73. <神殿>
1.
そこは、やはり小さな建物だった。
周囲に不思議と雪はなく、乾いた岩だけがあちこちに転がっている。
アテネのアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿を、そのまま縮小したようだ、とユウは思った。
あまり飾りもない柱の間は、大理石らしい輝く煉瓦によって一面に覆われ、その中をうかがい知ることはできそうにない。
正面に回ったユウは、そこに人一人がかろうじて入れるほどの小さな扉を見つけた。
両開きの重そうな大理石の扉にもまた、取手以外の一切の装飾はない。
だが、その飾り気のなさが却って建物の荘厳さを増しているようだった。
神殿とは、神のために人が作るものだ。
当然、そこには神に気に入られるように、ありとあらゆる技術がつぎ込まれる。
古典様式の神殿、壮麗な中世の聖堂、荘厳な神々の寺院、いずれにも人の神への崇敬の念が作り上げた、巨大で華麗な美があった。
それらがここには、何もないのだ。
あたかも、とりあえず建物だけを作れば良い、と建造者が考えたかのように。
ユウは、刀を納めると両手を扉にかけた。
一瞬、『まともな形で<神峰>をクリアしていない自分には開けられないのではないか』と考えたが、杞憂だったらしい。
まるで内側から開かれるように、なんの抵抗もなく扉が開く。
拍子抜けしたユウは、中を見て再び呆気にとられた。
中にも何もなかったのだ。
内部の広さは外見相応だったらしい。
十畳はあるが二十畳はなさそうな広間の中は、天井に開けられたガラス窓からの陽光を受け、白く光り輝いている。
それは十分に美しいが、だが、それだけだ。
そこにあるべき何か、例えば祭壇であるとか、玉座であるだとか、そうしたものは一切ない。
ただ空間があり、その向こうに後ろへ抜ける扉がある。
あまりの素っ気なさに、ユウはむしろ諦め混じりに納得した。
ここがいかなる場所であるにせよ、この<神峰>のレイドクエストを達成した者にのみ本当の姿を見せるものなのだろう。
それ以外の場合は、いわば休業中の遊園地のように、何も与えられるものはないのだ。
先ほどの<氷乙女>も言っていたではないか。
「王はいない」
と。
空間に踏み込んだユウは、あたりを注意深く調べた。
小さな隙間もなく、埃一つ舞っていない。
少なくとも1年以上、人が入っていないのに、まるで先ほど掃き清められたかのように清潔だった。
一渡り内部を確認したユウは、正面にある奥へと続く扉を見た。
こちらは入り口とは違い、片側開きの素っ気もないものだ。
ドアノブすらないのに、扉とわかったのは、かすかに開いているからだった。
その向こうに、言い知れぬ不気味さを覚えながら、彼女はゆっくりと、扉に向かう。
既にHPもMPも、残り少ない呪薬を用いて回復している。
その時に状態異常が神殿の中に入った瞬間から外れているのも確認済みだ。
つまり、現在のユウは戦闘継続能力はさておき、戦闘力だけは平地同様に戻ったことを意味する。
心なしか、空気も薄いそれではなく、平地同様に豊かな酸素を含んでいるようだ。
つまり。
(ここを創造した何者かは、<冒険者>がここで戦うことを想定――いや、用意していたということだ)
このことだ。
ユウはもはや、周囲の光景をただ眺めることはしなかった。
ここはどうやら、対話を持って何かに対峙するだけの場所ではないようだった。
2.
ユウは奥の扉をゆっくりと開けた。
彼女が今いる部屋は、ほぼ外観から伺える内部の広さと一致する。
ということは、扉の向こうに広がる空間は、紛れも無い異空間ということになる。
こうしたダンジョンは数多い。
<神託の天塔>も内部に広大な空間を有するレイドダンジョンであるし、ユウ自身が突破した<蛇神の廃神殿>もそうだ。
そこもボスたる<堕ちた毒蛇神>――その牙が今、形を変えてユウの腰にさがっているが――のための空間は、外観から窺い知れる面積とは全く異なる、広大なバトルゾーンだった。
「……ここは」
扉を開けた先にあったのは、同じく広大な大理石の空間だった。
だが、光の量は手前の部屋をはるかに凌ぐ。
そうでありながら、その光は一筋たりとも手前の部屋へは漏れてきていなかった。
あまりに光りに包まれているがゆえに、部屋の中は判然としない。
広さすら、はっきりと分からなかった。
ユウは静かに息を吐き、吸った。
この向こうに何がいるにせよ、ユウにはもはや行くしか無いのだ。
そして、そこにいるのが何者であれ、ユウはその者と対話をしなければならない。
戦ってしまっては、勝てる可能性は殆ど無いと言ってよいし、情報は得られなくなる。
彼女はここに戦うために来た大規模戦闘者ではないのだから。
そして、彼女は光の中に踏み出した。
◇
転瞬。
ユウは全方向から降り注ぐ光の中に『浮いていた』
足元の感覚がない。
踏みしめるべき床は、つい一瞬前まで確かにあったはずなのに。
同様に進むこともできない。
ユウは何もできず、ただ水に浮かぶ海月か何かのように浮き続けた。
永遠にこのままではないか、という疑惑がよぎる。
すべきことをし尽くして、まだなおそうであるならば、ユウはもはや諦めるしか無い。
腰の刀のどちらかで、自分の首を撥ねてしまうか、<帰還>の呪文を唱えるかだ。
おそらくは、というのは、ここがホームタウン同様の機能を持ち、<冒険者>の帰還場所を上書きしていなければ、だ。
そうなれば他の誰かが来るまでは、おそらく永久にこのままだろう。
その前に発狂することを、ユウは心から願った。
だが、まずはやるべきことからだ。
ユウは大声を上げた。
「おおい!!」
反応はない。壁にあたって跳ね返る木霊すら無い。
ただ茫漠とした空間に、声が小さくなって消えていく。
「おい!! 誰かいないのか!」
返事はなかった。
代わりに、光の一角が薄れ、何かが見えた。
ユウから見て左側の空間、光が徐々に変わっていく。
それは揺らめくように動き、やがてひとつの光景を生み出した。
「あれは……!」
地平線まで広がる、果てない浜辺。
菫色というにはやや青みがかった、不思議で幻想的な空の色。
あの光景を、ユウは見たことがある。
「記憶を流した、あの浜辺……」
どこかで水鳥の声がする。
その中をさくりさくりと、何人かの男女が歩いている。
金髪、茶髪、黒髪。
髪も肌の色も種族さえも様々な、鎧をまとった男女がそこに立っていた。
ユウの知る顔は一人もいない。
誰もが、浜辺に顔を向け、ゆっくりとそれぞれの小刀で髪を一房、海に流す。
かつてユウも行った行動だ。
記憶をこの世界の海に流したのだ。
「おい! お前さんら!」
思わずユウは叫んだ。
それを聞いたかのように、その中の一人――辛そうな顔の<武闘家>がユウの側に目を向ける。
「おい! 聞いてくれ!!」
だが、ユウの絶叫も聞こえない風に、男は顔を戻すと、仲間と二言三言話した。
そして立ち上がる。
男女から光が生まれ、徐々にその体を押し包んでいく。
ユウが絶望的な気分で見ているうちに、<冒険者>たちは消えた。
消える瞬間、ユウのほうを向いていた<武闘家>のやり切れなさそうな声が彼女の耳に届く。
『俺達は、あと何度、ここに来れば……』
一行が消え去ると同時に、浜辺の風景も色あせ、再び一面の光の中に消えていく。
「おい! ここにいる誰か!! 答える気がないならせめてあの浜辺に戻せ!!」
ユウは思わず怒鳴りつけた。
「私は元の世界に戻る手がかりを見つけるためにここへ来た!! 手がかりがないなら無いと言ってくれ!! 戻れないなら戻れないと言ってくれ! 頼むよ……」
最後は涙声でユウがそう言った時、不意に再び光が収束し始めた。
一面の白が徐々にコントラストを産み、その向こうに何かの――人ではない――影が浮かび始める。
ユウの心が喜びに沸き立つ。
ようやく、ここにいる誰かに会うことができるのだ。
「聞いてくれ!! 私はユウ、<冒険者>だ! 去年の<大災害>でこの世界に魂ごと放り込まれた!
頼む、<冒険者>は故郷に帰りたいんだ、頼む、教えてくれ、帰る道を、教えて、下さい!!」
徐々に輪郭を露わにし始めるその何者かに対し、ユウの声はもはや懇願だ。
少なくともレイドボスというものではなさそうな、その相手が返事を発するのを、待つ。
だが。
何者かが体をはっきりと見せるより先に、ユウの全身に激痛が走った。
装備を通し、中の肉体をあたかも巨大なカッターで裁断したかのような激甚な痛みだ。
思わず悲鳴を上げる彼女の肉体が、くるくると回転を始める。
そのまま、ユウは上下左右がわからなくなりながらも、最後まで叫び続けた。
「頼みます! 帰り道を! 地球への! ちき」
ついにユウが激痛と三半規管の激震により気絶した瞬間、何かの声、というより意志がユウを貫いたが、それが何なのか理解するより前に、ユウの魂は肉体ごと空間から消滅した。
神殿の2つの扉がゆっくりと閉じられる。
そこから黒衣の女<暗殺者>が出てくることは、ついになかった。




