111. <黒森の二人>
1.
そこは、外界――<封印の森>の静謐さが嘘のように騒々しい世界だった。
まるで外の森の生き物が残らず引っ越したかのように、木々は音を立ててざわめき、
無数の鼠や鹿たちが視界の端を駆けてゆく。
頭上、暗雲に覆われた天には渡り鳥らしい影が隊列をなし、地上ではそれを狙う狼がぐるぐると不満そうな唸りを上げていた。
<封印の森>とは別の意味で人の手の入っていない森――本来の野生の世界だ。
相変わらず黒い――陽光が差さないおかげで、水が黒いのかそう見えているだけなのかは判別できなかったが――泉のそばで服を乾かしながら、ユウはロバートに尋ねた。
「……で、仕事先は? あと、濡れてるけどいいのか?」
「この泉は変な性質があってね。外見は濡れるが決して染みとおらない。
すぐに乾くんだ。<冒険者>の装備でなくてもね」
そういう彼に従って、ユウはなお暗い木々の奥へと歩いていった。
◇
「どれほど歩くんだ?」
「すぐだよ……おっと」
不意に頭上からキイという音が響き、何かが降ってくる。
それを器用に避けながら、ロバートはなんでもないように言った。
「あと、この森の生物は全員毒があるから気をつけてくれ」
「私は<毒使い>なんだ」
「ああ、それなら大丈夫か」
なんでもない会話をしながらも、ユウは片手に抜いた刀で近づく動物たちを斬り捨てた。
ロバートも、<盗剣士>らしくひょいひょいと避けながら、荷物を抱えた体でなんと器用な、と感心してしまいそうな速度で弓を撃っている。
襲ってきているのは、レベル30のモンスター、<毒蝙蝠>だった。
<吸血蝙蝠>の上位種で、ゲーム時代はありふれてさしたる敵でもなかったが、
三次元機動をするようになったこの異世界では、なかなか戦いづらいモンスターだ。
蝙蝠に限らず、空を飛ぶモンスターは、モニターの二次元世界から解放されて
さらにやりづらくなっているのだが。
だが、さすがにロバートは危なげがない。
何度もこの森に来ているためというのもあるのだろうが、弓にとっては決して得手ではない森という戦場にありながら、確実に一矢ごとに敵をしとめている。
その姿は、ふと長いこと会っていない知り合いの姿をユウに思い出させていた。
「なあ、ロバート、その弓矢」
「ほら、そこだ」
ユウの問いかけは、不意に立ち止まったロバートの声でかき消された。
見ると、不気味な森の一隅に、わずかながら陽光が当たっている場所がある。
そこには、木でできた粗末なログハウスと、柵で囲まれた小さな菜園があった。
ゾーン名称は<小さな安息地>。
目的地だった。
◇
「ロバートか」
響いてきた深いバリトンの声に、思わずユウは目を瞬いた。
よく見ると、菜園に一人の男が立っている。
かがみこんで草をとっていたのだろうか、男の膝も手も、土と草がこびりついていた。
その手は分厚く、腕はログハウスの材料の丸太ほども太い。
ずんぐりむっくりとした胴体の上に、年輪を重ねた皺のある顔が、二人に訝しげに向いていた。
「なんじゃ。知り合いを連れてきたのか?」
「ああ。タクフェルさん。ユウだ。ユウ、タクフェルさん」
「ユウです」
「タクフェルじゃ。薬師をしておる」
そういって柵から出てきた男は、50か、60に近くもあろうか。
顔こそ老人のそれだが、よく見れば長衣に包まれた胴体も手足も、壮年期のようなたくましさを保っている。
それを証明するように、目の前のタクフェルと呼ばれた老人の職業は<海賊>だった。
ヤマトサーバで言うところの<武士>だ。
だが、見たところ腰のダガー以外は武器を持っていないらしく、タクフェルは長衣の裾で手をごしごしと拭くと、むっつりと伸ばしてきた。
「<冒険者>か。珍しいな」
「よろしく」
握り締めたタクフェルの手は万力のように強い。
戦士らしい、無骨な手だった。
「今日も荷物を届けに来たよ。二人いたからな、少し量があるけど」
「なら、中に入るといい。あの男はまだ戻っておらんようだしの」
「あの男?」
ロバートとタクフェルの会話にふとユウが首をかしげると、
振り向いたロバートがいたずらっぽく答えた。
「ああ。この家は二人暮らしなのさ。もう一人はよく日中は森の奥に行っているんだ」
「あ」
その時、ユウの中で断片的な記憶が突然、音を立ててはめ込まれた。
<封印の森>
<深き黒森のシャーウッド>
その中にいる、二人のNPC。
薬師の老人。
毒のある敵。
大規模戦闘にはまったく興味がなかったユウだったが、
友人の友人、程度の知り合いが旋律に乗せて教えてくれたそのレイドクエストだけは、
比較的はっきりと覚えていたのだった。
「じゃあ、もう一人は、<緑衣の男>、ここは<蝕地王>のクエストエリアか!」
「よく知っておるの」
ユウの素っ頓狂な声に、タクフェルが無愛想にこたえた。
◇
茶じゃ、と出されたものは、紅茶とするにはやや苦く、コーヒーめいた味がした。
「これは?」
「いくつか薬草を煎じたものじゃ。すこしだが毒を受け付けぬ体質にしてくれる」
ユウたちが下ろした荷物を確認しながら、タクフェルが彼女を見ないまま返す。
やがて立ち上がった彼は、壁にある戸棚からごそごそといくつかの袋や瓶を取り出すと、
無造作に空いた袋に詰めた。
やがて、一連の動作を終えて彼は無造作にそれをロバートに突き出す。
「ほれ、薬じゃ。妊婦は村に何人じゃ?」
「ええと、3人、かな。ヘリワードの嫁さん、エドワードの嫁さん、チャールズの息子の嫁。
ああ、あとアンナさんがこないだ吐いてた」
「ならもう少し持っていけ。あと出産の時の薬がこれじゃ」
「そりゃ、なんだい?」
「痛み止めじゃ」
「……麻薬じゃないのかそれ」
瓶に入ったどろりとした液体を見てユウが呻く。
だが、二人の男はそんな傍観者など意に介せず、手早く品物の交換を終えると、
ロバートの鞄にそれを仕舞った。
「じゃあ、帰るか」
「せっかくじゃ。あの男が帰るまで休んでおれ」
「あの男? <緑衣の男>のことか?」
「よく知っておるのう」
じろりと自分を見上げたタクフェルに、ユウは軽く答えた。
「いや、昔ここに来たことがある知り合いがいてね。そいつに教えてもらってさ。
でも、まだいるのか? 彼は<古来種>だろう?」
ユウの問いかけに、タクフェルは答えない。
答えるまでもない、と思っているのだろう。
◇
<古来種>とは、<大地人>から生まれ、<大地人>をはるかに超える絶技を身につけるに至った、
少数の英雄たちを指す言葉だ。
そのレベルは、<大地人>はおろか、<冒険者>さえも往々にして上回る。
無論、その道のりが平坦であろうはずもない。
彼らは多く、特別な生まれを持つか、あるいは育つ過程で家族や縁者を失っている。
一説には、そうした生まれ育ちによる悲しみや怒りが、彼らをして人の限界を超えるまでの武技を身につけさせるのだという。
そして、<冒険者>同様に不老不死の運命を背負った彼らは、そのほとんどが生まれ故郷や親類との縁を断ち、<全界十三騎士団>という、<古来種>だけのコミュニティに身を寄せるのだ。
そこで彼らはひとつの誓いを成す。
その力を個人のためでなく、世界のために使うこと。
<大地人>個人や国家に肩入れしないこと。
世界の危機に対しては、命を捨てて戦うこと。
まさに、彼らこそが<大地人>という種族から選ばれた、この世界の守護騎士たちなのだ。
……ありていに言えば、<エルダー・テイル>におけるイベント用NPC、それが<古来種>である。
いくらプレイヤー主体のゲームであっても、いつもいつも弱い<大地人>を強い<冒険者>が助ける、というのでは、しまらないこと夥しい。
イベントの幅も狭くなろうというものだ。
たまには、プレイヤーも、英雄を助けて格好良く決めたいではないか。
その、至極当たり前なゲーム的な事情により作られたのが<古来種>なのだった。
当然、彼らが出張ってくるイベントの多くはサーバ全体にまたがる巨大クエストだ。
だが、ごく稀に小さなイベントにも彼らが駆り出されることもある。
<蝕地王の帰還>とは、北欧サーバ英国地域限定の、そうしたローカルイベントのひとつだった。
ユウがそんなことをつらつらと思い出している間、タクフェルはまじめに説明していた。
クエストの概略は知っていても、詳細を知らないユウにとっては、興味ある話題だ。
「……で、以前の<蝕地王>の侵攻のときから、わしらはこの森に暮らすようになってな。
今もかの王が蘇らぬよう、見張っているというわけじゃな」
クエストの詳細を知らないユウだけでなく、ロバートも、ふんふんと老薬師の話を聞いている。
それを聞きながらも、ユウはふと言葉が口をついて出るのを感じた。
タクフェルの言葉が途切れたのを見計らって、口三味線を伴奏に、思い出しつつ歌い始める。
「『時は昔 うるわしの森 白き壁のアルビオン 一王ありて栄えたり』」
「ユウ?」
「『心は澄んだ水のごと 掲ぐ正義は剣のごと 王国は富み栄えたり』」
「……」
「『幸いなるかな王の御世 古より続く帝統も まさにこの日のためにこそあれ
されど人の心は移ろい 正義は黒く染め上がる いつしか王は変わりけり
慈しんだる民は背き 愛する妃に裏切られ 守るべき地は奪われて 王は心を捨て去りなん』」
歌うごとに、酒場で聞いたセロの音が耳に蘇る。
それを、どこか悲しげに歌う<吟遊詩人>の声も。
「『王は遂には追われけり 守り継ぎたる白亜の城を 王はただただ粛然と 黒き森へと囚われ来る
魔のささやきに乗っ取られ 心を捨てた悪王よ 断罪の剣受けるべし 騎士は怒りに燃ゆる目で
王の首をば刎ね切らん
王は末期に言い残したり 我はこれにて死なんとも 我が呪いは絶えることなし
黒き森をば我が聖地とし 汝らを永久の下僕とし
いずれ僭王立つなれば 必ず玉座を奪いなん』」
いつの間にか押し黙ったタクフェルの手元で、カップがギリ、と音を立てた。
「『時は過ぎ行き早幾年、悪王の名も言霊も 失われたるこの時代
悪王ついに蘇り 森をば異界に沈め置き はらからと共に攻め寄せる
騎士に抗する術はなく 空の玉座はこぼたれて 騎士剣の盟は破れたり』」
「……」
「『されどこの地に勇士あり 赤枝の騎士の円卓より 民草の嘆き聞きつけて 悪王をば倒さんと
一人は緑の弓使い 射抜く一矢は光のごとく 一人は癒しの黒髪の姫 穢れし森を癒さんとす
勇者来りて仲間を集わせ 呪詛の森へと入りける
長き戦いは果てしなく 仲間も次々倒れども 二人の勇士あきらめず やがては王を追い詰める
悪王はただ叫びたり 我を何ゆえ追い詰める 我は復讐を成すだけぞ
我を責めるというならば 我を裏切り殺したる 逆賊どもも追い立てよ
我の恨みは果てしなし 汝ら何度討ち果たそうと 我は必ず蘇る
弓を構える男の横で 姫は静かに語りたり 王の恨みが果て無きならば 我がそれをば癒さんと
共に地獄に沈み行き 王の心を癒さんと
弓使いは止めんとす 姫は男の愛しの君 何ゆえ我を捨て去りて 老いたる父も捨て去りて
悪王と共に死にゆくか 姫は……』」
「もうよい!!!」
ユウはびくりとして黙った。
座ったままのタクフェルの手が血に濡れている。
木製のカップを握力だけで握り潰したのだった。
「歌うでない! そんな歌は!!」
<海賊>の特技のような咆哮を再び放つと、彼は立ち上がり、
手から流れる血もそのままに、つかつかと扉に近寄って開けた。
そのまま外を指差す。
「もうよいわ! 出て行け! お前もじゃロバート! そして金輪際二度と来るな!!」
「お、おいタク……」
「やかましいわ!!」
おろおろとロバートが声をかけるが、タクフェルは聞く耳を持たない。
その、二人を見る目は、それまでの無愛想さとは打って変わって爛々とした光を宿していた。
憎悪だ。
すさまじいまでの憎悪が、この老薬師の全身から吹き上がっていた。
ユウは黙って席を立った。
「邪魔したね」
「……」
押し黙ったままのタクフェルに小さく会釈して、ユウが扉をくぐろうとしたとき。
「……歌を途中で終わるのか?」
扉の外から、涼やかな声が響いた。
2.
緑の服、草色に染めた皮の鎧、緑色の頭巾。
背にロバートのものより一回り大きな巨大な弓を背負い、腰には三本の短剣を差している。
ひょろっとした印象を与える長身ながら、全身に無駄なく配された筋肉は、
男が並々ならぬ腕前の戦士である事を如実に示していた。
表情は、軽い。薄く笑みを浮かべた視線はユウに向けられていながらも、その目はタクフェルよりもなお笑っていなかった。
扉の内外で顔を見合わせたユウに、その男はゆっくりと問いかけた。
「……その四十二は誰から?」
「昔あんたたちと共に戦った、東から来た<吟遊詩人>からだ」
「……懐かしい。 君はその人から、その歌を?」
「ああ。ヤマトの酒場で聞いたよ」
「それはそれは」
ふうん、と鼻を鳴らし、その男は指を差した。
タクフェルと逆の方向、ユウたちが出て行こうとした家の中だ。
そのしぐさに、タクフェルが忌々しげに唸る。
「おい、こやつらの顔など見たくもない。さっさと出て行かせろ」
「タクフェル、あんたにはそうかもしれないが、おれはまだ会ったばかりだぜ?
少しは話をしたいがね」
「わしは御免じゃ。 こやつらが出て行かぬというなら、わしが出る」
「まあ、そういうなよ、義父さん。あんただって、おれたちのロクでもない勲を、
あの物語愛好家がどう語ったかくらい、聞く義務はあるぞ」
「……」
言いあいを終えると、その緑色の男は、再び指を屋内に向けて突き出した。
「……というわけだ。早く入ってくれ。外は寒いんだ」
「ユウ……入ろうぜ」
最後はロバートの声が背中を押し、二人の<冒険者>は再び中に入ったのだった。




