128. <残された謎と貴族の少女>
1.
頭上には、さざめくような星々が空を彩るように輝いていた。
4月特有の、煙るような雲を気にした様子さえなく、銀河は大地を蒼銀の輝きで満たしている。
「天の川か……いつ見てもいいもんだ」
ロバート――ロビンの声に、同行者たちはこくりと頷いた。
「日本じゃまず見ることもなかったからね」
頭上に輝く星の流れを、ギリシア人は女神ヘラの乳と呼び、中国人は天を分ける大河と呼んだ。
だが、描写など些細なことだ。
それほどまでの圧倒的な質感と量感を伴って、満天の星は小さな3人組を見下ろしている。
「この星を見るといつも、この世界が実際の地球だと錯覚してくるよ」
エルに相槌を打ったユウの言葉に、しばし3人は野営の手を休め、陶然と空を仰ぐ。
「あれはさそり座か?」
ひときわ赤く輝く星を指差してエルが誰ともなく問いかけるが、答えはない。
彼女のずんぐりした指の先に見える星が、かつて蠍の心臓と呼ばれた星かどうか、
天文学者でもない彼らには見分けがつくものではない。
ただひとついえるのは、少なくともこれが地球で見慣れた星の配置ではないことだけだ。
それは異世界であるゆえか、それとも別の要因なのか。
周囲は荒涼たる草原が続いている。
ところどころ顔を出している石灰質の岩は、古い英国――ブリタニアと呼ばれた頃の英国そのままだ。
コーンウォール半島を過ぎ、ロンデニオンを避けて北に向かうユウたち一行は、
古くはイングランドと呼ばれた島の南側を抜け、スコットランドと呼ばれた大地を抜けようとしているところだった。
まだ目的地は遠い。
英国から米国へと向かう<妖精の輪>のありかを知らないため、
彼らは北の<遠い港>――かつてスカパフローと言われた港を目指している。
そこには、<大災害>を経てもかろうじて、茫漠たる大西洋を越える船が出ているというのだ。
それを教えてくれた、大規模戦闘をともにした仲間は、今は彼女たちとは正反対、南の<七丘都市>を指して仲間と向かっているはずだった。
そんな旅路の中のことだ。
◇
「テント出来たぞ」
英国の春の宵は早い。
既に太陽は没し、銀河が燦然と輝く中で、ロビンはテントを張り終え、しっかりとロープを杭に結んだ。
野営は手馴れていたし、テントは肉屋たちに貰った一級品だ。
ユウもエルもそれほど気にしていなかったが、力仕事は男の役目とばかりに彼はさっさと2つのテントを張り終えると、昼のうちに狩っておいた鹿の肉を焚き火で炙った。
香ばしい匂いが鼻を刺激する。
<狩人>であるロビンにはいくつかの能力がある。
野生動物の肉と、野草に限って、調理が出来るというのもそのひとつだ。
<大災害>から一年、当初のように特定の職業以外には料理が出来ない、ということはないとユウたちも気づいていたものの、面倒くささと失敗したときのリスクを考え、
彼女たちは料理はロビンに任せていた。
「ほれ」
串代わりの短剣に刺した肉がじゅうじゅうと脂を載せて焼けている。
差し出された肉の香ばしさにユウやエルの目尻がだらりと垂れ下がる中、ロビンは立ち上がると、事前にテントから少し離れて打っておいた予備の杭に、手早くロープを結んでいく。
結び合わされたロープは、人の足で言えばちょうど踝の来るあたりに僅かな撓みをつけて結ばれ、あちらこちらには木切れが揺れて鳴るように設置されていた。
簡易的な鳴子だ。
例えば<森呪使い>の<シュリーカーエコー>であれば呪文一つで出来るものだが、魔法が使えずとも工夫は出来る。
時間をかけてそれらを設置し終えると、ロビンは戻り、やや冷めた肉に噛り付いた。
「なるほど、動物除けを兼ねてるわけか」
口をモグモグと動かしたまま、彼はユウの言葉に頷くと、暫くして喋り出した。
「親父に教わったディンゴ除けさ。
野生動物は臆病だからね、音が鳴れば逃げる」
「逃げない奴は…ってことか」
「そういうこと」
次の肉に短剣を突き刺しながら、そう言ってロビンはにか、と笑った。
「そう言えば、一昨日の大規模戦闘、まだ気になることがあるんだ」
そう、ロビンが口を開いたのは、質素だが滋味豊かな夕食の時間が終わりかけた時だった。
訝しげな二人の東洋人に、彼は疑問に思った事を思い出して目を空に向ける。
「なんで<蝕地王>は急に蘇ったのかな」
「そういう時期だったんじゃない?」
答えたのはユウだ。
なあ、と目を向けられたエルも、暫し顎に手を当てたまま黙考し、答える。
「あんたの意見に賛成するのもムカつくけど、まあそれしかないだろう。
ゲーム時代、時間が経って再発するクエストは少なくなかった。
<蝕地王>は滅ぼされた訳じゃなく、封印されてただけだから、時間経過で緩む可能性はある」
「じゃあ、また何年かすれば蘇るってことか?」
「いや、今回は根城の沼ごと滅んでるし、<封印の森>の状況からしても、いなくなったとみていいんじゃないかな」
<蝕地王>の復活がありえるか否か、それは不明といっていい。
だが、少なくともユウとエルは、ああいった特定ゾーン設置型のボスは、ゾーンの変更や消滅があれば、そのまま出てくることはない、と思っている。
ましてレイドクエストのボスだ。
レイドを繰り広げるべき場所を失えば、そのままで蘇ることはまずない。
エルは、自分で発した言葉に思わずほっと息をついて、そのまま手にした短剣をくるくると回した。
「まあ、もし誰かが封印を解いたなら問題だけど、<深き黒森のシャーウッド>はおいそれと人が入れる場所じゃないし、何より入口から一本道の場所には<緑衣の男>とタクフェルがいたんだ。
彼らの目を抜けて、<灰斑犬鬼>やゾンビの群れを抜けて、封印を解いて逃げるなんて、それこそ<冒険者>でも無理だろうよ」
ユウの言葉に二人も頷く。
確かに、言われてみればその通りだ。
仮に王のもとに辿り着けたとしても、その誰かは間違いなく<蝕地王>の最初の獲物になっているはずだった。
「ま、もう行くことも無いだろう。明日も強行軍だし、さっさと寝るぞ」
エルがぱん、と手を打ち鳴らし、三人の会話は終わろうとした。
その時、何でもないかのように聞いたのはユウだ。
「そういやお前さん、腕試しに森へ来たと言ってたが、なんであんな辺鄙な場所に?」
「お前の知ったことか……と言いたいが、噂を聞いてね」
「噂?」
興味をそそられたらしい<暗殺者>の問いかけに、面白くもなさそうに<施療神官>は答えた。
「大した話じゃないさ。ゲーム時代には見たことのないモンスターがあの辺に現れたと聞いてね。
最初に噂を聞いたのはもとの世界でいうノルマンディなんだが、聞いた話じゃイギリスにも出たというから、聞きづてに追ってきたのさ」
「へえ。どんな敵?」
謎の敵と聞いて俄然興味をそそられ、ユウが問い返す。
そんな彼女にエルは肩を竦めた。
「よく分からない。なんか、ステータス画面がブレるとかなんとか、聞いたな。
見たことのない人型の敵だったとか。
戦い方もよく分からん。
積極的に襲って来ず、まるで人の目を避けるように動いていたそうだ。
……興味が沸いたか?」
「ああ」
ユウの目が獲物を見つけた獣のように輝いた。
「こんなヤマトから遠く離れた場所で、見たことのないモンスター。
それもステータス画面が変だなんて、いかにも作りかけの敵らしいじゃないか」
「この世界の謎の一端を握る、と?」
「ああ。当てもなく探すよりはいいだろう」
パチン、と爆ぜる焚火に、小さな草を放り込む。
それは瞬く間に水分を失い、ぼう、と燃え上がった。
熾き火のような輝きを緑の目に映しながら、<毒使い>の声がゆらゆらと夜に揺れる。
「私の目的はいつも、どこでも、何一つ変わらない。
元の世界に戻る。その手立てを探すためならば、大海の砂粒ひとつ、見つけてみせる」
エルとロビンは黙って聞いていた。
ユウの心を理解するには、二人はまだ彼女との時間が短すぎたのだ。
◇
翌日。
彼らは古代の墓場めいた荒野を駆け抜け、一路北へと向かっていた。
ユウは汗血馬、エルは乗用野牛に乗っている。
ロビンはといえば、頭二つは低いエルの腰にしがみつき、揺れる牛の背で白い顔をさらに青ざめさせていた。
「な、なあ、もう少しスピードを……」
息も絶え絶えな何度目かの哀訴を、2人の女性は冷たく切り捨てる。
「船もあるか分からないんだ。急がないと」
「お前<狩人>だろ。酔っててどうする」
「でも、うおぇっぷ」
「うげ、吐くなよ!」
「しょうがない、休むか」
小さな、かつて畑だったらしい野原で、ロビンは横になって荒い息をついていた。
いくら<冒険者>とはいえ、全員が三半規管までは強化されなかったのか、それとも二人の同行者が強いのか、真実は定かではないが、少なくともユウとエルは平気な顔で味のない保存食を噛んでいる。
「平気か?」
「も、もう少し……」
呆れたようなエルの声にも、小さな声で答えるだけだ。
彼が半ば気絶している間にも、ユウはエルと会話を続けている。
再会時のとげとげしいにも程があるほどに殺伐とした会話に比べれば、
今の二人はまだしも仲良くなったほうだ。
ユウとエル。
黒髪長身の玲瓏な人間族と、短躯剛強な少女のドワーフ。
風を超えて走り、刀を縦横に閃かす<毒使い>と、勇壮な背中と回復呪文で不動の壁となる神官戦士。
対照的なようで、やはり二人はよく似ていた。
ロビンの頭で、想念がグルグルと渦を巻いた。
ユウとエル。
これからの旅。
元の世界への帰り道。
昨夜エルが言っていた変な敵。
彼女はそれを追って<深き黒森のシャーウッド>まで来たという。
そして……全く関係のない言葉が唐突にロビンの頭をかすめた。
『そいつは、言うだけ言ってさっさと消えたよ』
あの<緑衣の男>から力を剥ぎ取った奇妙な来訪者。
そいつについて、彼はなんと言っていたか。
奇妙な人型の影。
奇妙。
「そいつだ!」
唐突に叫んだロビンに、二人は驚いて振り返った。
「何が?」
尋ねるエルに、ロビンは気分の悪さも無視して答える。
「そいつだ、エルが言っていたその敵が、多分<緑衣の男>を動けなくした奴だ。
そいつが<蝕地王>の封印を解いたに違いない!」
「何の根拠があるんだよ」
ユウの呆れたような言葉を、エルが遮る。
「そうか……いや、少なくとも<蝕地王>を解き放った奴の最有力容疑者はそいつかもしれない。
<古来種>である<緑衣の男>を言葉だけで戦闘不能にした奴だ。
可能性は……ある」
「そのモンスターの目的は何だ?」
「……わからん」
ユウの疑問に、ロビンもエルも首を振る。
その時だった。
「……すけて」
「何だ?」
耳を澄ませた3人に、今度こそかすかな高い叫びが響いた。
「助けて!!」
「誰かの叫びだ!」
ロビンが叫び終えたときには、すでにユウとエルはそれぞれの愛馬に駆け寄っていた。
◇
残る2人よりも早く、ユウが走る。
彼女の駆る汗血馬は、エルの駆る乗用野牛とは違う。
地上を駈ける生物の中で、赤く染まって走るこの馬の速度に追い付けるものはそうはいない。
だが、今のユウのトップスピードは、その汗血馬をすら越えていた。
大まかな位置を把握し、走り出す。
彼女の足が大地を蹴ると同時に、その体が霞のように朧に消えた。
<ガストステップ>だ。
再び姿を現した彼女は、すでに数百メートル後ろにエルとロビンを置き去りにしていた。
「後で来い!!」
それだけを言い残し走り去るユウの傍を併走する影がある。
汗血馬だ。
疾駆する馬体に一呼吸で飛び上がると、彼女は思い切り愛馬の腰を蹴りつけた。
ところどころ岩が飛び出る悪路をものともせず、疾駆する人馬の視界の向こうに、何かが見えた。
人影だ。
距離を考えれば3m近い巨大な体躯を鎧で隠し、手にはエルのそれをはるかに越える大槌を握るその影は、地上の何かを一心に打ちつけている。
見る見る迫るその光景をじっと見つめていたユウの目が、不意にぎらりと輝いた。
流星めいて振り下ろされる大槌の下。
そこで泣きながら頭を抱え、それでも必死で地面の染みになる運命に抗っているのは
一人の若い――幼いといってもいい少女だ。
かぎ裂きの目立つドレスを着て、彼女は少しでも自らの死から距離をとるように走っている。
見れば、少女と鎧戦士の周囲には頭、あるいは胴体といった部分を完全に潰された死体が転がっていた。
それが泡となって消え行く光景に、ユウの全身からスパークが走った。
「き、さまぁぁっ!!」
ついに心折れた少女がうずくまり。
その頭上に大槌が振り下ろされようとした刹那。
ユウは、その馬体ごと鎧の戦士に突っ込んでいた。
鎧の戦士がたたらを踏む。
すさまじい衝撃のはずが、見上げるほどの巨体だからか、戦士はわずかに鎧をへこませただけで
その圧力を耐え切ったのだ。
兜に深く覆われたその顔は見えない。
ユウはしかし、彼に言葉をしゃべらせる気は、いつものようにまったくなかった。
汗血馬がヒヒンと嘶いて首を伸ばし、器用に歯で少女を持ち上げた。
「……え?」
小便くさいなあ、とばかりにもう一声嘶くと、ユウの愛馬は来た方向に走り去っていく。
汗血馬を一瞥もせず、ユウは眼前の巨人を睨み上げた。
「……<彷徨う鎧>か」
鎧の隙間から蠢くのが人の逞しい筋肉ではなく、うぞうぞとくねる触手であることを見て取ったユウが吐き捨てた。
打ち捨てられた古い鎧が軟体をする何かによって動くようになる、という、若干気持ち悪いフレーバーテキストを持つ、ゾーン出現型モンスターだ。
ヤマトサーバにも多く生息しており、中~高レベル<冒険者>の良い獲物になっている。
どうやらこのあたりは<彷徨う鎧>の生息地域らしい。
周囲のあちこちから姿を見せた、空虚な目庇の騎士たちを見ながら、ユウはふん、と鼻を鳴らした。
2.
少女と合流したエルとロビンがユウの元へたどり着いたとき、すでにそこには<毒使い>以外は誰も立っていなかった。
「敵は?」
「<彷徨う鎧>だった。皆殺しにした」
あっさり答えた彼女は、抜き身のままの刀を鞘に納めると、2人を振り返った。
「このあたりは<彷徨う鎧>の生息地域らしい。
負けるとは思わないが、さっさと抜けたほうがよさそうだ」
「この子はどうする?」
酔いを克服したのか、ロビンがそういって弓で指した先には、事態の急変に頭が追い付いていないのか、奇妙にぼやっとした顔で<冒険者>たちを見つめる少女の姿がある。
年は6,7歳ほどだろうか。
本来はつややかに撫で付けられていただろうブロンドの髪は泥跳ねで無残なぼさぼさ頭に変わっており、
あちこちの小さな擦り傷で、少ないHPは三割ほど減っている。
少女らしいあどけない顔立ちは空虚な表情を形作っており、3人にはそれがまるで屍人の顔に見えた。
ただ、しっかりと生きている証拠に、ほんのわずか、その小さな体が震えている。
「エリシール、<大地人>、<伯爵令嬢>……どうやらどっかのやんごとない姫様のようだな」
ステータス画面を覗き込んでいたロビンが肩をすくめると、エルが同情のまなざしでその小さな体を引き寄せた。
「とりあえず安全地帯まで連れて行くしかないね。目的地などはそこから聞けばいい。
お付きの家臣は全滅みたいだし、今の姿じゃ家臣に会わせるのもかわいそうだ。
……もう大丈夫だからね」
最後の言葉は、沈黙する少女に向けたものだ。
自らが助かったことをようやく理解できたのか、少女が小さく嗚咽を漏らすのを見ながら
ユウは黙って汗血馬の背に登った。
◇
1時間後、ユウたちは小さな小川のほとりで休憩していた。
料理を用意するロビン、代わりの服を見繕うエルを尻目に、ユウは小川で少女を脱がせると
手っ取り早く全身をざぶざぶと洗っていた。
小さな子供の洗い方は、この3人のうち唯一の既婚者のユウにはお手の物だ。
少女の服は泥や血がこびりついている上、恐怖のためか失禁と脱糞までしてしまっている。
まだおむつを履いていたころの子供たちを思い出しながら、さっさと洗い、布で全身を隠させたユウは、
待っていたエルに少女を引き渡した。
少女の言葉はない。
あまりのショックで失語症にでもなったのかと思ったが、小さく家臣らしい人名を呟くところを見ると
単に衝撃から回復していないのだろう。
現実世界で言えば小学生になりたてほどの年の娘に、殺されかけた事実からさっさと目を覚ませというのも酷だ。
エルが、適当に布を破いて作った貫頭衣を被せるのを見ながら、
ユウは肉を焼くロビンに向かって問いかけた。
「この辺の貴族に心当たりはあるか? あるいは向かおうとする場所とか」
「このあたりは現実で言うエディンバラとグラスゴーのちょうど中間あたりだ。
地域的には平野地方から高地地方に入ったあたりだな。
<妖精の輪>でショートカットしたとはいえ、まだ<遠い港>は遠い。
<エルダー・テイル>におけるこのあたりの状況は良くわからないが、貴族領の一つや二つあるだろう。
あるいは修道神殿とか、そのあたりかもね。
貴族の娘を修道院に預けるなんてのは、現実の中世でもよくあったことだから」
オーストラリア出身とはいえ、同じ英語圏の出身者であるロビンが答えると、
ユウは考え込んだ。
「家臣たちにさっさと引き渡すのが賢明だろうが、連れて行くべき場所もわからなければね。
ここまできてとんぼ返り、は避けたいし。
まあ、あの子に喋ってもらうしかないか」
少女がぽつぽつと言葉を話し出したのは、意外と早くその日の夕方のことだった。
「……ありがとうございます」
たどたどしい<大地人>の言葉だが、こういう場合翻訳は便利だ。
彼女の意図するところを概ね正しく伝えてくれる。
「助けてくださり、ありがとう」
「ああ。気にしないでいいよ、エリシールちゃん。私たちは<冒険者>だからね」
隣に座るエルが邪気のない顔で微笑む。
その顔は、ユウに向けられた瞬間、嘲弄に満ちたものに変わっていた。
「刀はしまっておけよ、ユウ。あんたの顔じゃまた怖がるだろう」
「結婚もしてなきゃ子供もいない若造が偉そうに抜かすなよ、エル。
こっちは子供二人育ててたんだ」
ふん、と鼻を鳴らすエルを無視して、ユウはできるだけ威圧感を出さないように目線を少女に合わせた。
「で、エリシールちゃん。私たちはできるだけ早く、君をお父さんお母さんか、お付きの人のいる場所に送ろうと思うんだ。
君のおうちがどこにあるのか、おしえてくれないか?」
「……賊ではないんですよね?」
「約束する」
疑うようなエリシールの声に、『賊って普通誰でもこう言うよな』と思いつつユウが返事をすると、
ほっと息をついて彼女は手にした肉にかぶりついた。
震える小さな体は、彼女がいまだ警戒心と恐怖の手元にあることを示す。
だが、それでも彼女は、自分を助けてくれた<冒険者>たちに事情を話す気になってくれたようだった。
◇
「わたしはエリシール・ダンバトン。ダンバトン伯爵家の末の娘です」
そう口火を切った彼女が話し始めたのは、彼女の父の所領を襲った奇妙な事態についてだった。
ダンバトン。
現実ではグラスゴーに程近いダンバートン市の位置にあるその町は、エリシールの祖先が開拓した、
<大地人>の小さな街だった。
かつて神代の時代はともかく、この時代は人口数百人の街だ。
その領主が伯爵という、いささか分不相応な爵位を持っているのは奇妙に思えるが、
聞けば、古い騎士剣同盟時代に、彼女の先祖は北方のアルヴ残党に対抗する意味で
北辺にあたるこの一帯を所領として与えられたのだという。
アルヴが政治勢力として滅亡した後は、そのまま北辺の警備のためダンバトン伯爵家はこの地に残り、
そして中央のせめぎあいにも無視を決め込んだまま、自領の発展に心を砕いていたのだといった。
わずか6歳ほどに見えたエリシールは、実際には9歳だったそうだ。
とはいえ、年齢の数え方がわからないので、満年齢で何歳なのかは知らないが、
自分の出自と出身について理知的に話す、その少女らしからぬ落ち着きを見るに、
泣くだけの幼女の季節を既に過ぎ去ったことは明らかだった。
エリシールの父、つまり当代のダンバトン伯爵は子沢山で、上の娘たちは既に縁付き、
残るエリシールは、近隣の修道神殿に修行に出そうと思っていたという。
「だけど、そのときに変なことがおこったんです」
エリシールの話を要約するとこういうことだ。
最近、森に入った猟師や炭焼きといった人々が行方不明になる事件が立て続けに起きた。
一人二人なら間抜けな遭難で済むが、何十年もこの地域に住んでいた老練な人々までが行方を絶つに及び、伯爵は周辺の地域を調査するよう、騎士団に命じた。
結果、わかったのはさらに奇妙な事実だ。
周辺ゾーンに生息するモンスターの種類が変わっている。
よりありていに言えば、はるか遠方に住んでいたはずのモンスターが、
街の近辺まで徐々に現れつつある、ということだった。
幸いなことに、ダンバトン周辺に姿を見せたモンスターはいずれもレベルが低く、
<大地人>の騎士たちでも容易に掃討が可能だったため、伯爵は中央への報告は見送った。
それがまずかったのだろうか。
調査と警備のために散っていた騎士たちが未帰還となり、同時に街に不吉な噂が立つようになった。
夜に外に出てはいけない。
奇妙な人物に連れて行かれて戻ってはこれなくなる。
有力騎士や重臣までもがそうした噂を聞くに及び、伯爵は決断を下した。
事態の徹底調査と、末娘エリシールを早めに修道神殿に送ることを、である。
状況は良くわからないが、何かしらの危機が迫っている。
幼いながらに父母のその危機感を察したエリシールはそれに従い、付き添いとなった手だれの騎士たちの警護の下、馬車で父母の城を出発した。
だが、安全なはずの街道をモンスターにふさがれ、やむなく荒野に馬車を乗り入れたところで
<彷徨う鎧>に遭遇した、というわけだった。
◇
エリシールがどもりながらも言い終えた後、3人の大人たちは一様に顔を見合わせた。
エリシールが送られるはずの修道神殿は、現実世界で言うグロスターのあたりだ。
ユウたちのいる場所からはかなり南になる。
できるだけ危険から娘を遠ざけたい、という父伯爵の親心だろう。
いざとなれば中央とのパイプを使って、どこかの有力貴族に後援してもらえれば、
たとえ生家が滅びたところで、エリシールの貴族としての生活は保障される。
「どうする?」
困ったようなロビンの声に、ユウとエルもまた、同じ声で返さざるを得なかった。
「親父さんの気持ちを考えれば、この子をその神殿まで連れて行くのがいいだろうな」
「だが、そうすれば<遠い港>に着くのはかなり後になるね。ウェンの大地にたどり着くのはいつごろのことになるだろうかね……」
軽く肩をすくめるユウの声に、ロビンたちも渋々頷く。
自分たちの都合を優先すれば、エリシールを父親の元へ連れて行くほうがよい。
だが、そうすると、せっかく危険から幼い娘を離そうとした伯爵の気持ちを無にすることになる。
何より、3人、特にユウとエルは知り尽くしていた。
この過酷な世界では、わずかな判断の間違いが、容易に<大地人>たちを殺してしまうことを。
吸血鬼を率いて<大地人>を襲ったエルも、草原のダークエルフや亜人を率いて華国に乱入したユウも、
そうした間違いによる無数の屍の上に立っている。
3人が、やむをえないとエリシールを修道神殿に送ることを決定しようとしたとき、
不意にエリシールが3人に顔を向けた。
「あの」
「どうした?」
ロビンの声に、エリシールは気丈な声で頼んだ。
「あの、お父様のところに戻してもらえませんでしょうか」
「いや、それはまずい。お父さんの判断は正しいよ。戦いになるかもしれない、子供は逃がさないと」
「ですが」
エリシールはさらに言葉を続けた。
ふと見ると、彼女の体の震えが止まっている。
「私もお父様のお気遣いはわかります。ですが、もし本当にダンバトンに危機が迫っているのなら
あなたがた<冒険者>がいたほうがお父様のためにも良いはずです。
お昼の怪物を倒したことから、みなさまが強いのはわかりますから。
お父様の力になってあげてはいただけませんか?」
「……いや、だが」
「それに、わたしはお父様の一番末の娘だから安全な場所に送られることができるけど、
お兄様やお姉さまたちは町に残っているんです。
それに、それに。
街の子供たちも逃げられません。お父様も全員を逃がすことはできません。
わたしは、わたしだけがずるをして生き延びるより、街と一緒にいたいです。
街の子供もわたしも同じ子供のはずです。私だけが逃げて、街の子が逃げられずに死んで……
死んでしまったなら。
わたしも、お父様もお母様も、町の人たちに顔向けできません。
おねがいします。
お父様のところにもどらせてください」
一気呵成に言い終え、息が切れて水を飲むエリシールの目は、<冒険者>たちを鋭く見つめている。
ロビンも、エルも、ユウでさえ、この幼女といってもいい姿の少女貴族に、返答できなかった。
圧倒されていたのだ。
しばらく沈黙が続いた後、はあ、とユウがため息をついた。
「これが貴族の義務って奴かな」
「こんなに小さくても、領民や貴族のことを考えているなんてね」
エルも苦笑する。
子供のわがままに付き合う大人のそれではなく、自分の意見を持つ対等な相手に対する降参の笑みだ。
貴族という存在を御伽噺でしか知らないロビンだけが、きょろきょろと二人の仲間に交互に目を向けた。
「まさか、この子の言うとおり街まで護衛していくつもりか? ユウ、エル」
「仕方なかろう」
「貴族が貴族たらんとするなら、それを守るだけさ」
180度変わった二人の返事に、あわてて彼が反論する。
「だが、状況も良く分からないんだぞ。俺たちが行ったところで対処できるとは限らない。
この子が危険な目にあってもいいのか!?」
「こわいけど……かくごの上です」
「エリシールちゃん! だけどなぁ……」
なおも言い募ろうとするロビンを片手で制し、エルはおもむろに腰を上げると、少女に片膝をついた。
「エリシールちゃん。本当に覚悟は出来ているのね?
私たちも無敵じゃない。お父さんたちの力になれるかもわからないし、
敵が何者かも分からない。
お父さんは君が戻ってきて、とても悲しむだろう。
それでも?」
「……はい」
「おい! あのマリアンだって行かせなかったのに! エル!!」
ロビンの叫びを無視し、エルは答えたエリシールに恭しく頭を下げた。
「なら、少なくとも君に危険が及ばないという条件付で、わたしたちは君を護衛するよ。
よろしく、エリシール・ダンバトン伯爵令嬢閣下」
主君に正対した騎士のように頭を下げたエルの肩を、<大地人>貴族の小さな手が軽く叩いた。
◇
「どういうつもりだ!!」
エリシールが寝入って後。
ロビンは彼女を起こさないように小声で、しかし明らかな激怒を含んで二人の仲間を詰った。
「来た道を戻るのが嫌で、あの子の提案に乗ったのか!!?
あの<蠢きもがく死>みたいな悲劇を今度は起こすつもりなのか!?
娘の死で泣く父親をこれ以上作らない、というあの誓いは嘘だったのか!?
<古来種>のマリアンだって戦場に連れて行かなかったのに、何で今度は、しかも子供を!!」
自由な豪州人である彼の顔は憤怒に赤く染まり、裏切られたようなどこか悲しげな目のまま、
それでも彼は怒鳴る。
彼の声が終わると、口を開いたのはユウだった。
「あの誓いは不変だ。 死なせるわけにはいかん」
「ならば!!」
「だが、彼女は貴族なんだ。義務を果たしていない、な」
「なんだと?」
それが何だ、という顔のロビンに、ユウは静かに言った。
「マリアンは、一度<古来種>の任務に従い、殉じた。だから父親は嘆き悲しんだ。
彼女は義務を果たして、そしてなお死んだからだ」
「……」
うまく言えないけど、と前置きして、ユウは話し出した。
「確かにエリシールを修道神殿に送れば、彼女の身は安全だ。父親もそう望んでいるのだろう。
私たちの旅は後戻りだが、だが別に急ぐ旅じゃない。
それはどうでもいい」
「……」
「だがな。彼女の言葉を聴いただろう。エリシールは貴族の家に生まれた。
貴族の義務とはただひとつだ。普段は領民からの税で安楽に暮らす代わりに、いざとなれば領民を命を賭けて守ることだ。
それが、その人の人格や性格、能力にかかわらず、その家に生まれた人間の守るべき義務なんだ」
「………<古来種>のマリアンたちと、何が違うんだ」
「マリアンも、人々を守る<古来種>として生まれた。だから彼女は義務を果たし、死んだ。
彼女が誤ったとすれば、それは義務を果たしたことじゃなく、その果てに死んだことだ。
彼女は果たすべき義務を終えた。 だから次は父親の娘としての義務を果たさせた。
だから私たちは、彼女を<蝕地王>との戦いに連れて行かなかった。
一度果たした義務を再び果たさせ、しかも明らかに死ぬ可能性が高かったからだ」
口を閉じたユウの言葉をカバーしたのはエルだ。
「今、エリシールの父親は貴族としての義務を果たそうとしている。
危険度は未知数だ。 <蝕地王>並みに危険な敵かもしれないし、そうでないかもしれない。
そして、エリシールはその中で自分の果たすべき義務を心得ている。
領民とともに危険に立ち向かう領主家の一員として、自分だけ逃げることは許されないと」
「……エリシールは子供だ。小さいしレベルも低い。
相手が範囲魔法でも使えば一発だ。
それでも、少なくとも危険があるかもしれない場所に放り込めって言うのか、あんたたちは」
「貴族は貴族に生まれたから貴族になれるんじゃないよ、ロビン。
貴族としての義務を自覚して、それを果たして貴族になれるんだ。
私は、彼女の決意を折ることはできない。
それに、わたしは<施療神官>だ。彼女の傷は最優先で癒すし、
彼女にずっとついているようにする。
彼女自身も、明確に危険だと思えば脱出させる。わたしなら、それができる」
なおも唸るロビンに、エルは戦槌を掲げる。
「もし。私たちが着いたときに既にダンバトンが壊滅していたなら。
わたしはこの戦槌にかけて、彼女を生き延びさせてみせる。
そうなったとき、生き延びて血を繋ぐのが、貴族としてのエリシールの義務だからだ。
でも、少なくとも今は。
領民とともに居させることが、マリアンが<蝕地王>に挑んだように、彼女の義務と思う。
だから彼女を向かわせる」
その決然とした言葉に、ついにロビンも黙った。
やがて言う。
「俺も彼女に付く。彼女を狙う敵が居れば、イチイの大弓で絶対にしとめてみせる。
だから、今回だけだ……ダブルスタンダードは」
「『君、君たらざれば臣、臣たらず』……ってことだ」
ユウが締めくくったところで、3人はようやく議論を終えた。
「銀河に雲がかかっているな」
天幕に戻りざま、ふとロビンが呟いた。
黒い雲が、昨日同様の輝く銀河を徐々に覆い隠そうとしている。
ダンバトンに到着するのは明日だ。
そのとき、雲は天蓋を一面に覆っていることだろう。
その光景がもたらす不吉な予感が当たらないことを、ロビンはふと彼の信じる神に祈った。




