87. <海龍と暴君>
1.
船は進む。
アルヴァ・セルンド島を出航した、ユウを乗せた小さな帆船は、複雑に向きを変える海流と風の流れにうまく乗りながら、一路大陸を目指していた。
「おおい、珍しいものが見えるぞ」
忙しく帆を操っていた<大地人>の声に、甲板に横になっていたユウはのろのろと目を向けた。
別に昼寝をしていたわけではないことは、黄色人種にしては白い肌がさらに青みがかっていることで窺える。
平たく言えば、彼女は船酔いだった。
狭く、臭いの篭る船倉では眠れないため、甲板に大の字に伸びているのだ。
「……うっぷ」
吐くものももはやなく、苦しげに喉をひくつかせながら、彼女はよろよろと立ち上がった。
そのステータス画面には、『朦朧』の状態異常効果のアイコンが楽しそうにくるくると回っている。
それを憎憎しげに睨み付け、ユウはふらふらと舷側にたどり着くと、海面をできるだけ見ないように船員の指差す方向を見た。
「ほれ、見たら酔いも吹き飛ぶぞ」
ユウの目が大きく見開かれた。
海が、うねっている。
「……<大海龍>」
海と見えたのは、蒼銀に輝く巨大な鱗だ。
遠くからでは幅が何メートルあるのかもわからないほど、巨大な胴体が、いつ果てるともなく波間から躍り上がっては、即座に没していく。
ユウが見ている間だけでも一分以上、<大海龍>は胴だけを人間たちに見せ、悠然と鱗を煌かせていた。
気分の悪さも忘れ、思わず船べりを握るユウを尻目に、<大地人>たちは忙しく帆の向きを張りなおす。
その顔には、大隊規模戦闘ランクモンスターでも屈指の怪物を前にした恐怖よりも、むしろ有難いものを見たような顔が浮かんでいた。
中には、海中を跳ねる<大海龍>に軽く頭を下げている<大地人>もいる。
そんな彼らがふと気になり、ユウは振り向いた。
「なあ。<大海龍>は<冒険者>や<古来種>でもおいそれと相手にできないモンスターだけど、
怖くないの?」
大規模戦闘者ではないユウはもちろん戦ったことはないが、<大海龍>は西欧サーバを中心に有名なレイドボスだ。
キャンペーンのボスも勤めていたこともあり、日本の攻略掲示板でも比較的有名な敵だった。
海底洞窟に追い込めば陸戦で戦えるが、それまでは洋上戦闘を強いられることもあって、難易度は陸上のレイドと比べても格段に難しい。
そんな予備知識があったからこその言葉だが、緊張感をはらんだユウとは対照的に、<大地人>の声は至極のんびりしたものだった。
「いいや、別に。そりゃ近づこうとは思わないけどね。
別に襲ってくるわけでもないし、むしろこのあたりにいた鬼牙鮫があれが出てきていなくなったからね。
わしらにとってはありがたいくらいさ」
「へぇぇ」
ユウは感心した。
思えば、とふと、もやもやとしていた疑問に形が生まれる。
この世界がまだ<エルダー・テイル>であったころは、モンスターとはどこからか発生してどこかに消えるものだった。
それは、<大地人>や普通の動物も含め、現実同様の世界になった今のセルデシアでも同じだ。
だが、どう生まれたにせよ、生物である以上、生きるためには何かを食べなければならない。
では……<大海龍>のような生物系のレイドボスは何を食べているのか?
「<大海龍>は鮫を食べるのか?」
「さすがに見たものはおらんがね、そうじゃないのかな」
舵棒を持った船長が苦笑し、ユウも似たような笑顔で答える。
彼らは別に海洋学者ではない。<大海龍>の食性など興味もないだろう。
ただ、見たことのないモンスターが現れて、困りごとを解決してくれた。
その程度の認識なのだ。
ユウは再び振り向き、<大海龍>を見た。
よく晴れた空に、鱗が宝石のように輝いている。
2.
ユウが下船したのは、ある浜辺だ。
ドイツか、ポーランドか知らないが、遠浅の海が打ち寄せる穏やかな浜辺に降り立ち、ユウは別れを告げる<大地人>たちに大きく手を振った。
彼らは、ユウも積極的に関与した騒動によって、住み慣れた村を捨てざるを得なくなった人々だ。
思うところもあるだろうが、それでも律儀に船を出してくれた彼らに、ユウは感謝しかない。
たとえ、それが少なからぬ金貨を媒介としたものであっても、だった。
船の帆が水平線に消えるまで手を振った後、ユウはさて、と独り言をもらした。
振り向いた先には、こんもりとした森が一面に広がっている。
人の手が入った、整備された明るい森ではない。
太古、ゲルマン人が跋扈した時代そのままの、暗くて深い森だ。
中に魔女がいても、竜が巣を張ってていてもおかしくはない、北ヨーロッパの住民の原風景とも言える、異界の森だった。
だが、ユウにそれほどの恐れはない。
異界といえば、そもそもセルデシア自体が異界なのだ。
ユウは馬を呼ばず、歩き出した。
森がどこまで深いのか、奥に何が待っているのか、そうしたことに久しぶりの新鮮な好奇心を抱きながら。
◇
森はどこまでも続いていた。
獣道などはもちろんなく、鉈代わりに腰の<蛇刀・毒薙>で切り払いながらの歩きだ。
時折、モンスターらしい影は見え隠れするものの、レベル差によるものか、襲ってきたりはしない。
いっそ梢を飛び移るか、とユウが上を見上げたとき、ふと彼女は違和感に気づいた。
音が、しない。
自然の森とは豊かな音に溢れているものだが、先ほどからユウの周囲には一切の音がなくなっていた。
暗い色合いの常緑樹すら、梢を揺らす音を止めている。
ユウの知る限り、自然の中で音が消えるという現象の原因は、ただひとつ。
周囲の鳥も動物も逃げざるを得ない状況に陥ったとき、だ。
ユウが一旦納めていた腰の刀を抜き放とうとした、その刹那。
バキバキという音が聞こえる間もあればこそ、ユウは突然横合いからすさまじい衝撃を受け、一瞬で意識を失っていた。
◇
『目標、予定通りこちらへ進撃中』
「了解」
森が大きくあぎとを開いたような、あるいは平野がかろうじて木々を蚕食しているような、
そんな小さな平地に、集まった者たちがいる。
その出で立ちは、奇妙といえば奇妙だ。
一見すると彼らはどこかの貴族領の騎士に見えなくもない。
そろって甲冑を纏い、騎馬には騎乗生物用のアイテム、<重装馬鎧>をつけている。
手には大剣、あるいは騎乗槍といった、大型の両手武器を持っているものばかりだ。
だが、武器も防具も意匠はおろか、形すらまったく違う彼らを見れば、この世界の住民は誰しも連想するだろう。
<冒険者>だと。
だが同時に、彼らは違和感を感じるだろう。
彼らの鞍にくくりつけられている、作り物の巨大な羽根を見れば。
30人ほどの騎馬は、そろって平野から少し離れた場所で、先行した<暗殺者>からの報告を聞く自分たちの隊長を眺めていた。
視線の先で、隊長らしいひときわ壮麗なマントをつけ、さながら天馬のような翼をくくりつけた騎士が、ひとつうなずくと振り向いた。
よく響く声に、全員が向き直ったのを見て、その騎士が口を開く。
「目標は予定通りこちらに来つつある。われらの後ろ、自由都市グライバルトにたどり着けば後に待つのは惨事だ。
われらの任務はひとつ。奴を足止めすることだ」
全員がうなずいたのを確認し、隊長はゆっくりと森に向き直る。
その向こうからバキバキという音が、全員の耳に届いた。
「<猛進犀>の速度はわれらの想像を超える。
姿を見せた次の瞬間には、われらを蹄で踏み潰すことは、過去に奴と戦ったことがある大規模戦闘出身の者には既知のことだろう。
奴を取り逃がせば、我々の重装備の騎馬では追いつけない。
確実に足を止めることだけを考えろ、とどめは後ろの<妖術師>や<暗殺者>に任せるのだ。
そして、<猛進犀>の突撃を真正面から受ければ、HPがどうあれ即座に気絶する。
だが恐れるな、われらは死ぬが、それはグライバルトに戻るだけだ」
そういって隊長は面頬を下ろした。
騎士たちもそろってそれぞれの兜を閉める。
そして、彼らはゆっくりと動き出した。
<猛進犀>の出現場所から彼らはかなり離れている。
そのためか、彼らの馬の速度は緩やかで、お互いの距離も離れていた。
風にはためく羽根が、まるで貴族の遊興のような速度にあわせてはたはたと揺れた。
だが、その光景は徐々に変わっていく。
速度が徐々に上がり、騎士たちはじゃき、とそれぞれの武器を正面に構えた。
いずれも切り裂くのではなく、突き刺すことに特化したことをあらわすように、彼らの武器は鞍に据え付けられた金具によって固定されている。
最初は速歩だった馬は、森に近づくにつれて速度を上げた。
速歩から駈歩、そして襲歩へと。
すさまじい速度で近づく騒音に対し、<冒険者>の陣形も変化する。
緩やかに散開した形から、徐々に密集し、最後は互いの鎧がこすれあうほどの陣形へと。
鋭い鏃の形に変化した彼らから突き出された武器は、あたかも針鼠のように前方を狙った。
そして。
「くるぞ!」
「ようし、<グライバルト有翼騎士団>、総員、<ランスチャージ>!」
いわゆる騎士職といわれる二つの職業、<守護戦士>と<聖騎士>―ヤマトにおける<武士>だ――で共通する特技を隊長が叫んだ瞬間、
森の奥から灰色の弾丸が飛び出した。
蹄が大地にとどろく。
片方は2対、もう片方は60対。
地軸が揺さぶられるような騒音の中、<冒険者>それぞれの槍と剣に輝きがともった。
<騎馬突撃>はきわめて特殊な特技だ。
まず、何らかの騎乗動物に騎乗していない限り発動しない。
そして、特技が発動して一定時間がたたない限り、その威力は通常攻撃と大差のないものでしかない。
さらに、大剣や騎馬剣、馬上槍や長槍といった一部の両手武器――曲剣のような例外もあったが――を用いてのみ発動できる。
その代わり、一定時間の直線移動を行ってからの騎馬突撃は、移動距離に比例して威力が上昇していく上、気絶回避、跳ね飛ばしといった追加効果を距離に比例して得ていく。
最高速度に至った騎馬突撃は、絶技<キャッスル・オブ・ストーン>ほどではないにせよ、それなりのダメージ低減効果も兼ね備えるのだ。
使い勝手は決してよいとは言えず、実際にゲーム時代ではあまり省みられることもなかったが、それはまさに、戦場の騎士、そしてその後裔たる騎兵のみが行うことができる特技なのだった。
いまやひとつの猛獣と化した<冒険者>たちと、森から飛び出した大規模戦闘級の暴君は、互いに想像を絶する速さで接近し、刹那の瞬間に激突した。
前方からの巨大な衝撃に、自らの突進を遮られた暴君が悔しそうに吠えた。
その顔面には無数の武器が突き刺さっている。
勿論のこと、<冒険者>たちも無傷とはいかない。
吹き飛ばされるもの、押し倒されるもの、運が悪い一部には、踏み潰されるもの。
だが、十分に時間をかけての突撃だけはあり、彼らの損害は思ったより少ない。
大規模戦闘級相手の戦闘であることを考えれば、軽微といってもよかった。
互いに足を止め、巨大な圧力で相互に押し合う。
「<キャッスル・オブ・ストーン>!」
続いて最前列が放った特技に、<猛進犀>は苛立たしげに鳴き声を挙げた。
北欧サーバの森林を遊弋するこの暴君にとって、竜すら跳ね飛ばす自らの突進を、自分よりはるかに小さな生物が止めたことが不愉快で仕方ないのだ。
だが、現実は彼の強靭な蹄がいかに大地を蹴ろうとも、その巨体はピクリとも動かない。
獣らしく、彼はむきになって目障りな小動物を踏み潰さんとその重機ほどもある体重を前にかけようとした。
その動き、わずか数秒。
だが、その数秒が己の生死の明暗を分けたことに、果たして<猛進犀>は気づいただろうか。
不意に濃密な魔力が<猛進犀>の周囲を満たす。
元は草食動物をデザインモチーフにしたためか、凶暴な光をたたえながらもどこかあどけない目が、周囲をぎょろぎょろと見回した。
「そら、余所見をするな!」
手にした騎乗槍を突き刺し、がしりと巨大なツノを掴み止めた隊長が叫んだ。
絶技が発動中であることを示すように、彼の体は大理石色の輝きに包まれていた。
再び怒り狂った<猛進犀>が角を振り回そうとした瞬間、周囲の魔法陣が閃光を放つ。
補助特技で威力を倍加させての、<ライトニングチャンバー>の同時多重詠唱だ。
20人近い<妖術師>が一斉に放った渾身の魔法は、輝きに包まれた騎士たちごと暴君の体を閃光で包んだ。
その瞬間。
<猛進犀>の、半ば太古の角竜のごとく張り出した首周りの巨大な襞に、小さな黒い影が半ばつぶされた形で引っかかっていることに、隊長は初めて気がついたのだった。




