◇旅は道連れ世は情け Ⅰ
翌日。
「やべぇ、マジ疲れた……」
疲労困憊の様子で机に突っ伏したシンの前にベルゴがそっとお冷やを差し出す。
「本当に、何から何までありがとうございました。失礼ながら、どのようなことをなさったのですか?」
約束通り日の出と共に再び雪崩のように押し寄せてきた村人に安眠を阻害された影響でシンは大層機嫌が悪そうだったが、ベルゴの問いに素直に応じた。
「山菜の見分け方と農耕指導を少々。ったく、あいつら腹減って力出ねぇから俺が代わりに耕して種蒔いてやったぜ。水脈は追い追いで構わないだろ。幸い、川の水は無事だからな。次はアンタらも手伝えよ」
一気に水を飲み干し、勢いのまま机に置いた。氷が涼しげな音をたてて震える。ベルゴは黙したまま一礼した後、曇り硝子の水差しを持ち、空いたグラスに二杯目の水を注いだ。
「シン、お疲れのところ悪いんだけど……。今後のことで提案が」
「何だ、町民C」
フィリップはリリスに目配せしてから再びシンを見た。
「僕はリリスさんを魔王として帝国に連れて行こうと思う。彼女も承知しているし、ベルゴさんも許可してくれたんだ」
空気が張り詰めて行く感覚。唾を飲むのも躊躇わせるほどの緊迫感が漂う。
シンは黙って先を促した。
「勇者であるシンしか魔王を見分けられる人は多分いないと思う。だから後はこっちで言いくるめればきっと何とかなる。偶然道中で魔王と出くわしても、リリスさんがいれば話を聞いてもらえるでしょ?」
「帝国の趣旨を分かった上で言ってんのか」
「魔王との結託は帝国の利益と繁栄に繋がる、でしょ?大丈夫。公開処刑も、それ以外の危害も加えさせない」
何らかの、二人にしか分からない水面下のやり取りが行われているのが言葉の節々から感じ取れたが、外部が易々と口出しできる問題ではないことは二人の真摯な眼差しで分かる。
その雰囲気が、何かとんでもない陰謀の渦中に自分は飛び込もうとしているのだと予感させるには十分で、リリスは思わず身を竦ませた。
シンは神妙な顔で話を聞いているリリスを一瞥し、深いため息を吐いてからフィリップに視線を戻す。
「……折角の機会を棒に振ることになるぞ」
「分かってる。承知の上だよ。シンには申し訳ないと思ってる」
「別に。俺は雇われてる身なんだ、気にすんな。……まぁ、そんな上手くいけばいいけどな」
「わ、私も構いません」
シンは身を乗り出したリリスを鼻で笑い、
「そういう台詞は全て分かった上で言うんだな」
頬杖をつきながらリリスの額を指で軽く弾いた。
「しかし、オッサンから許可が下りるとは意外だな。かわいい子には旅させよってやつか」
「……村をお救い頂いた恩人がお困りとあらば断る訳にはいきますまい。ただし、お嬢様を殺さないという『誓約』を結んで下さい」
誓約という言葉にフィリップとシンの顔に緊張が走る。
誓約。
聞こえは良いが、要は呪い――一方的な死の戒めである。
誓約者――誓いを述べる者とは別に、誓約の対象者の血を以って誓約者の魂を戒める。当然、誓いを破った先に待つのは死だ。
フィリップは深く息を吐くと重々しく頷き、シンを見る。
「分かりました。シン」
「俺かよ」
「こればかりはシンが結ばないと意味ないでしょ」
「ったく…」
雇い主にはつくづく頭が上がらないらしく、不承知ながらも渋々従う。
机を退かし、十分な場所を確保すると、リリスはベルゴに渡されたナイフで指を深く切ると自らの血で魔法陣を描く。シンはその陣の中心に立ち、契約文を述べた。
「我、シン・キリタニは、汝、リリス・ローズマリアを殺めぬことを我が命を以って此処に誓う」
自ら指を噛み、血を魔法陣に垂らす。それを受けて魔法陣は禍々しく赤く輝き、描かれた血の文字が宙に浮き上がった。形を変え、誓約文を空中に刻む。
それを見届け、フィリップとベルゴも自らの指を傷つけ陣に血を垂らした。
「かの誓約が此処に交わされたことを、フィリップ・ローレッジと」
「ベルゴが証人となり保証する」
誓約における証人は誓約が交わされたことを承認し、誓約者と対象者の合意による一方的な破棄が出来ないようにする縛りである。証人が何らかの理由で死亡した場合、その誓約は一生解かれることは無い。
二つの血が陣に触れた瞬間、浮かんでいた文字が溶け出し、鎖の形となってシンに巻き付いて消えた。後に残るは不気味なまでの静寂である。
「キリタニっていう姓だったのですね」
場の空気を取り持つようにリリスがシンに声をかけた。
「だったら何だよ」
「いえ、あまり聞かない名だと思って……」
決闘の儀礼でも名乗らなかったのだから、てっきり姓を剥奪された奴隷の身分だったのかと思っていましたとは流石に口に出せないので適当な言い訳を述べると、シンは胡散臭さそうな視線をリリスに寄越してから全てを見透かしたように深いため息を吐いた。
「あまり聞かないも何も、お前、外出てねぇんだから比較のしようがないだろ。まぁ、俺以外にいないだろうがな」
二杯目の水を飲み干してからシンは傍らに置いておいた荷物を担ぐ。
「善は急げだ。とっとと行くぞー」
片手を上げて別れの挨拶を済まし、シンはさっさと扉を開けて来た道を引き返して行く。
それを見たフィリップも慌てて旅の必需品が詰まっているのであろうはち切れんばかりに膨らんだ鞄を背負うとベルゴに頭を下げた。
「ベルゴさん、お世話になりました。シン、勝手に行動しないでっていつも言ってるでしょ!……それじゃあ僕等、村の入口で待ってるから」
別にそんな気を遣わなくても大丈夫ですよと言う間もなく、フィリップもシンを追って屋敷を出ていく。 小さくなる背中を見送ってから、リリスは再びベルゴに向き直った。
「ごめんなさい、しばらく留守を任せます。…いえ、私は貴方にずっと任せてばかりなのでしたね」
申し訳なさそうに淡く微笑むリリスに、ベルゴは静かに一礼した。
「お待ちしております。主様やお嬢様が再び此処にお帰りになるのを。……その時は、お嬢様が好きなお菓子をご用意しましょう。いってらっしゃいませ」
「は、はい!それではいってきますね、ベルゴ」
満開の花のような笑みを浮かべ、リリスは二人の下へと駆け出した。
フィリップの言う通り、村の入口の柵の所に二人は腰掛けながらリリスを待っていた。駆け寄って来るリリスに気付くと、シンは相変わらず見ない振りをしてそっぽを向いたが、フィリップは手を振って迎える。
「リリスさん、もう挨拶は済んだ?」
「リリスで構いません。お待たせしました。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。僕のことは気軽にフィリップって呼んでね。シンはシンで構わないから」
「話は歩きながらでも出来るだろ?さっさと行こうぜ」
ほのぼのと挨拶を交わす二人を見兼ねて、辺りを見回しながらシンは先を急かす。
「早くしないと村人が来ちゃうもんね」
「知るか。……行くぞ」
シンは草の生い茂る小道をズカズカと踏み倒しながら先へ進んで行く。その様を見ながら全く素直じゃないんだからとフィリップは肩を竦めて後に続いた。
「瞬間移動の魔具がもう二つあればあっという間に着くのですが……」
「早速楽しようとしてんじゃねぇよ」
「どちらにせよ、無理だよ。シンには魔力がないからね。けど、歩いて行くのも意外と良いものだよ?」
フィリップの言葉にリリスは少なからず衝撃を受けた。
人間にしろ魔族にしろ、魔力というのは誰にでも生れつき備わっているものである。魔力が原因となる病はあっても、魔力を持たずに生まれてくる者はいない。
「では、あの剣の衝撃波は?」
「まぁ……、何つーか、気みたいなもんだな。てか、ずっと気になってたんけどよ、魔法があるなら魔具は要らねぇんじゃねぇの?」
シンの問いにフィリップはそうでもないよと首を横に振った。
「魔法は大きく分けて、火・水・風・土・光・闇の属性があるのはシンも知っているでしょう?その属性に当て嵌まらない空間魔法、または時空魔法と呼ばれている失われた魔法が何故か魔具には刻まれているんだ。魔具は"魔法記録媒体"とも言われてて、いつ誰がどういう目的で作ったのか、また、どういう仕組みで魔法を記録・発動させるに至っているのか未だに謎のままなんだ」
「既に知っていると思いますが、私のこのブレスレットも魔具の一種で、その効果は貫通と瞬間移動。つまりは空間魔法です。二つも空間魔法が刻まれているのは結構レアなんですよ」
聞いた割にへぇ、と淡泊な反応を示してからシンは尋ねる。
「空間魔法や時空魔法は何で失われたんだ?」
「種族戦争前後ってことだけははっきりしてるんだけど……。使えなくなったとか、継承者がいなくなったとか、曖昧なことしか文献には書いてなかったな」
「近頃……でもねぇんだろうけど、最近表面化してる天変地異については?」
「それも原因はまだ分かっていないんだ。憶測だけが飛び交ってる状態。中でも二つ有力な説があってね、一つは魔力説得。この世界には魔力、あるいはマナ、オドと呼ばれるものが溢れていて、それが何らかの理由で消失しつつあるという説。
もう一つは精霊説。この説も魔力説に似たり寄ったりかな。魔法には属性がある…というのはいう説明はさっきしたから分かってるよね。そもそも精霊は火や水などの属性を司っているんだ。その加護を受けているからこそ、世界には火や水、光や闇がある。その精霊の加護が薄れつつあることを示唆する説かな」
「その精霊に助力を求める側としては、そこんところどう思う?」
「分からない。でも、違うんじゃないかな。各属性を司る精霊は火や水そのものなんだ。仮に、精霊の加護が薄れつつあるのなら、僕の喚びだしに応えてくれないと思う」
フィリップの言葉を受けてリリスも小さく挙手しながら魔力説を論破した。
「魔力説も、魔力が消失しつつあるというのなら、私達の魔力だって多少影響が及んでるはずですよね」
「つまり、現段階において言えることは、これから先まだまだ悪化するってことと、種族戦争前後から何かが狂い始めてるってことだな」
「だから帝国はその原因を知っているかもしれないお父様を探しているのですね。他の国々は何か対策を打とうとはしないのですか?」
「色々と研究はしているとは思うけど、正直そこまで熱は入ってないと思う。何処も領土の保全のことで頭いっぱいだよ。少なくとも、人間側はね」
「風土病とかそういう類のもんじゃねぇんだよ。世界規模っつー漠然とした莫大なものだぜ?解決の糸口さえ見つからない問題をどうこうするより、目先の問題に焦点を絞った方が建設的だろ。で、本気でヤバくなったら慌てて何とかしようとする。それが人間ってもんだ」
まっ、俺にはどうでも良いことだがなとせせら笑いながらシンは足元の小石を蹴飛ばした。
それを何とも言えない複雑な表情で見ていたフィリップは困ったように笑ってから、
「僕が王様になったら、その漠然とした莫大な世界規模の問題の原因解明をシンにも手伝ってもらうからね」
「へいへい、あんま期待しないで待っとくわ。で、次は何処行く気でいるんだ?こいつの服装、早く何とかしねぇと目立ってしょうがねぇ」
「むー……」
深紅のドレスにヒールの靴。頭から爪先まで赤一色という格好なのだから確かに目立つ。しかし、目立った格好だとしても逃避行でもなんでもなく、ただの旅なのだから良いような気もするが、駄目なのだろうか。
「だ、駄目ですか……?」
「駄目ってことはないけど、旅には不向き、かな」
フィリップに哀願してみるも、やんわりと否定されたのでリリスはがっくりと肩を落とした。
「此処からだと、ガーナ王国か軍国が近いですよ。この方向だとガーナ王国ですね」
「んなこと知ってるっつーの。その二ヵ国はもう行ったからパス」
どちらも彼等により国としての体裁を保てないほど被害を受けた国々であることをリリスは知らないので、白々しいシンの態度を不思議に思い、小首を傾げる。フィリップは曖昧な浮かべながら鞄から地図を取り出し、広げた。
地図には何やら足跡のような黒点が大陸を蹂躙している。
「この点々、もしかしてお二人が旅した跡ですか?」
「うん、そうだよ。此処から少し距離があるけど、ガーナ王国の領土タバランに行かない?あそこならそこまで治安も悪くないし、品数も多いから携帯食の補充も出来ると思う。それで東を回って帝国に行けば…というか、行くしかないんだよね。戻れないし」
「だな」
歯切れ悪くしみじみと言う二人に、此処までの道中の間に一体何をしてきたのだろうとリリスは興味津々だったが、二人の様子から知らないほうが良いこともあるということを察して聞かなかった。
「っつーことは、ガルナの森を越えねぇと行けねぇんだよな」
「何か問題があるのですか?」
「ガルナの森は魔狼がいるんだ。森の守護獣なんだろうね。森に入ったら最後、魔狼に食い殺されるっていう噂があって……。今はガーナ王国の領土とされているけど、元々は魔族の……というより魔狼の住家だったんだね」
森のある方角を見つめ、フィリップはしみじみと言う。
「まっ、こういう時の為に用心棒を雇ったんだろ。だから心配すんな。大船に乗ったつもりで…」
「森だから船に乗る必要はありませんよ?」
「そういう意味じゃねぇよ」