◇旅は道連れ世は情け Ⅱ
ガルナの森の入口に辿り着いた頃には日没の時間になっていた。しかし、朝の大地"と呼ばれるだけあってこの時間になっても白夜故に空は薄明るい状態である。
「あー、南にいるってことすっかり忘れてたぜ。そういや、何であの村だけ日が暮れるんだ?」
「私達魔族は人間と違い、夜の生き物です。人間や植物が日光を浴びて活性化するように、魔族には月の光が必要なのです。ですからお父様がそうなるように術を施したとベルゴから聞きました」
「流石、魔王。やることが無茶苦茶だな」
「……魔王もシンにだけは言われたくないと思うよ」
「うっせぇ」
ぎゃあぎゃあとそんなことを言い合いながら三人は森へ足を踏み入れる。年季の入った樹木の葉が空を覆い尽くしているため森の中は薄暗い。少しは鳥の囀りが聞こえてもいいはずだが、全くの無音だった。ただ三人の草を踏み締める音だけが森に響き渡る。
青々とした葉は、木々の合間から差し込む僅かな光を浴びて水晶のように透き通り、仄かな燐光を放つ。静謐な空間が生み出す神秘的な光景も、心の有り様――見方を変えれば、発狂しそうなほど気味悪く異様な空間へと様変わりするものだ。
シンは鞄を探り、ランタンとマッチ箱を取り出すとランタンの蓋を開け、中の燭台の側でマッチを擦り蝋燭に火を灯すと蓋を閉じる。ランタンのぼんやりとした明かりが三人の間に安堵の表情を照らした。
静寂と暗闇は人の心を不安にさせる。いつしか森の異様な雰囲気に呑まれ、三人とも知らずの内に緊張していたらしい。
「静か、ですね……。きゃっ」
周りの景色に気を取られ、地面から突き出ていた木の根に気付かずリリスは躓き、地面に倒れる。
「わっ、大丈夫!?」
「おいおい、何やってんだ、全く。……ほら」
転倒に気付いたフィリップが声を上げ、先を歩いていたシンは心底呆れたというような表情を浮かべながらもリリスの許に歩み寄ると手を差し延べ、立たせる。
「あ、ありがとうございます……」
顔がみるみる熱を帯びていくのを自覚しながら、リリスはしどろもどろシンに礼を述べた。
「よそ見するからコケんだよ。大人しく足元見とけ。町民C、ちょい地図くれ」
「あ、うん……」
礼を述べるリリスの方など目もくれず、ぞんざいに返すシンと赤面を隠そうと必死に俯いているリリスを交互に見て、フィリップはため息を吐きながら肩を竦めた。
魔法のインクで認められた地図は足跡を示すだけではなく、目的地の方向も指し示す。
シンは地図を十秒ほど眺めた後、よし、覚えたと地図を畳んでフィリップの鞄に突っ込んだ。
「いいか、お前ら。絶対に後ろを振り返るなよ。まぁ、別に見える距離にはいないかもしれねぇが。あと、森の物に絶対に手を出すな。便所も控えろ」
「まさか、刺客…?」
リリスに聞こえないよう小声でフィリップが問うと、シンは前を向いたまま首を横に振った。
「いや、魔獣だ。三匹。多分、通り抜けるだけなら襲われねぇだろ。寝る時は俺が見張ってるから心配すんな。……今日は此処らで野宿すんぞ」
「え?まだそれほど歩いてないよ?」
キョトンとしながらフィリップはその意図を問う。シンは一度立ち止まり、リリスが追い付くのを待ってから口を開いた。
「もう日も暮れてる。貧乳の足も棒になっちまったみたいだしな。潮時だろ」
「わ、私は別に………」
「足見せろ。転んだ時捻っただろ?ただでさえお前歩くの慣れてねぇのに、ヒールの靴でこんな道長時間歩ける訳ねぇっつーの」
持っていたランタンをフィリップに持たせ、リリスに靴を脱がせると片膝をついて自らの膝の上に彼女の片足を乗せる。腫れ上がった足首や靴擦れした踵、潰れた豆が痛々しい足裏を見てやれやれと言わんばかりにシンは無言でため息を吐いた。
「ご、ごめん、気付かなくて……。配慮が足りなかったね……」
「そんなっ!私、魔族ですし、こんなのすぐに治るから大丈夫です」
「そういう問題じゃねーの。魔族の治癒能力も種族によって全く異なるんだよ。防御に優れてる分、人間と大して変わらない奴や、逆に致命傷を負っても即座に治しちまうくらい高いくせに毒とかは駄目な奴とかな。……お前は、万能型か。傷の治りもそれなりだし毒などの耐性も多分あるんだろうけど、こういうのの治りはやや遅い。他は直ぐに治るだろうが、対策は必要だな。捻挫の方は……まぁ、ニ時間もありゃ治るか」
シンは説明しながら鞄を探り、湿布を取り出すと慣れた手つきで張る。
傷の手当てがそれなりに手慣れてるのも驚きだが、それ以上に魔族の治癒能力について此処まで詳しいとは。帝国の入れ知恵かと思いきや、フィリップも舌を巻いているのを見るに、どうやらシンの経験則のようだ。
「何だよ、人を物珍しげにジロジロと見やがって」
「い、いえ………。手慣れてると思いまして……」
「湿布張るくらい普通だっつーの。あー、まだヒール履くなよ。治るまではこれ履いてろ」
再び靴を履こうとしたリリスを制し、シンはほれっと代わりの靴を投げて寄越す。
「スリッパ……」
「宿屋から拝借したやつだ」
シンは子供のようにへへっと悪びれた風もなく意地悪く笑う。隣でそれを聞いていたフィリップは一つため息を吐いてから険のある声でシンを呼んだ。
「シン。いい加減、気に入ったからって持ってこないの。かさ張ってしょうがないんだから」
「フィリップ、怒るにしても理由はそこじゃないと思いますよ」
王室育ちと荒くれ者。世間知らずの自身が言えた義理ではないが、少々常識に欠けている感は否めない。
「何かあると困るから今日は携帯食だ。荷物は背負ったままにしとけよ」
そう言ってシンは近くの木の根に腰を落ち着けると、鞄から干し肉や野菜の塩漬の入った瓶を取り出し、肉は紙包みで二人に手渡し、塩漬は瓶の蓋を皿にして出す。
「手持ちの携帯保存食はこれだけか……。やっぱり買い足さないと駄目だね」
「火が使えりゃスープとかもう二三品作れるんだがな。空腹で寝れねぇよ」
落胆しながらシンは干し肉をかじる。
香辛料の効いた肉は保存食と思えないくらい美味しかったが、確かに量がないため食べ盛りと大飯食らいの男女の腹を満たすことは出来そうにない。
「あの、喉が渇いた場合はどうすれば…?」
「ん?あぁ、ちょっと待て」
おずおずと挙手したリリスに、シンは持っていた氷嚢の蓋を取り、ぐびっと一口飲んでからリリスの前に差し出す。どうやら水筒の代用品らしい。
「ほれ」
(か、かかかか間接キス……!?)
長寿の魔族と言えどまだ十七歳。しかも引きこもっていたため、生まれてこのかた父親とベルゴ以外の男性と手の触れ合いなどしたことがない。故に回し飲みという少なくとも二人にとっては当たり前の行為はリリスには敷居が高かった。
「み、水がないなら作れば良いじゃないですか!あ、あんなところに水分豊富なキィの実が!つ、ついでにあの木の枝を薪にして火でも起こしましょう!」
「り、リリスさ……リリス!お、落ちついて!感情の箍が外れて魔力が漏洩しちゃってるよ!燃えてる、燃えてるって!」
「んの馬鹿ッ。手ぇ出すなっつっただろ!」
シンの怒号と悲しげな狼の遠吠えが森に木霊する。
「し、ししししシンが悪いんですよ!」
「はぁ!?とにかく、走れ!」
シンは叫ぶと、素早く出した荷物を鞄に突っ込むようにしてしまい、リリスを肩に担いで全速力で木々の間を縫うように走る。
「……優しいですね」
「振り捨てんぞ!」
「ほ、褒めたのに〜」
「二人、ともっ!走りながら、喋って、ると、舌かみゅ……」
「実践しなくても分かってるっつーの。……大丈夫か?」
尾行していた狼達は相変わらず一定の距離を保って追い掛けてくる。最初の、ただ距離を置いて後ろを尾行するのとは陣形が変わり、後ろと左右に一匹ずつ逆三角を描く形で並走していた。
「三方向すっかり囲まれてますね。シン、何処に行くつもりなのですか?」
夜目が利くリリスは辺りをきょろきょろと見ながらシンに尋ねる。
その間にも二人は全く速度を緩めず道なき道を通り抜け、木の根や川を飛び越えて一心不乱に走っている。
「知るか、んなもん!どうにもこうにも囲まれてんだから真っ直ぐ行くしかないだろ。町民C、頼むからコケんなよ……っと」
首を捻り、フィリップに声をかけたシンは再び前を向いて急に立ち止まった。少し遅れてシンの後について来たフィリップは慌てて速度を緩める、つんのめるようにして立ち止まる。
「チッ……、行き止まりか」
どうやら見晴らしのいい場所へとおびき寄せられたらしい。リリスを降ろし、肩で息しながらシンは目の前にそびえ立つ岩壁を見上げた。
壁のように険しく切り立った岩の上には二十以上の大小異なる狼が待ち構えていた。後ろからは尾行と追跡担当と思われる巨大な狼三匹が荒い息を吐きながら早足で駆け寄って来る。
「団体さんのご到着ってか。町民C、結界張れるか?」
「やってみる」
フィリップは大きく頷くと袖から本を取り出し、頁を捲る。そして呼吸を整え、大きく息を吸い込むと――脱力した。
「ご、ごめん、シン。読めない……」
「んなもん見れば分かる。まぁ、町民Cだからな。やれば出来る子だが如何せん土壇場に弱い」
シンの指摘にフィリップはがっくりと肩を落としたが、何か閃いたらしく勢いよく顔を上げた。嬉々とした表情が浮かんでいる。
「リリスさ……リリスは魔具持ってたよね?あれで何とかすり抜けれられない?」
「魔具と言えど、流石に肉体は通過出来ない仕組みになっているみたいです」
「そ、そっか……」
そんな会話が交わされる中、岩場の上に待ち構えていた通常の大きさの狼数匹がしなやかな身のこなしで岩壁を伝い降りて来てじりじりと包囲網を狭めていく。
前後左右から大小異なる狼が低く唸りながら牙を剥き出しにして三人を牽制していた。
「おい、貧乳。あのゴーレムってやつ三体くらい出せるか」
「は、はい……!出来ます」
「よし。そいつらに円陣組ませてこの場は凌げ」
シンは持っている荷物をリリスに押し付け、狼の動きを目で追いながら鞘から剣を抜き、構える。戦闘準備完了の合図としてシンは周りに悟られないようそっと背中をリリスに預けた。
「黙した生命、万物の母なるお前。我が主命に従え!」
緊張で上擦った声のまま叫ぶ。それを合図に弾かれたようにシンは駆け出し、狼の注意を引き付ける。
「"土塊"」
リリスの声に、三体のゴーレムが立ち上がる。
「我等を守護せよッ!」
リリスの意を汲んだ三体のゴーレムはリリス達を中心にして互いに肩を組み、円陣を完成させた。
すんでのところで後方から来た巨大狼が飛び掛かり、鋭く尖った爪や牙でゴーレムの装甲を突き破ろうとするが土の体はすぐに再生してしまう。
一方、シンは四方八方から同時に襲ってくる狼を剣を地面に突き刺し、その衝撃波で地面を隆起させて蹴散らす。
宙に舞い上がった狼達は一回転し、体勢を立て直して地面に着地するも、予期せず後手に回ったことで次の行動に移ることを躊躇しているようだ。
低く唸る声が如何にも負け犬じみていて、シンは哀れみの眼差しを向けながら嘲笑を浮かべた。一旦剣を鞘に収め、剣帯から鞘を外すと片手に持つ。
ゴゥ、と短い咆哮が上がると周りを囲っていた狼達は道を譲るようにゆっくりと後退していく。代わりに前に出たのは咆哮を上げた虎の二倍はあるであろう先程の三体の巨大な狼である。
「歩哨の次は中堅が相手か。良いぜ、かかって来いよ」
まるでシンの言葉を理解したように一体がシンの喉笛を噛みちぎらんと牙を剥き出しにして飛び掛かり、シンは剣を抜かずに持っていた鞘を縦にして口の中に押し込むようにして口を封じる。しかし、そうして如何に踏ん張ったところで足元の土は滑りやすく、足を地面に擦りながら後退していく。
狼が襲って来ないのを確認してからリリスはゴーレムの守りを解くよう命じると、加勢に入ろうとするがそれをフィリップが止めた。
「どうして止めるんですか!?あのままじゃシンが……」
「十中八九、足手まといになるだけだから」
にこやかに言い放つフィリップに、うぅ……と唸りながらリリスは地団駄を踏む。至極尤もなことを言われてしまえば反論の余地はない。
「多分、どちらもああしないと双方とも互いの攻撃に対応出来ないんだよ。大丈夫、これは殺し合いじゃないから」
「そ、そうなんですか?」
うん、とフィリップは平然と頷く。
「今は人間の領土として認知されているけど、此処は彼等の住家なんだ。だから、それを荒らす輩かどうか確かめている段階なんだよ」
「私が燃やしたから、ですよね……。ごめんなさい……」
小さくなるリリスにフィリップは「ははは、まぁね」と苦笑ながら肯定する。
「まぁ、シンの配慮が足らなかったっていうのも要因だから気にしないで。如何せん男二人旅だったからそこら辺の配慮が欠けてて。だからといって、これ以上足手まといにならないよう気をつけてね」
「うぅっ……」
リリスに釘どころかトドメを刺してからフィリップは前に向き直る。
身を呈した仲間の足止めを見届け、残る二匹が攻撃を仕掛ける。
「……調子に、乗んなッ」
向かって来る狼を尻目に剣を引き抜き、抜いた勢いのまま横に薙ぐ。半円を描いたことにより生まれた巨大な衝撃波は向かってきた二頭の狼を易々と薙ぎ倒した。
余程の衝撃を食らったようで、甲高い悲鳴を上げ、受け身も取らずに地面をバウンドし、土埃を巻き上げながら最後は地面に体を擦りつける形でようやく止まる。
それを見た足止め役の狼は前足でシンを跳ね飛ばし、噛んでいた鞘を首を振って投げ捨てる。そのまま追撃はせず、倒れた仲間の下へと駆け寄った。
「ぐぁっ……!」
真横に吹っ飛ばされたシンは地面を転がりながらそのまま傍を流れる川に落ちた。げほげほと少し咳込みながら水を吸って重くなった服を引きずるようにして陸に上がる。
互いに闘志は失せたようで、見向きもしない。しかし、様子を窺っていた歩哨の狼達はこれを好機と見て一斉にシンに襲い掛かった。
「シン!」
二人の叫び声に、シンは無言で向かってくる狼の群れを見据え、静かに剣を構えた。
残り十メートルを切ったところで、先頭を駆ける一匹の狼がシンに飛び掛かろうと四肢に力を溜める。
狼が飛び掛かろうと身を低くした瞬間、一人と一匹の間に何かが割って入り、地を穿つ。
「銃弾……!?」
予想外の出来事にフィリップはズレた眼鏡をかけ直しながら驚愕の声を上げた。
「ウォォォォオォォォン」
雷にも似た猛々しい遠吠えが森全体を震わす。得体の知れぬ威圧感がこの場を支配した。
「親玉の登場か」
「あれが、山の主……」
切り立った岩場の上。シンが相手をしていた巨大な狼さえも霞んで見えるほど圧倒的な存在がそこにはいた。
二メートルを越す巨体。右目は十字の傷があり、潰れている。他の狼と同じく黒い体毛だが、胸毛と足の関節から足先までは白い。鷹を思わす金色の鋭い瞳は静かな怒りを内に燃やし、同胞を畏縮させる。
森の主たる狼の存在も勿論気を引くが、それ以上にその主に跨がる人物に自ずと三人の視線は集まった。
「退け」
凛とした声色は男女どちらとも取れる。ゆったりとした赤のマントに身を包み、顔の上半分もフードに覆われて全貌は窺えないが、隙間からちらりと金髪が薄暗がりの中でキラキラと輝いていた。
その手には二丁の拳銃が握られており、先程の狙撃の主であることは間違いない。
森の主はジッと三人を見つめてから踵を返し、去っていく。他の狼達もその後を追い、岩壁の向こうへと姿を消した。