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ある毒使いの死  作者: いちぼなんてもういい。
第6章 <傷ある女の修道院>
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番外8 <歌う密偵>

1.


 狭い街路のあちらこちらに、奇妙な形の虫が這っている。

あちこちから漂う煙は、饐えたと表現してもいい、濃い臭いを立ち上らせていた。


「すごい、場所ですね」


狭い街路――むしろ路地(すきま)、と呼んでもいいだろう――に満艦飾のように垂れ下がる洗濯物をおっかなびっくり避けながら、ユーリアスは口を小さく開けて喘いだ。

息は小刻みに震え、汗に濡れたハンカチが形の良い鼻と顎を覆っている。


「気をつけてくださいよ。片手は常に空けておいて。

<冒険者>だろうが、ここの連中は容赦せず物を摺りますからね」


前を歩く長髪の<道士(ダオシ)>がちらりと後ろを振り向いて言った。

ユーリアスも頷くと、背負った商売道具(リュート)をしっかりと担ぎなおす。

だが、それは無用の心配というものだろう。

一行の先頭を歩く<侠客>が、こうした狭い街路でも取り回しの効く太刃剣(ブロードソード)を抜いて周囲を威圧しているのだから。


「ズァン・ロン。あとどのくらいで着くの?」


鈴を転がすような美麗な声が、一行の最後部から掛けられた。

その声を聞いた先頭の<侠客>が無愛想な口調で返す。


「もう少しだ。あと一時間も歩くくらいか。ここは危険なんだ。あまり声を上げるな」


そう言って、先頭の男は周囲を注意深く見つめた。

女の声に顔を出した住人たちが、鍾馗のようなその目に怯えてあっという間に首を引っ込める。


「ユーリアス。本当に君は、何を目的に華国(ここ)に来たんだ?」


<道士>ムオチョウは、ローブの裾に這い上がってきた船虫を慌てて振り落としながら、半月ほど前、この奇妙な<冒険者>と初めて会った頃を思い出していた。



 ◇


 戦捷に沸く華国の武闘派<冒険者>――彼らの自称を借りるならば<江湖の英雄好漢>――たちのもとへ、ふらりと現れた、海を隔てたヤマトの<吟遊詩人(バード)>。

ユーリアスと名乗った彼は、まさしくその名のモデルになっただろうローマの独裁官(ユリウス・カエサル)にも劣らない飄然さで、ムオチョウに驚くべき情報を伝えた。


「<冒険者>は帰れる。その生命を使いつくし、果てもなく死んだ後に」


その情報を、恐るべき爆弾と認識できたのは、ムオチョウが聡明だったゆえだろう。

生存本能(リビドー)と相反する、生物としてのもう一つの本能、破滅本能(デストルドー)

それをこれ以上なく刺激させる、それはまさに禁断の麻薬だった。


それが開放された世界を、ムオチョウたち華国の<冒険者>は近い歴史的事実として知っている。

文化大革命。

人命、生活、資産、それだけでなく文化や伝統、人が人として立つためのありとあらゆる要素を、

たった一つの教義(マルキシズム)にもとづいて選別し、破壊し、毀損した時代だ。

無論、それは一面的な見方でしかなく、常に良い面と悪い面が共存する人間世界において、それはひとつの意見で断罪されるべきものではない。

だが、これまでの社会、相対する相手、そうしたものへの破壊欲求が部分的にせよ開放された時代であったことは確かだ。


それが、ほんとうの意味で開放されたならば。

ムオチョウは戦慄し、目の前で静かに茶をすする日本人を消し炭にしてやりたいほどの殺意に駆られた。


だが、爆弾を携えてきたユーリアスは、それを解き放とうとはしなかった。

ムオチョウの急報を受け飛び込んできた<古墓派>の総帥、そして彼女の連絡を受けやってきた<夏帝>ベイシアとメイファ以下の華国の有力ギルドの盟主たち。

彼らの前でユーリアスはむしろ淡々と事情を伝えると、警戒する彼らにこう告げたのだ。


「我々<望郷派(オデッセイア)>はこの考えに基づき行動を行っています。

だが、私の目的はこれを他のサーバに伝えることのみ。

情報を聞いた各地のギルドマスターたちが何をするのも、私の管轄外です」

「……馬鹿な」


普段の飄々とした態度をかなぐり捨て、<衡山派>の総帥たる<吟遊詩人>のムオダーが呻く。

思わず横を見た彼の視線の先で、眦に雷光を湛えたような一人の<冒険者>がユーリアスを睨んだ。

<嵩山派>を率いるランシャンだ。


「そのような言葉、事実とは思えぬ。

そもそも、限りなく死ねば地球に戻れる、そのようなこと、誰が確認したのだ?」


彼の言葉に、居並ぶ男女は思わず頷いた。

そもそもランシャン自身、かつてある事情により、50回以上、連続で自殺している。

その彼がこの場にいること自体が、ユーリアスの持ってきた情報に対する強力な反証となっていた。


ユーリアスは答えない。

その態度に、敵意を向けかけていた幇主たちの顔も徐々に怪訝なものに変わっていく。


「君はその説を、本当に信じているのか?」


やがて、問いかけるようなベイシアの声に、(はい)とも(いいえ)とも答えず、ユーリアスは全く関係のないことを口に出した。


「この世界に囚われた<冒険者>の思いは2つ。

ひとつは、何が何でも大事な人や生活の待つ現実の世界に帰ること。

そしてもうひとつは、この自由な異世界で、現実のしがらみを捨てて人生をやり直すこと……」

「……」

「元の世界に戻りたい。親や兄弟、妻や子供、友人や大事な人達の待つ現世に。

そしてそのためならばこの異世界にあるものは、何であっても惜しくはない……それが<望郷派>の考えです。

攻め落としたトロイアの財宝も、ギリシア本土での栄光も、半神の美姫の愛すら捨てて、

ただ、妻と子の待つ、小さな小さなイタカの島へと帰ることを願ったオデュッセウスのように」

「では我々はさながら、栄光に溢れたアキレウス、というところですかな」


<少林派>のファン大師が、微笑というにはいささかにがすぎる形に頬を歪めた。

幇主たちも思わず顔と顔を見合わせる。

人ならぬ武勇を持ち、不死身で剛勇、そして遥か異国での戦いの果てに死んだ英雄に自らをなぞらえることは、その後の英雄の暗い運命を思えば背筋に寒い風が這い登るのを認めることでもあった。

元の世界と比べて、今の自分達がまさに半神じみた力を持つがゆえに。


その時、細い手が上がった。

末席ながら、最初にユーリアスと接触を持ったがために、幇主たちの会合に同席することを許された、イェンイだ。

隣で同じく末席に座るムオチョウも、旧知の少女のいきなりの行動に思わず目を見開いた。


「発言してもよろしいでしょうか?」

「いいよ、イェンイ」


ベイシアの返事に頷き、イェンイは一座を見回した。


「私は、この人の言葉は、確認するに足るものだと思います」

「どうやって?」


すかさず尋ね返したのはメイファだ。


「あなたが一万回死んで地球に戻るというの? よしんば戻れたとして、それをどうやって私達に伝えるの?」


鋭い指摘とともに向けられた視線を、能面のような表情で返して彼女は言った。


「この世界には、かつてゲーム時代に<占い師>や<予言者>がいました。

その最も強大な力を持つ者は、モンスターであったり<古来種>であったために会うことはできませんが、

幾人かの<大地人>は今もそうした能力があるはず。

彼らに尋ねてみてはいかがでしょうか」

「バカバカしい。占いなど。……そもそも相手は<大地人>だ。

この世界が元はネットゲームだったことも知らない相手に、何をどうやって占わせるのだ?」


ランシャンが吐き捨て、幾人かの幇主たちが頷く。


「ですが、笑って済ませてよいものでしょうか。

少なくともヤマトには、同じ考えの人がいるのですから」

「変なものに凝る日本人だ。どうせまたよくわからんサブカルチャーにハマったんじゃないのか?」

「よせ」


ある幇主の放言を、さすがに他の幇主が諌める。

そうした議論の中で、我関せずとばかりに茶を飲むユーリアスに、しばらく黙っていたベイシアが視線を向けた。


「ところで君は、この説に関する何らかの傍証があるのか?」

「死ねば記憶が奪われる。それこそが証拠ではないかと考えています」

「わからんな、その意味は?」

「そもそも我々は、何を持って今の自分を『自分』と定義しているのでしょうか」


ユーリアスの声はさらに衒学的な響きを帯びた。


「これは、ある意味で宗教的な話題でもあるのですが。

我々は『自分』というのをどうやって定義しているのですか。

生まれてからいままで、同じ肉体を継続的に使用していれば『自分』でしょうか。

同じ『意識』や『記憶』を継続していれば自分でしょうか。

前者の立場に立つならば我々は地球にいた頃の『自分』ではない。

後者であれば我々は同じ『自分』であるといえる。

<冒険者>は死ねば僅かずつであっても記憶が失われる。

それは些細な記憶だけかもしれませんが、死に続ければやがてすべての記憶がなくなるでしょう。

その時、残された<冒険者>としての肉体と意識は、果たして『自分』なのでしょうか」


今度は華国人たちが押し黙る番だった。


「<テセウスの船>ですな」


かろうじて沈黙を破り、ファン大師が言う。

ギリシア神話に名高い英雄テセウス。

アテネの王でもあった彼が、クレタ島の牛頭巨人(ミノタウロス)を葬って帰還した時に用いたのが<テセウスの船>だ。

やがて時が経ち、遺された船の木材は朽ち果てる。

その時、大工たちは新たな木材を用いて船を作りなおした。

古い船から剥がされた木材は、これはこれで新式の船に用いられた。

果たして、<テセウスの船>はどちらを指すのか。

物質の連続性を表すための、有名な哲学的命題だった。

だが、今回話題の俎上にあげられているのは見知らぬ英雄の乗った古代の船ではない。

自分たち自身なのだ。


ふと、ムオチョウは不気味な幻想に囚われる。

この世界で苦闘する自分たちとは別に、元の世界では元の自分たちが元通りに生活しているという幻想だ。

自分たちは、『自分』だと思っていた存在の、異世界におけるコピーにすぎない――それは凄まじい恐怖を伴う妄想だった。

何しろ、生まれ育った肉体と、元の肉体は全く無縁なのだ。

そのうえで、自分が地球人である、という記憶すら失われたとしたら。

残された魂は、果たして『自分』と言えるのものなのだろうかと。


誰もが同じことを思ったのだろう。

剛毅なベイシアやランシャンさえ、顔を青くして表情を強ばらせている。

そんな空気にするりと忍びこむように、イェンイの声が<泰山>の廟堂に流れた。


「だからこそ、確かめる必要があるのです……今の私達を襲うこの恐怖と不安、

それらを払拭するためにも」


やがて、のろのろと誰かが手を伸ばし、茶の入った湯呑を手に取った。

その手が、ゆっくりと滑る。


ガシャ。


「あ」


その音は、今まで自分たちが当たり前だと思っていた何かが、粉々に砕け散った音のように、

一座の人々は感じていた。



 結局、即断即決を旨とするベイシアでさえ、その日の会合は決断しきれなかった。

彼らができたことは、ユーリアスを含む一座の全員に当面の他言無用を命じたあとで、ユーリアス、そしてムオチョウとイェンイに、彼らの知る限り、最も能力の高い<占い師>に状況を占わせることを指示することだけだった。


そしてその十日後。


彼らは華国の南方、かつて栄華を誇ったプレイヤータウンに隣接する、巨大な屋内型ダンジョンにいる。

<日月侠>のレンインによりつけられた護衛、ズァン・ロンとともに。


<九龍廃塞(ヘリテージ・オブ・ナインドラゴン)>。


セルデシア世界でも屈指の奇観を持つ、そのダンジョンの奥深くにいる<大地人>こそが、彼らの探し求める人物だった。

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