爵たち<大地人>はそれだけのことをしてくれた。
エリシールを当初の目的どおり、修道神殿へ向かわせる。
ついては護衛を頼みたい。
伯爵の、その頼みにユウたちが黙って従うのも仕方なかった。
領民を守るため、領民たちの最前線に立つ。
それがエリシールが教えられ、ユウたちも是とした、貴族という存在のあり方だ。
性別、年齢、能力、そうしたものはその義務の前では些細なことに過ぎない。
人が人に敬意を向けるのは、その地位や金、名声ではない。
心のありようなのだ。
エリシールは、それを示した。
そして示した以上、幼い彼女にそれ以上のことは出来はしない。
遠く離れる領主の姫が、決して逃げたわけでも自分だけ生き残りたかったわけでもなく、
あくまで領民とともにある、と行動で示したことで、ダンバトンにおけるエリシールの義務は完遂されたのだ。
伯爵もそれを理解したのだろう、『街に残る』という幼い末娘を前に、断固とした調子で言ったのだ。
お前の義務は、ここにはないと。
エリシール・ダンバトンの義務は、修道神殿で知識を得、レベルを高め、より良い貴族になることだと。
南の<アルスター騎士剣同盟>の主要地域の貴族と縁を結ばせる、という心積もりもあるだろう。
辺境と言っても過言ではないダンバトンは、その土地柄から他の貴族との通交は多くはない。
平時ならそれでもいいが、今は何がおきるか分からない戦乱の時代だ。
エリシールに託された任務には、ダンバトンが危殆に瀕したとき、領民や騎士たちを支援する援助者と、逃げるべき庇護地の構築もあるのだった。
エリシールは、それを理解した。
だから、領民に別れを告げ、ユウたちとともに南への道を歩いている。
ロビンは、一向に降り止まない雨の音を背景にまどろみながら、何度目か分からない自問自答をしていた。
すでにユウもエルも寝入ったのだろう、規則正しい寝息が聞こえる。
旅をする間、その寝息に若者らしい苦悶を抱かないでもなかったが、ロビンの心にあるのはもっと別の問題だ。
オーストラリアは、かつて英国からやってきた移民――罪人を含め――が建国した国だ。
彼らは先住民や他人種への迫害や弾圧といった、おぞましい横糸を歴史に織り込みながらも、
少なくとも白人たちの間では、本国にあった身分の差を作ることなく時を重ねてきた。
そんな世界で生まれ育ったロビンにとって、貴族というのは認識の外にある存在だった。
財産とは、自分の両手で抱え込めるだけのもの。
地位とは、自らの手で勝ち取っていくもの。
そういう、良く言えば開拓精神に包まれて育ったロビンにとって、
留学で訪れた英国とは、時に息苦しい身分と格差の現存する社会だった。
だが、<五月の異変>でたどり着いたセルデシアに比べれば、現実の英国はまだ身分を気にせずにすむ社会だった、といわざるを得ない。
貴族だから、というだけで、あどけない少女が死地へ向かうことを肯定する。
家のために、領民のためにという言葉で、子供が政治を考え、子供らしい生活を自ら投げ捨てる。
南の顔も知らない貴族に気に入られるために身一つで旅をする少女も、それを娘に強制する両親も、以前のロビンであれば反感の対象でこそあれ、共感することは何一つなかったに違いない。
思えば、<古来種>の二人もまた、<大地人>のために身を投げ捨てることを是認していたではないか。
貴族と領民。<古来種>と<大地人>。
自分の思い以上のものを抱えて生きていく人々。
(エルやユウは、どうだったんだ?)
ロビンのあまり豊かではない知識でも、今の日本に貴族というものがいないということは知っていた。
ユウやエルが貴族、ないしはそれに準じる家柄ではないことも、彼女たちから聞いている。
だが、彼女らは当たり前のように貴族の権利と義務を理解し、語り、本物の貴族であるエリシールに共感しさえした。
不思議な光景だった。
眠りに落ちていくロビンは知らない。
もし、<大災害>当初のユウやエルだったなら、今のロビンと大して変わらない感想を抱くだけだっただろうことを。
2.
翌日は嘘のような快晴だった。
風も止み、やや黄色みがかってはいたが明るい太陽が、北辺の地をやさしく照らしている。
「大丈夫か?」
目覚めて顔を洗ったユウが、横で同じく顔に水を当てているエリシールを見やった。
ユウの胸の下ほどまでしかない身長の、小さな貴族は、顔を拭き終えると小さく頷いた。
「だいじょうぶです。はやく行かなければなりませんから」
「無理するなよ」
エルが、適当に木切れを組んだだけの背負子にエリシールが乗って固定したことを確認し、自らの乗用野牛を呼び出す。
「この天気なら騎行できそうだな」
「だな」
ユウもまた、汗血馬を呼び出すと、後ろにロビンを乗せて拍車を当てた。
下り坂を終えれば、あとは湿地帯がところどころにある平地だ。
<大災害>以降、従来のモンスターの生息範囲はあまり当てにはならないが、快速の騎馬であれば逃げやすい。
<冒険者>たちは走り出した。
数日の間にある、修道神殿へ向かって。
貴族の義務については、悩みました。
行動だけ見れば、ユウたちの行動は矛盾していますので。
(エリシールを貴族の義務ということで街へ戻し、その後逃がそうとしています)
つたない文章で説明になるか、どうか。
ちなみに貴族の義務という意味では、ローマのファビウス氏族の逸話はことのほか好きです。




