番外1. <夏の日>
時系列的にはハダノに行った直後くらいになります。
時間とは不思議な現象である。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、苦しい時間はいつも終わらない。
友人と駆け回って遊ぶ夏の日、朝に開け放した窓から吹く風を浴びる一時、
小遣いを抱えて屋台を見て回る縁日の夕暮れ。
大人になるにつれて、時間とはもっと無常なもの―楽しい時も苦しい時もあっという間に過ぎ去り、
死という大河に流れ落ちていくもの―という事実に多くの人は気づいていく。
あの時ああしておけばよかった、若い頃にもっと色々とすべきだった、と思うのはいつも年老いてから後のことだ。
だが、若い時代は死とは遠く彼方にあるものであり、楽しい時間はいつも足早に通り過ぎながらも
また次の楽しい時間をもたらしてくれるものだ。
子供にとっての夏の日は、毎日がそういった理不尽で魅力的なひとつのイベントだった。
1.
「トールスさんちにいってくる!」
コルネートは、そういって靴すら履かずに家を飛び出した。
まだ早朝といってもいい時間帯だ。
親戚でもない他人を尋ねるにはいささか不見識といわざるを得ない。
だが、まだ生まれて10年経ったばかりの少年に過ぎず、遊び盛りの彼にとっては
これでもぎりぎりまで待った時間だった。
「ちょっと!せめてサンダルは履いていきな!あとこれ!」
母親の怒声と共に、後ろから放り投げられた野菜の束を、コルネートは器用に後ろ向きのまま受け取り、
そのままわき目も振らずに駆け始めた。
何しろ真夏の間は農作業の手伝いも少ないのだ。
熱が出るといけないから、と草むしりや掃除などは夜明けのうちに済ませてしまう。
その後は、子供にとっては一日が遊ぶためだけの楽園だ。
「コル!遅いぞ!」
「すまん、アレク!ニジェ!クラリス!」
村を流れる小川のふちで待っていた悪童仲間と落ち合うと、そのままスピードを緩めることなく
コルは村の中央近くの一軒の雑貨屋を目指して走り出した。
「ねえ、待ってよ!」
「ぐずぐずしてるとおいてくぞ、クラリス!」
友人の少女に叫びながら、顔がドクドクと膨れていくような感覚に、コルは内心恥ずかしさを覚える。
それが、これから少年が向かう雑貨屋にいる人と話すことへの期待だとわかってはいるけれど。
「今日は何を聞く?」
「それよりあの赤い馬に乗ってまた走りてえよ」
「私、あの人に物語を聞かせてほしい。こないだの<政治的に正しいシンデレラ>、面白かったもの」
「おれは<歴史的に正しい桃太郎>のほうがいいなあ」
「まてまて、今日は最初は俺の番だぞ」
わいわいと言いながら、少年たちは夏の朝を駆けていく。
今日も楽しい一日になるという予感と共に。
その雑貨屋は、コルたちの暮らすイチハラの村の中央に近い一角にあった。
店名も暖簾もなく、老人が一人でやっているだけの雑貨屋だ。
その店に、奇妙な女性が住み着いたのは、数ヶ月前のことである。
<ボウケンシャ><自分たちと違う生き物>
最初、そう囁かれていたその女性は、落ち着いた人当たりのよさと、何よりその頃村の近くに来ていた<人食い鬼>を退治したことで、徐々に村に受け入れられていった。
口数こそ少なく、また声もとても女性と思えないしゃがれた声だったが、鄙びた辺境の村であるイチハラでは見たこともない美しさに、まず男たちが態度を軟化させ、
続いて浮ついたところのない態度で村の女性たちも警戒を解いていった。
そして、コルたち子供にとっては、いつの間にか警戒すべき他人から、
<変わった話をして、面白い遊びを一緒にしてくれるお姉さん>になっていたのだ。
「ユウおねえさーん!いますかー?」
息を整え、雑貨屋の前でコルが叫ぶ。
既に雨戸は開けられていたが、店内に人影はない。
「あのー」
「お、コル坊たちじゃないか。おはよう」
後ろから聞こえた声に4人の子供たちが振り向くと、
そこには長い黒髪を後ろにひとまとめに結び、畑にでも行っていたのか鍬を担いだ<お姉さん>がいた。
「こ、これ!うちの母ちゃんから!」
コルは自分を覗き込むユウと目線を合わせず野菜の束を突き出した。
お、これはすまない。と受け取るユウを見ず、ぴんと立ったまま奥に引っ込むユウを見送る。
(なんで最近こうなんだ?いつもはこんなに緊張しないのに)
最近、ユウと会うたびに不思議にドクドクと音を立てる心臓を感じながらコルは思った。
ついこのあいだまでは普通だったのだが、ここ数日は毎日こうだ。
動かないコルに首をひねりながら、ユウは奥にいるらしいトールスじいさんに
「おーい、コル坊の母さんから野菜の差し入れだってさ」
と叫ぶ。
その後姿からふわりといい匂いが漂い、コルは頭がくらくらしてくるのを感じた。
「で、お前さんたち。今日は何しに来たんだ?」
「……」
喋らないコルに業を煮やし、後ろにいたニジェが言った。
続けて紅一点のクラリス、さらにアレクもわいわいと話し出す。
「お姉さん。今日は俺、馬に乗りたいんだけど」
「馬か。いいね。じゃあ今日はちょっと散歩するか」
「あの、その後またお話聞かせてほしいの」
「お、そうかね。じゃあ何にする?」
「またお姫様の話!」
「そうか。じゃあ今日は<地獄の公爵夫人エリザベート・バートリ>でもするかねえ」
「なんかそれ怖そう……」
「俺はかっこいい話がいい!ユウお姉さんの冒険の話、また聞かせてよ」
「じゃあ、<スザクモンの鬼祭り>に参加したときの話かな。
ともかく、そこじゃ暑いから、店においで」
子供たちに両手を挙げ、ユウが差し招いた。
「おい、コル!いつまでぼうっとしてんだよ、早く来いよ」
一人何も喋らなかったコルは、焦れたようなアレクの声にあわてて歩き出した。
(やっぱり、何か変だ)
2.
村から出てすぐは、地形に合わせて点々と畑が広がり、その向こうには森がある。
ユウも手馴れたもので、森から適度に距離を置き、同時に日陰を作る大樹がまばらに生えているあたりの草地で子供たちと一緒に遊んでいた。
汗血馬も、またかというようにぶひんと鼻を鳴らし、子供たちを乗せて駆け回っている。
その中で、コルは不思議と馬に乗る気も起きず、ユウの隣に座っていた。
「どうした?暑いか?」
そういってユウが差し出した水筒代わりの竹の筒を受け取ると、コルは曖昧に笑った。
「いや、大丈夫」
「そうか?気分が悪いならそこへ寝るといい。無理なら家まで送るから」
「日陰だし大丈夫」
「そうか。無理するなよ。おおーい、あんまり強く蹴るなよー。汗血馬が怒るぞー」
後半の声は、どかどかと馬の腹を蹴るニジェに対してのものだ。
彼、そしてアレクは馬に交互に乗っては疲れを知らないように遊んでいる。
クラリスは、先ほどユウが聞かせた<原典を忠実に再現した白雪姫>がちょうどいい寝物語になったのか
コルの横ですやすやと眠っていた。
「ねえ、お姉さん」
「なんだ?あと、お姉さんなんて年でもないからおばさんかおばあさんでいいよ」
「でも同じことを隣のリン姉ちゃんに言ったら気絶するほど殴られたんだ」
「……お姉さんでいい。で、どうした?悩み事でもあるのか?」
ユウの顔が優しげに微笑む。
その顔を見ていると、ふとコルは不思議な気分が消えていくのを感じた。
「いや、なんでもない」
「よくわからんな」
苦笑するユウにへへへ、とコルも笑う。
彼は遊び続ける友人たちをちらりと眺めた。
不思議と、今までが嘘のように安らかな気分だった。
「ねえ、ユウお姉さんって昔子供がいたの?」
その気分のままにふと気になっていたことを尋ねる。
だから、コルはユウが一瞬笑顔を消したことにも気づかなかった。
答えは、コルが不思議に思うほど長い沈黙の後に返ってきた。
「……ああ、いたよ」
「じゃあ、うちの父ちゃんと母ちゃんみたいに、ユウお姉さんもケッコンしていたの?」
「……ああ」
ふとコルが見上げると、ユウは変わらず少年に微笑んでいた。
少年も微笑み返す。
ユウの顔が一瞬別の表情に見えたが、コルにはまだそれ以上の何かを、目の前の女性から読み取ることはできなかった。
ただ、ユウが機嫌が悪くなっていないことだけを感じ、そのまま質問をぶつける。
「ケッコンした人と子供は今どこにいるの?」
「……遠いところにいるな。死んではいないけど」
「会いに行かないの?」
ぽんぽん、とコルの髪に手が置かれる。
優しい手だった。
「……私が<冒険者>だというのは知ってるね?」
「うん。父ちゃんに聞いた。<冒険者>はとてもナガイキで、とっても強くて、
どんな怖い敵でもやっつける、無敵の人たちだって」
「そうだなあ」
コルの頭に手を置いたまま、ユウが視線を彼からはずす。
アレクとニジェを見ているようで、どこかふわっとした目だな、とコルは思った。
同時に、再びかすかに自分の胸が騒ぎ出すのを彼は感じていた。
(あれ?)
「コル坊、私たち<冒険者>はね。確かに強いんだよ。
でもね。その代わりに家族や子供に会えなくなる。
女ぼ……結婚した相手ともそうだ。全員じゃないけどね」
「そうなんだ。会いたくないの?」
「会いたいよ、もちろん。コル坊の両親のことを考えてみるといい。
お父さんはお母さんに会いたくない、なんて言うかい?」
コルは首を振る。
「コル坊にも毎日だって会いたいはずさ。それが夫婦だし、親子っていうもんだ。
でもね。私たち<冒険者>はそれができない。
できないくらい遠いところに来てしまったんだ」
「そうなんだ」
ようやく微かに、コルは笑みを浮かべるユウの心の一部を感じ取る。
「悲しいの?お姉さんは」
「大人は普段は泣かないものだ。また、もし会えたら、その時に山ほど泣くさ」
ああ、この人は寂しいのか。
寂しくて悲しくて、でも笑ってるんだ。
コルは唐突に気がついた。
それは、今までのコルとは異なる感情の捉え方であり、彼がひとつ大人になろうとしている証でもあったのだが、思春期にもまだ早い彼にはそれ以上、その感情を整理するための言葉は持ち合わせていなかった。
ただ年の離れた友人―そういってもいいだろう―の気持ちを慰めようと言葉をつなぐ。
「俺も会いたいよ。ユウお姉さんの子供。
遠いところっていっても、絶対に会えない訳じゃないんだろ?
もし会えたら、俺、この辺の遊び場をいっぱい教えてやれるし、
うまい桃がなってる場所も一緒に連れてってあげるよ。
子供って、何歳くらいなの?」
自分を愛おしそうに見下ろすユウに、くすぐったいような気持ちが溢れる。
「そうだな。二人いてね。上はちょうどリンちゃんくらい、下はコル坊くらいだよ」
「へえ!じゃあ下の子とは友達になれるね!」
「ああ、もし会えたら仲良くしてやってくれ」
再びぽんぽん、と頭をなでられる。
その感触にふと、コルは自分がユウの息子だったらと考えた。
(うちの母ちゃんと違ってこんな若い母ちゃんだったらすごいよな。
毎日会えるし、毎日「コル、ご飯だよ」とか言うし、
眠るときは添い寝もしてくれて、いい匂いに包まれて眠るんだ。
眠ってるユウお姉さんにくっついて……)
眠るユウに自分が抱きついている光景を想像した瞬間、
ドキン、と大きな音が胸の中で飛び跳ねる。
その音はあまりに大きく、目の前のユウに聞かれてしまったように少年には思えた。
沈黙が落ちる。
コルは羞恥で、ユウは別の何かに心を向けているようにどちらも喋らない。
ふと、コルは自分の感情が再び変化している事に気がついた。
甘やかな気分ではなく、どこかどろどろとした、どす黒い何かが心に生まれている。
(ユウお姉さんの子供って羨ましいな。お姉さんに子供だからって
会えなくても大事に思われて)
そう考えたコルはいつしか、隣り合って座っていたユウに背を向けていた。
「どうした?」
「なんでもない!」
「?」
急激に不機嫌になったコルに、ユウの顔が不思議そうなものへと変わる。
(俺に優しくしてくれるのは、子供の代わりだからなのか?)
それこそ子供らしい論理の飛躍でそこまで考え、コルはユウの顔すら見たくなくなった。
その優しい笑顔も、コルだからではなく子供と同年代の子供だったら誰でもいいからじゃないのか、と
自分でも不思議なほどに刺々しい気分で思う。
「どうした。本当に変だぞ、今日のコル坊は」
「なんでもない!もう話しかけないで!」
「よくわからんな……」
うーん、と唸ってユウはふと欠伸を漏らした。
「んじゃあ、寝るか。コルも遊んでいいぞ。友達と喧嘩するなよ。なんかいたら起こせ」
そしてごろりと横になる音が響き、一瞬ですうすうと寝息が聞こえた。
(はや!)
子供並みの入眠速度にコルが驚いて振り向くと、ユウは大の字になって眠っていた。
息をするたびに大きく実った二つの胸がかすかに上下に揺れている。
その姿を見ているうちに、今度はコルの胸を罪悪感が埋め尽くしていった。
(なんでひどい言い方したんだろ……ユウお姉さんがそう思ってるはずないのに)
泣くか逃げ出したい気分で空を見上げる。
いつの間にか午後になっていたらしく、太陽はやや傾き、それでも大地に満遍なく日光を降り注がせている。
その中で眠る白い肌の美女は、陽光の中でまるで場違いな存在に見えた。
ふと、風にふわりとユウの黒髪がなびいた。
その一本がそのまま離れ、見つめる少年の手に落ちた。
(……!)
三度変わった自分の感情に翻弄されながら、コルはその髪の毛を大事に懐にしまうと、
その行動に自分で驚く。
思わず見た友人たちは相変わらず馬にどっちが乗るかで怒鳴りあっており、
コルのほうなど見てもいなかった。
そのことに深く安堵しながら、コルもふと眠気が襲ってくるのを感じた。
(あ……)
コルの年で襲い来る睡眠欲を抑えられるわけもない。
ごろりと転がろうとすると、寝返りを打ったクラリスが自分の横になる場所を奪ってしまった。
みるみる鈍っていく思考の中で、ふとコルは思いつく。
「えへへ」
ユウの腕の中、質素な麻の服一枚だけをまとった<お姉さん>に寄り添うようにコルは横になった。
勝手に腕を枕にされたユウが唸るが、気にせずそのまま眠りに身を任せる。
目の前にはユウの胸と脇腹があり、やわらかいそれらにコルはすりつくように横を向いた。
そして眠りに落ちる瞬間、少年は自分が何か暖かいものに包まれるのを感じた。
それが、寝返りを打って横になったユウが自分を抱きしめたことによるものだと気づく前に
コルは彼女の胸の中で意識を失っていた。
3.
「気をつけて帰れよー」
夕暮れ時。
家路へ急ぐ子供四人に手を振って、ユウが叫ぶ。
「毎日大変じゃの」
コルの親にもらった茄子を付け焼きにしたものを口に運びながら、トールスがそんな彼女に声をかけた。
「なに、子供と遊ぶと気がまぎれます」
いただきます、とユウもテーブルに着くと、付け焼きを口に運ぶ。
最近ケールメルスが仕入れてきた苦味のあるワインにもよく合うのか、
「こうなると味噌汁と白い飯が欲しいな。いや日本酒がいい。どこかあるかもしれんなあ」などと呟きながら猛スピードで口へと運んでいった。
「なに、逃げはせん。ゆっくり食べなされよ」
ちなみに、トールスの食卓は彼が用意したものではない。
ちょっとした割引と引き換えに、近所の老婆が作ってくれるのだ。
しばらく物を食べる音だけが響いた後、ふとトールスが首をかしげた。
「そういえばコル坊がずいぶん神妙じゃったの。『ごめんなさい』というておったが、
なにかあの腕白がいたずらでもしましたかの」
「さあ?」
昼の一時の態度など完全に忘れているユウが首をかしげる。
そもそも、昼寝から目覚めたときは既にコルも起きだした後だったので
彼が自分の腕の中で寝たという意識もない。
「まあ、知らん間にいたずらしおるからの。気をつけることじゃ。
そういえば今日はお前さんも楽しそうじゃな」
少年についての疑問も忘れ、トールスは次の質問をした。
子供と遊ぶときはたいてい上機嫌なユウだったが、今日はさらに上機嫌だったのだ。
「まあ、なにがどうだったってわけでもないんですけどね。夢を見たんですよ」
「ほう」
「久しぶりに子供の夢をね。私と下の子供と二人で横になって寝てる夢でした」
「夢の中でまで寝ておるのか。というか眠る夢ってなんじゃろうな……」
呆れたトールスに、ユウは楽しげにははは、と笑ってみせた。
夏の日はまだ終わる兆候を見せていなかった。




