72. <果て>
1.
一歩、また一歩。
体を引きずるようにユウは歩く。
既に崖は越え、目指す場所まではあと尾根を抜ける道を越えるだけ。
もはや肉のあるモンスターはいない。
動物どころか、苔のような植物すら見当たらない。
<ハーフガイアプロジェクト>によって、ヒマラヤ連峰エベレストを模したこの<神峰>デヴギリは、たかだか4000メートル級の山になっているはずだが、目に映る景色はかつてテレビや映像などで見た、8000メートル以上の生物生存不可能領域、死の領域そのものだ。
過去、幾多の登山者にその足跡を許し、代償としてその生命をもぎ取っていった、無慈悲なる聖地。
そこが、デヴギリの頂上だった。
既にユウの全身は薄皮のように氷が張り付き、黒髪も色あせて銀色に近い色合いでたなびいている、
びっこを引くように歩く彼女の全身を包む<上忍の忍び装束>はところどころほつれ、指の爪は色を失ってドス黒い紫に染まっていた。
<冒険者>の鋭敏な目も日光と反射光にやられ、既にほとんど感覚器官としての役割を放棄している。
これまでは受けずに済んだ状態異常効果もついにここに至ってユウへと牙を剥いた。
<死の領域>
HPの中規模減少、MPの小規模減少、高位呪薬か高位呪文以外での回復不可、移動速度制限、跳躍力制限、防御力制限、氷属性に対する極端な抵抗力低下、そして慢性的な<疲労>と<朦朧>の効果。
さすがにこの場所を含め、ごく僅かな場所でのみ発生しうる状態異常だけに、受ける被害もてんこ盛りだ。
まだしも、ユウなればこそ常人の小走り程度の速度で進むことが出来ているといえる。
もちろん、もはや彼女に戦うことなど出来ようはずもなかった。
「行か……ないと」
それでもユウは進んだ。
刻々と減るHPを呪薬で回復し、ステータス補助の呪薬を飲んで行動力を回復し、歩く。
両手にザイル代わりの二本の刀を縛り付け、ただひたすらに歩き続ける。
すべては、頂上へ至るために。
<エルダー・テイル>がゲームだった時代を通じて、このゾーンにまで足を踏み入れた<冒険者>は少ない。
日本人では過去、アキバのクラスティ率いる<D.D.D.>の遠征隊が頂上までいま一歩まで進んだという。
その彼らを含めても、世界全体で50人いるか、どうか。
そして<大災害>以降、変わり果てた世界においては、紛れも無くユウが最初の一人だった。
――ヒョウ
ふと、風の音に混じって何かの音がした。
霞む目を向けると、半透明の女性が2人、彼女に向かっている。
頂上に向かう<冒険者>への最後の関門、<氷乙女>だ。
たおやかな見た目とは裏腹に、氷竜に匹敵する吹雪の吐息を放ってくる凶悪無比なモンスターだ。
<死の領域>によって極端に属性抵抗力が落ちた<冒険者>の中には、一撃死するものも少なくない。
ましてや、周囲は高山特有の暴風に包まれている。
遠距離から撃破することも難しい。
ユウはもはや目にすら頼らず、周囲を渦巻く風の流れを感じ取ろうとした。
やや旋を描きながら、風は一直線に<氷乙女>に向かっている。
彼女の手が<暗殺者の石>にかかり、取り出した瓶がゆっくりと振られた。
しゅうしゅうと泡を吹いて溢れてきたそれは、指にかかることなく風に乗る。
それが氷乙女に届いた瞬間、彼女たちは声なき悲鳴を上げて背を向けた。
「<強酸>」
普通にかければ並みのモンスターなら文字通り溶かす、強烈な薬剤が精霊の半透明の肉体を襲ったのだ。
なまじ半分周囲の空気と同化していたからこそ、そこに混ざった劇薬は内部から精霊たちを切り刻む。
やがて、ひときわ大きな悲鳴を上げて氷乙女は消えた。
ばらばらと落ちたドロップアイテムが、すぐさま風に奪われどこかの山麓へと消えていく。
そこまで確認して、ユウはゆっくりと首を上に向けた。
頂上まで、あと僅か。
◇
「ここは……」
たどりついた道の果ては、頂上ではなかった。
上にのしかかるように、さながらねずみ返しのようにめくれた巨大な岩場。
元の世界においてはヒラリーステップと呼ばれた高さ12メートルほどの岩と雪の棚だ。
ご丁寧にも、ハーフガイアでありながら、高さは元のとおりらしく、見上げるほどに高い。
そこは強靭な体力、運、そして何より超一流の登攀技術を持った筋金入りの山男ですら挑戦に躊躇する、最後の壁だった。
ユウがアキバで話を聞いた<D.D.D.>の<盗剣士>――彼はクラスティ率いる<サンガニカ・クァラ>遠征隊の一員だった――の声が蘇る。
『あそこは普通じゃ登れない。その前のゾーンでボスから最大でも12個だけドロップする<神の頂への鍵>というアイテムがあれば、上までテレポートさせてくれるんだ。だが、そのボスというのは大隊総掛かりでも勝てるかどうかというもの、しかも使い終わったり、使用者が死んだりしたら消えちまう。
そこでそのボスを倒した奴、そいつだけが頂上へ登れるんだ。
俺? 俺は無理だったよ。鍵を手にして、生き延びた奴は総統含めたったの3人だ。
それでラストボスなんて挑めるわけがないじゃないか。
それでもミロードは行ったがね、やっぱり無理だったと。
え? 普通に登る? そりゃ無理だ。あんたがマロリーやら、ヒラリーやらテンジンやらのような凄腕の登山家なら知らんがね』
(だが、私は登らなければならない)
ユウはぺっと手のひらにつばを吐いた。 唾は瞬時に凍りつき、わずかながら掌に凸凹が生まれる。
彼女はボスと戦っていない。 ショートカットしてきたのだ。
当然、そんな便利なアイテムなど持ってはいない。
ならば、登るのみ。
意を決し、ユウは陽光すら遮る巨大な岩に刀を突き刺した。
◇
はじめはまだしもマシだった。
限りなく垂直に近いとはいえ傾斜は鋭角だ。
ユウが壁面にしがみつくのには、わずかながらに重力の助けがあった。
しかし中盤まで登り、『ねずみ返し』に入った瞬間、重力はあっさりとユウの敵に寝返った。
背中から巨人が引いているかのように、重力がユウを落とそうと力を振り絞る。
萎びた両手足と、しっかりと壁面に食らいついてくれる両手足の刃だけが彼女の味方だ。
(死ねん、ここまできて!)
もはやナメクジのほうがまだしも速いと思えるような速度で、ユウは登る。
鈍角と化した壁面の角度は100°を越え、110°に近い。
それでも。
<氷乙女>たちが襲いかかってこないだけでも僥倖だ。
今の状態では特技どころか、まともに動くことすらできない。
あと、5メートル。
ひゅるるるる、と風の音がする。
ユウは凍りついてほとんど表情を失った顔を微かに伏せた。
周囲の風に逆らって近づく風。それは<氷乙女>にほかならない。
ユウが肩口に差していた最後の短剣の一本を口に咥え、せめて一太刀と思った時、
後ろから不思議な、結晶を打ち合わせるような声が響いた。
『<冒険者>ヨ』
「……なんだ」
精霊が言葉を発したことに内心で驚きつつ、ユウはかすかに声をだす。
その声を、すぐ後ろにいるであろう<氷乙女>は聞き取ったようだった。
『ナゼ登ル』
「ここを通らないと頂上に行けないから」
『ナゼ頂上ヘイク』
「この上にいるかもしれない存在に、聞きたいことがあるから」
『ソレハ何』
「どうすれば<冒険者>は元の世界へ帰れるのか」
『上ハソレヲ知ルト』
「聞いてみないとはじまらない」
ぼそぼそと呟くユウに、しばらく<氷乙女>は考えているかのように沈黙した。
彼女らは単なる設置型モンスターであるにもかかわらず。
やがて、後ろから声がした。
『聞ケ、<冒険者>ヨ』
『上ニハ誰モオラレヌ』
『我ラノ王モ』
『ソノ上モ』
『ナニモナイ』
『ソレデモ行クノカ』
「それを確認に行く」
ユウの返事に後ろの空気がざわめいた。
まるで呆れているように、わがままを言う子供を見ている母親のように。
再び沈黙が落ち、やがて後ろの声が小さく告げた。
『ナラバ登レ。登ッテ見ヨ。見タキ物ヲ』
『僅カナ間、助力セン』
「私はあんたらの仲間に酸をかけたぞ」
『精霊ナレバ、意味ナキコト』
ぐっ、とユウの背中が持ち上がった。
そして彼女が再び剣を次の場所に突き刺すのを助けるように、ユウの背を風が支える。
先ほどまで鉄塊をぶら下げていたような重力の錘が消えた。
それだけで、ユウは再び進みだす。
進みながら、再び彼女は問いかける。
振り向くこともできず、姿も見えないその<氷乙女>に向かって。
「なぜ、私を助ける」
『ソコニソナタガ居タカラ。竜王ノ刀、大事ニセヨ』
最後はそんな謎めいた一言を残し、そしてユウが絶壁の上に這い上がると同時に、気配も消えた。
2.
最後の難所を登りきり、匍匐前進するように最後の道を進んだユウの視界は、唐突に広がった。
360°すべてが空。
そんな、何の変哲もない小さな広場が、<神峰>の頂点だった。
地平線は広く、ゆるやかに湾曲している。
この世界が、少なくとも惑星か、それに類する球状世界である、小さな証だ。
そこに、黒衣の<冒険者>は立っている。
全身を状態異常に覆われ、息を喘がせ、体力を失い、HPとMPをほとんど失って。
更に呪薬は残り少ない。
おそらくは帰り道の、それもかなり早い段階で尽きるだろう。
その先は、ただ死だ。
だが、それでもよかった。
彼女の本来の目的はまだ全くと言っていいほど達成されていないが、全力を尽くして何かを為した人間特有の、突き抜けるような爽快感の中にユウはいた。
誰が、この光景を見ただろう。
誰が、この場所に立っただろう。
天は宇宙に近いためか、青々と透明だった。
眼下の大地は陽光を受け、水晶のように煌めいていた。
ぼやけた視界にはよく見えないが、遥か彼方に動く物がある。
呆れるほどにゆったりと動くように見えるそれは、砂漠を渡る<大地人>たちの隊商だろうか。
空を翔ける小さな影は、見上げるほどに巨大な鳥か、あるいは竜か。
そこは、巨大で圧倒的な『世界』だった。
ユウが歩き始めたアキバの片隅から遥かに離れた、それでも同じ『世界』だった。
そう思うユウには、もう一つの納得感がある。
それは、<大災害>以降、心の片隅に常にひっかかっていた問題だ。
『ここは、実は異世界でも、架空世界でもなく、昏倒した自分の見る夢なのではないか』
『この世界での冒険も、経験も、喜びも、悲しみも、死も、殺しも、全ては形而下の夢であって
実は自分はただ病院のベッドで覚めない眠りにいるのではないか。
出会った人々も、全て自分の妄想ではないか』
その疑問は、この天地を見て文字通り霧消した。
自分一人の想念が、これだけの光景をどうやって生み出せよう。
天を渡る凍てつく風、眼下に広がる遥かな大地。そこに生きる無数の人々と、怪物たち。
どんな写真を見ても、動画を見ても本を読んでも、この光景には及ばない。
そこは、一人の人間の思いだけでは生み出し得ぬ場所だった。
紛れも無いひとつの星、生と死の坩堝だった。
(よかった)
いつまででもこの光景を見ていたかったが、まだやるべきことがある。
ユウは目を落とし、頂上から僅かに離れた場所に開けた平地を見た。
そこには、あの氷竜王の背から見た時と寸分違わぬ姿の小さな建物がある。
ここから見ても、いいところ小さな堂宇にしか見えない、古典様式の小さな神殿。
そこが、最後の目的地だった。
(だが、その前に)
ユウはごそごそと<暗殺者の石>を探った。
この場所に自分が立った、何かの証を残したくなったのだ。
白虎の毛皮を引っ張りだし、刀で手に血を付けて赤丸を描こうとして、ふと気づく。
(これではただの死骸にしか見えんな)
一応、彼女としては日章旗のつもりだったのだが。
更に考えて、あまり長く考えていると自分の死体そのものが痕跡になってしまうことに気づき――ユウは小さな花の冠を手にとった。
<ダザネックの魔法の鞄>の効果か、摘んで数ヶ月が経ったにもかかわらず花輪はまだ瑞々しい。
ユウはしゃがみ込み、ひと掴みの雪をすくい上げると、慎重に花冠にふりかけた。
氷点下の気温のためか、それはたちまち凍りつき、花冠を氷の中に閉じ込める。
それを、ユウは埋め込むように頂上の最も高い場所に置くと、ゆっくりと微笑んだ。
「ナナミちゃん、すまんな。無くしたくなかったが、折角だからここに置いていくよ」
花冠を渡してくれた、まだあどけない<大地人>の少女に小さく謝罪の言葉を述べると、ユウはゆっくりと背を向ける。
その彼女がまだ生きているかどうかは知らないが、生死いずれにせよ、ユウの決断を責めることはないだろう。
ユウは、最後のための一歩を歩みだした。
やがて、その背中は岩肌の影に隠れ、そして再びこの場所に戻ることはなかった。
天は、あくまで碧い。




