123. <もがくもの>
1.
「なんだぁ……ありゃあ」
誰かが怖気に満ちた呻きを漏らす。
森から現れた<蠢きもがく死>は、それほどまでに生理的な恐怖感を覚えさせるものだった。
どこを見ているかわからない、ぶくぶくに膨れ上がった顔。
黒いなめし皮で覆われたかのような全身。
ボロボロの<施療神官>のローブ。
手にした、小さな毒々しい枯れ枝。
まるで安っぽいホラー映画のようだ。
だが、その姿が軽やかに走り出した瞬間、36人はあわてて陣形を組んだ。
「<武闘家>! 前衛に立て!」
それまで戦線を構築していた<守護戦士>の間から、軽装の戦士たちが進み出る。
<蠢きもがく死>の邪毒は一撃必殺。
防御ではなく回避で相手を止める彼らが、この怪物の相手には最適だ。
それだけではない。
「<ヒール>!!」
エルの掛け声にあわせるように、回復職たちがおのおの回復を飛ばす。
光に打たれた<蠢きもがく死>の肌が拭われたように白さを取り戻し、すぐさま黒く染まる。
それだけで怪物は奇妙にひずんだ悲鳴を上げて倒れこんだ。
そんな怪物に、次々と矢が突き立つ。
<レイニーアロー>で、機関砲のように矢を浴びせかけた<緑衣の男>は、やるせなさそうに目を伏せた。
「せめて……せめて」
もう安らかに眠ってくれ。
そんな、彼とタクフェルの無言の祈りは、いきなり叫んだアブシンベルによって遮られた。
「見えたか!」
「もう一度!」
武器攻撃職ながら、圧倒的な回避力を武器に前衛に立つユウが怒鳴り返す。
その声に応じるように、四方から回復呪文が<蠢きもがく死>に突き刺さった。
彼女の全身が白く染まっていく。
黒い肌は雪のような白さを。
泥のこびりついた髪は、輝くばかりの金髪へと。
「……ア」
かさかさだった唇が潤いを取り戻し、怪物の喉が小さく鳴る。
だが、次の瞬間。
「アアアアアアアアっ!!」
ユウは見た。
手にした小さな枝が、身震いするかのように脈動するのを。
葉脈のように紫色の線がその枝から伸び、瞬く間に全身を覆いつくすのを。
「見えたっ!」
ユウが飛びしさり、叫んだ。
同時にエルが後方で叫ぶ。
「<蠢きもがく死>には回復が効く! そいつの枝を落とせ!」
ゲーム時代であれば。
<アーマークラッシュ>などの特技を用いて、相手の武器の耐久度を落とす方法はあった。
だがそれは、気が遠くなるほどの接戦をかいくぐってできる技だ。
だが、今なら。
軽く女の腕で握っているだけのその枝ならば。
<蠢きもがく死>がいやいやをするように枝を胸に引き寄せる。
その姿に、<冒険者>たちは気を新たにせざるを得なかった。
枝を落とさせて回復魔法を当てる。
それだけに、どれほどの労力と血をささげなければならないのかと。
◇
<冒険者>たちは疲労の極地にあった。
セーフゾーンで闘っているために本当の全力――<緑衣の男>を入れて37人がかりで戦っているにもかかわらず、いまだ<蠢きもがく死>のHPバーは青い部分が3割はある。
防御力やHPというより、攻撃力が桁違いすぎるのだ。
何秒たっても、このボスは広範囲攻撃をしてくることはなかったが、元<古来種>ならではのすばやい動きで時に戦線をかき乱し、後方の味方に毒を叩き込む。
その毒は致死だ。
もはやエルたちも、そうして毒を受けた仲間を回復しようとはしなかった。
非情な決断に見えるが、どのみち蘇生も回復も間に合わないのだ。
ならば、崩れたログハウスの裏で復活してくるのを待ったほうが早い。
そのエルやユウさえ、一再となく斃れている。
さすがにレベルは落ちていないものの、失った経験値は計り知れない。
そして、櫛の歯が抜け落ちるように倒れていく仲間たちがいるために、
<冒険者>たちは、決してHPが多いわけではないだろう、このボスを倒しきることができないでいた。
「<ナイトメア・スフィア>!」
<付与術師>の呪文が放たれ、怪物の動きが止まる。
だが、好機と見て突進した何人かの<冒険者>の全身が、不意に虹色の泡に包まれた。
「……これは……っ!!」
先頭を走っていた<守護戦士>のグローリーハースが、自分を押し包む泡を見て呻く。
回復を受け、真っ青になっていた彼のHPバーが、嘘のように消えた。
減ったのではない。 消えたのだ。
「……この、技は」
倒れることすら許されず、死んでいく彼らの輝きに照らされ、黒くかさついた怪物の唇がかすかに吊り上った。
「<オーロラヒール>……いや、だがあれは……」
「90レベルの<守護戦士>が一撃だと!?」
仲間たちにざわめきが浮かぶ。
それは、<蝕地王>の大規模戦闘を知る者であっても変わらない。
「ぼさっとするんじゃない!! 戦線立て直せ!! 前衛!」
エルの叱咤に、ようやく遅れて<冒険者>たちがはっとする。
だが、もう遅い。
たたた、と駆け寄った<蠢きもがく死>の枝の一振りで、マナコントローラーたる<付与術師>のエセムが崩折れる。
続いて放たれた、おそらくは<反応起動回復>を元にデザインされたであろう邪毒の衝撃波が、<修道騎士>のヘルミオネーを腐臭を放つ残骸に変えた。
「おのれ!!」
呪文を放ってわずかに硬直した<蠢きもがく死>に、<聖騎士>のジュートが斧を振り下ろす。
しかし、それは怪物に直撃する瞬間、硬質の音を立てて弾かれていた。
「<障壁>だと!?」
驚く間もあらばこそ、ジュートもまた、枝に首を撫でられて口から血を吹き上げた。
戦局は、大きく傾いていた。
<蠢きもがく死>、たった一体のレイドボスの側にだ。
ダメージが一定量を超えると、行動パターンを大きく変えるボスは多い。
だが、その特殊な出自ゆえに、<蠢きもがく死>は、<蝕地王の侵攻>クエストには現れていなかった。
彼女は、レイドが終わった後に、悲劇に終わった戦場に咲いた徒花のように、人も来なくなったレイドエリアを彷徨っていたボスなのだ。
それでも、いいアイテムをドロップするとか、経験値がたまるようなボスであったなら、人の口にも上り、戦う<冒険者>も多く現れたことだろう。
しかし、彼女はそうではなかった。
<蝕地王の侵攻>に参加した者は、<蠢きもがく死>の悲惨な出自を知っていたし、
顧客から散々に不評を浴びたこのクエストを、運営も忘れたかったのだろうか、
特段のてこ入れも何もされることなく、ただ無人のエリアを徘徊するボスだったのだ。
だからこそ、彼女の戦い方を、この場の誰もが知らなかった。
そして、その事こそが、この場における最大の罠となる。
いつ<妖精王の都>から追っ手がかかるか知れたものではないグローリーハースや肉屋たちにとって、普段の大規模戦闘のように、何日もかけて悠長に戦術を練りこむ時間などないのだ。
だからこそ。
「戦術変えるなっ!! 第1パーティ、壁だっ! 押し戻せ! 回復! 切らせるな!
半数は<蠢きもがく死>への回復呪文を緩めるな!」
矢継ぎ早の指示がエルの口から飛ぶ。
彼女自身、戦槌を構えて盾を体の前に突き出し、最前線に立っていた。
「第2! 盾の援護! ヘイト回せっ! あいつを回せっ!」
時間差を置いた挑発特技が、生き残りの戦士職から放たれる。
それによってくるくると変わる敵意の向け先に、<蠢きもがく死>が踏鞴を踏んだ。
「よし、い……」
誰かが叫ぼうとした、その瞬間だった。
<蠢きもがく死>が両手を突き出す。
その掌の向かう先は、崩れかけた戦線を声を枯らして立て直すエル。
彼女の目が見開かれ、刹那、戦槌が突き出された。
「……」
「<ジャッジメント・レイ>!!」
白と黒の光条が交差する。
元は同じ技だった、聖なる光と邪毒の結晶が、互いを食まんと襲い来る。
「<守護天使の加護>!」
間一髪。
エルを飲み込みかけた黒い輝きは、すんでのところで仲間の<退魔師>――<神祇官>の絶技によってさえぎられた。
代わりに、MPをほとんど失ったその<退魔師>が、息をあえがせながら言う。
「もう回復がないと呪文を使えん……すまない」
「……助かった」
かろうじてエルはそれだけを言うと、再び前衛と死の舞踏を始めた<蠢きもがく死>を恐ろしげに見た。
「ヘイトの有無じゃなく、指揮官を狙うって、そんなことまで……」
「お前さんと一緒に戦った連中も、私たちの言葉を理解していただろ」
危険なまでに装備の耐久度を減らしながら、それでも生きていたユウの言葉に、挑むような目つきでエルが頷く。
ユウの低い声は、戦う<冒険者>たちの耳に残る奇妙な響きをもって戦場に流れた。
「もう<蠢きもがく死>……いや、モンスターの多くは知恵を持っている。
無秩序に暴れまわる、ゲームの敵役じゃない。
知識と知能を持った、敵だ」
言いながらユウが飛ぶ。
<蠢きもがく死>の周囲を取り囲むように爆薬を投げながら、ユウは叫んだ。
「エル!! こいつに知能があるなら、その裏をかけ!
回復で白くなるってことは、こいつはまだ『死んではいない』! なら……!」
毒を受けてよろめくユウの背中を見ながら、叫びを聞いたエルに不意に閃いたものがあった。
身を翻し、弓を放ち続けるロバートたち後衛の下へと走りこむ。
「あ、あんた……」
訝る仲間に「防げ!」と叫び、エルは戦場の最後尾にいた、目的の人物の元へとたどり着いた。
「エル……」
もはやMPもほとんどなく、ただ弓矢を鳴らし続ける<緑衣の男>に一顧だに向けず、
エルは目の前の老人――タクフェルに、思いのほか静かな口調で言った。
「……なんじゃ、<冒険者>」
「あんたは娘を死に追いやったとあの森で泣いた。
なら、今こそ過去の失敗を取り返せ」
「っな!? タクフェルは<大地人>だぞ! 今の<蠢きもがく死>、いや、マリアンさんの前に出たら」
「ならお前が守ってみせろ」
抗議するロバートに冷たく言い捨て、エルはタクフェルを目だけで促す。
「おい! タクフェル! 死にに行く気か!!」
「……わしはもう後悔せん。どうせ海の藻屑になったはずの命よ」
目に光を宿し、タクフェルがつぶやいた言葉に、エルは小さく、ほんのわずかだが微笑んだ。
「行こう。あそこで戦っている、どっかの誰かの親父やお袋に、この世界の父親がどんなものか、見せてやれ」
2.
今からの戦術は、邪道だ。
エルは隣を走るタクフェルの顔をちらりと見て、そう思った。
これが<エルダー・テイル>であれば、エルの思いついた戦術は何の役にも立たない。
あの暴れまわる<癒し手>の残骸――<蠢きもがく死>が本当に死んだ<古来種>を使っただけの不死者であっても、同じことだ。
回復魔法がダメージになるのは、不死者でも同じ。
ユウの『<蠢きもがく死>は生きている』という叫びは、死に掛けた<冒険者>の、同情とセンチメントに満ち溢れた寝言かもしれない。
だが。
かつて<冒険者>を見限り、不死者に身を投じた<施療神官>は思う。
この世界に来て、多くのものに裏切られ、多くのものを裏切った。
失望し、憎み、かつては眼前で戦う黒髪の女<暗殺者>とも死闘を演じた。
ならばこそ。
自分で選んだ悲劇ならいい。
自分のせいで自分がひどい目にあうならいい。
「仕組まれた悲劇なんて許さない」
小さな呟きは、勇壮な豪哮に打ち消された。
「前衛! 挑発止めな! 回復呪文、使えるやつは抑えろ! 肉屋!」
「心得たっ!!」
<妖術師>の周囲の魔力が渦を巻く。
それは巨大な六芒星を瞬時にくみ上げた。
「<スペルマキシマイズ>! <ロバストバッテリー>!!」
<蠢きもがく死>の手が振り上げられた。
叩きつけられるヘイトを無視し、彼女の膨れ上がった目が、この場においてもっとも危険な敵に向けられる。
だが、呪文を放とうとする怪物の横から、グローリーハースが体当たりをし、<蠢きもがく死>はごろごろと転がりながら地面の草を掘り返す。
「もう……<カバーリング>も使えねえや」
そういい残して事切れるグローリーハースの次に飛び込んだのは別の<武闘家>だ。
「<ワイバーンキック>!」
吹き飛びかけるのを、両手で地面を押さえて<蠢きもがく死>が耐える。
地上の死闘を無視するように、空をぶくぶくと変に膨れた梟が飛び過ぎた。
その瞬間。
「マリアンっ!!」
タクフェルが叫ぶ。
一瞬、すべてが止まった。
肉屋の上で無情に時を刻む数字が流れる中、<蠢きもがく死>も<冒険者>も、誰もが止まる。
タクフェルの横で矢をいつでも放てるように番えた<緑衣の男>とロバート――二人の『ロビン』もまた、止まった。
誰もが分かっていたのだ。
この後に何が始まるのか。
「マリアン! おぬしの父親じゃ! おぬしを毒の沼へと走らせた父親じゃ!
わしがあの場にいなければ、おぬしは!」
すべての騒々しいざわめきを止めた森に向かい合って、かつてNPCだった老人は叫んだ。
「おぬしが現世が憎いなら、わしをまず殺せ! 子供のころに抱き上げてもやれず、
<古来種>となってからは会おうともせず、百年を無駄に過ごしたこのわしを殺せ!
おぬしが森で苦しみながら彷徨うのを、何もできずに震えて見ていた臆病者を殺せ!」
「……<蠢きもがく死>が、止まった」
アブシンベルが装備を構えなおしながら言った。
怪物に動きはない。
タクフェルの声が聞こえているのか、それとも単に意表を突かれただけか。
あっさりと死んで復活したユウもまた、そんな彼女をじっと見つめている。
「マリアン!!」
タクフェルの再びの叫びに、緩やかに時が動き出す。
先ほどまでの軽やかな動きとは正反対の、まるで錘をつけているかのような動きで、<蠢きもがく死>がゆっくりと腕を上げていく。
その手に握られたのは、あの枝。
時間にして数秒あったかどうか。
すべては爆発するかのように動き出した。
「マリアン!!」
<蠢きもがく死>の伸びた手から波動が放たれる。
その、毒に歪んだ<反応起動回復>だったモノを、ロバートよりも、<緑衣の男>よりも先に、エルが体で受け止めた。
「うっぐぉ……!!」
毒が体を蝕む。エルは回復呪文があろうがなかろうが、自分の命があと数秒だと知った。
だが、それで十分だ。
「<ライトニングチャンバー>!!」
1秒後、長い溜め時間を受けて威力が層倍に上がった肉屋の呪文が炸裂した。
放たれた電光の檻が<蠢きもがく死>を取り囲み、HPをすさまじい勢いで削っていく。
ほぼ同時に放たれたであろう<蠢きもがく死>自身の<障壁>は、まさに一瞬で砕け散った。
<蠢きもがく死>に残されたHPは、あとわずか。
「娘ならぁっ!! 親父の声くらい、聞けぇっ!!」
肉屋が叫び、全身を痙攣させるかのように震わせて、雷の檻から開放された怪物が膝をつきかけた。
だが、その手はまだ下におりてはいない。
レイドボスならば、まだ二の手がある。
「その二の手、出させん!」
この場に立っている全員の中でもっとも速い<暗殺者>が走る。
「<ガストステップ>!!」
数人分の間隔を、一瞬で詰め。
「<アサシネイト>!!」
枝を持っていた細い腕の、その肘の関節を狙って緑の刃がリィン、と鳴る。
だが、落ちない。
かつて<古来種>であったレイドボスは、その耐久力を存分に見せ付けるかのように、
ユウの最大の攻撃を無防備に受けながら、肘の中ほどでその刃を止めた。
それどころか、ぞわりと滴る毒液が、刃をしゅうしゅうと溶かし、触手のように緑の光と絡み合う。
だが、それが<蛇刀・毒薙>を握るユウの手に届く前に、彼女は動いていた。
「くらえ!」
ねじ込むように奇妙な色の短剣が、<蠢きもがく死>の開いた肉に突き刺さる。
そして残る一刀が、肉ごとそれに激突した。
爆発は存外小さなものだった。
だが、生身でそれを受けたユウと<蠢きもがく死>にはたまったものではない。
爆炎でユウの顔が後ろにはじけ飛び、熱波ででろりと剥けた顔の皮が千切れ飛ぶ。
爆風をまともに受けた左腕も無傷ではない。
ユウの腕は刀ごとほぼもがれ、噴き出す前に蒸発した血が、怪物の毒液と混ざって奇妙なモザイクの霧を作った。
だが、その甲斐あって。
ぽん、と不思議と長閑なスピードで、枝をつかんだままの腕が飛ぶ。
ぽとり、とそれが地面に落ちたとき、すかさずエルの指令が飛んだ。
「回復呪文!!」
言いながらも、残り少ない時間をすべて呪文につぎ込んで、エルの魔法が完成する。
「<ヒール>!!」
敵味方を識別する広範囲回復呪文では無駄だ。
かといって、反応起動回復では回復に時間がかかる。
死に行くエルが選んだのは、<施療神官>が最初に学ぶ、もっとも初歩の呪文だった。
仰向けに倒れこむエルの視界に、生き残った回復職たちが同じく<ヒール>をかけていくのが見える。
「……頼む」
(せめてお願い、といったほうが女っぽかったな)
そう思いながら、エルは何度目かの仮初の死に向かって再び歩いていった。
◇
<蠢きもがく死>が倒れこむ。
いや、痙攣するその姿は、もはや<蠢きもがく死>には見えない。
髪は、プラチナにも似た輝くような金髪に。
膿と瘡蓋で膨れ上がっていた顔は元通りの端正な、それでいて少年のような卵型に。
全身を覆っていた痘痕は、邪毒の紫の輝きごとぬぐい去られ、白い細腕を――ただし片方だけだが――露にしている。
ボロボロのローブに隠れたほかの肉体も、元の<古来種>としての美しさを取り戻す。
痙攣をやめ、ぴくりと動かないその姿は、服装と腕を抜きにすれば深窓の美姫というより、活発な少女を思い出させた。
その体が不意にかすかな光を帯びる。
「やばい!死ぬ!!」
<蠢きもがく死>として彼女はHPをすべて削られた。
誰かの叫びとともに、生き残りの<リザレクション>や<ソウルリヴァイヴ>が飛ぶ。
<古来種>であっても元は<大地人>だ。
膨れ上がりそうになる光を抑えこむかのように、<冒険者>たちは必死で呪文を唱えていた。
誰もが、虚脱したように膝をついているタクフェルと、弓を杖にして、荒い息を吐く<緑衣の男>を視界に捕らえている。
<古来種>が蘇生するのか。
いや、そもそも彼女は今もって<古来種>なのか。
毒の沼に落ちると一言で言うが、彼女も呼吸する人間である以上、沼に頭から嵌れば死ぬしかない。
ゲーム時代もそうだ。
いくつかの致死トラップに嵌れば、それは有象無象誰の区別もなく死ぬ。
死なないのは、ただ『イベントでそう決められているから』でしかない。
だが、今はイベントではない。
誰もが、甘い期待と、より多くの絶望に満ちて怪物だった女性を見る中、ユウもまた、ギリギリのHPをかろうじて動く手で握る呪薬で抑えながら、同じ光景を見ていた。
光が収まる。
<蠢きもがく死>――マリアンの体が、風に煽られてではなく小さく震えた。
その時。
昼下がりでもまだ尚暗い大地に身を隠すように、細く伸びる小さな光をユウは見た。
その光の目指すもの。
それは、マリアンだ。
そして光は、地面にほうり捨てられていた朽ちた枝から伸びていた。
その時、ユウは唐突に理解した。
◇
ブーイングの嵐を巻き起こしたイベントが終わり、運営会社は頭を抱えたのだろう。
悲劇は美しい。
だが、誰も彼もが忙しい現実の合間に見る夢に、そんなものは要らなかったのだ。
彼らは考えた。
いまさら盛大に殺したマリアンを生き返らせることはできない。
かといって、殺したままだと困る。
窮した運営会社の誰かが思いつく。
そうだ。実際は死んでいないことにしよう。
お前は何を言っているんだ。
同僚たちは言う。
もうマリアンを流用した<蠢きもがく死>のデータもあるんだぞ。
なら、それをほんの少し、改造すればいい。
データを作り変えるのではなく、『マリアン』のデータに『<蠢きもがく死>』を上書きする。
トリガーがあれば、<蠢きもがく死>は外れ、マリアンが出る。
それをどうやって説明する。
持ち手を操る武器の装備を持たせればいい。
執念深い憑依者だ。
武器を破壊するか何かしない限り、絶対に生贄からは離れない。
それなら、<蝕地王>の皮肉も使えるし、倒されたボスの装備も流用できる。
そりゃあいい。
そうしよう。
だけど、どうする? またクエスト起こして、プレイヤーに知らせるか?
ほっとけ。
あのクエストをやって、それで文句つけて終わるようなプレイヤーならどうでもいい。
どうしようもなくあの結末を嫌がって、何とかしたいと思うプレイヤーが勝手に見つけりゃいいさ。
◇
ユウは無論、そんな会話があったことなど知る由もない。
いや、思い浮かんだ情景も、ユウの抱いた妄想に過ぎない。
だが、ちらりと見た枝のフレーバーテキストが、それが真実か、
少なくとも真実にかなり近いものだと教えている。
『ミダス王の左手』
『王の右手は金を生み、その左手は毒を生む。怨嗟を糧とし、優しさを贄とし、持ち手の体と心を盗んで怪物へと向かわせる』
そして、枝――『ミダス王の左手』は動き出したのだ。
自分の手から零れ落ちた伴侶を再び取り戻すべく。
ユウはもはや考えなかった。
自らの<蛇刀・毒薙>を握り締め、満身創痍とは思えない速度で飛び起きる。
(『蛇の呪いと人の恨みを転じて、毒と厄が<毒使い>を護る』……なら!)
誰もが気づかないうちに、倒れ伏すマリアンに忍び寄る毒の触手を断ち切るように
ユウは一瞬で枝の元に駆け寄った。
「もう娘は奪わせん! お前が毒なら、私の厄となれ!!」
その瞬間、誰もがユウを見た。
彼女は左手に<毒薙>、右手にはほうり捨てた<疾刀・風切丸>の代わりに<ミダス王の左手>を握り締めている。
新しい身体を得た枝が嬉しげに揺れ、ユウの半身がたちまち紫色の触手に覆われた。
あちこちから肉が弾け、瘡蓋のように毒々しい粘液が包んでいく。
だが、ユウの左手は別だ。
あたり一帯を照らすような輝きで、ユウの持つ<蛇刀・毒薙>が緑に光る。
あたかも主を守るように、その光は敵ではなく、ユウの半身を包んでいた。
緑と紫、東洋と西洋の毒がユウの全身を舞台にせめぎあう。
「ユウ!!」
エルの声だ。
その彼女に答えるように、ユウは叫んだ。
「私は、<毒使い>だ! どんな毒だろうが、私のものだ!」
周囲からは、ユウのステータスは異様なものに見えていた。
HPとMPが赤と青、そして緑を瞬時に変えていく。
あまりの速度に、左右の端を除いた部分が紫に見えるほどだ。
それは奇妙にも、ユウの周囲を駆け巡る光に似ていた。
画面には無数の状態異常効果が点滅信号のように瞬き、
名前欄すら、『ユウ』と『<蠢きもがく死>』でくるくると変わる。
その異常な光景を見つめていたグローリーハースが呻いた。
「か、回復を……」
だが、その声にこたえる声はない。
「<冒険者>が……レイドボスになる??」
呟いたのはロバートだった。
察しのよい彼もまた、<蠢きもがく死>というモンスターを構成していた本当の中心が、タクフェルの腕の中で気絶したままのマリアンではなく、ユウが握るあの奇妙に平凡な枯れ枝だと気づいている。
それがマリアンにとりつき、怪物にしたのだと。
ならば、それがユウに取り付けばどうなるのか。
怯える彼はその時、自分と真逆の感情を込めた叫び声を耳にした。
「ふざけんな!!」
日本語で叫んだエルを、マリアンを除くその場の全員が振り向く。
「てめえ、せっかくハッピーエンドで締めようとしたところで変なことしやがって!!
そのままモンスターになって勝ち逃げか!?
許さんぞ!!
あんたには、<不死の王>を殺した報いを食らわせてないんだ!!
どうせ死ぬなら、私の手にかかってその枝ごと死ね!!」
それまでの指揮官ぶりが嘘のように喚き散らし、エルは不意に戦槌と盾をほうり捨てた。
ガシャ、と重い音を立ててそれらが落ちる横で、背に負っていた青い長剣を彼女はすらりと抜き放つ。
「てめえは前もここでも、自己満足の勝手な道化だ!
何が毒と厄だ、これでちったあ、頭の中をまともな形に混ぜなおしやがれ!!」
最初に見た<蠢きもがく死>そのままに、全身を奇妙に跳ねさせ、踊るように痙攣するユウに、ドワーフの剛力で投げられた青く光る長剣が飛ぶ。
それはまったくの偶然から、ユウの左手ではしゃぐように振り回される枝ごと、彼女の紫に染まった腕を貫き、肩に突き刺さった。
青い光が、紫の光を追い散らす。
かつて吸血鬼の一族を率いる王が腰に佩いていた剣が、断末魔のように震える枝を貫いたまま、勝ち誇ったようにビィン、と震えた。
ユウの全身が緑色に染め上げられる。
その中でゆっくりと、『ミダス王の左手』が溶けて<毒薙>に吸い込まれていくのを、その場の全員はなんともいえない感覚のまま、確かに目撃したのだった。




