113. <森から来るもの>
1.
夜の帳に包まれた<深き黒森のシャーウッド>は昼間以上に妖気にあふれている。
このゾーンは大規模戦闘用の異界エリアであり、そもそも不気味ではあったが
昼間はまだしも光が封じていたものを、夜の闇が解放したかのようだ。
その中にきらめく、爛々とした黄色の円。
それが自分たちを見据える亜人の目だと知って、ロバートの背に思わず寒気が走った。
「どうする」
隣でユウが<緑衣の男>に問いかけるのが聞こえる。
返った答えは端的だった。
「どうもしない。連中、この家のある一帯には立ち入らない……いつもならな」
「……いつも、でなければ」
ユウが問い返した時、ガサリ、と草むらがざわめいた。
玄関を彩るランタンの明かりの中に、黄円の主がのそりと顔を出したのだ。
その一匹の<灰斑犬鬼>は、妙に白い顔色を愧じるように片手で顔を抑えつつ、のそのそと歩いてくる。
それを見て、タクフェルが小さく呻いた。
「家の周囲を、超えたわい……」
その瞬間、<灰斑犬鬼>の顔面に、音すら立てずに矢が打ち立つ。
ギャア、とわめいて転がったその<灰斑犬鬼>を見ながら<緑衣の男>が叫んだ。
「ロバート! 追撃だ!」
やや間があり、二本目の矢がその<灰斑犬鬼>を射抜く。
光となって消えるその影を呆然と見ながら、矢を射放ったロバートが呻いた。
「……いつも、じゃないみたいだぜ。これは」
「森の奥にいる者が、どうも目を覚ましかけたらしい、ということだな」
次の矢を番える<緑衣の男>に、面白そうにユウがいう。
「弓ばかりじゃ囲まれるだけだ。外でヘイト稼ぐよ」
「いいのか?」
尋ね返した<緑衣の男>にひらひらと手を振って、ユウは軽やかに外に歩み出た。
◇
これだけの敵に相対するのは先日の地下都市以来だ。
ユウは周囲を囲もうとする<灰斑犬鬼>を特技も使わず切り倒しながら思った。
彼らのレベルは総じて低く、40に満たない。
時には10,20というレベルの個体もある。
ユウにとってみれば、特技を使うまでもない敵だ。
とは言っても、余裕というわけにはいかない。
これまで多人数の敵と相対したことは度々あったが、それまでの戦いは、どの戦いにせよ
戦場をユウが設定できる、という自由があった。
極論を言えば、対処できないほど群れた敵は避けてしまえばよかったのだ。
唯一の例外が去年の夏のザントリーフ戦役だったが、その時は肩を並べて戦う大勢の<冒険者>がいた。
今回は違う。
ユウは、<緑衣の男>たちが立て籠もる小さなログハウスを死守しなければならない。
このログハウスは、森のはずれに位置し、後方はユウたちが飛び込んできたあの黒い泉だ。
左右の見通しも暗く、さほどの空間的な余地もない。
彼女としては、正面に注力できる分、まだ楽だったのだが。
刀が夜に青と緑の残像を描く。
彼女の刀が振るわれるところ、正確に矢が<灰斑犬鬼>の手足や頭を貫いていた。
<緑衣の男>の矢だ。
本来、ユウを上回るレベルである彼の弓は、<灰斑犬鬼>を一撃で絶命しうる威力があるが、
矢を受けた亜人たちは苦しみ、もがくものの死ぬ者は一匹もいない。
彼の矢はモンスターを殺す、つまり経験値を得ることは絶対にない。
それが彼の持つ特性であり、呪いなのだ。
まるで掃き掃除をしているように<灰斑犬鬼>をなぎ倒すユウの後ろで、気を吐いているのがロバートだ。
彼もまた、72レベルの<盗剣士>である。
90レベルには達していないとはいえ、<灰斑犬鬼>たちを掃討するには十分すぎる腕前だ。
何より、その弓の腕だ。
暗闇、しかも明かりを背負い夜目が利かないという悪条件の中で、亜人たちの喉や頭といった急所を正確に射抜く腕前には、ユウも、<緑衣の男>すらも舌を巻いた。
「やるなあ」
自分よりはるかな高みにいるはずの、<緑衣の男>からの素直な賞賛に、ロバートは小さくはにかむ。
そうでありながらも、矢を放つ手は休めない。
まるで野戦の狙撃兵のように、ロバートは無心に敵を射殺し続けた。
ふっ、と後方からの光が途絶えたのは、雪崩れ込んでくる第一波をユウたちが凌ぎきった頃だった。
外に置いていた呪薬や薬草をあらかたしまい終えたタクフェルが、屋内と玄関先を照らすいくつかのランタンを消したのだ。
光が一切ない、真の闇に閉ざされた世界で、むしろユウは奮い立った。
夜の闇は、根源的な恐怖を人間にもたらすものである。
と同時に、<暗殺者>である彼女には天与の戦舞台でもあるのだ。
彼女は、あえて半眼にしていた目を開いた。
夜目の利く彼女の視線が、森に潜む、いまだ多数の円盤たちを見つめ返す。
そのひとつひとつが<灰斑犬鬼>の視線であることを疑うまでもなく、ユウは後方に声をかけた。
「連中にはリーダーはいるのか?」
「いない。いたとしても出てこない。こいつらを倒せば一旦は収まるはずだ。
そのあとは……この森に入っていくしかないだろう」
<緑衣の男>が答え返す。
その声が不意に苦く響いた。
「だが……この人数では自殺行為に近い。以前同じことがあったときは、数十人の<冒険者>が入れ替わり来てくれたが、それでも何十人と犠牲者を出した」
「大規模戦闘だからな……」
ロバートが悔しそうに呻く。
彼は大規模戦闘に参加した経験がない。そうした場合の戦い方も、むろん知らなかった。
そして彼は、少なくとも近隣に自分以外の<冒険者>がユウしかいないことを知っている。
「どうする? 一旦退くか? あの黒い泉を亜人は越えられるのか?」
同じくレイドの経験がほぼないユウの問いかけに答えたのはタクフェルだった。
「退くだと!? 愚かなことを言うな!」
その声に<灰斑犬鬼>たちの視線が向きを変えたことに気付き、ロバートがたしなめる。
「タクフェルさん……あんたがヘイト集めちゃだめだ」
「何を言うか!」
返ってきたのはさらに大きな声だった。
その口調はほんのわずか、気付かない程度だが湿っていた。
「この森から逃げることはありえぬ。あの娘が苦しんでおる、この森からは
断じて逃げられぬ」
意外にも、それをたしなめたのは<緑衣の男>だった。
タクフェルとは対照的に静かな声で、同居人に顔を向ける。
「……おれも同じさ。だけど、今のままじゃじり貧だ。今のうちに一旦退こう。
そして対策を講じて戻ったほうがいい」
「おまえまで……」
絶句したタクフェルに説いて聞かせるように、<緑衣の男>が囁く。
「俺やあんたも見届けた封印は完璧だった…おれはそう信じている。
だが、この予兆が本当に<蝕地王>の帰還だとすれば、帰還の裏には必ず何かがある。
それを調べるためにも、今は離れよう」
「……約束してくれ。 戻るとき、わしを置いていくなよ。
わしにもこの森でせねばならんことがある」
「約束しよう」
やり取りを聞くロバートの頭に無数の疑問符が浮かぶのも構わず、<大地人>と<古来種>は会話を打ち切ると、手元の資材を集め始めた。
当座の食糧、資材、呪薬などだ。
手当たり次第に袋に放り込みながら、<緑衣の男>が叫んだ。
「しばらく二人で防いでくれ! おれたちは君らと一緒に脱出する!」
「早くしてくれよ」
再び侵攻を始めた<灰斑犬鬼>と刃をかわすユウの声が遠くから聞こえる。
ロバートもやむを得ないとばかりに、再び矢を引き抜くと番えた。
夜はまだ深い。
撤退は、至難の業になりそうだった。
2.
<古来種>と<大地人>の住まいから、ゾーンを二つ抜ければ、黒い水が滾々と湧き出る泉にたどり着く。
ゾーン二つ、抜ければ。
それは、闇の中で<灰斑犬鬼>と激闘を繰り広げながら進むには、遠く、険しい道のりだ。
「大当たり!」
仰け反る<灰斑犬鬼>の額に立った矢が、びぃん、と震える。
一瞬で命を失った亜人は、地面に倒れるより先に光の泡となって還っていく。
小走りに森を駆けながら、小声で叫んだロバートの横を、黒い騎影がすり抜けた。
ユウだ。
手にしているのは<毒薙>と、小さな短剣の群れ。
背負っているのは弓だった。
<緑衣の男>が持っている、予備の弓だ。
一行の中でただ一人騎乗した彼女は、朧な月が照らす森の夜を駆け抜ける。
「汗血馬、こけるなよ」
ブヒヒン、と愛馬がいななきを返す上で、うっすらと笑ったユウの手から銀光が飛んだ。
それは狙い通り、<灰頭犬鬼>の中でも弓を持った個体を狙い打つ。
<暗殺者>の特技の一つ、<ラピッド・ショット>だ。
周囲の<灰斑犬鬼>がおびえた様子でたたらを踏む中、ユウがドガ、と蹄を鳴らして停止する。
先頭の<灰斑犬鬼>の顔に土塊があたり、小さな悲鳴が上がった。
睥睨するように彼らを見下ろす黒衣の死神から、小さな声が放たれる。
「さて。<灰斑犬鬼>ども。落ち着いてよく考えるといい。
この先に行けば死、行かねば生」
グルルウ
ギャオ
<灰斑犬鬼>が威嚇のつもりなのだろうか、吼える中、ユウは静かに刀を鞘に戻すと、背の弓を取った。
矢を番え、引き絞る。
ひゅん。
放たれた矢は、3匹の<灰斑犬鬼>を貫き、4匹目の喉に食い込んでとまった。
団子状にもつれ合った4匹が、幻のように溶けていき、カラン、と地面に矢が落ちる。
それを無感動に見下ろし、ユウはダメ押しとばかりに言った。
「……死を選ぶのか? 亜人ども」
不潔な泥だらけの足が一歩下がり、二歩戻って、
ユウがきびすを返したときは<灰斑犬鬼>の群れは森の奥へと逃げ帰っていた。
◇
「さすがだな」
<緑衣の男>の賛辞に、帰ってきたユウはひとつ頷くと、片手でタクフェルを馬の背に引き上げた。
そのまま、速歩で森を掠めるように泉へと走り出す。
ぬるりとした空気を切り分けるような疾走の中、ユウがふと呟いた。
「……連中の目的がわからないね」
「俺たちの抹殺だろう」
横を走るロバートの返事に、小さくユウが首をかしげた。
「それにしては攻め方が変だ。わざわざあんな形で取り囲むなんて。
<灰斑犬鬼>の目は暗闇で目立つ。一気呵成に攻め込めばすむはずだ。
連中……見つけてもらいたがっていたようだった」
「どういうことじゃ?」
歌に関するあれこれも、襲撃のどさくさで忘れたらしいタクフェルに、ユウは答えた。
「昔、ちょっとした縁で亜人を率いたことがある。
連中にどこかの城を攻めさせるときは、絶対に悠長には攻めさせない。
連中の一番の力は数だ。攻め辛かろうが行けば死ぬような隘路だろうが、
遮二無二攻めさせて、守り手に対応の猶予を与えないのが一番だと、思う。
今回、連中は守備側の数が少ないことは知っていたはずだ。
なのに、あんな中途半端な包囲をし、気づかれて反撃され、実際こうして逃がしてしまっている」
「……この<深き黒森のシャーウッド>から追い払うためじゃないのか?」
ロバートの反論はわからない話でもない。
また、この世界がいまだ<エルダー・テイル>の法則に縛られているとするならば
<冒険者>を過剰に追い詰めるような行為は、<灰斑犬鬼>には許されていないのかもしれなかった。
だが、しかし。
ユウの心の中の一抹の不安を言葉に出したのは、黙って横を走っていた<緑衣の男>だった。
「……狩場までおびき寄せた。さっきの<灰斑犬鬼>はそのための勢子。
そういいたいのか、君は」
「……可能性はあると思っている」
「なるほど」
「どういうことだ?」
聞いていたタクフェルとロバートの対照的な返事に、ユウは弓を箙に引っ掛けて言った。
「連中は、はなから私たちの殲滅が目的じゃなかった。
あの家から追い立て、猟師の待つ場所へおびき寄せるための勢子だ。
あの数だ。私たちが早々に篭城をあきらめ、撤退に移ることは連中――<灰斑犬鬼>を指揮する何者かはわかっただろう。
その撤退路はいくつかあるだろうが、目的地はただひとつ。
黒い泉しかない。
連中が猟師ならば、腕のいい狩人をそこで待ち伏せさせる。
このエリアは全域がレイドゾーンなのだろう?」
「ユウ」
なおも話そうとしたユウの袖を、小さく<緑衣の男>が引っ張った。
振り向いた彼女にあごをしゃくる。
黒い泉。
夜目にもはっきりとわかるその墨汁のような色合いを背景に、大小ふたつの影がのたうっていた。
◇
「……かくて獲物は猟師の目の前へ。番えたる矢は獲物の喉をば食い破らんと」
ヒュウ、と口笛を吹いて<緑衣の男>が小さく歌った。
軽やかなその声とは対照的に、目は小さく引き締められ、何かの感情が爛々と輝いている。
ロバートは小さくうめくと、手の弓をぎゅっと握り締めた。
タクフェルもまた、剛毅な印象を与えるその顔になんともいえない表情を乗せて座っている。
一人、ユウは目の前の闇にうごめく2つの影をじっと見つめていた。
<屍竜>、90レベル、大規模戦闘級2。
一見して竜に見える大きな影の名前だ。
よく見れば、かつては空を翔るべく羽ばたいたであろうその翼は骨が見え、
皮膜は腐り落ちて飛行する器官として機能していない。
白黒の斑模様に見えた体も、あちこちにむき出しになった骨が白く見えただけのようだった。
だが、かすかに見える牙と爪は、その不死生物がいまだ大地に還るだけの残骸ではないことを如実に示している。
「アンデッドのドラゴンだって……?」
竜は、<エルダー・テイル>でもポピュラーなモンスターのひとつだ。
レベルは総じて高く、サブ職業としての<竜殺し>がそれなりに需要があることが示すように
<冒険者>にとっては決しておろそかにできないモンスターである。
かつてヒマラヤ山脈を模した氷原で、ユウが挑んだ<氷竜王>ほどではないにせよ
<大地人>を庇っての余裕ある戦いができる相手とは思えなかった。
だが、<緑衣の男>が見ていたのは<屍竜>ではない。
その横で、激痛にもがき苦しむようにのた打ち回る人間型のモンスターだった。
闇よりもなお黒い肌。
あちこちが膿み、ただれ、赤というより黒い血を流している。
顔もまたぶくぶくと膨れ上がり、元の人相をまったくわからなくさせていた。
ただ、かつてはローブだったとおぼしきぼろきれのような布が形作るシルエットから
女性体ということだけが、かろうじてわかる。
そしてその髪。
背中の半ばまで届くユウの髪よりさらに長い、それ以外の部分とは対照的な靡く黒髪。
のたうつ肉体を取り巻くように、髪の一本一本がつややかに翻っていた。
「……なんだ、あれは」
ユウがステータス画面を見る間にも、それは竜の横で身を投げ出し、
頭を両手で抱えて転がりまわっている。
あたかも全身を焼かれた人間が、断末魔のもがきをしているかのような姿を見て、
<緑衣の男>が小さく矢を番えた。
「……あれは、<蠢きもがく死>。このエリア、<深き黒森のシャーウッド>の奥に潜む、
王の側近だ」
沈鬱な声が、木々を小さく揺らし、
獲物を前にした<屍竜>とその人影が、ぴたりと動くのをやめた。




