103. <ラインベルクに眠るもの>
1.
何度も、夢に見た。
故郷の我が家の庭に咲く、小さな薔薇の花。
さして大きくもない会社で60近くまで働き、ささやかな一家を守った父が
老後の楽しみにと、丹精をこめて手入れした花だ。
老いた父は、自分が植物学を専攻することを、あきらめ交じりの苦笑で見送ってくれた。
「金にはならんぞ」 そう、一言を添えて。
母の作るザワークラウトは絶品だ。
叔父の作るワインに、実によく合う。
ひたすら成果を求められる大学に疲れ果て、退学して彼が家に戻ったときも
父は優しく、母も微笑して、惨めな敗残者である息子を迎えてくれた。
異世界に漂流した、こんな状況であっても、きっと父母は心配しつつも息子の帰りを黙って待ってくれることだろう。
元の世界に残した体は、どうなっているのだろうか。
決して安くない費用を払って、父母は病院に自分を運んでくれただろうか。
功成り、名を遂げたときには結婚する約束だったあの娘も、そばについてくれているだろうか。
故郷は暖かかった。
信じた仲間に裏切られ、信じてくれた仲間を裏切り、生きるために生きてきた異世界の、無残なまでの冷酷さとはまったく違う。
帰りたい。
死すら終わりではない、無限の牢獄のようなこの世界を抜けて還りたい。
かすかに好意を持っていた異性の友人が、共通の親友だった男の手によって、
目を絶望に沈めたまま、あたかも屠殺される家畜のように、奴隷市場への馬車に乗り込んだとき。
人を集め、正義を信じ、友情を頼ってもなお、それをとめることができなかった事に気づいたとき。
彼は、この世界のあらゆる物を利用してでも、故郷に帰ることを決めたのだった。
◇
「これで……最後だ!」
ニーダーベッケルの刃が、最後の盗卵竜を切り倒した。
背丈が人ほどもある、数十匹の肉食恐竜に襲われても、彼の刃はまるで何事もないかのように曇りがない。
それは、まるで現在のニーダーベッケルの心境のようだった。
信頼する上官、慕情を抱いた女性、二人の友人から託されたものが
今のニーダーベッケルを支えている。
つい数日前、死んで復活できないという恐怖に怯えながら、汲々と任務をこなしていたことが、夢のようだ。
「さすがだのう」
後ろから聞こえる初老の男――ラインベルク市長の声に振り向いて、にっと歯を光らせる。
「ああ。任せておいてくれ。それより、急ごう。なんとしてもユーセリアの思惑を阻まないと」
頷きあった二人は、改めて馬に乗ると走り出した。
◇
ユウがランズベルク伯爵、アルフリッドから聞いた情報は、すぐさまニーダーベッケル、そして彼を通して市長へと伝わった。
アルフリッド、そして彼の父たる陰謀の主権者、クロデリクが、非公式な同盟者であるユーセリアに与えた報酬はただひとつ。
グライバルト追放という名目での、ラインベルクの駐屯。
表向きの理由は簡単だ。
事実上グライバルトのNo.1となったフルク執政官と、彼の股肱たるNo.2、ユーセリアの切り離し。
ローレンツという反逆者を生んだ<グライバルト有翼騎士団>への懲罰。
グライバルトに駐屯することで得られる各種の特権を、もはやランズベルクの幕下であることを隠そうともしない<七花騎士団>、そしてそのリーダーたるボスマン「フォン・フォイエルバッハ男爵」に与えるため。
グライバルトの<冒険者>の有力者の中で唯一、今回の騒動で政治的な動きを見せなかったグンヒルデへの褒章。
ユーセリアは、多くの<冒険者>がどこか胡散臭い視線を向ける中、腹心の十数人と共にギルドを除名され、ラインベルクへと旅立った。
その行程は、後を追うニーダーベッケルと市長から、優に二日は離れている。
おそらく今頃は、<七花騎士団>が一斉に去り、もぬけの殻になったラインベルクに、
意気揚々と駐屯していることだろう。
クロデリクも、アルフリッドさえも、ユーセリアのその行動は、単なる虚栄心と防衛からの行動と決め付けていた。
ユーセリアが<大神殿>を維持できる期間は、もって数ヶ月だ。
その後、復讐に燃えるローレンツを迎え撃つために、純粋な防衛力としてはグライバルトをしのぐラインベルクに拠るのであろう、と彼らは思った。
年経たクロデリクでさえ、ラインベルクに眠るものが何なのか知らなかったのだ。
それは、今ニーダーベッケルと共にいる市長を除けば、かつてのラインベルク伯の末裔であり、今は地下牢で処刑の日を待つエゼルベルトしか知り得ないものであったから。
「生物の魂、その強制剥離……」
ニーダーベッケルは走りながらも、思わず口の中でつぶやいていた。
不気味な言葉だ。
人、あるいはその他の生物から魂を抜き取り、装置の中に入れる。
それによって、人は人たる意志を残しつつ、別の生物へと変わることができる。
かつてのラインベルク伯が研究していたのはそれだけではない。
いずれは、魂を純粋に思念体として作り変え、他の生物の魂を吸収して、世界すら飛び越えうる存在へと変える。
言うなれば、人工の浮遊霊の製造だ。
あたかも、モンスターとしての吸血鬼が<大地人>の血を吸い、吸血鬼の下僕に作り変えるように、人工浮遊霊は人の魂をすすって生きる。
<大地人>の認識では50年近く前に起きたおぞましい事件、
<冒険者>から見れば、ホラー調のちょっと毛色の変わったクエスト。
とうに終わったはずのそれは、今もなおラインベルクの地下に人知れず眠っている。
『ユーセリアがそれを狙っているのかはわからない。だが、現状何もしなくてもユーセリアは数ヶ月で破産し、ローレンツを開放せざるを得なくなる。
そんな中、あいつが裏切りの代価に望んだ銀貨としての、ラインベルク駐屯権。
一本、線が繋がると思わないか』
念話によって、どこか無機質に響いたユウの声は、今でもニーダーベッケルの脳裏に響いている。
ランズベルクの暗躍は、アルフリッドによる強制的な自白によって自明のものとなった。
<七花騎士団>、各商会、そして職工組合長、そうした陰謀の参加者たちも、ユウたちには知られている。
彼らの目的が、現状の状況だというのも織り込み済みだ。
唯一。
ユーセリアだけが、一連の陰謀から利益を得ておらず、暗躍を止めていない。
2.
ニーダーベッケルと市長に、ユウが追いついたのは、ラインベルクの城壁まであと半日足らずとなった頃のことだった。
「町の様子は?」
「……特に、変わったところはなさそうだの」
汗血馬から下りたユウに、城門を見ながら市長が言う。
時間は、細工して夕暮れだ。
市長の生存と復権については、アルフリッドを通してクロデリクにも伝えてある。
彼らとしても、市長の死はグライバルトとラインベルクを対立させる一ファクターとしてのみ重要であったから、事が成った今、彼が生きていることそのものは障害ではない。
大きく現状を変えず、ランズベルクの旗の下でのラインベルク復権を約束したことで、
クロデリクたちも、少なくとも表向きは猜疑心を捨てたようだった。
現状、<大地人>の衛兵に市長が顔を見せれば、復権は容易だ。
だが、それはユーセリアという要素を無視した場合だ。
自分以外にラインベルクを統括し、市長公邸に住む者を、彼が許すとは思えない。
だからこそ、今度もまた、ユウたちは闇にまぎれて潜入することにしたのだった。
「確認しておく。市長公邸の地下にある、その往年のラインベルク伯が作ったという魔法装置だが」
ユウの声に、市長は手を広げて訂正した。
「厳密には市長公邸の地下ではない。このラインベルクにはアルヴ時代の地下都市がそのまま眠っている。
当時のアルヴ貴族の居城の上に市長公邸――かつての伯爵城館が築かれておる。
そして、ラインベルク伯はそれを動かしただけ。装置自体もアルヴのものじゃ」
「アルヴが、ねえ」
<冒険者>の中にもハーフアルヴという形で血を伝える往古の民族の名前を、市長はまるで呪わしいもののように吐き捨てた。
そのまま続ける。
「市長公邸から地下の旧アルヴ居城に繋がる地下道は、厳重に封印しておった。
じゃが、<冒険者>のこと、とっくに封印は破られているじゃろう。
ただ、最後の封印は解けぬはず」
そういうと、市長は首元に下げていたものを手の上に乗せた。
ラインベルク市長であることを示す、市長印章だ。
「これが、最後の鍵、そのひとつじゃ。かつては伯爵の印章じゃった。
アルヴの血を引くものの血、この印章、二つがそろって装置は起動する」
「そういえば、以前攻略サイトで見たことがあるな……」
まじまじと市長の手で光る印章を見ながら、ニーダーベッケルが呟いた。
いかなる素材でできているのか、印象はみずから光を放ち、水面にゆれる陽光のように、
やわらかくたゆたっている。
「なるほど。……地下道の地図はある?」
「ない……が、わし自身が覚えておる。案内しよう」
「いや、それは」
ユウは、使命感に満ちた市長の顔を見て、あわてて手を振った。
「地下都市がどうなっているかわからない。<大地人>であるあんたを連れて行くわけにはいかない。
最悪、守りきれない可能性もあるから」
ユウの返事に、ニーダーベッケルもうなずく。
ただでさえ、状況不明のダンジョンなのだ。
これからラインベルクの再建を担うべき人材を、無為に捨てていい場所では、断じてなかった。
だが、市長は首を縦に振らなかった。
「そなたらは二人ともハーフアルヴではなかろう。
わしは、元ラインベルクの騎士の出。わずかながらアルヴの血が混ざっておる。
わしが行けば、装置を起動させ、その後に破壊か、停止させることも可能かもしれん。
何より、事が起これば真っ先に滅びるのはわがラインベルク。
よそ者に過ぎぬそなたらに、ラインベルクの命運を託すわけにはいかぬ」
「だがな……」
ユウとニーダーベッケル、二人の<冒険者>は目と目を見合わせた。
その片方、ユウの目が不意に危険な翳りを帯びる。
気絶させるか、足をへし折るか。
ともあれ、物理的についてこれない形にしたらどうだろう、と頭で『<暗殺者>のユウ』が囁く。
結局、ユウはその言葉に従わなかった。
ヤマトにいたころの彼女であれば、一も二もなくその内なる声に従っていたことだろう。
だが、既に彼女は、自ら危険な<暗殺者>であることをやめていた。
「……ニーダーベッケルのそばを離れるな。ニーダーベッケル、すまないが市長の護衛を最優先で頼む。
私が倒されたら、可能な限り全力で地下都市から脱出してくれ」
しばらくたって、ユウの口から漏れた言葉は、愚かとも言える選択をした市長への怒りと、
そしてかすかな尊敬によって、わずかに揺れていた。
◇
饐えたような黴の臭いに、ほんのわずかに死臭が混じる。
周囲をすべて壮麗な石組みで覆われ、太陽の光を浴びなくなって久しいその廃墟は、
どこかこの世ならざる異界のような、不気味な空気で満たされていた。
カツン、カツン。
舗装された石畳の道路を、装備した<秘宝>級の長靴が叩く音だけが、
しんと静まり返った静寂の中に、時計が時を刻む音さながらに規則正しく響いていた。
彼も人間だ。
恐れは、無論ある。
これから自分を待っているであろう、人ならざるものへの変貌。
そうなってなお、今の自分を維持できるかどうか、彼には自信がない。
だが、もはやここまで来てしまった。
もし、市長公邸の奥の閉ざされた扉を開けなかったとしたら。
彼は、<大地人>都市の有力者として、平穏な生活を送れただろう。
襲ってくるローレンツたちも、彼が名実共に所有者になった、公邸までは入れない。
陳情を聞き、政策を決済し、グライバルトやランズベルクと連絡を取り合って、優雅な貴族生活を楽しむ。
そんな未来を得られたはずだ。
だが、彼はもう来てしまった。
陰謀に加担した汚名も、仲間を裏切った悔恨も、得られた平穏な生活も、
すべて掛け金につぎ込んで彼は来た。
もう、引き返せない。




