75. <聖域にて>
1.
その島は、かつて<女神の島>と名づけられていた。
伝承にはこうある。
かつて、ある女神がいた。
彼女は美貌で知られていたが、同時に極度の男嫌いでも名を馳せていた。
ある時、ある男神が彼女に求婚し、女神は当然これを断った。
だが、その男神の力は強く、女神がいくら抗おうとも、逃げ切るのは難しそうだった。
そこで女神はある提案をする。
「あなたが一晩かけて私の神殿に巡礼として歩いてきたならば妻となろう。
ただしその旅の間、一度として神の姿に戻ってもならず、神の力を振るってもならぬ」と。
求婚していた男神は喜び、女神の元へ老いた巡礼者へと姿を変えて歩いていた。
男神の周囲には多くの巡礼者たちが列を成し、半島の先端にあった女神の神殿を目指していた。
その時。
不意に落ちかかった雷鳴と豪雨によって、男神を含めた巡礼者たちは残らず大地に叩き伏せられた。
見上げた男神が目にしたものは、女神の力によって大地が破れ、割れていく姿と
それになすすべもなく飲まれていく巡礼者たちの姿だった。
女神は結婚したくないがために、自らの崇拝者ごと大地を割り、神殿のある半島を大陸から切り離してしまったのだ。
男神は、死んでいく巡礼者たちのために、神の姿を現し、波間に没しようとする彼らに、割れていく島の一部を削り取って渡した。
そのために、巡礼者たちは一人として死ぬものはなかったが、男神の求婚は失敗した。
この一連の騒動に、神々は激怒した。
求婚を断りたいがために巡礼者を殺すことも躊躇わなかった女神は罰としてその名前を封じられ、
神々の列から落とされた。
そして、女神の神殿があった半島――もはや島だったが――はセルンド島、巡礼者たちのために男神が削った島の一部は<女神の落し物>と呼ばれるようになったという。
女神も男神も、ほかの神々もまた、人の記憶から失われて久しかったが、神話とそれにちなんだ名前だけは、この北ヨーロッパのはずれにある島には遺されている。
セルンド島とアルヴァ・セルンド島、大小二つの島の名前として。
◇
一日の始まりは、夜明け前の祈りから始まる。
まだ夜明けには程遠い時刻、それぞれの宿舎から姿を見せた<冒険者>たちは、衣擦れの音を纏わせて、ゆっくりと聖堂――かつて女神の神殿だった頃の拝殿――へと集まる。
その姿は一様に暗色のローブに隠れ、姿どころか顔さえろくに見えない。
全員が所定の位置についたことを確認し、ローブの人影の一人が高い声を放った。
「天におわします神よ―――」
祈りの聖句はラテン語だ。
覆い尽くす闇の中で、人々の声に答えるようにわずかな蝋燭の明かりが揺らめいた。
「Et super populum tuum benedictio tua.」
「Deus est nobis refigium et virtus, adiutorium in tribulationibus inventus est nimis――」
長く、静かに詠唱の語句が流れる。
<冒険者>たちは、それぞれの言葉で、それぞれの思いを祈りに乗せる。
やがて、言葉が静かに消え果たとき、ふたたびさらりと衣擦れの音が響いた。
全員が立ち上がった音だ。
「癒し難い傷を得た女たちに、癒しを」
「そして、艱難に立ち向かう強さを」
誰かの声を最後に、再び人々は静かに、まるで亡霊のように一人ずつ去っていく。
次の夜明けの祈りまで、<冒険者>たちは再びわずかな眠りにつくのだった。
「……あなたも、早く眠ったほうがいいわよ」
一人、立ち上がることなく膝をついたままのローブ姿の人影に、別の人影が言った。
その声は相手を労わる気持ちに満ちている。
だが、声をかけられた人影は、何の返事をすることもなく、姿勢を変えることすらしなかった。
ため息をついて、声をかけたほうの人影は背を向けた。
「あなたにどんなことがあったのか分からないけど……無理をしないほうがいいわ。
ここは、無理をするところじゃないのだから。日本人の<暗殺者>さん」
だが、その人影が消えても、小さな明り取りの窓から朝の陽光が顔を見せても、
その小さな人影は同じ姿勢のまま、静かに座っていた。
◇
アルヴァ・セルンド島。
北欧、北極圏に近い場所に位置する、半径数キロほどの小さい島である。
小さな<大地人>の集落があるほかは何もない、この世界に忘れ去られたようなこの島に、<冒険者>が集まりだしたのは、現在から数えて半年ほど前のことだった。
不思議なことに、やってくる<冒険者>は全員が女だった。
彼女たちは、おびえと好奇心をない交ぜにした<大地人>たちを尻目に、黙々と集落から離れた遺跡――神の時代に建てられた女神の神殿と伝えられている――を整え、住み着き始めた。
やがて、一人で、あるいは数人で、その神殿を訪ねる女たちが増え、いつしか<大地人>は彼女たちのコミュニティをこう呼ぶようになった。
「<女たちの修道院>」と。
それに対し、最初に神殿に住み着いた女性の一人、女<守護戦士>は、丁寧な口調で訂正した。
「ここは<傷ある女の修道院>だ」 と。
女たちの朝は、早い。
夜明けに祈りを済ませると、彼女たちはそれぞれのサブ職業に従い、労働を始める。
<裁縫師>は服を縫い、<鍛冶師>は剣を打つ。<料理人>は味のある料理を作り、<大地人>にも教えた。
そうして一日を静かに過ごし、祈りと共に眠る。
あくまで静かに、騒ぐことなく。
そんな修道院に、一人の女が担ぎこまれたのは、遅い春もようやく来ようかという、ある日のことだった。
「<冒険者>の女性が来たら教えてください」
そう、修道院から頼まれていた<大地人>たちの手によって、気付けの酒を飲まされた彼女は、周囲から見下ろす男女にこう言った。
「私は……誰だ。ここは、どこだ?」
◇
「日本人の様子はどうだ」
<傷ある女の修道院>を束ねる一人、<守護戦士>のロージナは、小さな部屋に入るや否や問いかけた。
彼女の目線の先には、ロージナと同じローブを羽織った<癒し手>が座っている。
そして彼女の横には、ベッドで苦しげに身をよじる<暗殺者>の姿があった。
「今日もこのとおりです」
<癒し手>――ミリアムの返答に、ロージナは小さく嘆息した。
「まだか……名前どころかどこから来たのかも分からないでは、確認しようがないな」
「ええ。祈りには出ていますが、それも夢うつつのようですね」
「まさかに、男どもの斥候ではあるまいが……な」
見下ろすロージナの目が瞬間的に剣呑な光を帯びる。
その目に抗議するように、ミリアムは声を荒げた。
「ここまで憔悴するような人が、斥候だとは思えません。私たちは<傷ある女の修道院>、心や体に傷を負った女性であれば、誰であろうとその門は開かれているはず。
ロージナ、そうではありませんか?」
「ああ。そうだ。だが、私はこの修道院の安全を確保する者として、常に最悪の状況を想定する必要がある」
「分かっては、いますが」
呟くとミリアムは、脂汗の浮いた<暗殺者>の額をぬれた布で拭った。
「お前もそう無理するなよ、癒し手は少ないんだ。ウェンの大地から来てまだ1ヶ月だ。
本来ならお前もまだ無茶ができる状況ではない」
そう言って扉を開けるロージナ――かつて北欧サーバで勇名を轟かせた女戦士に、ウェンの大地から来た女は静かに頭を下げて見送った。
「他にも昏倒している<冒険者>はいるんだ。一人にばかり手を煩わせるな」
それが、ロージナの最後の言葉だった。
しばらくしてミリアムも静かに立ち上がる。
<守護戦士>の言うとおり、彼女自身に見なければならない患者は多い。
この修道院には他にも<癒し手>や<聖堂騎士>はいたが、この大地では癒さねばならぬ人は常に癒し手よりも多いのだ。
<暗殺者>の寝息が落ち着いたものになっているのを確認し、彼女もまた、静かに扉を閉じた。
2.
<暗殺者>は夢を見ていた。
どこかで記憶がめちゃくちゃに寸断されたように、時系列も場所も分からない。
彼女は夜の闇の中を駆けていた。
周囲は崩れた建物と森林がモザイクのように広がったゾーンだ。
その中を、瓦礫や枝を足がかりにして、彼女は跳ねるように駆けている。
ふと、闇の向こうに光が見えた。
その先には、何人かの人影。どうやら言い争っているようだ。
ぎょろぎょろと彼女の目が動き、躍動していた四肢が一瞬で静まる。
息すら押し殺した数瞬の後、彼女は対象を、集団の片方――居丈高にもう一方を罵る人々へと決める。
もはや、語る必要はない。
闇からにじみ出るように現れた彼女は、偉そうに何かを宣言する一人の男の、その醜い顔に勢いよく刀を振り下ろした。
「だぁら、お前ら低レベルは……っ!?」
いきなり口をふさがれ、喉元に鋭い刃が食い込むのを見て、目を白黒させるその男。
その顔を横から覗き込み、彼女の心が暗く躍る。
気道を断ち割られ、倒れこむその男を踏みつけて別の女に手を伸ばす。
反応できない彼女の顔を鷲掴みにし、みちみちと音を立てて眼球をつぶしながら押し倒し、その白い首に一本線を開ける。
びくびくと痙攣するその女の腹を止めとばかりにねじり開け、彼女は笑った。
「まず、二つ」
「ひっ、ぴ、PK!!」
「遅い」
腰を捻って、右手の刀で一撃。
斬るには至らなかったものの、衝撃でその男が倒れこむ。
その男の喉首を押さえつけ、彼女はマウントポジションでにんまりと笑った。
「こ、殺さないで」
そう、男が言い終えられたか、どうか。
逆手に持ち替えられた左手の刃が、容赦なく男の顔面に振り下ろされる。
ズガッ、ズシャッ、ズチュッ。
やがて水気を粘性を帯びた音が、立ち尽くす彼らの耳に届く。
刃が突きこまれるたびに、整っていた<冒険者>の顔が、目も当てられない残骸へと変わっていく。
死ね。
死ねシネシネシね死ねシネ死ね死ね死ね。
気づけば男の姿は消えていた。光になって散った彼の頭のあった場所を、なおも彼女は突き刺し続ける。
そして。
ゆらりと立ち上がった彼女を、悪魔でも見るような目で見つめる数対の目。
「次は、誰だ」
「助けて!!」
戦う意思すらくじかれ、逃げ出す一人の足を薙ぎ払う。
すとんと、両膝から先に置いていかれた彼を放置し、次の敵へ。
飛び掛った彼女に地面に押し付けられ、女<武士>がざりざりと顔面を摩り下ろされる。
動かなくなった彼女の頚椎に、とどめの一撃。
やがて、居丈高な集団の全員が光になって消えた後、彼女は怯え切った目で自分を見る視線に気がついた。
「……なんだ」
「人殺し!!」
叩き付けられた叫びは、助けられた感謝の念など欠片もない。ただ恐怖と嫌悪があるのみだった。
その嫌悪すら、夢の中の彼女には心地良い。
「人殺しか。確かにそうだ」
「何が楽しいんだ! こんな世界で、人を殺して!」
「……楽しい?」
首を傾げた彼女は、しばらくしてにんまりと笑った。
半月形の不気味な笑みに、叫んでいた男すら数歩後ろに下がる。
「ああ、そうか。私は、楽しいのか」
「殺せるから」
「死ねるから」
「き、気違い!!」
我先にと逃げ出したその集団を追おうともせず、<暗殺者>はくっくっと笑い続けた。
夢の中で、彼女はじっと見つめていた。
かつての自分を。




