109. <幻影と実在の中で>
1.
ユウは水の音に目を覚ました。
咄嗟に、両手を握り締める。 爪が肉に食い込む感触、腕の筋肉が躍動する感覚。
続いて、手を顔に。
吐く息のもたらすそよぎ、かすかな口の匂い、髪の毛の匂い。
手を下ろせば、衣服の下に、筋肉と共に女性らしいシルエットが掌に感じられた。
生きている。
二本の刀も、指につけた<暗殺者の石>も、その奥のインベントリも、すべて彼女と共にあった。
ステータス画面にも、異常は見当たらない。
続けて、ゾーン表示を見た。
<Der vergessene Schloss>
場所もよくわからず、ただその名前だけが輝いている。
「ここは……どこだ」
周囲に目に付くものはない。
茫漠たる空間は、地下都市と同じく、ぼんやりとした青白い光で満たされていた。
「<装置>の腹の中……じゃ、ないよな」
立ち上がり、ふらつく足を叱咤しつつ、ユウは歩き出した。
◇
どれだけ歩いたことだろう。
変化のない風景の中では、時間の感覚を保つことは不可能に近い。
とりあえず、自分が仮初の肉体を持っていることにどこか安心しつつ、
ユウはゆっくりと歩いていた。
思うのは、先ほどまでよくわからない空間の中で取っ組み合っていた敵のことだ。
ユーセリア――少なくともそう名乗っていたもの。
はっきりと知っているわけではないが、ユウもこの世界における魂についてはなんとなくだが理解している。
MPやHPは魂と肉体を現すのだと。
<冒険者>と<大地人>、そしてモンスターとを問わず、この世界の生物はHPがなくなれば死ぬ。
つまりは死だ。
それが永遠のものか、一時のものかの違いはあるにせよ、大きく変わりはない。
だが、先ほどの<装置>にはHPがなかった。
もちろん、HPのない生き物もいる。かつてゲーム時代の<エルダー・テイル>で設定された、
多くのオブジェクトがそれだ。
木々もそうだし、作物もそうだし、場面に彩を添える小動物や鳥たちもそうだろう。
彼らに命がない、という事はない。
だが、その命のありようは、ユウたちとは明らかに違う。
ユーセリアもそうなったのだろうか。
HPに縛られる命ではなく、元の世界同様に、生まれては滅びる生命の連鎖の中に還ったのか?
そうとは思えない、というのがユウの結論だった。
戦闘の前、明らかにユーセリアは自分の自我を見失っていた。
『元の世界に戻る』という、アンバーロードが伝えた目的ではなく、
単に『魂を食う』という、本来手段でしかなかったものに囚われてしまっていたのだ。
いわば、『生命』ではなく『自我という意識』を失っていた、と言える。
それは、個人が個人であるために必要なものだ。
それを失えば、人は人ではいられない。
ユーセリアの末路について、ユウはこれ以上考えるのを止めた。
空恐ろしくなったのだ。
ユウは、現実の地球に住むプレイヤーである、『鈴木雄一』という人格を持っている。
『鈴木雄一』が『ユウ』という衣を被って擬態したのが、今のユウであると言っていい。
ユーセリアという<冒険者>にも、同じように核となる人格があったはずだ。
だが、それは失われた。
では、そうなった<冒険者>とは、いったい何者なのか。
唐突に、ユウの前にそれは姿を現した。
黄金色の川だ。
その水しぶきのひとつひとつが金貨であることに気づいたユウは、唐突に思い出した。
地下に眠る、黄金の大渦。
どこで聞いたかは思い出せない。
ゲーム中のどこかで、フレーバーテキストのように聞いたのかもしれない。
あるいは、ネットで調べた考察サイトのどこかに書いてあったのかもしれない。
そう思いつつ、ユウはじっとその川を見つめた。
彼女の視界の右から左へと滔々と流れる黄金は果てしなく、ユウが思い立って手で掬い取れば、
その時点で彼女の資産は数十倍に膨れ上がるだろう。
いつまでそうしていたのか。
ユウはふう、と息を吐くと、その川を一歩で飛び越した。
後ろから名残惜しそうに、金色の光が輝いている。
だが、それは彼女のものではない。
何か、もっと大きな、巨大な装置の一部なのだと、彼女は何の根拠もなしに結論を下していた。
あの大渦を必要とするのは、どこか別の誰かだ。
ユウの旅に、それは一枚たりとも必要なものではなかった。
◇
さく、さく、と土を踏む音が変わった。
同時に、正面に別の光景が徐々に姿を見せる。
家だ。
おそらく遥か地底深くか、あるいはセルデシアとはまったく違う世界にあって、
それは奇妙に平凡な形でそこにあった。
形としては、<大地人>の市民によくある形に近い。
だが、次々と姿を現す家々が、まるで定規で正確に区切ったかのように、
整然とした町並みを形作っていることに、ユウは気づいた。
「やはりここは、ラインベルクの地下都市の一部なのかな……」
呟きつつユウの手がすらりと刀を抜く。
死者の襲撃に備えたのだ。
だが、注意すべき敵は視界のどこにも見当たらない。
ゆっくりと彼女は町に入り、石畳で舗装された道から、何の気なしに家の中を見た。
「!!」
そこには人がいた。
もちろん、生きた人間ではない。
さきほどのラインベルクの地下都市にいたゾンビのようなきれいな死体でもない。
ミイラ。
まるでエジプトの地下から発掘されたばかりのような、なかば白骨化した体に申し訳程度に毛と皮がはりついた、それはミイラだった。
「また死体かよ、勘弁してくれ……」
とっさに振り上げた刀をゆっくりと下ろして、ユウは思わずぼやいた。
目の前のミイラにHPはない。つまりはモンスターではない。
<装置>と同じ、物言わぬ物体>だ。
「ゾンビ、ミイラ、<湿地の不死者>……
運営もなんでこう、悪趣味なデザインがすきなのか……」
そのミイラは、その家の住人という設定なのだろう。
椅子に朽ち果てた体をきちんと座らせ、何も語らぬ虚ろな眼窩がユウをじっと見つめている。
「動かないだろうな……もうゾンビ相手はこりごりだ」
ユウのぼやきに答える呻き声もない。
彼女はようやくのことで死者から視線をはずし、黙って道路に戻った。
歩きながら考える。
ここはどこだ、といっても分かりはしない。
仮に先ほど目覚めた場所の、別の方角に出口があったとしても、方角すら分からない空間の中で、
出口にたどり着く自信は、さすがにユウにもまったくなかった。
どうせ現れるならもっとマシなモンスターにしてくれ、とばかりに歩く。
歩きながらも、先ほどの地下都市を越える異様さに、ユウは呻くしかなかった。
生前と並べられた、市民らしきミイラたち。
その奥に、まるで生きていた頃そのままに、それぞれ家を与えられた、おそらくは高位貴族であろうミイラたち。
そしてその奥、王宮のような広間の一隅に座る、豪奢な衣を纏った王らしきミイラ。
俯くような王を前にして、誰に言うでもなくユウが呟いた。
「もしかしてこいつら、ゾンビになり損ねたあの地下都市の住人か?
だったらやっぱりあの都市の一部なのか?」
『そうだな』
一瞬。
ユウは飛び退り、刀を正面に構えた。
まさか返事が返ってくるとは思わなかったのだ。
それも、目の前の玉座に座った、白骨死体と大差ない死体から。
「敵かっ!?」
『敵ではない』
奇妙に生命力をたたえた、どこかからかうような声が、ユウの誤解を笑うように周囲に響いた。
2.
『人間の客人よ、よく来てくれた。久方ぶりのことだ』
指一本動かさないまま、死体はそう喋った。
妙に友好的なその口調からは、少なくとも敵意も狂気も感じ取れない。
『あの黄金の川を越えてきたのか。珍しいこともあるものだな』
「お前さんが、ここの王様か?」
『生前は違う。だが今は、そうであろうな。私に命令する者はもはや誰もおらぬゆえに』
なおも警戒を緩めないユウを前に、声は、まるで手をひらひらと振るかのように軽く継げた。
『そう恐れずともよい。 私も、家々の市民たちも、指一本とて動かせぬ。
上に遺した、我々の体とは違ってな』
「上……? 遺した? ならばお前さんは、アルヴか」
『アルヴ……懐かしい名だ』
からり、とどこかで小石の落ちる音がした。
『上で装置を見たかね』
「装置? ああ、ユーセリアの動かしたアレか」
ユウの返答に、死体の声がわずかに苦味を帯びる。
『我々がここに葬られて何年たったか知らぬが、二度ほど装置が稼動するのを感じた。
そなたは、あの装置が何か知っているか?』
「さあね……人の魂を吸い込み、亡霊にする機械だろう」
『正確には、異なる』
会話を楽しんでいるのか、声はやや勿体をつけたようだった。
『あれは魂を一時的に保管し、大いなる流れに戻すために作ったものだ。
そなたらの先祖は、我々をただ殺すつもりはなかった。
男は殺し、女は犯し、子供は奴隷として飼い、アルヴ――そう、我々はアルヴだったのだな――の誇りを奪った家畜として生き長らえさせる。
そういうつもりだったのだ。
その善悪はもはや問わぬ。 アルヴにも憎まれる理由はあったのだから。
だが、滅亡を前にして、わが市民が選んだのは、奴隷としての生ではなく、尊厳ある死だ。
そのために作った、いわば自殺装置だったのだよ』
「……ほう」
ユウは刀こそ仕舞わなかったが、この奇妙な死体との会話を続けてみる気が起きていた。
「だが、残った死体はゾンビになっていたぞ」
『それはやむを得ぬ。残された身体がどうなるかなど、想定していなかったのだ。
まあ、それくらいは勘弁してもらいたい。我々とて人間に一矢報いたい気持ちはある』
どうでもよさそうに声は答え、不意に口調を変えた。
『ところで、そなたはどのようにしてここへ来た。
ここは私が統治していた街の最も奥にあった場所。滅亡と共に、更なる冥府の奥、
黄金の渦の近くまで落ちてきた場所にある。
ただの人ではたどり着けぬはず』
「こっちが知りたい。あんたのいう自殺装置を起動した馬鹿を止めるために、
市長の……恐らくはもともとあんたの印章を使った。
そうしたら変な場所に放り込まれて、その馬鹿と変な形で戦って、気がついたらここだ」
肩をすくめたユウに、声ははっきりと興味をもったようだった。
『ほう? そなたはアルヴではない。印章だけではあの装置は動かぬ。
そもそも起動させるにはアルヴの血が必要だったはずだ。どうやって装置を動かした?』
「起動させた馬鹿はハーフアルヴだったんだ。そいつを斬り倒したら起動した」
『面白いな、そなた。アルヴであった私の目の前で、混血を殺したと伝えるか?』
「そうだよ。嘘を言ってもしょうがないだろう」
『で、あの装置に取り込まれて魂を吸われることもなかったのか。
まあ、あの装置にアルヴ以外が触れることは想定していなかったからな』
どこか納得した口調の声に、ユウは語気を強めた。
「で、こっちからも質問がある。まず出口はどこだ?
そしてあんたは誰で、ここで何をしているんだ? さっき奈落の底へ落っこちたと言ったが、ここは何処だ。
建物も、あんたも、外の死体もずいぶん綺麗だが」
『まあ待て。順番に答えようではないか』
生徒の好奇心に答える教師のような口調で、声はゆっくりと語り始めた。
◇
『まず。状況から答えよう。
私はここで何もしていない。 見てのとおり、市民たちも全部物を言うことも動くことも出来ぬ。
魂がないからな。
私は最初にあの装置を起動した者だ。
その呪いか何かは知らぬが、私だけは魂の流れに戻れなかった。
とはいえ、あの装置が起動していなければ、私の意識もない。
ここでこうして話が出来るということは、あの装置は止まっていないということだ。
ただ、想定によればアルヴ以外は近づいても何も起きぬ。
ハーフアルヴであっても、自分の血をかけない限りは何も起きぬだろう……おそらくな。
奈落の底に落ちたというのは真実だが、一方で別に地面に穴が開いたわけではない。
推測だが、我々の魂が装置に取り込まれたと同時に、ある程度生前の街が再現されたのではないかな。
想念で建物を生み出すという魔法には、心当たりがある。
……そういう意味で、ここが装置の中か外かといわれれば、外だろうと答えるしかない。
理由はそなたが肉を持ってここにいるという事実そのものだ。
無論、そなたが先ほど見たであろう、古の黄金の大河も我々の関知したものではない』
「肝心なことを言っていないぞ。出口はどこだ?」
ユウが再び語気を強めると、至極あっさりと声は答えた。
『私の後ろから街の外に出てしばらく行け。<輪>がある。
どこかに飛ぶはずだ。その向こうは知らぬが』
「そうか。ありがとう。感謝する。それでは」
『まあ、待て。そう急くな。<輪>は逃げはせん』
足を踏み出しかけたユウをとめるように、声はおかしそうに笑った。
『せっかくの会話なのだ。どうせ私もしばらくすれば装置が止まって眠るだろう。
それまで少しの間、会話をしてくれてもよいのではないか?』
「いや、私にそんな義理は」
『出口を教えたぞ。その一事のみでもそなたは私に恩義があるだろう』
「実際に見たわけじゃないがね……」
ぼやきながらもユウは足を止めた。
なんだかんだといいながら、ユウも会話をする相手に餓えていたのだ。
「嘘だと分かればこの街を根こそぎ爆破してやるからな」
『勇ましいな、そなた』
おどけるような声に、完全に戦意を喪失したユウは、どかりと座って隣に刀を突き立てたのだった。
3.
『まず、私の素性から入ろうか。先ほど言ったように、私はアルヴだ』
ゆらり、と声のものらしき死体から陽炎が立ち上る。
その半透明の靄をユウが見ると、そこには<留め置かれし亡霊>という英語の文字が浮かんでいた。
レベル表示は、90。
ユウが僅かに警戒を蘇らせたことに、その靄は苦笑めいた嘆息をつく。
『まあ、今ではどうやら怪物に成り果てたらしい。
装置がとまれば眠ると先ほど言ったが、この調子だと狂って彷徨うだけかもしれぬ。
私の発言が変になりかけたら、早くこの場を去ったほうがよいようだぞ、客人よ』
「ずいぶん理性的なレイドモンスターなんだな、あんた」
『無用な戦いは私の最も嫌うところだ』
肉体があれば、おそらく肩をすくめていたところだろう。
靄から流れる声に、ユウはふとリラックスする自分を感じていた。
落ち着いて、会話を楽しむのは、思えば久しぶりのことだ。
グライバルトでは、話す相手の裏を読むのに忙しく、楽しもうなどとは考えもしなかった。
だが、地上にいるどんな生者よりも、目の前の亡霊は理知的だ。
ふと、ユウは長年引っかかっていた疑問を問いかけてみたくなった。
「アルヴの王様。私は<冒険者>、異世界からここに来たものだ。
異世界……といってもこの世界のはるか過去なのかもしれないけれどね。
あんたは<冒険者>の発生について何か知っているか?
例えばアルヴが何か大規模な呪文を作ろうとしてたとか」
アルヴの滅亡と、<冒険者>の発生――<エルダー・テイル>のサービス開始には、100年以上の開きがある。
だが、ユウも知る<六傾姫>の伝説のように、
アルヴとは人知を超えた魔法文明を誇る種族のはずだ。
その、一都市の長だったのが、目の前の靄であれば、何らかの情報を得ている可能性がある。
しかし、ユウの期待とは裏腹に、声はあっさりと否定した。
『私は一都市の総督に過ぎぬ。済まぬが、<冒険者>とやらも、誰がそなたらを異界から呼んだかも知らぬ』
「じゃあ、帰り道というか、異界を繋ぐ門とかにも心当たりは?」
『済まぬが……記憶にはない』
ユウがよほど落胆していたのだろう。
慰めるように声がかかる。
『ただ……伝説に残るかの未開の大陸……あそこについては私も何も知らぬ。
もし、そなたらが目指すものが眠るとしたら、あの大陸かもしれぬ』
「ウェンの大地に?」
『そうだ。あの大陸の詳細は私は知らされていなかった。
ただそこにあること、人間が住まぬ地であることだけを知っている。
そなたは人間ではなく<冒険者>なのだろう?
そこに何かがあるかもしれぬ』
「なるほどね」
ユウはすっきりとした顔で上を見上げた。
どこまで続くか分からない闇の向こうに、おそらく岩盤の天井があるのだろう。
視線を戻した彼女に、羨ましそうに声が言った。
『私はもう遥かな長い時を、この死した都市を眺めてすごしてきた。
<冒険者>の娘よ、そなたが羨ましい』
その声に敵意や悪意はひとかけらも入っていなかった。
自由に遊ぶ子供を前にした、身体の動かぬ老人のように、声はしみじみと語りかける。
『自由に動ける肉体も、青い空も、守るべき人々も失ってはじめて、ようやく本当の意味でそれらが大事だと私も気づけた。
……民の誇りを守り、苦しませず大地に還すにはあの<装置>を使うほかない、と分かってはいるが、
せめて私もそなたのように、もう一度生まれ変わりたいものよ』
「……そうか」
ユウは、ふと目の前の亡霊が漏らした呟きを、自分は死の瞬間思い出すだろうな、と考えた。
何の根拠もない。
ただ、この世界の死にはこういうものもある。
それを、忘れないようにしようと思ったのだ。
◇
『そろそろ行くといい。私も眠くなってきた』
どれだけ靄と話をしていただろうか。
しょうもない雑談も多かった。
どのように暮らしていたのか、元の世界ではどういった生活だったのか、
この地まで何を思ってたどり着いたのか。
自分の身の上話をしたのは、あのデンマークでの日本人プレイヤーとの会話以来だ。
話し相手はアルヴの亡霊で、もちろん『会社員』だとか『仕事』といった単語は
うまく理解できないようだったが、それでも時折相槌を打ちながら聞いていた。
ユウもまた、亡霊の語る昔話を熱心に聴いていた。
それは、<冒険者>が語る世界でも、<大地人>が語る世界でもない。
<エルダー・テイル>が始まる前、断片的な伝承で語られていた時代だ。
その時代に生きた彼は、話を続けるごとに次々と思い出を蘇らせていたようでもあった。
だが、そんな尽きせぬ互いの身の上話の時間も、やがて尽きる。
「もう行け」とばかりに別れの言葉を述べる靄に、ユウは意を決して言った。
「……眠らせて、やろうか」
『なに?』
問い返す靄に、ユウはちゃき、と左手に持った刀を見せる。
「あんたは見たところレイドボスだ。死んでいることは死んでいるが、
言い方を変えるなら『モンスターとして生きている』という状況にある。
真っ向からレイドボスを沈めるのは難しいが、あんたが協力してくれれば倒せると思う。
……あんたに、もう一度死をくれてやれる」
『そのような……だがしかし、危険だ』
むしろ案じるように声が言った。
『私はこの身体になってから戦ったことがない。
そなたの話では、私はモンスターであろう。
攻撃を受けたのをきっかけに、暴れださないとも限らぬ。
面白い話をせっかく聞いたのだ。そなたを殺したくはないぞ』
「大丈夫だ……とは言わないが、自信はある」
『……』
押し黙った靄が再び喋ったのは、数分は経ってからのことだった。
『ならば……頼めるか? 正直、この地下は時折耐え難い。
死者でなければ、とっくに狂っていただろう。
私も、先に行った民の元へ行きたいのだ』
「了解した。 ……抵抗しないでくれ」
ユウはゆっくりと死体に近づく。
期待に震えるように、半透明の靄がぶるりと揺れた。
「覚悟はいいな? ……では、介錯つかまつる。<アサシネイト>!」
ぶん、と振りぬかれた二本の刃は、狙い過たず死体の首を宙に跳ね飛ばしていた。
◇
ユウはゆっくりと歩いていた。
既に後ろにあった死者の街はない。
<留め置かれし亡霊>がHPを失って消滅した瞬間、煙のように消えうせたのだった。
(想念の街か)
思えば、これが幻影なのか、実際の出来事なのか、それすらユウには不明だ。
あの装置の中で見ている夢かもしれなかった。
(だが)
ちらりと、今は鞘に仕舞われた刀を見る。
先ほどまで毒々しい緑色の光を発し、靄を飲み込み、食らい尽くしたと思えないほどに
今は静かに主の腰にそれはあった。
特技を何度も叩き込み、ようやくHPを削りきって、なお緑の得体の知れない光で飲み込んだことに
小さな罪悪感を感じながら、ユウは歩く。
果たしてあの声の主は、成仏できたのだろうかと。
緑色の中で、僅かに輝いた黄金色の光点に、今は希望を求めるしかなかった。
「『毒と厄とで<毒使い>を守る』、か」
かなたに小さく虹色の光が見える。
<妖精の輪>だ。
目的の場所があったことに、かすかな安堵を覚えながら、ユウは光に向かって走っていく。
その時だ。
「ぐふっ!?」
突然視界がぐるりと回った。
続いて、だらりと暖かく赤いものが、ユウの視界を染め上げる。
彼女は、自分が横合いから何か鈍器で殴りつけられたことを、
何度もごろごろと無様に転がってから気づいた。
「<亡霊>か!?」
敵を前に、頭を割られかけた痛みに呻くような贅沢な時間はない。
立ち上がったユウは、片目に思えば居て当然の相手を映し出した。
「ユーセ……リア……か」
「殺す殺す殺す殺す食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う」
理知的だった目をどろりとした欲望に白濁させ、
<妖術師>の呪文の媒介のはずの杖でユウを横合いから殴りつけた男は、
そう呟きながら、何も映さぬ瞳のまま、にやりと笑った。
◇
「獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物獲物」
「ユーセリア……お前、<亡霊>か」
ユウは呻いた。
よく見れば、狂える<妖術師>の身体は後ろが透けて見えており、
輪郭は奇妙にぼやけている。
サブ職業も、どうやら違っているようだった。
<不死者>というサブ職業がある。
呼んで字のごとく、アンデッドの種族特性を得られるサブ職業で、
NPCだけでなく、一部のプレイヤーにも見られたものだ。
外見がアンデッドそのものの青白い肌になり、あまり外見的によろしくないものだが、
一部のギルドでは<死霊使い>と<不死者>のメンバーをそろえ、それなりに大規模戦闘で名を成した、とユウも聞いたことがあった。
その<不死者>の呪文に<亡霊転生>というものがある。
肉体が死んだとき、蘇生の代わりにかけておけば死者は亡霊として蘇るというものだ。
単に蘇生したほうが安上がりなのだが、一部のロールプレイヤーの中には好んでこの状態を好む者も存在した。
ユウの見たところ、彼はどういう仕組みか知らないが、その亡霊になったらしい。
<大災害>以降、亡霊になったプレイヤーを知らないユウは、彼が正気を失ったのが状態のせいなのか、それとも<装置>のせいなのかは分からなかった。
「獲物食う獲物食う獲物食う獲物食う獲物食う獲物食う獲物食う」
にじり寄るユーセリア――いや、亡霊に対して、ユウは牽制代わりに短剣を投げ打った。
<アトルフィブレイク>だ。
だが、半透明の肉体に短剣が刺さるものの、毒を受けた様子はない。
「……毒無効か」
切り札ともいえる自家製の毒を使うならばともかく、特技の毒は無効化できるらしい亡霊に、
ユウは自らを呪薬で回復しながら足を向ける。
狂っているとはいえ、相手は<妖術師>だ。
近接戦闘に持ち込むのが、唯一絶対のセオリー。
そう思った矢先、亡霊が消えた。
直後、ユウの目の前でにんまりと笑う姿がある。
「……<ルークスライダー>か」
「食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う」
ユウは飛べなかった。
その暇を持てなかったのだ。
振り上げられた杖が、音を立ててユウの頭蓋を割る。
「食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う食う」
自分が魔法職であることもわすれたように、亡霊はひたすらユウに乱打を繰り返した。
動こうにも、半透明の足がしっかりとユウの足を踏みつけ、動くことが出来ない。
蹴り飛ばす前に足が杖で打たれ、よろけた身体に雨のように打撃が降り注ぐ。
ユウの脳天が割れ、彼女の目がぐるりと回った。
「お、おげ……」
「食う食う食う食う食う食う食う食う死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」
見る見るうちに減っていくHPとともに、激痛と意識の混濁が徐々にユウを苛み始めていた。
(ユーセリア……きさま)
目の前の<冒険者>だったものに既に理性はない。
奇妙な仮面のように、満面の笑みを浮かべ、ただ目だけが血を吹く血管を隠そうともせずユウの視界を塞いでいた。
(死ぬ)
ユウがそう思ったときだった。
無意識に開いたステータス画面、特技の一覧表のひとつに光がともる。
半ば自然に、ユウはそのボタンを意識の中でクリックしていた。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……?? ……死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!」
ぎゃあ、と鳥のような叫びを上げて<亡霊>がのけぞる。
その一瞬の間に、ユウは折れかけた足をけりつけるように、距離を置いていた。
そのまま片手で割れた頭を抑え、走る。
脳を露出させられ、常人――元の世界のユウならば即死していてもおかしくはないが
HPの残った<冒険者>の身体は、それでもユウの意志の下に動いてくれていた。
視界の片隅に残ったユーセリアの姿が消える。
再使用規制時間を過ぎた<ルークスライダー>か、あるいは<ブリンク>だろう。
<ブリンク>の出口は完全なランダムだが、ユウは確実に自分を追ってくる、と感じていた。
だから飛ぶ。
脳が零れ落ちそうになるのも、酷使された大腿骨が罅割れるのも意に介さず、
<ガストステップ>で飛ぶ。
ユウが無様に転げながらも、ようやく呪薬を口にしたとき、彼女の目の前に虹色の光があった。
◇
不気味な頭のぬめりが消えていく。
粉砕骨折寸前だろう、折れかけた小枝のようにたよりなかった両足がしゃんと伸びていく。
そうしながらも、ユウは彼方からすさまじい勢いで走ってくる亡霊をじっと見ていた。
亡霊が飛ぶか、あるいは呪文を使おうとしたならば、すぐさま横に飛べる体勢だ。
もし、ユウがこの場所からの脱出を最優先にするのであれば、
このまま<輪>に飛び込めばよい。
残された亡霊は、食うべき獲物を探し、この地下を彷徨うことだろう。
……次に獲物が来るか、何らかの形で彼の魂が<大神殿>に転送されるまで。
だが、ユウはそうしなかった。
哀れな亡霊となった、ユーセリアのためではない。
先ほど介錯した、アルヴだった<留め置かれし亡霊>のためだ。
彼には、ユウは告げてないことがひとつある。
モンスターは再生するのだ……地下都市の死者たちのように。
もし、彼が安息の夢を破られ、再びこの地下に蘇ってしまったとき。
そのときはせめて、その平安を狂える魂のために汚させたくなかった。
だからこそ、ユウは刀を構える。
豆粒のようだった亡霊の姿は、いつしかその哄笑の顔すら見えるほどの位置に居た。
既に<妖術師>の魔法の射程内だ。
<ルークスライダー>を使った以上、<亡霊>がほかの呪文を使える可能性は大いにある。
彼女の視線が殺気をこめて、近づく亡霊をじっと見つめた。
「………死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
徐々に怨嗟の声が広がる。
その声がはっきりと聞き取れるようになった瞬間、亡霊の姿が三度消えた。
「死ね」
それは、真横からの声。
ぶおんと音を立てて、半透明の杖が振り下ろされようとする。
だが。
三度輝いたのは、亡霊の<ルークスライダー>だけではない。
「<アサシネイト>!!」
緑の刃が駆け下りる。
唐竹に割られ、一瞬黒い靄を噴出させた亡霊の前でしゃがみ、ユウは伸び上がりざまに次の攻撃を放った。
「<デッドリーダンス>!」
足を止めての打ち合いでも<暗殺者>を強者たらしめる、神速の八連撃だ。
亡霊のHPも、<暗殺者>の二度の絶技には耐え切れない。
亡霊――ユーセリアの全身から、黒い靄が吹き出る。
その靄に半ば包まれながら、ユウは奇妙にふわりとした感触の亡霊の胴を掴み締め、
刀を握ったまま、腰に力を入れた。
「……どっせい!!」
相撲で言う<掴み投げ>だ。
投げ捨てられた亡霊の背後に待つのは、<妖精の輪>。
「せめて地上に帰って死ね!」
ユウは、消えていく亡霊のHPが0であることを確認し、その半透明の肉体が虹の向こうに完全に消えたのを見ると、どかりと腰を下ろした。
改めて、脳髄を割られる痛みが蘇り、彼女の手が小さく額を揉む。
「あいつ、なんだったんだ……」
亡霊と化したユーセリアがどこへ行ったのか、
そもそも<冒険者>として復活できたのか。
あの<装置>とこの場所との関係は何なのか。
……そもそも、自分は本当に生きているのか。
頭の中を無数の疑問がよぎり、ユウはばたんと仰向けに横になった。
頭上遥か彼方に、小さく岩肌が見える。
しばらくその静寂の光景を見たあとで、ユウは目を閉じた。
(とりあえず、疲れた)
変わらず輝く<妖精の輪>の足元で、すうすう、という<毒使い>の寝息だけが
無音の空間に小さく広がっていった。




