115. <狼煙>
1.
ユウは昏々(こんこん)と眠っている。
HPバーは緑のまま、ロバート自身の持つ呪薬でかろうじて尽きることを免れていた。
氷のように冷たい彼女の体を背負い、ロバートが封印の森を抜けた時、
既に太陽は明るく大地を照らしていた。
「ふう、はあ……」
『狩人の軍装』を着たまま、封印の森を走り抜けたロバートに、つっけんどんに水袋が差しだされる。
喉を潤した彼は、隣で長時間の乗馬に耐えた老<大地人>を見上げた。
「……あんたは無事か? タクフェル」
「問題ない」
大規模戦闘地域の道具屋だった男は、ぶっきらぼうに答えると、そのまま背を向ける。
朽木に腰を下ろした彼に、ふとロバートは声をかけた。
「……なあ」
「なんじゃ」
とげとげしい声にもめげることなく、彼は地面に横たわったユウをちらりと見る。
その顔面は蒼白だ。
脂汗が浮き、呼吸も早い。
彼女を背負ったロバートには、ユウの体温が氷のように低かったことが分かっていた。
「……あんた、薬屋だろう。ユウの毒を治せないか? あと、さっきのモンスターはなんだ?」
沈黙が落ちた。
答えようとしないタクフェルに、ロバートがいい加減しびれを切らしそうになった時、
老人の口が重々しく開かれる。
「……あの<蠢きもがく死>なら知っておる。かつての<冒険者>の無能と敗北の証、
永遠に呪われるべき者どもの犠牲者じゃ」
「……なんだ、それは」
自分で挑んだことこそないが、ロバートは情報サイトを通じて、<深き黒森のシャーウッド>を舞台とした大規模戦闘クエストについてはわずかに知っている。
彼の記憶によれば、このクエストはクリアされているはずだ。
それが『<冒険者>の無能と敗北の証』とは?
首をひねったロバートだったが、その真贋を聞くよりも彼には急ぐべき事柄があった。
タクフェルの背負った頭陀袋には、いくつもの瓶や袋が、零れ落ちそうに抱え込まれているのだ。
それを見ながら、彼は続けた。
「……よくわからんが、さっきのモンスターにやられたユウを治せるか?」
沈黙は先ほどよりも長かった。
「おい!」
「……治せる。じゃが、わしはそやつを治そうとは思わん」
妙にもったいぶった調子に見える薬師に、ついにロバートがどなる。
「なんでだ!!」
「罰じゃからじゃ!!」
怒鳴り返したタクフェルの顔には青筋が幾重にも浮かんでいた。
その口調に秘められた激怒と憎悪に、思わずロバートが言葉を飲み込むと、
委細構わずタクフェルは怒鳴りつけた。
「その女は無邪気にも、聞きたくもない歌をがなり立て、余計なことをしでかしおった!
<灰斑犬鬼>の襲来も、<蠢きもがく死>の襲来もそいつのせいじゃ!
そもそも<蠢きもがく死>がああなったのも、そいつのせいではないか!」
「……訳わかんねえよ! あんた、死にかけてる人間を前に、それが言えるのか!!」
「人間じゃと!? 貴様ら<冒険者>が!?
親も子もない、子を育てたことも失ったこともない、死ぬことすらない不死者のくせに
人間じゃと!?
それだけの武勇を持ちながら、わしの娘一人を助けられなかったどころか
その娘を怪物と呼び、どこかで酒場の囃子歌にして喝采を乞う連中が、人間か!!
ふざけるでないわ!!」
あまりの剣幕に、ロバートは思わず絶句していた。
それとともに思い出す。
情報サイトにあった、クエスト名<蝕地王の侵攻>の概要を。
「あんた……じゃあ、あの<蠢きもがく死>は」
「わしの娘じゃ! 若くして<古来種>となり、あの<緑衣の男>を竟の伴侶と定め、
<古来種>として目覚めた時に縁を切った父であるわしを助けるためにこの地に戻り、
<冒険者>の助けを借りてあの<蝕地王>に挑みながら、最後の最後にみずからあの王と心中しおった
わしの……わしの、馬鹿な娘じゃ」
最後は悲痛な涙声になり、俯いたタクフェルを、ロバートは口をあけて見つめていた。
◇
<蝕地王の侵攻>は、90レベルの大規模戦闘クエストである。
イングランドの伝説的な悪王をモチーフに作られたこのクエストは、古代に封印された<深き黒森のシャーウッド>から、モンスターがあふれ出すことで始まる。
それを、<黒森>に築かれた六つの砦を防衛することでしのぎ切り、
<冒険者>たちは、王の討伐に現れた二人の<古来種>とともに魔の森の深奥へ向かうのだ。
王の封印を兼ねた六つの砦の防衛が成功したかどうかによって、王の強さは変わる。
だが、ロバートはこのクエストに対する悪評もまた同時に思い出していた。
同じく騎士剣同盟の伝説的なアウトローとその恋人をモチーフにした<古来種>二人は
この世界においても恋人同士であった。
クエストの合間に交わされる<古来種>たちの会話はあまやかで互いへの愛情に満ちたもので
それは――米国風に言えばもてない男女の多い<冒険者>たちに、
数多くの僻みとやっかみを生んだものだ。
だが、二人の運命は暗転する。
最後の最後、追い詰めた<蝕地王>が呪いの言葉とともに滅ぼうとする中、
王の孤独と苦痛を癒すため、<修道騎士>――<施療神官>――だった彼女はこともあろうに、自ら王とともに底なしの沼の中に沈むのだ。
嘆く恋人と、彼女が<大地人>だったころの父親――ほかならぬタクフェルの慟哭とともにクエストは終わる。
二人は、娘であり恋人であった女性のためにと、人間社会へ戻らず、<深き黒森のシャーウッド>の一角に居を構え、森を見張る役目につくのだった。
リリース当時、それまでの『バカップル』振りと、最後の悲劇との落差に、
プレイヤー交流サイトは怨嗟であふれ、運営会社には抗議が山ほど来たという。
つまりはほろ苦い結末……いわゆるハッピーエンドにはならないクエストなのである。
<エルダー・テイル>の場合、不完全な達成ではどこか瑕疵の残るエンディングを迎えるクエストは数多い。
だが、このクエストが悪評を受けた理由は、完全に達成したとしても、その女性――<黒髪の癒し手>マリアンが死んでしまうことだった。
お伽噺はせめて、ハッピーエンドであってほしい。
そうしたユーザーの声を受けた、北欧サーバの運営会社である英国Red Branch Companyは、
それ以来、こうした悲痛なエンディングを迎えるクエストを完全に廃した。
だからこそ、このクエストは北欧サーバのレイドクエストでも『後味の悪い最後のクエスト』として
<冒険者>の記憶に残ることになったのだった。
◇
ロバートは俯いたまま、何度目かわからない呪薬を喘ぐユウの口に含ませた。
後ろでは、タクフェルがわれ関せずとばかりに、手に持った干し肉を齧っている。
改めて、彼は後ろの老人がどのような気持ちでいたかを思い知っていた。
クエストをデザインした運営会社のスタッフが悪いわけではない。
だが、その結果として、タクフェルは<古来種>となった娘を失うどころか、
その変わり果てた姿が苦痛に歪むのを目の当たりにすることになった。
父親として、その悲嘆と苦悩は、子供のいないロバートには理解すら及ばない。
彼が<冒険者>に対する憎悪を募らせ、それを、無邪気にもクエストにまつわる歌を歌ったユウにぶつけたのは、人としての善悪はさておき、気持ちはわかる。
タクフェルがユウの治療を断固として拒んだのも当たり前だった。
だが、と彼は同時に気が付いた。
クエストの兆候は、<深き黒森のシャーウッド>からあふれ出す<灰斑犬鬼>の来襲だ。
今回、ロバートを含め4人が遭遇したそれは、まぎれもないクエストの合図に他ならない。
……<蝕地王>は封印から目覚めている。
怯えた目で<封印の森>を見ると、不自然なまでに整然とした森の奥に、何とも禍々しい雰囲気が漂っているように思えた。
「……なあ」
呼びかけにも返事もしなくなったタクフェルに、ロバートは恐る恐る言った。
「……昨日からの<灰斑犬鬼>の襲撃……それって」
「……<蝕地王>が目覚めたのだろうて」
答えるタクフェルの、先ほどまでの剣幕とは打って変わった小さな声に、どこか怯える色がある。
その口調がわずかに内心を示す中、タクフェルはぽつりぽつりと言葉をつづけた。
「……あの王は六つの封印によって封じられておる。
かつて、そなたら<冒険者>が守った六つの砦、それがそのまま封印じゃ。
<緑衣の男>の日課のひとつが、砦に異常がないか確認することじゃった。
仮にどこかの砦の封印が破られておれば、修復し結界を張りなおす。
それが役目じゃった」
<古来種>が一人、敢えて砦に帰らず<深き黒森のシャーウッド>に残った理由はそれなのだ。
確かに、<古来種>であれば、一人で<灰斑犬鬼>程度は追い払える。
ロバートは片膝を立て、老人に向き直った。
「じ、じゃあ大規模戦闘がもう一度出てきた、ってことじゃないか。
ますますユウを目覚めさせないと、72レベルだけじゃ、とても……」
だが、切羽詰まったロバートに対し、鳥すらいない森を見回すタクフェルの目は、疲れ果てていた。
「もういいのじゃ」
「なんだと!?」
「……時の流れの異なるあの黒き森にこもって百年余り、わしは娘の帰還を願い、
<緑衣の男>とともに暮らしてきた。
じゃが、娘は人ではない者へ変わり、また<緑衣の男>も消えた。
……わしの生きるよすがは無くなった。 もう、<蝕地王>への恨みもどうでもよい。
所詮はわしのような老いた<大地人>、娘も守れぬ父親が、あのような怪物にどうして抗し得ようか…」
小さな嗚咽が漏れた。
怒りを装った老薬師の、本当の声だ。
生涯で泣いたことなど片手であるのかというほどのたくましい老人の、身も世もない号泣だった。
2.
ふと、かさりと草の揺れる音がした。
かさり。
かさり。
タクフェルは顔を覆ったまま動かず、ロバートは思わず弓を手に立ち上がる。
だが、彼が危惧した、それは敵襲の音ではなかった。
「……う」
どんな毒を入れられたのか、かさかさに乾いたくちびるから呻きが漏れる。
「ユウ!?」
おそらくは<毒使い>固有の毒耐性のためであろうか、毒に苦しむ<毒使い>は、
かすかに身を起こし、泣くタクフェルを見つめていた。
毒で血走るその目から、小さくつう、と液が流れる。
その滴が地面に落ちる前に、しゃがれたような声が彼女の口からまろび出た。
「……すまな、い」
「………」
「あん、たが、そんな、境……遇だ、ったとは、しらな、かった」
「……じゃからなんじゃ。今更許しを乞う気か。それとも薬がほしいための擬態か」
「わ……たし、にも、むす、めが、いる……」
タクフェルの顔が上がった。
その顔は、滂沱の涙に濡れそぼり、正午を過ぎた日差しを受けて妙に輝いている。
「……もう、あえ、な、いかも、しれ、ないが。 私…も、あな、たとお、なじ……」
げぶ、と音が響いた。
吐瀉物の混じった、赤というより紫色の血を吐きだして、ユウはなおも言い募った。
「むす、め、に、あい、たい。 むす、こ、に、会いたい。
子、ども、が……くる、しむなら、たす……けたい」
がくり、と、かろうじて彼女の上体を支えていた腕が落ちた。
そのまま、自分の吐いた血に飛び込むように彼女が昏倒する。
残る生命を示すHPバーは、呪薬をロバートが惜しみなくつかったにもかかわらず
徐々に0――死へと近づいていた。
ふと、タクフェルがゆらりと立ち上がった。
幽鬼のような足取りで気絶したユウに近づくと、傍らの頭陀袋から瓶を取り出し、口をあけさせる。
流しこまれる呪薬が、ユウのHPバーを不吉な緑から青に戻し、ロバートは呆気にとられてその光景を見つめていた。
「……手伝え、狩人。そこの袋をとってくれ」
言われるがままに取り出して渡した小袋から、小さな丸薬をつまみあげると、慎重に口に運ぶ。
ユウの顎を閉じさせると、こくり、とかすかな嚥下の音がした。
同時に、まさに瞬時ともいえる速度でユウのHPが回復する。
彼女のステータス画面でくるくると揺れていた無数の状態異常が刷毛で拭ったように消えていく。
<大地人>が幻想級の素材を手に入れることは普通、ない。
だが、それは。
「それ……森の薬師とっておきの……」
「……傷ついて帰ってきた娘を癒そうと思って、とっておいた薬さ。
こいつに飲ませる前は、さァ……確か同じように東から来たっていう<吟遊詩人>の男に飲ませたかね」
得ようと思っても得られぬほどの呪薬。
それを飲まされたユウの顔色がみるみる赤く染まり、蒼白だった全身に血の気が戻っていく。
やがて、ロバートが100を心の中で数えたころ。
ユウは、ぱちりと目を見開いた。
◇
「……タクフェルさん。ありがとう」
「……構わん」
「すまない」
「構わんと言っている」
やり取りの後、ユウは燃える瞳でロバートを見た。
「ロバート。北欧サーバの<冒険者>であるお前さんなら知っているだろう。
このクエストのあらましを教えてくれ」
ロバートが語り終えると、ユウは再び、ギラギラした目を二人に向けたまま、断言するように言った。
「……<緑衣の男>がむざむざ死ぬとは思えない。
ロバートの話が事実なら、あいつはあの森をよく知っているはずだ。
……助けに、行く」
「おい!」
無茶だ、と言おうとしたロバートの口を、ユウが視線だけで塞いだ。
「ロバート。仲間を募ってくれ。できるだけはやく、できるだけたくさん」
「だ、だが俺は」
ロバートが知る<冒険者>といえば、<妖精王の都>の人々だけだ。
<大地人>の傭兵となった連中と違い、小なりともプレイヤータウンだったその街――現実世界のダブリンにあたるその都の連中なら、話を通せば来てくれるかもしれない。
だが、あくまで仮定だ。
仲間もおらず、レベルの低いソロプレイヤーであるロバートがいくら言葉を尽くそうとも、
その為に海を渡って大規模戦闘に挑む仲間が集まるだろうか。
そう思い、俯いたロバートの顔に、ふわりとやわらかいものが当たった。
思わず目を開いた彼の至近距離、互いのくちびるが触れ合うかのような距離で、
女<暗殺者>が自分を覗いている。
知らず赤面したロバートに、ユウは視線を一瞬たりともぶらせないまま、言った。
「私も仲間に声をかけるが、あんたも頼みたい。
……逃げてこの地に来たのなら、この地で戦え。
……お前さんなら、できる」
その瞳に燃える熾火のような光が、ロバートに当たる。
無意識のうちに、彼は目の前の<冒険者>に頷きを返していた。
微かに笑って、ユウがタクフェルのほうを向いた。
「タクフェル。あんたを連れて行ってやりたいが、<深き黒森>の状況が読めない。
あんたは村に行って、できるだけ薬を作っていてくれ。
それで、ロバートが仲間を連れてきたら、案内してくれ」
「……では、これを持って行け」
うなずいたタクフェルが腰から一枚の羊皮紙を取り出す。
丸められたそれを広げると、そこにはきわめて簡易的ではあるが、森の地図が描かれていた。
「戦いの後、<緑衣の男>が作った森の地図じゃ。
砦の位置、危険な場所、<蝕地王>の封印場所も書かれておる。
役に立つじゃろう」
「ありがたい餞別、礼を言う」
しっかりと受け取ったユウが、羊皮紙をくるくると回して<暗殺者の石>に仕舞い込む。
そのまま、3人は目と目をみかわし、うなずき合うと走り出した。
タクフェルは村に。
ロバートは帰還呪文を唱えて<妖精王の都>に。
そして、ユウは脱出してきた森の奥へと。
ユウの脳裏には先ほど伝えられた<蝕地王の侵攻>クエストのエンディングと、
そして毒で朦朧とした最中でもはっきりと聞こえた、娘の父親の慟哭が焼き付いている。
ふと、懐かしい顔を思い出した。
はるか地球の反対側にいるはずの、<吟遊詩人>の顔だ。
プレイスタイルが全く違う両者だったが、それでも自らの信念を決してゆるがせないところだけは
二人は同じだった。
彼がこの<蝕地王の侵攻>を仲間とともにクリアしたのだ。
つまり、<黒髪の癒し手>が沼に身を投じる瞬間、そして<緑衣の男>とタクフェルの慟哭を
彼はその、己の耳で聞いたのだ。
普通のプレイヤーなら、たかがゲームとすぐ忘れただろう。
それなりのヘビーユーザーでも、運営に文句をひとくさり言って忘れただろう。
だが、彼は歌にしたのだ。
歌ったのだ。
悲劇を呪い、悲劇を覆せなかった自分たちを悔やみ、せめて人の心にいつまでも残るようにと。
そんな彼が、もしこの場にいたならば。
枯草色の髪の、その<吟遊詩人>は、今のユウと同じ目で言うはずだった。
『悲劇を悲劇のままで終わらせるものか』
『どんな障害だろうと、苦悩だろうと乗り越えて、必ずめでたしめでたしにしてみせる』
『それが、僕たちだ。<冒険者>だ。<物語を紡ぐ者>だ』
彼のことをユウはよく知らない。
だが、彼がそう叫ぶ声を、彼の燃える瞳を、ユウは緩やかに吹く風の中に幻聴く。
『だから』
「だから」
封印の森を走り抜けながら、ユウは思わず呟いていた。
「だから、私たちは<冒険者>なんだ」
彼女の小さな声は、音なき森に、鬨の声のように広がっていった。




